From the North Country

時代を生きる 2008年01月28日(月)

  この欄の上に日付が表示されている。
あのミレニアムの大騒ぎからもう8年も経っていて、ついこないだの『あけおめ、ことよろ』から始まった月も終盤になっている。

そんな振り返り方をすると『自分が生まれたのはまだ戦後の流れの中だったのだなぁ』と時の流れの速さと過去というものをしみじみ思う。
子供の頃、親から聞かされた戦争の話は遠い昔の歴史の断片にしか過ぎなかったのに、実は親にも自分にとっても、ついこないだの出来事だったのだなぁ、と。

今の子供たちもそんな風にミレニアムの話を遠い過去と感じながら現代を生き、いずれ、世紀をまたにかけた時代を疾風のごとく生きた自分を振り返るのだろう。

だからこそ『今を生きよ』というテーマがいつの時代にも存在し、観念上では解っていてもその意味を本当に知るのは年をとってからということが繰り返される。
人間ってうまくできているな。

不老不死じゃ傲慢の塊になっちまう。

なんだか哀愁を帯びた話になってしまったが、『死期近し』を感じて懺悔の気持ちが芽生えたわけではない。

人生の儚さを論じるようになると、孫に優しいばかりの祖父母のように『人生は短いのだからそんなに怒鳴るんでない』と若い親を諭しがちだが、祖父母にとっては孫は消え行く自分の化身のように可愛いし、育てる親のような責任がないのだから自分の得た人生論を好き勝手にぶちまけるものなのだ。

教訓もあろうし、たわ言もあることを知らねばならないだろう。
そうやって私たちは固有の文化を引き継いできた。

さて、この時代の犬の話だが…
なんてことを書き出したら止まらなくなってしまうから短かめになるよう自制しよう。

五代将軍綱吉が生類憐みの令を出した遠い時代…
今私たちは一時代の流れの中の現代において愛犬と暮らしているに過ぎないから、何が良くて何が悪いかは歴史に委ねるしかない。
だが、やわに感じる綱吉の功績は綱紀粛正にあったともいえる。
私はジジババのような生の儚さを前面に出した無責任な立場で愛犬を育てることを微笑みながら受け入れつつも敢えて異議を唱える場合があると言わざるを得ないと感じている。
何故ならその無責任な結果において人が犬と暮らさなくなるような空白の時代を作りたくないから。

棄て犬が後を絶たない今のペットブームではあの時代の綱吉の意図とは別問題ではあるが、腐敗大名に対して彼が行ったような綱紀粛正が必要だと思っている。
 

またまた愛犬自慢 2008年01月27日(日)

  アモが我が家の愛犬になってから2年と15日が経過した。
“おりこうになれば待遇が良くなる”という原則に従って、今ではアモには最高の待遇が与えられている。

ホワイトハウスだろうがルーブルだろうが、晩餐会だろうが葬儀場だろうが、もう何処でもOK。
もちろんリードの有り無しなど関係ない。
場所や雰囲気などではなくどんなところでも私たちの意図を感じ取って振舞えるようになったから、というのがその理由だ。
強いて言えば何度も大手術をしている動物病院では緊張があるので少しの配慮が必要だが…

そんなアモに強い不満を抱いていた事柄がある。

いいとこ育ちのアモは我が家にやってきた頃は『食』に対して無関心というか美食家というか(そのせいで42キロにもなっていたが)、自分の食事を見ても唾液を垂らすという下品な反応を示さなかったのに、そのうちにパブロフの犬のように『豆電球がつくと唾液が出る』とまではいかないにしても、私が食事の準備を始めると傍でよだれをこぼすようになった。

ラブやビーグルを飼っている人なら日常のことだろうが、迷惑だったし現在の私には『治せるかも?』との期待があった。

そこで「汚い!よだれ出てるぞ!」とアモをたしなめたりしていた。
「仕方ないでしょ。お腹空いてるんだし」
Kはアモをかばい続けていた。
それでもアモは私の不満と指摘されている内容を彼なりに考えて試行錯誤してくれた。

