From the North Country

アモの治療終了と私の誕生日を祝うキャンプ 2007年06月29日(金)

  27日を臨時休業にし定休日とあわせ連休をとった私たちは、洞爺湖畔でのキャンプを満喫してきた。
我が家にやってきてから手術を繰り返し、我慢の生活を続けてきたアモへの治療終了のささやかなプレゼントだった。

「いいの?本当に泳いでいいの?」
ためらいがちに目で確かめるアモに、私は「いいよ」と言う代わりに湖に小石を投げた。
その瞬間、アモの身体の半分を占めるラブラドールの血が踊りだした。
一気にバシャバシャと水に入ったかと思うと、私が投げた石の方へ湖面を泳ぎだした。
だが、アモの身体は以前とは違い、両後肢の前十字靭帯は断裂し、その代わりとして角度を変え接合された骨が両足の動きを支えている。
だから最初のうちは犬かきをする前肢が水面にまで出て水しぶきを上げ、アモも頭で描いている泳ぎ方が思うようにできないことに戸惑っていた。

しかし、“ラブラドール恐るべし”である。
水を飲み咳き込みながらもアモは次第に今の身体での泳ぎ方をマスターしていった。
そしてそうなると止まらないのがラブの血でもある。

喜びを爆発させたアモは必要以上の動きでゴロタ場を駆け回り、すべての足裏に擦り傷を作ってしまってもなお沖を見つめて遠泳を望んでいた。

翌日になって痛みを自覚するようになると、ようやく残り半分のゴールデンの血が目覚めて自制するようになったが、それでもボールを投げようものなら命知らずのラブの血が大騒ぎするのは確実であった。

帰宅した翌日の今日のカフェでは、アモは看板犬を放棄し寝てばかりで、足裏は炎症で熱を帯び、トイレの時にはまるで日焼けした人間が恐る恐る痛みをこらえながら歩くようで情けなかった。
数日は家庭医療を施し様子を見て自然治癒を待つことにしている。

ところでキャンプ生活は私にとっては馴染み深いものだがKには遠い昔の『大変だった』記憶しかないようで、今回のキャンプはそのイメージを払拭する目的もあった。
だから私は私流の準備をすべて整え今回のキャンプに臨んでいた。
結果は上々で、「私、準備の段階から何もしなかったし、行ってみればとってもリフレッシュできて楽しかった」との言葉を引き出すことができた。

Kが何もしなかったわけでは勿論ない。
普通のキャンパーならバーベキューを考えるだろうが、私の夜のメニューは定番の現場作りの餃子である。
みじん切りにしたキャベツとニラに豚の挽き肉を混ぜ、ビニール袋で揉み揉みしながら塩コショウを加えた具を餃子の皮で包んで焼くというものだ。
酢をたっぷり醤油は少々で、ラー油を加えたタレに思いっきりにんにくを溶かし込んで食べると、翌日の臭さを忘れた餃子とビールが本当に旨くなるのだ。

その餃子の皮包みの時にKの主婦としての匠の技が炸裂した。
本当に次から次へとあっという間にこの作業をKは完了させたのだ。
包み方についてはどう説明されても私にはできなかったけれど、『みよしの』でアルバイトをし餃子の焼き方をマスターした愛娘から教わった方法で、2回目にはカリカリでジューシーな餃子を私は焼き上げることができた。
是非お試しあれ。
キャンプでの手作り餃子を。

ともあれ、アモと私たちは制限と限界を自覚した上での日常生活を送れるようになった。
 

説教みたいになってしまった私の思い。 2007年06月25日(月)

  鹿児島のAさんが愛犬に注ぐ愛情は充分に感じ取れるし、それなりの努力をされていることも知ることができた。
ただ、これから私が述べることが正しいのかどうか自信はないし、恐らく一般の愛犬家には技術的なことを含めて理解はできても現実的に対応できないのではないかと懸念している。

