From the North Country

ポストゴールデンウィーク 2007年05月07日(月)

  あー終わった終わったGW。
今日のカフェのなんと静寂なことか。
経営度外視で心安らぎ、駐車場の山桜が満開を迎えたことに心踊って北海道の遅い春をKと楽しむことができた。

レッスンを行った秋田犬の大ちゃんはもうOK。
2頭目の初回レッスンのラブラドールはしばらくかかりそうだが、根深い問題はない模様。
いつものカフェに戻った喜びで私の心はリラックスしている。

閉店一時間前に我が家の愛犬アモと初めてのコースを散歩できるゆとりも生まれ、とんでもないほど長く歩いてきた。

猟師でもあるクロ坊の爺さんが射止めた鹿肉を大量に頂いたので、アモの食事は鹿肉の鉄板焼きがメインとなり、満足したアモには「さとづか温泉」と告げて私たちは久しぶりの温泉を満喫してきた。

やいや、食った飲んだ。
いいお湯だった。
ヨガも丹念に行って、周りからはいつもながらチラっという視線を感じていたが、「なあに、構うことはない」と思いっきり温泉ヨガしてきた。

思えば今回のGWはたくさんのいい子達に恵まれ、疲れたのは単純に気疲れのようで具体的な問題があったわけではなかった。
私たちはただ、休みがなかったことに疲れているのである。

今日は最高にくつろげたけれど、完全に心身を癒すにはもう少し身勝手な時間が必要に思う。
明日からも、ゆとりの為に頑張るぞ!
おー!
 

褒めて育てることの本質 2007年05月04日(金)

  風呂上りのビール代わりに冷たいお茶をゴクゴク飲んでしまったものだから、夜中の12時を過ぎても眠れないでいる。
追加の焼酎が回り始めるまで、『愛犬を褒めて育てる』という概念について説明しよう。

盲導犬など訓練者と使用者が異なる使役犬の場合、厳しく律せられ訓練された犬は、時に接し方が甘くなる使用者の下で次第に羽目を外すようになることがある。
そのため訓練士による最終評価では上位のランク付けをされて卒業した犬が、数年後には問題犬となることもあり得る。

実際はちょっと違うが、例えば一般の愛犬を訓練所で訓練して貰っても、自宅に帰ってから数週間で元のダメ犬に戻るというパターンをイメージすれば分かり易いだろう。

盲導犬事業の場合、これらの欠陥を補うため、否、根本的に人と犬の関係を見据えた結果、“盲導犬になるために生まれてきたような犬たち”を繁殖することに現在では成功している。

つまり、一昔前の訓練士が『どんな犬でも盲導犬に訓練してみせる。それができないのは己の技術の未熟さである』と、日々努力を重ねた末に輩出していった盲導犬ではあるが、不幸なことにその一部に『あなたの犬は使えない』と使用者から否定された自分と犬が存在していたのに対し、現在の訓練士は“適性に恵まれた犬たち”を訓練する割合が向上し、訓練という観念が変化しているといえる。

すなわち現在の訓練士は冒頭にある『褒めて育てる』に近い訓練が可能となっており、そのようにして訓練された盲導犬は使用者の下でも「グッドグッド」で活躍できる割合が格段に向上しているのである。

嫌味に聞こえたらそれは本意ではないが、全国の盲導犬訓練士諸君。
そんな今こそ『どんな犬でも盲導犬に訓練してみせる。それができないのは己の技術の未熟さである』という先人の足跡を肝に銘じ、自らの技術の研鑽に励んで欲しい。

さて、皆さんの家庭犬に目を向けてみよう。
「あなたの愛犬は優れた繁殖によって選ばれた犬ですか?」
もしそうなら、あなたの愛犬は褒めるだけで育てることができるでしょう。
「血統証がある?」
それが何を意味していますか?