単純に『叱られてる』と思ったのかもしれないし『傍で物欲しそうに見ていることが悪いのか』とも考えたアモはKの後ろに隠れて、私を覗き見しながらよだれをこぼしたり、わざわざ隣の部屋でよだれをこぼしながら食事の準備が整うのを待っていたりした。

アモが問題意識を感じ取ってくれるようになったので私は次の『よだれ拭き作戦』に出た。
食事準備中にアモがよだれをたらすと「よだれ出てるぞ!」と不満をあらわにしてアモの口と床を拭き「ペロペロしなさい」と声をかけ続けた。

賢いアモはなおも考えたようだ。

よだれが床にこぼれないように布製の縫いぐるみを咥える時期もあったりしたが、ある時何も咥えてないのにまるで人間のように舌をペロリとして溢れそうな唾液をごくりと飲み込んだのだ。
その瞬間を見逃さなかった私は「ペロペロできた。ペロペロできた。」と有頂天になった。(犬を褒めるよりも自分が喜ぶことで犬には伝わる)

以後アモはよだれがこぼれそうになるとペロペロして床をほとんど汚さなくなっている。
食事を期待して唾液が出るのは健康な生理的反射。
それを意識して飲み込むのは学習した社会的行動。

ちょっと自慢になるかもしれないが、私がキーホルダーを床に落とした場合「アモ。取って」って言えばちゃんっと拾って手のひらまで届けてくれるんですよ。
土台がしっかりしているといろんなことが現実にできて楽しいし、だから何処でも何でも一緒に過ごしていける。
 

ハイブリッド除雪機と犬 2008年01月26日(土)

  「やっぱ北海道だよなぁ」と納得の大雪に連日大忙しだ。
幸いカフェは今のところホンダハイブリッド除雪機ガロアラシ号で雪を飛ばせる場所が三方にあるから助かっているが、どうやらそれもこの冬限り。
隣の空き地に今年は家が建ちそうだ。
『そうなれば…』などと今から悲観的に考えるより、『この冬は思いっきりぶっ飛ばすぞ』と豪快にやっちゃおう!

ところで、ご存知だろうか?今時の除雪機のこと。
コンピュータ制御のガロアラシ号は稼働時間や走行距離(もかな?)それに作業中に安全装置として働いた結果にピンが折れた箇所やその回数などなど様々なデータが自動的に記録されているそうだ。
例えば故障した時に「まだほとんど使ってないのに故障した」などといい加減なことを言っても『3000時間稼動』という記録が残っていたらグーの音も出ない。
一方でガロアラシ号のように愛着を込めて大事に使用していると、仮にトラブルが発生したとしても『今後に生かせるデータを提供してくれた』とメーカーに感謝され、様々な優遇措置を講じてもらえる、ハズなのだ。
柴犬宗一郎の父さんが教えてくれたことを有利に理解してみた。

そして『除雪機も犬育ても似たところがあるな』と思った。
1.飼い始めの頃は有頂天になるし、最初は慣らし運転のようにオイルが全体に馴染みエンジンの調子が上がるまで無理をしない(仔犬なら免疫がしっかりするまで注意深く接する)

2.そこそこ調子が出てきても無理をしたり取り扱いを習得しないまま雑に扱うと故障を誘発したりしっぺ返しを受けることがある。

3.使用者の取り扱いがそのままデータとして記録され、取り扱いによっては以後もそのまま動きに反映される場合がある。

4.それまでいろいろあったとしても、調子が良くなり取り扱いにも習熟してきた頃が最高の時期である。

5.ボディーに様々なほころびやエンジン音などに異常があると、相棒としての心配りや細やかな補修・修理を行い、少しでも長く元気でいて欲しいと願う。

うん、なかなか的を得ておりますな。

だが、今時の除雪機は進歩し、犬の飼育環境も昔とは大きく改善されているのに『犬育て』は旧態依然とした観念に囚われていることも少なくないように思う。

除雪機の試運転は昔のように慎重にならなくてもそこそこ短時間で大丈夫なように改良されているのに、『仔犬はワクチネーションプログラムが終了する生後4ヶ月を過ぎるまで散歩をさせてはいけない』などと平気で飼い主に通告する獣医やそれを鵜呑みにして売り渡す人間が多い。
私の知ってる獣医は『生後3週間から外の空気と環境に触れさせる意義とその際の注意事項を飼い主に伝えてくれている』のに。