生後40日で引き取ったのが早すぎるとか、そこからの育て方に問題があったかも、とかの話はもうおしまいにし、現在とこれからの愛犬に目を向けよう。

(Aさんのメールから引用)
“(家庭内での)日常生活ではあまり問題を感じません。
ただ、他の犬に対してものすごく攻撃的なのです。最近、お互いのにおいを嗅ぐことだけはできるようになりましたが、お尻と口元を嗅いで、すぐに唸りはじめ、ガウガウと始めてしまいます。私達が相手の犬を撫ぜるものなら、ものすごい勢いで吠え掛かります。相手の犬の毛を抜いたこともたびたびですので、ほうっておいたら噛み付くのではないかと思います。”と、ある。

『他犬を見つけたら、すぐに飼い主が楯となって相手が見えないようにし、おやつを与え続けて慣れさせましょう』というような、犬をイヌとして扱う訓練方法は病気の犬には正しい場合がある。
ある意味において人をヒトとして扱わなければ外科医は大手術など引き受けれないし、精神科医はカウンセリングもままならず、医学の進歩もないだろう。

だが、それは病気の場合においてであり、犬の問題行動をなんでも病気と解釈する考え方は間違っていると思う。

人間社会には厳しい規範があり、人を傷つければ逮捕され、人として裁かれる場合もあればヒトとして強制入院させられることもある。

Aさんが他犬を撫ぜると、ものすごい勢いで愛犬のJRTが吠え掛かる、というのは強制入院の範疇だろうか?
愛犬は麻薬でもやっていたのか?
それとも精神に問題があって心神耗弱状態だったのか?

違う。
彼女は自分の意思で意図的に吠えている。
その傾向や芽は遺伝かも知れないし、生育過程でそうなったのかも知れない。
「だから、もう一度イヌとして優しく教え直しましょう」と、ある訓練士は言うだろうが、私は先に書いたように過去のことではなく今とこれからのことを考えている。

『子育ての段階で愛犬の傾向を把握し、社会規範を教えていれば』というのは、もう無しであり、精神の形成時期は過ぎてしまっている。
わが国での少年法が改定され、中学生でも犯罪に問われるのは人をヒトと見て、教え直しではなく規範を前面に出しているのだろうと思う。

然るに、ペット社会では飼い主に咬みつく犬や他犬に攻撃的な犬を、なお病気であり教育対象と捉え、規範を教えるのではなく心理学(カウンセリング)で対処しようとしている。
イヌとして見ているからそうなるのであり、犬と見れば飼い主はとことん真剣に向き合うはずで、場合によっては鉄拳すら辞さず、それでも反抗しようものなら「あんたは母さんの気持ちがまだ分からないのかい!いい加減に目を覚まし人の話を聞きなさい!」と全身全霊で立ち向かうだろう。

酔ってきたぞぉ。

我が家の愛犬アモの稟性や彼の本能がおもむくがままの行動を放置したなら、彼は我が家にとって決していい犬ではない。
でも私たちは遺伝的問題や悪い部分の芽を摘み取らなかった過去の育て方を振り返らない。
ただ「二度とそのようなことはするな!」ときちんと教えるだけだ。

他犬を撫ぜた時、Aさんの愛犬はAさんの意図することとは別の行動を意図的に示す。
Aさんの気持ちや対応はどうあれ、彼女は咬みつかんばかりに吠えてしまうのだ。

我が家ではあり得ないが、仮にこんな問題が起きたとしても数日後にはすっかり片付いている。
何故なら、他人や他犬に取り返しのつかないような行動、すなわちアモが保健所に捕捉されるかも知れないような行為は絶対に許さないと伝えることができるからだ。
それでも彼は私を絶対的に信頼する。
教え方に魂がこもっているのを彼らは本能的に察知できるからだ。

わが子と思えば極悪非道に見える振る舞いも辞さない。
そこには凄いテクニックが存在する。
決して追い詰めず、かといって妥協は無い世界で彼らは私たちと同じように理解し快を求める生物なのだ。

他犬が嫌い・反射的に吠えるというのは仕方の無いこと。
それをいつまでも行動に出させ、反射的ではなく意図的に継続させているのは飼い主の問題であり、それすら治せないなら飼い主が抱いている愛情は犬に対してではなくイヌへのそれであると断ぜざるを得ない。
 

鹿児島のAさんへ、その2 2007年06月24日(日)

  アカシアの花が散る頃はいつも雨が降り続くのだが、今年は違う。
晴天が続き、今日のような曇天の日にですら空砲の雷とお湿り程度の少雨がかすっただけだった。

そんな6月の週末はみんな行楽に出かけて、カフェはいたってのんびりムード。
お泊り犬もいないし、今夜は最高!

