From the North Country

酔っ払いの定休日 2007年07月26日(木)

  今日は定休日。
本来ならこの欄も休みであるが、今夜のお天気長期予報を聞いて奮い立ってしまった。
平年より暑い夏になる予報が数日前に変更されて冷夏の予報となったにも関わらず、今夜一転して北海道はやはり暑い夏になるとのこと。
『だから長期予報なんてやめれ、って言ったべ』と私は憤ってしまう。
だって今夜はここ数日よりずっと涼しい夜を迎えているのに…。

今日から札幌の学校は夏休みに入ったそうだ。
我が家では定休日だったがお泊り犬がいたので今回はお出かけ無しとなって結構大変な一日を過ごした。
その中でも
・参議院議員選挙の期日前投票に行くこと
・サマージャンボ宝くじを買うこと
・値上がり前にガゾリンを満タンにしておくこと
・我が家の愛犬アモと片道切符の散歩に出かけること
を今日は課題としていた。

真昼間の暑い時間帯に私はアモと散歩に出かけ、アモが望むままの方向へ歩みを進めた。
相当根気よく付き合ってあげたがアモは自分が歩ける限界や帰る道のプランなど立てていないことに気づいて、私はKに現在位置を携帯で連絡して迎えに来てもらい、汗だくになった散歩はようやく終わった。

いくら愛犬と言えども好きに任せると彼らはとんでもない行動を平気で行い、真にとことん付き合うなら片道切符にして『ムカエタノム』が一番だ。

それからの私は選挙にも行ったし、宝くじも買いガソリンを満タンにしてきた。
我が家に居ながらにしてパーフェクトな一日だった。

インターネットの面白いサイトが今日報道された。
“投票ぴったん”で検索し、あとは流れのままにチェックを入れると、自分の考えに最も近い政党がわかるというものだ。
私の場合、トップに選ばれた政党と投票してきた政党とは違っていたが、おおむね正解だなと思えた。
 

次の人生 2007年07月24日(火)

  団塊世代での大量退職が始まっている。
あなたなら“それから”をどう活きますか?

彼らより7年は若い私の場合でいえば、盲導犬事業に関わり続け社会に貢献しながら定年を迎えるまで働き、惜しまれて引退するという道を結果的には選択しなかった。
力いっぱい働けた20代から40代後半までを駆け抜けた頃、もし仮に次の人生があるとすればそれは自分の力で切り開いていくことができるものなのか?それともこれまでは組織の中にいたからこそ自分は生かされていたのか?と曖昧ながらの問いかけをしていた。
勿論それは人生半ばにして視覚障害になった人々と関わり続け、逞しく生き続ける彼らの姿に対しての私なりの劣等感というか頭でっかちの教育者ではありたくないとの思いがあったからである。

視覚障害になる年齢を視覚障害者は選べた訳ではないが、私の場合50歳を越えてからでは人生のやり直しに自信がなかったので“ずる”をして48歳で“受傷(失業)”させていただいた。
それはそれで結構大変だったので、これが本当の受傷だったら凄い事態になっていただろうと今更ながら身震いしてしまう。

さて、定年退職者諸氏、何をどうしますか?
私なら次のチェックをまず行うことを勧める。
・組織の使い方を自分の経験からまとめておく
・組織の一員ではない状態での自分の知識・技術などを冷静に見極める
・社会的に“個人”になったことの意味を知り、その結果を知るための無為な時間を費やす勇気を持つ
・好きなこと、やってみたかったこと、個人となって検証した自己能力に加え、家族の理解などを総合的に判断あるいは相談してみる
・その結果、家計の見通しをプレゼンテーションできるか、あるいは自分のウェーブに周囲を巻き込める力があるかを判断すればよい

換言すれば、
1.退職したら身辺整理をしよう
2.次は旅に出て夢を抱こう
3.自宅に戻って現実を知ろう
4.関係者と熱く話し合おう
5.自分ともう一度冷静に話し合おう
6.最後はチャレンジするのか、流れを見て先送りするか