犬も除雪機も無茶苦茶に扱えばすぐに壊れてしまう。
だからと言って大事に車庫においておくより上手に接した方が性能は発揮できるものだ。
デビュー前の除雪機はいつまでも出番を待っているが、生き物である犬の場合はデビューを遅らせると錆び付いてしまうことがある。

機械の特性を素人なりに知り、時に押したり引いたりしながら友人の形見だと思って大事に使っているガロアラシ号に「よくやった!」と今朝声をかけた。
世界のホンダの機械にねぎらいの言葉をかけているのだ。
そんな想いと小さい時からの冒険じみた中にも注意深い接し方があればどんな無理でも犬やガロアラシ号は私の言うことを聞いてくれる。
 

それでも気持ちのゆとりを優先したい 2008年01月23日(水)

  去年の9月に週休二日にしてから一気に齢を重ねてしまいそうな不安がある。
明日からまた連休?
つい先日ニセコで連泊を楽しんできたばかりなのに、もう休み?
一週間が速い速い!

スタッフや私たちなど働く人間の心理にベストマッチのカフェの定休日設定ができたと感じている。
連休後は土日だから午前中にヒマな日もあるけどそんな時間にはレッスンがこのところ続いていてトータルでカフェもそこそこ楽しく忙しく、あっという間に月曜を迎え一息つく。
おかげさまで火水のどちらか一日が忙しいことがあって、それが終わればまた連休となる。

『優雅ですね』と問われたら、気持ち的には『そうでしょうね』とお答えするが経営的には大間違いだと知っている。
これでスタッフの低賃金がギリギリ支払えて、連休にしたお陰でさらに賃金削減となり高騰している燃料費などの経費削減が可能となっているのが現状だ。
そんな待遇の中でも家計を補助し楽しんでくれているスタッフのおかげで成り立っているだけのことだ。

温泉に行ったり愛犬アモと旅行をしたりと優雅そうに見える我が家が成り立っているのは、私たち自身が『体調維持と愛犬との楽しい生活』に支出を特化し、加えて子育てへの支出が減少しているためだろう。
さらにそのために飲み歩きやパチンコギャンブルなど私の過去の性癖をこれらに転化することで生活は一変したと思っている。

多くの家庭がそうであるように、それ以上よりもそれ以下ではない生活を維持する努力を懸命に続けているだけのことだ。

サブプライム問題で株価暴落・世界経済が破綻?
『そんなの関係ねえ!』と思う。
イチローや松井も言っていた。
「自分でコントロールできない問題に興味はない」と。

庶民には売り買いしかできないのに手数料を払ってそれに参加し、妙な一攫千金を狙ってしまうから振り回されるだけで、そんなことで自分でコントロールできる普通の人生を放棄する博打にでるのは危険であろう。
株なんかは、『消えてもいい金を潤沢に持っているか、自分では価値あるものを創造できない人間が別次元の自分に遭遇して、もうひとつの人生の玉手箱に手を出す行為』だと思い、経済発展重視で人間性軽視の軽薄な手法だと私は思っている。

『おいおい何を言ってるのだ?』
『いや別に。明日からの連休は自宅で楽しむだけのことを…。なにしろ気持ちの上だけでも余裕ができたものですから…』
 

夢ばかり見ている 2008年01月21日(月)