こんな書き方をする時は『さて、今夜は何を書こうか?』と考えている最中であり、普通のブロガーなら『書きたいことがあるから書いている』というのに、私の場合は既に枯れ井戸状態で強迫観念に囚われて書こうとしているだけだ。

そんな今夜、先日の鹿児島ジャックラッセルテリア(JRT)の飼い主Aさんから助け舟のメールが届いた。

(前略
不躾なメールだったため、やはりお返事はいただけないものと思っており、あきらめ半分でメールチェックをし、もしかしたらとブログのほうも拝見させていただきました。
あれ、鹿児島のことが書いてある!?と思ってびっくりいたしました。
つい先日、開聞岳の麓の「そうめん流し」に行ってきました。流しそうめんという地方もあるそうです。ご存知ですか?丸いテーブルの上に丸い溝がすえつけられており、そこに湧き水を水流をつけて回転させ、そうめんをまわしながら食べるものです。
http://rp.gnavi.co.jp/sb/3009107/
また鹿児島にお運びの際はぜひ。)

どっかの街の町長さん?のアイデアで、水流の速さまで調整できる電動式そうめん流しの話は聞いたことがある。

そんなことよりAさんの質問にお答えしなければ夜が明けてしまいそうだ。
Aさんの質問を要約すれば『名のある訓練所から生後40日のJRTを引き取り、犬を飼うのは初めてでもないし自分たちの暮らしの中では問題ないどころか楽しく接している。
ただ、歯を磨くような時など嫌なことをされればに反抗的な一面も見せるが、決して危害を加えることも無いのに、他犬との付き合いにおいてはどちらかと言えば攻撃的な面があって、生まれた訓練所で結構厳しい訓練を受けたけれど改善されない。
実は避妊もさせていないので繁殖し、もう一頭犬を飼いたいのだけれどこれについてはどうだろうか?』と大まかな部分において勝手に解釈させていただいている。

まずはこの欄の履歴2004年の4月20日と2005年の2月6日をチェックしていただきたい。

私は生後早いうちの仔犬の飼育には基本的に魅力を感じている。
犬社会での社会化が起こる前に、人間社会での社会化を進めた犬たちが素晴らしい盲導犬になった経験を持っているからだ。
ただしそれには条件がある。
人が親代わりをとことん引き受け、『人間社会だけではなく早いうちから安全な犬たちとの関わりを経験させておく』という社会経験の一環が含まれねばならない。

今となっては手遅れだが、Aさんの愛犬はその点への配慮が足りず、人に対しての刷り込みが強化され他犬には排他的になったのだろうと思う。

一方で、『愛するだけで犬は育たない』という現実にさらされているのだろうとも思う。
つまりは手に入れた愛犬との相性だけを考えてはならないということだ。
犬は何もしなければ血筋で育つし、『こう育てたい』なら働きかけとシステムを理解していなければならないのだ。

Aさん。あなたのJRTはあなたが育てたように普通に育っていると思います。
ただ、あなたはあなたのJRTに相応しくない欲望を抱いているのではありませんか?
我が家の愛犬アモは血筋も育て方も我が家の流儀ではなくやってきた愛犬です。
今、正にそれを変化させようとし、妥協と折り合いを含みながら暮らしています。
ですが、そのプロセスに『反抗的』という状況は私たちにとってあり得ないはずなのです。

無理無理、ごめんなさい、酔いが回ってきた。
この続きはまた今度。
 

鹿児島のAさんへ 2007年06月22日(金)

  ♪流れる雲よ城山に
登れば見える君の家
明かりが窓に灯るまで
見つめていたっけ逢いたくて
ああ、青春の思い出は
我がふるさとの城下町♪

♪開聞岳の山の巣に
日暮れは鳥も帰るのに
君は船乗り竹島はるか
今日も帰らず夜が来る♪

『ああ青春の城下町』と『南国情話』。
どちらも私が多感な頃に聴き、今でも忘れ得ない鹿児島を歌った曲だ。

高校の修学旅行で初めて城山に立った時、私は『ああ青春の城下町』を口ずさんでいた。
長崎鼻で流れていた『南国情話』は開聞岳の美しさと重なって今でも2番の歌詞しか思い出せない。