大丈夫。
そこまでやる頃には終焉を迎える人もいれば次が見えてくる人もいる。
息の合った心強いパートナーがいれば最高である。

私たちも道半ば。
諸氏の健闘を祈る
 

六花、追悼の辞 2007年07月22日(日)

  今夜ふと覗いたYさんのホームページに、愕然とさせられる文字が並んでいた。
イングリッシュセターの六花が『永遠の眠りについた』と書かれてあるではないか。
確認したわけではないから何かの間違いであって欲しいし、前回会った時にはいつもどおり元気だったのでうろたえるようなショックを受けているというのが実情だ。

憶測は抜きにして、現時点では六花の冥福を祈りYご夫妻に心からのお悔やみを申し上げよう。
誰かのいたずらだったとしても、後から勇み足と笑われるほうがどれほどありがたいものか。

心に思っていても言い出せない苦悩が私にはある。
私が過去に訓練してきた盲導犬や愛犬は私が元気である以上私より先に旅立つ。
その瞬間に立ち会うたび、『あの時はちょっと強引な接し方をしてごめんな。でも、だからこそ得られた喜びがあるよね。こうして君たちが旅立つ時、僕はいつも自問するんだ。あれでよかったのか?と』

保身ではなく探求しながら得た現状での振る舞いを私は現在実践しており、その道はこれからも続くと思っている。
だがしかし、愛犬の死というものは老衰でない限り誰がどうやっても心のどこかに後悔ややり残したことを抱かさせるものだ。

そのうえで伝えたいのは、楽しかった日々を思い出すことであり、ちょっとしたしぐさや光景で笑えた瞬間を忘れることなく、涙を交えながら語り合うことでもある。
そしていつの日か思い出す間隔が長くなった頃、思い出が確かなものになっていることに気づく。

その思い出が素敵であるためには真剣に向き合い過ごした時間が必要で、私の知る限りY家のイングリッシュセター六花には有り余るものが用意されている。

Yさんの言葉にあるよう、『君を忘れないよ』で私は送り出そう。
 

守るために攻める 2007年07月21日(土)

  7月に入って肌寒い日が続いたかと思うと、ここ数日は小雨や霧雨でなんともパッとしない。
ご来店者の話を伺うと、雨が降っているのは札幌でもこの地域だけというから余計に重苦しくなっちまう。

最近のこの欄は犬に関する話題が少なくなっている。
現在も様々なわんこと出会っているし相談も受けておりレッスンも行っているのだが、私の答えは既に書けるものは書き尽くした感があり、新たな例を挙げてもその対処法や考え方は、これまでの繰り返しになっているようで面白味や有意性に欠けてしまっているのが現状だ。

そのうえ私の対処法の極意は文字に表すことができない接し方にあり、それを見て学び理解してくれているのは恐らくKと数人の方だけであろうから、以前にも書いたようにこの欄の継続に意義があるのか迷っているのが正直なところだ。
迷いが吹っ切れるまで、たわいない事柄を綴るのでそこんとこよろしくご理解くだされ。

さて、今夜のアジアカップサッカーのオーストラリア戦。
よく闘ったと思うし結果にも胸を撫ぜ下ろすことができたが、どなたかサッカーに詳しい方に教えていただきたいことがある。

10対9のパワープレーで優位に立った日本チームは、延長戦に入っても攻撃のパターンを変えず、じわじわと敵陣を包囲して『一発の正確なパス』を狙って得点機を窺い、結局は無得点のまま運任せのPK戦に突入してしまった。
私としては数的優位な延長前半は敵陣を包囲した後、リスクを冒してでも『一発の正確なパス』ではなく、とことん波状的にペナルティーエリア内にドリブルで切れ込む指示を与え、『何が起こっても不思議ではない』状況を作り出す作戦に出て欲しかった。
相手は疲れていたし、カウンターをかけてきても失点に繋がる可能性は低かったはずだ。

何故そうしなかったのか?
日本の戦法のリズムを狂わせたくなかったのだろうか?
理詰めでない得点は美しくないという美学だろうか?
リスクを最小限にして得点できればという道を選んだのか?