  夢を見ていた。
夢から現へ覚醒し始めた時にも夢の世界へ戻ろうとしていたからきっといい夢だったのだろう。

いい書き出しでしょ?
でも、実はマズイことを書いているのだ。

いつもの里塚温泉で温まり、温泉ヨガを終えた私は満腹感と除雪の疲れそれに幸福感に満たされて風呂べりで横になったまま眠りに落ちてしまった。
目覚めた時はKとの約束の時間をとっくに過ぎていたのに、私はまだ身体も頭も洗っていなかった。
慌てて脱衣ロッカーに戻って、寝ぼけ声でKの携帯に電話したら
「心配してたけど救急車も来てないし、きっとそんなことだろうと思ってた」と鼻声の返事が返ってきた。
すっかり湯冷めさせてしまったKには悪いけど、久しぶりに大満足の時間だった。

『あなたの夢は何ですか?』
そんな質問をされて答える若い人の映像がテレビに流れ、ほのぼのさせられることがあるけれど、多くの年配者には『あなたの夢は何だったのですか?』と考えさせられ、自問自答の末の苦笑に変化してしまうこともある。

たぶん私なんかは昔抱いた夢の範疇で今を生活している幸運な人間なんだろうと思う。

だが自分の中で夢にも思わなかった“視覚障害リハビリテーション”と出会ったことが今の自分を形成してくれていると感謝しているのも偽りない事実だ。

夢をひたすら追うことの中で関わる『夢意外』の事柄も実は夢へ通じるものなのではなかろうか?

それを『試練』と感じる場合もあるだろうし、腐ってしまってせっかくのチャンスを棄てることもあれば、何気なく受け入れて夢へ繋がる結果をもたらす人間もいれば無駄にする人間もいる。

いずれにせよ夢のない人生はつまらんしあってはならない。

風呂べりで寝ていた変な奴には言われたくねぇ!でしょうけど。
最近、そんな若い人に関わることが続いているのでついでしゃばって書いてみた。
 

人間だもの 2008年01月20日(日)

  様々な愛犬相談を受ける中で、相談の中身と犬の状態それに相談者の表情・話し方・書き方で私の対応が変わることを感じている。
それがとても情緒的で非科学的で傲慢無礼な場合があることは重々承知しているが、とことん突き詰めれば最終的にそこに辿りつくのが正解という経験則も同時に持ち合わせている。

「やいやこの子は遊び好きで、どんな犬とも仲良くできるのに、何故か敬遠されちゃうんですよねぇ」
そんな風にニコニコ顔で飼い主に相談されたら私は作り笑いを浮かべるだけか、
「まぁ、相手もあることですしねぇ」と曖昧に答えるか
「ほうっておくと大変なことになりますよぉ」と刺激を与えるか、いずれにせよ相手の出方を見ることになる。
がそれでもノー天気な飼い主だと、心の内では『可哀想に。この犬はいつか痛い目に遭うかもしれないな。恐怖体験や怪我で済めばいいけど…』と考え、続いて『あれから大きな犬に咬まれましてねぇ、それ以来大きな犬が苦手というか、まあ他の犬に対しても唸るようになってしまって…』という飼い主の将来の相談を想像してしまうことがある。

幼いから・悪気はないからと言っても一方的な愛犬の振る舞いは、ある程度成熟した犬にとっては『無礼者!』となるところにまで配慮が至らなかった陽気な飼い主に、あの時点で説明しても理解は得られなかっただろう、と考えてしまうのだ。

「このバカ犬は問題ばかり起こして…先生何とかしてください!」
一方的に犬の悪事を並べ立てる飼い主には『犬は育てたようにしか育たない』ことをそれとなく強調して嫌われ者になることもいとわないだろうが、飼い主の性格と本気度を判断することは怠らないようにしている。