その後私は高校時代に一度、大学時代に一度、盲導犬協会を退職した後の放浪の旅でも城山と開聞岳を訪ねるほど鹿児島は心に残る大好きな街だ。

城山には朝から晩までいて、西郷どんや坂本龍馬・海援隊、果てはさだまさしまで面白おかしく聞かせてくれるおじさんの講釈に聞き入ったり、開聞岳登頂のためかっこつけてわざわざキャラバンシューズを奈良から持参したものだ。

西鹿児島だったかどうか今では曖昧だし、現在も存在してるのか分からないけど『グスタフ』というビジネスホテルが私が生まれて初めて個人で投宿したホテルだった。

2002年に車を走らせていた私は、息を呑むほど美しく開聞岳が見えるビューポイントを発見し、急ブレーキをかけてそのままそこに住み着きたい衝動に駆られた。
それから数年して宅急便のコマーシャルでその場所からの開聞岳の映像が流れた時、『あのまま住み着いていたらみすぼらしい私のブルーシートハウスは撤去されてしまうことになったんだなぁ』と感慨深かった。

(はじめまして。
毎日北の国からを毎日拝見させていただいています。南の国、鹿児島に住んでいますAと申します。
犬のしつけについてご質問させていただきたいことがあり、大変失礼とは思いましたが、メールさせていただきました。)

そんな丁寧なメールが今夜届いたものだから、鹿児島のことを思い出し、懐かしみ、親しみを覚えてしまった次第である。

(ジャックラッセルテリアのメス(2歳)と暮らしています。
生後40日以内での引取りが条件でした…)

Aさんの許可がいただければ、私の感ずるところを書くことはできるものの、結局は犬や環境を見てみなければ分からないし、無責任な話になってしまう残念さ・無力さ、そしてその現実を証明することしか私にはできないと思う。

毎日のようにこの欄を読んでおられるというAさん。
それでもよければ改めてメールを下さい。
そしてメールの内容が、“配慮されつつも公開される部分がある”ことをご了承されれば、開聞岳の美しさと城山の身近さを心に描きながらこの欄で書き綴ることができるかもしれません。
 

物も言い様 2007年06月20日(水)

  昨夜のこの欄には補足が必要。

一部にはどうもならん犬を繁殖に用いて、どうもならん仔犬を増やし、そういう繁殖屋に限って益々どうもならん身の毛もよだつ生体販売を行うペットショップで陳列販売するなど、どうもならんブリーダーと犬屋がいるから、善意の購入者がひどい目にあう事例が少なくない。

だから問題行動の根幹部分は彼らに拠るもので、彼らは“善良な飼い主は自分の犬にダメ犬のレッテルを貼られることに反発し不憫に思い自己責任を感じる”という心理を悪用して業績を伸ばしているのだ。
悔しいけれど、どうもならん人間たちの思う壺にはまってしまっているということだ。

欧米の犬たちがお利口に見えるのは文化の違いもあるけれど、“素敵な家庭犬になるために生まれてきた”ような犬を繁殖しているブリーダーが多く、そこでの分譲システムが一般化しており、一部の生体販売を行うペットショップは評判も悪く、息を潜めるようにして営業しているのが実情だ。

では、どうなればよいのか?
1.国内のドッグショーでは体型などの外見的スタンダードばかりに目を向けず、内面的な感性や家庭犬であれば暮らしやすさを重視すべし。
2.そこで評価を得たブリーダーが血統を適切に伸ばし、必要なアドバイスをしながら一般に分譲する。
3.ペットショップでは犬の情報や犬種特性をビデオあるいはリアルタイムで流し、予約販売の仲介を行う。

まあ、こんなところが補足である。

ところで、批判ばかりする人間は嫌いだし、自分にその傾向があるのを恥ずかしく思うけど、昨日のニュース番組の中の娯楽生中継を見てやっぱり茶化したくなった。

それは我がカフェのようなペット関連ショップからの中継で、話はペットホテルの話題に移っていた。
アナウンサー:「見て下さい!ちゃんと清潔な個室があって、プライバシーも守られてるんですね。」
そこにはカプセルホテルのようにただペットケージが積み重ねられていただけである。
私とK:「物も言い様だね。個室かぁ?。不安な犬にとってはただの独房じゃんね。それならうちのお泊りわん子たちはさしずめ雑居房だね。」