ともあれいろんな考え方があって面白いゲームが進行し勝敗を決しているが、犬との暮らしでは防げた不用意な負けがあると、取り返しがつかず、とにかく後悔することがあるのでご注意願いたい。
・飛びつきを直せず、老人を突き倒す大事故を起こしてしまった
・拾い食いを直せず、毒団子を食べさせて死なせてしまった
・マテを教えきれず、車から飛び出し事故に遭わせてしまった
この程度のしつけなら『精一杯やったけどできなかった』というのは『やらなかった』と同義語であると考えてよい。

犬に対するしつけは、赤ちゃんに「泣くな」と要求をするような理不尽なことではなく、「あと10回拾い食いをすれば毒物を口にしますが、それでも現在のような対応をしますか?」と切迫感が問われている。
車酔いに対する対処法などとは別次元の、緊急事態という認識を持てば、自ずと愛犬に伝わる対応が生まれてくるはずである。

PK戦のように運任せの愛犬との暮らし方というのが一般的であるのは私にはちと恐ろしい。
 

定休日を楽しむ 2007年07月20日(金)

  いくら水泳が得意な私であっても、冷たい水に入る前は準備運動と身体を冷水に慣らす時間を取るから心臓発作を起こさず遊泳を楽しむことができる。
しかるに我が家の愛犬アモは霧がかかった肌寒い支笏湖に一気に飛び込み、泳ぐことで体温を上げて冷たい水に適応しているようだ。
水難事故に遭ったとき人間なら心理的にあたふたして自ら命を縮めるイメージを抱きがちだが、アモならまるでクリスマスプレゼントを貰ったように大喜びで氷山漂う海に飛び込むことだろう。

私の泳ぎの原点は福岡の玄界灘で幼少時に遊び、ビルの高さのような大波が来たときには波に向かって両手を開いて走り出し、砂浜に叩きつけられ、その後海に引き込まれるスリルを味わうことで、やがて海面に出たときに大きく空気を吸い込む瞬間がたまらなく好きだったことに始まる。

あの頃の記憶に水の冷たさはなく、だからこそ北海道の海を体験して海水の冷たさに用心深くなっている。
2メートルでも潜ろうものなら、あるいは潜水中に突然という風に水温が変化してドキッとさせられることがあるのだ。

「ねえ、もしアモがあそこで溺れたら助けに行ける?」
昨日の支笏湖でKが心配そうに私に聞いていた。
何も答えなかった私だが、頭ではイメージトレーニングとある種のバクチに挑む心積もりはできていた。

突然冷水に叩き込まれるのと、『これから冷水に入るぞ』と脳神経を通じて身体に伝えておくのとでは違いがあると聞いていたから心積もりだけはしていた。

そんな心配をよそにアモは大満足に湖面を泳ぎ、結局私たちが全身を濡らしたのは、支笏湖の水面と同じ水位を保っている丸駒温泉の露天風呂だった。

深さ1メートル以上もある露天風呂の足元は玉砂利で、誰もいなくなった温泉を独り占めにして泳いだら、その勢いで支笏湖に流されたお湯の分だけ新たなお湯が岩盤と玉砂利の隙間から染み出てきて温かくなる。

車で待機させたアモの身体は、私たちが温泉を楽しんでいる間に乾いていた。
アモは支笏湖の冷水を楽しみ、私たちは支笏湖の不思議な温泉を満喫した。
休日の楽しみは『お互い様』が基本である。
 

ポンコツな状態で書いたから… 2007年07月17日(火)

  上半身と両腕がポンコツ状態になっているので苦労している。
今朝出かけたS治療院では玄関マットに寝そべったままの盲導犬グリーンが軽く尾を振るだけの挨拶で迎えてくれ、私はグリーンの目と耳それに足など異常がないかをチェックして部屋に入っていった。
治療と称する耐痛苦行で散々痛めつけられたが、新潟と長野の盲導犬ユーザーは無事であるとの情報を得て安堵した。