「どうしていいのか教えてください。本当に困っています。」
真顔での切実な相談者には悩みを共感することから始め、状況によっては犬種特性や遺伝の話をして『あなたの責任ではない』という罪悪感を取り除く場合もあれば、同じような事例を話したり犬たちを見てもらったり他の飼い主の方の経験談を聞いてもらってちょっとリラックスしてもらうこともある。
だが最後には問題の根深さや好転までの長い道のりそれに到達目標の限界など、飼い主をプロファイルしながら話さなくてはならないだろう。

まあこれらは特徴的な一部であって、実際には『ちょっと相談したいことが…』というのが一般的で、その際の瞳の奥やお互いの人間的な繋がりそれに相性なんかでその後の関わりが決まってくるのが私の場合普通だ。
最低限、私・飼い主・愛犬が揃って初めて解決に向かって行動できるものであるから、画一的にはいかないだろうし処方箋も違い、いわゆる不平等であったりえこひいきなんかも生まれているのかもしれない。

しゃあないじゃん、人間だもの。

何か問題が起こったわけではなく、『そういえば』と今夜感じたことを書いただけなのでご心配無きよう。
 

学習について 2008年01月19日(土)

  先日の定休日に初めて冬のニセコ比羅夫へ出かけた話を夕べのこの欄に書いていたのに、アップする寸前にマウスが机から落ちた。
拾い上げて画面を見ると下書きどころかインターネット画面すら消えて壁紙の状態に戻っていた。
何度も同じテツを踏む男だとつくづく自分という奴がわかった。
それにしてもアップ寸前にマウスが落ちるか。書き始めに落ちて消えてりゃ「ふぅ〜ん、こんなこともあるんだ。注意しなきゃ」で済んだものを…

さて、ニセコで除雪、帰宅したら夜から雪で今朝また除雪と膝・腰に負担がかかっている。
にもかかわらず除雪後のガーデンにはトンネルを掘るには丁度良い高さの雪山ができていたものだから、ついその気になってしまった。
だがここは過去に膝・腰を痛めた経験があるから同じテツは踏まないよう注意した。
楽な姿勢で掘り進むことが肝心だから、どんな姿勢になっても雪が入り込まないように完全装備で作業開始。
天気も良く、1時間ほどでトンネルは無事開通し疲れたけれど身体を痛めることはなかった。

つまり今夜は『学習』について書いているのだ。

人や犬はもちろん多くの生物は、様々な経験によって自らの行動を変化させている。
例えばお湯の入ったヤカンに触って熱い思いをした幼児は次にヤカンを見たときに以前とは違う感情を抱き行動にも変化があるだろう。
ただし、幼児はそれまで自分にとって不快なことがあれば、泣き叫ぶことで大人が物事を解決してくれることも学習している。
泣けば空腹を満たしてくれるし、オムツを取り替えてくれる。
だから最初ヤカンに触れた時は泣き叫び、この次は『大丈夫何とかなっているはず』と再び触って熱い思いをして泣き叫ぶことを繰り返すであろう。
そのうちに『泣き叫ぶだけでは解決しないことがある』という概念をもつようになり、親がヤカンをどのように扱っているか、熱いヤカンと冷めたヤカンがあることなどを知り、やがてヤカンに問題があるのではなく中身によって状況が変わることを学んで対応を変化させるようになる。

だが、自然界の出来事ならともかく、ヤカンのように文明社会の産物の前では、同じように学習する能力を持つ犬でも鼻をつけて熱い思いをしたらヤカンそのものを長く怖がるようになり、その中身にまで思いを馳せないで一生を終えるかもしれない。

環境を生き抜くための防御・警戒本能の程度がヒトとイヌでは大きく異なっているのだ。

余談になるが、私は子育ても犬育ても最終的には『叱る』ことが必要だと確信している。
子育ての場合は高校生までに叱り終えるし、犬育ての場合なら呼び戻しの最終段階での叱りがピークであろう。