使役犬ではなく家庭犬であるから“暮らし易さ”だけの評価が高い犬はたくさんいるだろう。
同時に“ペットショップで買っただけの素性の知れないわんこ”が殆どでもあろう。

何を言いたいかといえば、褒めて育てるという発想だけで世の中の家庭犬と飼い主がうまくやっていける保障はないのだということである。
それを正当に主張できるだけの適正な家庭犬の繁殖は成されておらず、個々の犬たちを評価したうえで、褒めるだけではなく適切な制御や叱りが必要な犬と飼い主がいることを知らねばならないのである。

愛することで不可能を可能に育てることができ、愛を剥奪することで可能を悪に転化することもあるだろう。
同時に、愛することが正当を維持し、褒めることがその方法のように思えるのだろうが、それは一概に正解とは言えないということである。

ほどよく焼酎が回ってきた。
個々の犬をうまく育てれば結果オーライ。
懸念するのは『次の犬に生かせるか』との真髄である。

褒めて育て、それに応えてくれる愛犬といつまでも暮らしていたいけれど、その道筋は遠く、飼い主の知性が今後も問われる時代が家庭犬には今なお続く。
 

豊かに老いる 2007年05月02日(水)

  11歳のラブラドールももちゃんが先日来お泊りしている。
9歳になった頃に「ずいぶん元気なワンちゃんですね。何ヶ月ですか?」とカフェのお客さんに言われたことが今でも語り草になっている。

毛艶や食欲それに気持ちは今なお若々しいが、相応に年を重ねたと感じられることも多々ある。

ひとつは視力であり、薄暗い階段ではこれまでの経験で昇降しているから時に踏み外しそうになる。
高齢者が手摺を使わずに昇り降りしているようなものだ。

脳の変化も見落とせない。
カフェにワンちゃんがやってくると、普通、犬であれば相手がどんな性格のわんこであるかに幾分の注意を払いながら接近したりするものであるが、全くのノー天気で自分がしたいようにボーっとしながら振る舞い、相手の反応などお構いなしである。
ただ老犬の域に入っているので、相手に恐怖を抱かせるような動きではなく、まるで徘徊しているように見えて微笑ましい。

それでもたまに相手の犬が吠えると、一気に現実の世界に戻って急に若返るのが面白い。

呼びかけても反応しないことがあるので、聴覚に衰えがあるのかと思いきや、自分の都合のよい言葉や音には鋭敏に反応する。

年をとると、同時にいくつかのことに集中することができなくなるものだ。
車の運転で言えば、信号や通行人・対向車など前方の情報を収集しつつ、アクセルとクラッチの操作をうまく行い、タバコに火をつけながら助手席の人と会話をすることができなくなってしまうのと同じである。

ももちゃんと暮らしていると、昔、職場にいた高齢の事務局長と役員の実力者を思い出した。
話している内容がかみ合わない事務局長と、人の話を聞いてるようで理解してない役員さんで、当時は高齢ゆえであろうと意識しつつも人格を疑ってしまったものだ。
あの時もっと素直に『高齢者というものは』と言ってもらえればお互い理解しあえたであろうに…

それにしてもももちゃんのように可愛い高齢者と『クソ爺!』と思わせる高齢者の違いはどこから生じてくるのだろう?

共有する時間の長さ?
利害や職業意識?
元来の性格?

私のように我が強い人間が加齢と共に頑固になったら手のつけようがないほど嫌われるに決まっている。

階段では危なげに降りるももの身体を支え、Kとふたりで抱きかかえて昇っている。
朝起きたら喜びのあまり、足元の水の入った食器をぶちまけて怒られてしまう。
それでも、ももちゃんの疑いを知らない眼や仏のような寛大さ見るにつけ心豊かになるのはどういうわけだろうか?
犬だから?
ももだから?
それとも…
 

動かないMシュナウザー 2007年05月01日(火)