独断とのお叱りもあろうが、視覚障害者が災害に遭って避難生活をおくる状況になった時、本当にというか気兼ねなく頼れるのは家族や知人であり、それ以外の周囲の方々には援助依頼をすることもあろうけど『せめてご理解を』というのが本音である(状況や個人に差があって一概にはいえないのを承知の上で)

例えば
・盲導犬を連れていたからといって嫌な目で見ないで欲しい。
彼らの犬は“存在”以外の迷惑をかけはしないから。

・勝手に居場所を変えるな!と非難しないで欲しい。
できれば壁沿いのほうが自分で移動がしやすくなるし、心理的にも安心できるのだから。

たとえ視覚障害でも避難所にしばらくいれば、聞こえる声やその他の音・空気で避難所の広さや出入り口の方向・人々の数やその他の状況は把握することができるものだ。
知りたいのは情報であり避難所のルールであるかもしれない。

ひょっとしたら情報はラジオや無線機を手にした彼らからもたらされる場合もあるだろうが、水が使えないトイレの使い方や一時帰宅の手はずなどは是非とも知りたいことだろう。

中途視覚障害というハンディを背負った人間は妙な言い方で恐縮だが、『一度死んだような体験をしている』から肝が据わっている。
中には障害を傘に着てうるさく要求する輩もいるかもしれないが、大抵は静かに状況を受け入れ、できるだけ周囲に迷惑をかけず、それでいて指示はしっかり把握して行動にぎこちなさはあっても、誘導する我々をかえって勇気付けてくれることだって多い。

災害をシミュレーションして準備を整えた方々。
視覚障害のシミュレーションだって一度はやったことあるでしょ?
歩いてる途中で目を瞑ったり…とか。
目を閉じて歩くのは危険だけれど、見えなくなってじっとしていると分かることもたくさんあることを改めて体験してみてください。
相手の身長や仕草、果ては性格なんていうのも見えてくるものですよ。
自宅なら、何がどこにあるか知ってるから、ぎこちなくとも目を閉じたままトイレまで移動しようと思えばそれも可能でしょう?

停電なんて視覚障害者には関係ない!?
それはウソ。
冷暖房がなければやっぱ困ります。

非常識にふざけた部分もあったが、避難生活にこそ日本における現代社会が映し出されているように感じた。
暴動も起きず整然と秩序を保っている光景には未来に期待が持てる気がしたし、それに応えられる社会保障制度の充実を求めたいと思った。
また、家を潰された人々に世間の目が届いているのは今だけであると想像しなければならない現実も悲しい。

傷ついた時優しくなれる文化を人々が継承しているのは素晴らしいことだと思う。
 

備えあっても憂いはあろうけど… 2007年07月16日(月)

  久しぶりに夏らしい日がやってきたかと思えば、大地震が再び新潟を襲い、九州四国の台風災害に続いて大きな被害をもたらした。
NHKの臨時ニュースで流れる地震の揺れを見て、震度6強の割には揺れが少なく被害は少ないだろうと感じていたが、民放の映像では激しく揺れている街並みがあり唖然とさせられた。
よもや金満NHKの屋上カメラには手振れ補整機能が常駐していて、地震などに必要な正確な情報までもが伝えられないようになってるのではあるまいな。
科学技術を優先したあまり現実を表現できないとしたらおかしなものである。

数日前から右手首が痛んで仕方がない。
『いつもの腱鞘炎だろうからサポーターを半日でもすれば解消されるだろう』と思っていたが、今日になっても痛みに変化はない。
レッスンで痛めた覚えもないし、何か無理をしたこともないしと原因を考えていたら、Kが明快な答えを導き出してくれた。
「サッカーアジアカップのUAE戦で机を叩いて応援してたからじゃない?」

科学技術優先にも問題があるけど、感情むき出し理性喪失というのにも相当問題がありそうだ。

ただ、同じことがこれからも起こるとすれば、私なら科学技術より感情を優先させる行動を取るだろうなと思い、できるなら科学的分析を自分で行えるだけの知見を持ち、決断に困ったら感性を優先させることができる自分でありたいと考えた。