私が相手に物事を教える際に、最も配慮しているのが『相手は何を感じているか』という原点である。
安易な叱る訓練の場合、ヤカンの中身の状態を教えようと人は考えているのかもしれないが、犬には『ヤカンは怖いもの』と映っているかもしれないし、それ以前に『この人が怖い』とパニックになっているかもしれない。
『この人が怖いから』というのは『図に乗った行動』や『ダメだといわれながら習慣的に気に留めなかったり注意を無視した行動』を止めさせるには必要な場合がある。
だが、経験していない事柄を経験させる際に、怖いのはヤカンでも人でもなく『そのこと』だと分からせるような配慮と技術が犬に対しては、学習機会が豊富で取り返しのつく人間以上に求められている。

小さな例だが、ガーデンでウンチをし始めた犬を見て、慌てて便袋を取りにカフェに走ったら、犬は遠ざかる主人を見てウンチを出し切らずに追いかける心理が働くだろう。
ウンチをし始めたら動かずに「ベンベン」と声をかけて、安心してさせることが次に繋がるということでもある。

この欄の書き始めに文章が消去されたら、私のキー操作に対する注意力はそこそこだろうが、書き終える頃に消去された経験があるから今夜は実に注意深くなっている。
逆に今日、雪山のトンネルを掘っている最中に、あの雪山が崩落して生き埋めになるような恐怖を味わったなら、私は二度と雪山には近づかなくなっただろう。
甘い対応では犬は変わらないこともあるし、ひどい対応では要求されたことよりその状況に恐怖し学習の中身は『逃避』か『防御的攻撃』になってしまう。
多くの飼い主は甘く配慮に欠け、私はそのギャップを埋めることに腐心し、厳しいだけの飼い主を見ると怒りに打ち震える。
 

心の準備 2008年01月15日(火)

  『明けまして…』からもう2週間。
今年はうるう年だから1日得しているのか損しているのか人によってまちまちだろうが、1年の4%が過ぎてしまったのは間違いない。
皆さんの新年の滑り出しは如何だろう?

カフェはといえば、まずまずの滑り出しをみせている。
いや、売り上げではなく“出会い”においてだ。

これまでカフェにはいろんなわんこや飼い主の方がやってこられて、中には『困ったクン/ちゃん』がいて、飼い主にもそれを『何とかしたい』と考えている方がおられれば“無頓着”な方もおられる。
でも昨年後半辺りから、カフェに来られる『困ったクン/ちゃん』はそこそこ程度の困ったわんこであり、飼い主の方も柔軟性と変化を素直に求められておられる方が続いているので、私にとってはひどく頭を悩まされることがないどころか楽しい。

やはり犬育ての相談は5ヶ月から10ヶ月くらいからがいいようだ。(パニックや攻撃的な一面がある場合はもっと早い対応が必要)

もちろん社会化やしつけは2ヶ月頃から始めなければならないのだけど、その頃はただただ可愛くて『この犬の行く末』を案じる方は少ないだろうし、トイレ・いたずら・かじりなどの問題に自分なりに苦労したり対処する経験が後に役に立つこともある。
そして成長と共に問題が顕在化してきた頃に私に相談されたとしても、犬はまだ余裕を持って変化させることができる時期だし、飼い主の方の意識やモチベーションもこれまでの苦労や心配の上に立っているのでしっかりしており愛犬の変化も目に見えてわかりやすい。
(もし皆さんが『困ったさん』をカフェに紹介していただけるなら、この早めの時期にお願いします。)

とはいえ今年も難しい相談がこれから舞い込んで来ることだろう。
とりわけ激しい犬には迫真の演技と観察眼が必要であり、自分の血圧と精神の安定を取り戻すのに苦労することもあるが、気を引き締めて怪我無く対処したいし、また私の場合飼い主の暗く思い詰めた表情をみると、その方のそれまでの苦労や悩みを感じ過ぎてひどく落ち込んでしまう傾向があるので、楽天的な自己暗示を意識したいと思っている。

カフェやガーデンでもし不幸にも私のそのような状況に遭遇されたら皆様のご理解とご協力をお願いしたい。
 

諦めれば何かが変わるかも 2008年01月12日(土)