  月が変わってストーブが必要になるとは…
風が強く寒い一日だった。
そんな天候だしGWの中休みとあってカフェはいつもののんびりムード。

今日は2度目の来店で急遽レッスン依頼のあったMシュナウザーの空ちゃんと歩いてみた。
動かない。
飼い主の方に歩いてもらった。
動かない。
私がリードを持ち、飼い主の方に前方を歩いてもらった。
やはり動かない。

普段の様子と健康状態を尋ねると、自宅周辺では自分の好きな方向へ勝手なことをしながら元気に歩くが、その他の場所ではこの調子なのだとか。

・7月で3歳になる去勢されたオス
・最初の1年は全く外出しなかった
・現在でもこの調子だから外出は週1程度
・レッスン依頼の目的は吠えるのと咬むことを治したい

飼い主の気持ちは分かるが、吠える咬むを治す前にまず歩くようにしないと問題の解決には進めない。

そこで飼い主にはカフェに戻っていただき、私と空で歩くことにして、何故歩こうとしないのかを観察することにした。

事前に頭に描いたことと実際の空の行動は
1.心身の異常
飼い主の話から、自宅周辺は元気に歩き回るし健康状態は良いとのこと。実際「いやだ、動かない!」と踏ん張る力はしっかりしている。
10数分後、ようやく歩き始めた後にいくつかの言葉で歩きを維持するようにすると、言葉を理解しており異常行動もない。

2.極度の不安
生育歴から見てこの問題が筆頭原因かと思っていたが、リードコントロールで無理やり歩行を促してもパニックにならず、人や車あるいは他犬が吠えていても取り乱すことがなかった。
それどころか公園では臭いを嗅ぎ、良好便をした。

3.我の強さ
「動かない!」と踏ん張るので、足裏のパッドを傷つけないようリード刺激を上向きにしながら10数分移動を繰り返した。
根負けしたかのように突然歩き出し、また踏ん張るの繰り返しを続けた後、普通に歩く時間ができた段階で今日のレッスン終了。

配慮したにも拘らず、パッドには擦り傷による軽い出血がみられた。

「次回も最初は踏ん張り歩かないでしょう。でもその時間は徐々に短くなると思います。吠えと咬みの相談ですが、此処から始めないと問題解決には繋がらないのです」と私は話し、「また来ます。よろしくお願いします」と帰られた。

長い時間をかけ、楽しくもう一度育てなおすという方法もある。
たぶんそれでも歩けるようになるだろう。
が、私にはそんな悠長に付き合う時間もないし、飼い主に対して「ま、いずれそのうち、おいおいと」など思わせぶりな態度で時間と経費を浪費させたくはない。
なにより、この歩行問題が解決する頃には『吠え咬み』が制御されるようになって、空には新たな楽しみが増えるはずだ。
個々の資質によって限界があるし、まだ知り合ってもいないのに刺激的なスタートをきったのは空の性格にしっかりした我を感じたことと、カフェののんびりムードのせいかもしれない。
 

あぁ、連休… 2007年04月30日(月)

  ゴールデンウィークに入り、初めてご来店のワンちゃんが急増している。

「ありがたいことだと感謝しなさい!」
人見知りをする私の性格を見透かしたかのように、このところKや常連の方々から叱咤激励が飛んでくる。

勿論ありがたいと心から感謝している。
もし私の顔が曇っているとしたらそれは人見知りもあるのだろうけど、GWに入りカフェの雰囲気がペットのイベント会場や都会のチェーンカフェのように無機質のように感じられているからじゃないだろうか。

連休を利用してふらっと訪ねて下さる方や、お友達と愛犬同伴で会話を楽しまれる方、いろんなカフェめぐりを趣味にされている方もおられるから、こちらから声をかけることも少ないし、ワンちゃんたちが吠えていても『一過性の状況だろうから』と余程でないとアドバイスをすることもない。

それはそれで割り切り、ミニコミ誌で紹介していただいた後に連休が続いたわけであるから、祭りの屋台のように少しでも多くの方に利用してもらえれば大成功のはずだ。
そして気に入っていただいた方が以後も訪ねてくだされば文句のつけようがないのだけれど…