先日レッスンのキャンセルがあった。
週末に用事ができてペットショップに愛犬をお泊りさせたら、帰宅後も食欲と元気が無いというのが理由だった。
恐らく“個室”で暮らし、周囲では泣き喚く犬たちがいたのに、適切な対応がなされなかったのだろう。

今夜の私の雑居房ではキャバリアのルッカが静かに寝息を立てている。
 

問題行動の芽 2007年06月19日(火)

  一般に問題行動と呼ばれている事柄があるけれど、それは飼い主がその行動の源を犬が大人になるまで放置あるいは助長し続けてきた末に残る必然的な結果であり、犬自身が生得的に抱えていたがための問題ではないと私は考えている。
勿論、犬の問題行動は例えば咬む・吠える・破壊する・飛びつく・穴を掘る・引っ張る・雷恐怖・自傷行為など犬としてまた生き物としての生得的行動の一部が強調されたものであるのは間違いないが、“問題行動”と銘打つほどに問題視させるようになったのはやはり育てる過程にあったと思う。

つまりその傾向や予兆は仔犬の頃にあったはずなのに、犬を知らず、将来のことも考えずに接した結果である。

生後4ヶ月以下の時点で
・触る時/食事の時/おもちゃを取り上げる時など唸ることがあったのに、面白がったり放任した。
・甘咬みではなくマジ咬みと思える行動があったのにきちんと対処しなかった。
・仔犬が怖がったり反抗的になったりしてもその姿が面白く、仔犬の反応を確かめたり気持ちに配慮することなく仔犬との遊びは楽しいと思って接していた。

生後4ヶ月以上になって
・日々の散歩をせず、箱入りで育てた。
・穴掘りや飛びつき、引っ張る行動すら可愛いものと考えていた。
・しつけもできていない犬を室内でフリーにし、マウントを許し、破壊行動も仕方の無いものだと考えていた。
・感情的に叱ったり、褒める必要も無いのに溺愛したり、感情を先取りして雷が鳴ったときに抱きしめたり…

これまでに相談を受けた問題行動の中に『犬が空を飛んで困っています』という類のものはなく、“犬ならばそういうこともあるだろうなぁ”という事例ばかりである。

要するに、当たり前の社会経験を積ませ、当たり前の家庭内行動への教育をし、そのうえで個々の性格の中から伸ばすべき資質や排除すべき性癖を専門家のアドバイスを受けて、必要な接し方をすればよかったのである。

相手は魔法使いで、普通の人間ならコロリとなってしまうような愛らしさに身を包んでいる。
『ああ可愛い!もうダメ』と頬擦りし『何でも許しちゃう!』との想いを誰も止められはしないけれど、心の片隅で冷静な観察を行い、将来に思いを馳せておくのも必要だということである。

なんか結婚と同じみたいだけど、ペットの場合は離婚はできませんからね。
 

芽吹きそして継続する 2007年06月17日(日)

  アカシアの花が満開を迎えようとしている。
深夜ライトアップしたガーデンはまるで夜桜中継のような神秘的な美しさを醸し、1年のうちで最も輝いているように見える。
金曜日の早朝にたっぷりの雨が降った以外、もう何週間も晴天が続き、朝夕は肌寒いほどに心地よい。
果たして喜ぶべきなのか、猛暑の前兆として憂うべきなのか?

お泊り犬がいなくなった閉店後、私たちは久しぶりに
車で数分の平岡公園まで出かけ、ゆったりとした散歩を楽しんだ。
人影まばらであったが、その中に明らかに犬の訓練士と思われる人を数ヶ所で見かけちょっと嬉しくなった。

彼/彼女たちの目は真剣でしかも優しかった。
何で困っている犬をどのような方法で訓練しようとしているかの意図もはっきりしていて、それぞれに成果を挙げているようにも見えた。
私たちを見つけると、都合の良い訓練対象に出会えたかのように手元の犬に集中しながらそれぞれの対処法を試みていた。