そのためには勉強と日頃からの準備それにイメージトレーニング(シミュレーション)が大切であると思っている。
 

フレキシブルリードは釣り師には魅力的 2007年07月14日(土)

  6月が暑すぎたのは間違いないことだが、7月ってこんなに寒かっただろうか?
今夕の散歩は長袖のシャツにウィンドブレーカーが丁度良かった。

ところで最近なまくらになってきた私は我が家の愛犬アモの散歩の時に5メートルほどのフレキシブルリードを使うようになった。
以前にも書いたようにこの伸び縮み自由なリードは、しつけられたワンちゃんかしつけを一時的にでも放棄する飼い主向けの商品である。
一時的にも放棄というのは、迷惑のかからない場所で呼び戻しのできない犬に自由空間を与えて開放感を味わわせ、愛犬が喜ぶ姿を人も楽しむということだ。

実際使ってみると、犬はそれなりの自由を感じているようだが結構危なっかしい。
耐久性に問題があって、何かのきっかけで切れてしまってもおかしくないほど細い紐でできているし、たぶんその紐が切れて慌てふためいた方や、ひょっとしたら犬が事件を起こしたり事故に遭ったという方もおられるだろう。

だが使い続けているとそれなりのテクニックが身につくことに気がついた。
釣りを趣味にしている飼い主には容易に理解していただけるものと思うが、投じた仕掛け以上の大物が掛かった時、釣り師というのは背筋がザワッとして、糸を切られないよう押したり引いたり力加減を確かめるように慎重に取り込もうとする。
しかも魚が根に入ってバレることがないよう、その動きを微妙に制御する技でゲットしたときは釣り冥利に尽きるものだ。

フレキシブルリードは愛犬と散歩する釣り師には絶好のトレーニングアイテムといえる。
毎日のように大物を釣り上げる練習ができるし、取り込んだ時の快感を陸に居ながらにして味わうことができるのだから。

ただ、うまくいかなかった場合の悲惨さを考えると、やはりしつけられ『本来はノーリードでもいいのだけど、一応ルールだからリード着けてます』という方に相応しいはずだ。

アモには釣りの醍醐味をもっと私に実感させてくれるよう破天荒な行動を期待しているのだが、リードが伸びきるとすぐに歩調を私に合わせてしまって面白くない。
 

犬もサッカーも日本人を表してるようで面白い 2007年07月13日(金)

  もうすぐサッカーアジア大会で日本とUAEが対戦する時間だ。

朝の9時に数ヶ月前からしびれていた左半身をほぐしてもらうためS治療院で悲鳴を上げてきた。
カフェがオープンする10時過ぎに戻り、フラットのウェンディのレッスンを行って、その後の一日をご来店の方々と過ごし、閉店後我が家の愛犬アモと初めてのコースの長い散歩に出かけてきた。
アモと我が家の一員のようなお泊り犬ゴンタに食事を与えた後、私たちは里塚温泉で夕食を取ってたまっていた疲れを流してつい先ほど帰宅したところである。

車庫からカフェに上がるとアモが大きく尾を振って出迎えてくれた。
そこからさらに自宅へ上がって、私はゴンタを探した。

ゴンタはパソコン前の私の座布団の上でいびきをかいて寝ていた。
12歳のシーズーはカフェでの疲れがあるのか、夕食後はすぐにどこかで寝ているのだ。

そんなゴンタも以前この欄で書いたことがあるけど、カミナリにはたじたじとなる。
11日の夜中、私は次の日が定休日ということもあって夜遅くまでしこたま飲んでからベッドに潜り込んだ。
私には何の記憶もないが、その後凄いカミナリが轟いたらしい。

ゴンタは爆睡している私に見切りをつけ、ベッドから飛び降りてKに助けを求めに行った。
Kは「ゴンタ、怖いねぇ」と抱きしめた途端、私の教えを思い出して何事もなかったようにゴンタを床に下ろしてそのまま眠りについたという。
「もともと眠くて仕方なかったから…」
のん気なKは私同様その先を覚えていない。