『わかっちゃいるけどやめられない』

イラクの自爆テロのように、いつ何があるか分からないような緊張感から解放されたい。
早く連休が終わっていつもののんびりしたカフェに戻りたい。
そして再度訪ねてくださる方がいれば、時間をかけてワンちゃんを通じた交流ができればいいなと思う経営者失格人間である。

ただ、今日の私の顔が曇っていたとしたらそれはもうひとつの理由がある。
Kの起床につられて慌てて起きた私は、お泊り犬の排泄を済ませ新聞を読みながらふと時計を見た。
「1時間早いじゃん!」
夕べは1時過ぎに寝たのに、あまりの天気の良さにKが勘違いし早起きをさせられてしまったのだ。
私の顔以上に今日は我が家の愛犬アモが曇っていた。
 

進化の途中 2007年04月28日(土)

  昨日のなごり雪が信じられないような暖かなゴールデンウィークの初日だった。
ガーデンは朝からワンちゃんたちで賑わっているのに、カフェ内に人の姿はなくご注文を頂くまで随分と時間がかかるいつもの光景に私たちはある種の安堵を覚える。

天候の良いのが一番の理由だろうが、犬たちと飼い主同士が安全に快適に楽しめる状況が今日も確保できていると感じとれるからだ。

紆余曲折はあったものの、ガーデンは三年を経てゼオライトの白い世界を眩しいくらいに表現しているし、犬たちのトイレ代わりにもなっているのに排泄臭は全くと言っていいほど無い。
火曜日に塗り替えたウッドデッキの臭いも今日の午後には気にならないまでになってきた。
デッキに4人掛けのテーブルがふたつ出せるのは、暖かいおかげだ。
狭いガーデンには犬たちのためのハードルと平均台、それに人間用の天幕がふた張りあって、これからは陽射しを避ける場所を提供してくれる。

これ以上の設備を増やせば、遊ぶ空間がなくなってしまいそうだが、中央に冬の雪山の代わりになるものがあってもいいかなと時々思うことがある。
ハードルや平均台のように私の手作りになるから、構想だけで終わってしまいそうだ。
何しろ、丈夫で危険性が少なく、冬には片付けることができ、しかもしまう場所を取らないという難しい条件があるからだ。

単純に考えれば『無理』という結論になるが、発想を転換すれば可能性も見えてくる。
天幕やテーブルのように気候によって片付ける必要性があるものと、ハードルや平均台のように除雪の妨げになるものがある。
仮に雪山の代わりになるような構築物を、頑丈に作って移動・解体しなくてもよいようにし、冬は雪山の骨組みになるようにすればどうだろうか?などと空想は尽きない。

カフェは私とKの遊び心を第一義としているからガーデニングのように楽しみながら変遷を積み重ね、厚みと温か味のあるものにしてしかもシンプルでありたいと考えている。
まだまだ進化途中である。
 

蒼く生きる 2007年04月27日(金)

  私とKの最高の楽しみは自然の中を散策をすること。

カフェ連休初日の25日は絶好の天気の中、誰もいない月形の皆楽公園をゆったりと歩いた。
Kはエゾエンゴサクが咲き誇る光景に大喜びし、私はアカゲラに久しぶりに出会えたことが嬉しかった。
我が家の愛犬アモはみんなひっくるめて楽しそうだった。

なんてことのないこんな時間がかけがいのないものになっている。

私たちは野鳥や草花の名前をあまり知らないけど、興味だけは持っている。
だからどんなに小さな花や草木も、群れている場所があればそこに名前と特徴を書いた標示物があれば嬉しいのに、そんな公園は少ない。
仕方がないから北海道野鳥図鑑とか野の花図鑑なんかを調べ、それはそれなりに楽しいのだが、もっとも分かり易いと評判のこれらの本でも解説重視の為に、一目で現物と名前を特定するのにはまだ不便を感じてしまう。
詳細は後ほどゆっくり図鑑で調べればいいのであって、実物と名前だけに特化した本・その場で実物と名前を一致させるだけの分かりやすい初心者向けの本がどうしても見つからないのは残念だ。