そのような彼らを見かけるということは、依頼者がいるということであり、『犬には基礎的な訓練を行う』という考えを持った飼い主が増えていること、何より訓練士のそばに飼い主がいて適切な取り扱いを実践しながら学んでいることがすばらしいと思えた。

犬を飼っていない方が街を歩いている時、無作法な犬や無頓着な飼い主と出会えば不愉快に感じることもあるだろうけど、無作法な犬でもそばで真剣に教えようとしている訓練士と、それを学ぶ飼い主がいたなら『頑張ってね。いい子になるんだよ。』と優しいまなざしを向けてくれるものだ。
それは私が盲導犬の訓練をしていた時に確信したことでもある。
初めてバスや地下鉄に乗車する訓練犬の中には戸惑いを見せる犬もいたのに、周囲の方は皆微笑みを持って受け入れてくれたし、『頑張るんだよ、新米ちゃん!』と訓練中の私たちに募金しようとする方もおられたものだ。

おりこうなワンちゃんはそれでいい。
そうでないなら、世間から避けるように生きるのではなく、要するに頑張っている姿勢を示すことこそが大切なのだと思う。
もし、数ヶ月先にその結果を示すことができれば最高である。

枯れ枝のようにみすぼらしかったニセアカシアが今満開を迎えようとしている。
あなたが愛した犬ともそんな満開の思い出がいつまでも記憶に残るような暮らしを共有してみてはどうだろう。

私は枯れ枝のようなニセアカシア状態だけど、若い芽吹きがそこここに点在している。
育て方の基本を学べば、次の愛犬育てに生かせるし、その姿を子供たちも見ているはずだからさらに次に発展させることができる。

夜遅く普通の人たちは外に出ることも無く眠りにつく。
犬を飼っているからこそ満天の星と闇の静寂、ひんやりとした空気を体感できる情緒豊かな時間を日々感じることができるのだ。
私たちは愛犬から様々な恩恵を受けていると思う。
 

極めれば簡単なこと 2007年06月16日(土)

  今日の日中のテレビで、なんとかチャンピオンしつけ王選手権という再放送番組が流れていた。
7日間でいくつかの課題をこなせるように犬を訓練するというものだったが、そこは娯楽番組でもあり犬種や性格の違いを利用して紆余曲折があるように仕組んであり、面白さが演出され楽しめる内容だった。

泳げない犬を泳げるようにするには少々時間がかかるだろうけど、もし身体の機能的な欠陥がなく、番組に登場したような犬たちであってハンドラーが番組のように訓練者自身であるならば、例えばハードルの飛越や平均台の走行程度の訓練に7日間も私なら必要としない。
たぶん30分、恐らくは15分もあれば審査で合格する演技は充分できるようになると思う。

実は犬に何かを教えるのはさほど難しいことではないのだ。
勿論、誰が命令しても、どんな時でもそれを実行させるレベルに高めるには時間がかかるし、犬や飼い主の資質によっては不可能なこともあるけど、普通の犬が審査基準をクリアする程度なら簡単なことである。

時間がかかるのは、してはダメな行動をダメな飼い主の下でもしなくなるように教えることじゃないかと思う。

犬の行動を変化させるのはお茶の子さいさいでも、人間を変化させるのはそう簡単にはいかない。

今夜は短くまとめてみたが、意味は深く長い道のりでもあった。
 

変化する中庸 2007年06月15日(金)

  今日はあれも書こうこれも書こうと話題豊富な一日だったのに、夜のローカルニュースを見てカチンと引っかかってしまった。

小樽の祝津で観光船が座礁し乗員乗客全員は無事救助された。
というニュースだった。

救出されたある女性が「ドスーンという衝撃で怖かったです」と語る姿に共感し同情の念を禁じえなかったのに対し、「(船員の)対応が悪かったからこの子は泣き叫んでひどい目に遭いました」と年少の娘を連れた母親が冷たく言い放つ映像に反感を覚えたのだ。

これまで生きてきて『人生何が起こるかなど分かりゃしない。それぞれの時点でどう対処するかが問われている。』という人生訓を持っている私には、この母親のコメントが軟弱で傲慢な人間の言葉に感じてしまった。