  最高気温がマイナス4度で明日はもっと寒くなるらしい。
灯油はリッター98円70銭。
ガソリンは会員価格で144円。
愛車はリッター5キロしか走らない。
ひどいことになっている。

昔だったらどこかでデモ行進だろうが、今ではその時代の連中も昼間は毛布に包まって灯油代を節約し、病気になって医療費がかさまないように気を使っている。
若者はといえば30近くになっても親元でパラサイトするかフリーターやワーキングプアがフツウになり、団結して国を動かすという発想すら持ち得ていない。

そして、年寄りはともかく若者がそのような状況になっているのを多くの人間はだらしないと感じなくなってきた時代に入っている。
「おまえ、いつまで家にいるつもりだ。いつまで仕事もせずブラブラするつもりだ。はやく定職について働け!」
10年前なら本気でそんな風に怒鳴っていてもそれは親としての正論に近かった。
だが、社会の本当の状況が分かってくると、枯れかけた井戸に放り出して“人に負けずに水を得てこい”とは言えなくなっている。

『枯れたと安易に思うから、子供は甘えてしまうのだ。我々の若い頃だって…』
そんな風に思うのは親の常であるが、そんな精神論や世間体ばかりにとらわれて説教や小言を言い続けると、子供たちは親兄弟を殺したり鬱になったり自らの命を絶つほどに切羽詰っている。

日本社会の状況、地球規模の環境異変、テロによる核の脅威、ウィルスによる人類の危機…
それらすべてが既に情報として『時間の問題である』とインプットされている日本の若者たちは、まるで天変地異を察知した動物たちのように、子供を産まなくなり現実から逃れようともがいているかのようだ。

“もはや手遅れ”だと若者は潜在意識の中で知っているのだろう。

・日本社会は日本だけの思惑で決められなくなっていることを
・地球環境はインドや中国などの驚異的な経済発展が今まさに始まったに過ぎず、これから汚染と破壊が本格化してくることを
・ソ連が崩壊しイラン・パキスタンなどの状況を見れば、既に核は私たちの観念とは違う人々の手に渡っていることを
・鳥インフルウィルスが既に人から人へ感染し、さらに変異を繰り返しながら世界を席巻するカウントダウンが始まっていることを

地球は四十数億年の歴史の中で、生物に対しあるいは自らの変動で何度か『清算』を繰り返してきた。
『一旦チャラにしよう』って。
私たちはそのカウントダウンに立ち会っているのだろうか。
3・2・1、ゼロの瞬間を見るのは我々か子供たちか。
少なくともまだ見ぬ私の孫たちではないような気がしている。

私たちに出来ることなどない。
あるとすれば明日どう生きるかを考え、どう死ぬかに怯えないことだけだ。

親がこんな風にすべてを諦めてしまえば、ひょっとしたら若い子供たちが奮い立ってくれるかもしれない、そんな期待を込めて力一杯弱音を吐く姿をさらしたくなった。
外はマイナス11度5分になっていた。
 

私の正月休暇 2008年01月11日(金)

  この二日間、少し遅めのゆったりとした正月休みを楽しむことができた。

9日の閉店後にはいつもの里塚温泉で酒と食事にゆっくりと時間をかけて心をリフレッシュし、入浴中は左ひざと臀部を走る微妙な筋を伸ばすための、言葉では恥ずかし過ぎて表現できないポーズの温泉ヨガで身体をリフレッシュし、文字通り心身ともにお休みモードに突入した。

10日の午前中は“札幌の奥座敷”と呼ばれる定山渓温泉で、昨年購入したという温泉付きリゾートマンションに住むIさんの招待を受けていたから出かけてきた。
バブル時代に建てられたそのマンションは隣に立つライオンズマンションと比しても外見上全く引けをとらなかった。
「アモ連れてってもいいの?」
「いいんでないかい。管理人は抱っこできればいいって言ってたけど盲導犬だと思うはずだよ」