その後ゴンタは落ちつきを取り戻し、役立たずのふたりに頼ることなく身の振り方を考えたのだろう。
翌朝、ゴンタを探すKの言葉にのこのことKのベッドの下から出てきたとのことだが、その姿は「あーよく寝た」と夕べのことなぞ綺麗さっぱり吹っ切った爽やかさがあったという。

ご婦人方はカミナリが鳴ると怖かろうがそうでなかろうが、ついつい甲高い声を出す習性があるように見受ける。
それはそれで微笑ましい場合もあるが、犬を飼ってるならその影響が自分ではなく犬に向かうことを押さえておいて欲しいものだ。

こんな表現で終わりたくなかったが、勝ちはした日本サッカーの内容と、テレビ解説者のいい加減な評論にムカムカしてしまったせいだと許していただきたい。

カタールと引き分けた初戦でオシム監督は『おまえたちはアマチュアだ』と嘆いていたが、その証左が今日の試合に如実に表れていた。
日本代表はまだまだ子供のサッカーをしており、親心で見ているものをヒヤヒヤ・イライラさせて楽しませてくれるとはいえ、最後に不愉快さを残すレベルである。
まあ、これが日本人かもしれないが、あまりにも進化のペースが遅く感じてしまう。
 

ああ青春の胸の血は 2007年07月10日(火)

  数週間ほど前、取引のある業者から「実はドッグカフェを開きたいという方がおられるので、会ってもらえないか」という相談があり、断る理由もないのでお請けした。

カフェに来られたそのご婦人は愛犬家のうえに資産家でもあるようだったので、話はどちらかといえば気楽なものとなり、『面倒なことを背負い込むつもりはないので、犬好きな仲間も入れるようなカフェ』というコンセプトの提案でその場はまとまった。

もし、“生活をかける意気込みを持った方”が真剣に相談に来られたなら「ドッグカフェなんてやめたほうがいいですよ。大変だし、せっかくのあなたのイメージが壊れるかもしれないし、投資に見合うだけの収入だってどうなるかわかりませんから」とマイナス面をさらに強調していただろう。
それは『犬好き』という観念だけでやろうとしたら、結局は生活の為に初期の夢とはかけ離れた、生体販売を行うペットショップや不衛生な環境でいい加減なブリーディングを行うような犬屋に成り下がってしまう、という警鐘を含んでいる。

考えてみればどんな商売にもそんな一面はあるのだろうけれど…。

夢を持って獣医になったとしても『結局は人間相手の仕事』という壁を乗り越える時期が必要だろうし、サービス業のカフェなら尚更初期のイメージとは違ったいろんな犬や飼い主を受け入れることで経営が成り立つという試練も受ける。
お花屋さんやケーキ屋さんのように子供の夢の仕事であっても、経営となると今世間を騒がせている“ミートホープ”のように誤魔化しによって利益を生み出そうという悪魔のささやきを払拭する毅然とした姿勢を持ち続けなければならない。

でもさらに考えてみれば、お金に余裕のある人が片手間とは言わないまでも、ある種の興味で好きな仕事を始めることに関わるより、将来に不安があるけれど夢を持ってチャレンジしようとする人に私たちは力を貸すべきである。

その一歩が相手の意思を確認し強化するための「無理だ、止めなさい」というブレーキの言葉であることもあれば、「そうだそうだ、何でもチャレンジすることが大切なんだ!」と無責任というか自己意識を高めさせる言葉になる場合もある。

仕事には、安易な抜け道と利益誘導がある一方、越えるべき壁を越えたときに、驚くような喜びがもたらされることがある。
人は相手の意気を感じた時、本気になれるものだ。
そんな出会いが誰にも時々あって、昔描いた自分の夢を考えさせてくれる機会にもなっている。

「もう年だ。身体もあちこち悪い。カフェの定休日は9月から木・金にする」と喚いている私も、いざとなれば燃え盛る炎の種火だけは消さないでいようと思う。

火種を維持できるエネルギーは“出会い”に負うところが大きい。
 


- Web Diary ver 1.26 -