この母親は『お金を払って(社会資源である)観光船を利用しているのだから、安全であることは絶対条件であり、仮に問題が起きたならその責のすべては相手にある』という現代社会の風潮を信じ込んでいる世代の人間なのだろう。

一方で高所恐怖症の私は
・突然の地震で足場が壊れて転落することがあるはずだ。
・飛行機もジェットコースターだって間違いなく確実に事故を起こしている。
・自宅にいてもトラックが突っ込んできたり竜巻や落下物があっても不思議ではない。
などと思っている人間だ。

だから仮に自分が乗船した観光船が座礁した時でも、泣き喚く我が子を見てパニックにならないし落ち着かせるのを他人任せにはしないだろう。

恐らくこの母親は切羽詰った事故ではないことをいち早く確信し、救助されるまでの時間の中で恐怖が怒りに変わっていったのであろうと推測される。

個人にしては大ごとで社会にとってはちょっとした事件でも大企業が潰されるほどの社会問題に発展するから、より安全で慎重な社会へと進化していく事例が増え、それこそが現在求められていることだと理解できる。

ちょっと待てよ。
酔っちまって自分の言いたいことと書いてることが一致しなくなっているようだ。

要するに、どこかの国のように危険と分かっている原料を平然と混入し、その管理体制もできていない状況に対しては強烈な批判と排除すべき危機管理を備えるのは当然であるが、すべてを相手の責任として自己保身に走るのはいかがなものか?ということを言いたいのであり、一方で、小さなことでも実は大きな問題であると主張してきたから社会は発展する現実がある。

酔うほどに訳の分からん話になってしまう。

今日レッスンをした外飼いで家族を咬むわんこにはもっと単純で分かりやすい理由があり、家族の対応には軟弱さがあった。
観光船で救助された母親は相手を非難していたが、捨て犬を保護して育てている今日の飼い主は自分の非を強調しすぎていた。

『丁度良い』という加減が曖昧な時代である。
 

満天の星空を見ながら困った問題を考えた 2007年06月13日(水)

  夕べは満天の星空の下、往復210キロ4時間弱のドライブと3時間半の釣りを楽しんできた。
好ポイントには先客が入っていて、予想通り釣果は少なかったもののカレイ5枚にガヤとホッケ3匹をゲットできた。

ただ、釣り場の汚染には目に余るものがあり残念でならなかった。
積丹の海だから水質は良く透明度も高い。
問題は釣り人の放置ごみの山と臭いだ。

10年以上も前からこの港に足を運んでいて、放置されるごみが徐々に増えているのが気にかかっていたが、春先に訪れた時は綺麗な状態だった。
時化や風に強い場所だから、GW頃からのごみも相当残っていたのだろう。
海に流れ出る光景を想像しただけでゾッとし、ここで生活を営んでいる漁師の方に対して恥ずかしさと申し訳なさがこみ上げてきた。

このままではいずれ釣り人は排斥されるに違いない。

犬たちの遊び場もまた同じ状況にある。
厚意と寛大さで釣り人や愛犬家は社会に受け入れられるのに、それを権利意識と傲慢さで跳ね返す輩がいるものだから全体が迷惑を受けるのだ。

マナーと努力する姿勢それに謙虚さが無くなれば、次に規制が行われるのは当然であり、それは善意の『釣り人』『愛犬家』にも及んでしまうのは目に見えている。

既にいくつかの規制は存在するし、さらに細かいところまでそれが広げられているうちはまだいい。
困るのは釣りや犬の場合、規制の中身が『入釣禁止』『ペット禁止』といった安易な“排斥”に繋がることである。

釣り人が漁師や環境に配慮し、愛犬家も環境や社会の人々に配慮をするのは当然だが、実際にはもっとおかしな事態になっているそうだ。
例えば、当事者である『釣り人』『愛犬家』同士での争いが起こると、厚意と寛大さで“見ぬふりをしてくれている”管理者にまで苦情を持ち込むものだから『そんなこと言われるなら』と締め出されるパターンが増えているというのだ。

自らの首を絞めながらも、どんどん膿みを出すことで将来に望みが持てるならそれも良かろうが、釣りや犬の世界くらい『おかげさまで』の精神と厳しい自己規範を持って楽しみたいものだ。
 


- Web Diary ver 1.26 -