フロントには『除雪中』という札がぶら下がっていた。

Iさんは現在一人暮らしだから縦長のワンルームは充分な広さだった。
しばらくぶりのお互いの時間を埋める会話をしながら窓の外を見ていると、ちょうど3階のベランダあたりがてっぺんになっているトドマツに大きなカケスが見事な羽色を見せて休みに来た。
その向こうには落葉樹と常緑樹が入り混じった綺麗な山が雪を被っていて、ここで暮らすことの充足感が漂っていた。

「なぁもだ。夏に洗濯物を干したらカメムシが一杯くっつく。白いのが好みなのか、白いシャツはパンパンってほろってからでないと部屋に持ち込めないんだ。」
ニコニコしながらIさんは生活上の問題点を説明してくれた。

「温泉入っといで」
その言葉に促されて階下の共用浴場に入った。
私が現役の頃、定宿にしていた函館湯の川温泉の某宿よりずっと広いし眺望がよいのに驚かされた。
『こんなところにいたら動きたくねぇだろうな』と柔らかな湯に浸かりながら思った。

部屋に戻るとIさんは刺身を出し、ステーキを和風仕込に焼いてくれた。
「好みの焼き加減は?」と話し方は昔のままだった。
「車だから酒は飲めないんだ」
私の一言にずいぶんと落胆されていたのが申し訳なかった。

室内には驚くことに一部屋分の広さの岩風呂まであった。
「あれ、いらないんだよね。掃除するの大変だし、潰してもう一部屋増やしてくれた方がありがたいよ。だってあんな大浴場があるんだし、あそこじゃ3時間入浴してても誰も入ってこないんだよ。」

何と優雅ではないか。
そのリゾートマンションを彼は前に済んでいた単身者用アパートの家賃より安い金額で自己所有しているのだ。
分かりやすく言えば、今後10年間、以前の家賃分以下の金額を払いながらそこで生活すれば自分のものになる…
さらに具体的に言えばローンの返済と管理費・温泉使用料・修繕費その他諸々を含めても月々5万円程度にしかならないのだ。
それで源泉かけ流しの温泉付きリゾートマンションが手に入る。
北海道はいいべ。

「確かに安いけど、しょっちゅう売り出しの看板が立ってるよ」とIさん。
ふぅむ。どこかに受け入れ難い欠点があるんだろうな。
『その先をどう読むか』が必要なのだろうけど、私にはよう分からんことで、ともかくIさんはうまいこと素敵なリゾートマンションに住んでいると私には映った。

さて次に、10日午後と今日の11日は犬たちの為に時間を費やした。
とりわけ今日は年末に遭難した雪に覆われた北広島のレクの森を犬たちと歩き回り、その原因および地形をすべて把握した。

あの時の原因は『踏み入ってはいけない』地域に足を踏み込んだのが原因で、さらに深い原因はその場所の注意書きにあったと思う。
今日出かけてみると『この先進入禁止』という立て看板があり、不覚にも私たちはそれを意識せずその先に進んでしまったようだ。
あの日、私たちの目に飛び込んだのはその看板の隣にある『スズメバチに注意』という看板だったのだ。

看板を設置する人間にとっては『重要だから』と複数並べてしまう気持ちは分からないではないが、時として人はどちらか一方に注意を向けられてしまうと、他方を見逃してしまう傾向があるという心理学の基本を忘れた表示の典型であると思えた。
…なんて仰々しく言っても私たちの単なるドジでございまする。

ともあれ、いい休みだったように思う。
規格にはめられがちな現代の中で“それぞれ”という観点から物事を楽しむことができたから。

今日の午後、50数日間のヨーロッパ一人旅から帰国した娘を千歳空港に迎えに行った。
彼女が車内で私に話すこと以上に彼女は言葉にできない経験をしたことであろう。
それを聞きだすことほど野暮なことはない。
私はただ頷き、そこに娘の姿があることに喜びを感じた。

いい休暇だった。
 


- Web Diary ver 1.26 -