今日のガーデンにもスズメ大で胸からお腹が黄緑色の濃淡を示す野鳥が鳴いていた。
声はジージージージー、チュルチュルチュルチュル、ピッピーッピッピーと一貫性がない。
尾の付け根辺りに黒い縦の紋様があり、頭にも黒い色も見えていたが下から見たので背の色は定かではない。
嘴はベージュか淡い黄色に見え、鋭く長いものではなく短くシジュウカラよりずっと丸みがあった。
アオジのように見えたが、アオジがジージーと鳴くのか図鑑には別の鳴き方が記されていて不明である。

雌雄や成長度合いによって色も変化するのであろうし、犬たちでもクロスの場合には判別がしづらい事もあるように『一目見て』というのは難しいのかもしれないが、季節や環境を加味すればもっと分かりやすいものができるのではないだろうか?

専門家はついつい多くのことを書きたがり、端折られたことの中に重要な意味があることを力説したがるものだ。
私が犬の育て方について書いた原稿が以前、大手出版社から出版される段取りになっていたが、それがチャラになった原因もそこにあった。

何も後悔しているのではない。
犬種の見分け方や特徴を記す本なら分かりやすさを追求し、担当者の意見を尊重して書き直しただろうが、『育て方』となると、そう簡単に妥協できるものではなかった。
自分ですらまとめきれず言葉足りないと感じているところを、さらに端折って『別の話題(エピソード)を増やせ』と言われても応じるわけにはいかなかった。

今思えば、蒼い話である。
最初に特徴的な訓練法とその結果による感動的なエピソードを発表して社会の関心と注目を集め、その後に本質に迫るようなものをじっくり書いていけばいいだけのことだったのだが、私はその道を選ばなかった。

能力がないのが第一の理由。
能力とセンスそれに興味がないのが最後の理由であった。

小さな旅に出て小さな喜びを見つけるのが今も昔も私の最大の楽しみであり、打算と駆け引きが苦手なものだから。

去年の夏、ハクセキレイのせっちゃんがガーデンに遊びに来ていた。
あんな野鳥が今年もやって来ることってあるのだろうか?
セキレイって何年生きるの?
今の大きな関心事である。
 

メンテナンス 2007年04月24日(火)

  夜に入っても顔が火照っているのは酒のせいだけではなく、日中の暖かな陽射しが身体に残っているからだろう。

25日(水)の臨時休業を前に夏タイヤに交換し、ウッドデッキのメンテナンスを夕方から行った。
茶色のウッドガードが途中で足りなくなり、余っていた別の色を混ぜたものだから、乾いた後の仕上がりはまだら模様になってしまうはずだ。

なあに気にしなくたっていい。
シャンプーした直後に犬を遊ばせて汚れてしまうことがあっても、それはいずれ汚れるものであるからガッカリすることではなく、大切なのはメンテナンスを行ったという事実である。

48時間乾燥のウッドガードを金曜日の朝10時まで63時間乾燥させれるのだから、見た目がどうあれメンテナンスを行ったことに変わりはなく、防雨防蝕の効果はあるに違いない。

ところで、我が家の愛犬アモにもメンテナンスが必要だと感じることがある。
健康面ではなくしつけにおいて。

すっかり家族になっているし、『お利口になれば待遇も良くなる』という我が家の原則をアモは拡大解釈(曲解?)して、『家族の一員になれば大目にみられることもある』と私的行動を広げ始めているようだ。

・散歩前の排便は事前に済ませていたのに最近では『散歩中にするとなんかスッキリするんだよね。どうせちゃんと片付けてるんだしさ』と言い張る。

・カフェでは一方的で無礼に手をかけてくる犬や、しつこく身体の臭いを嗅ぐ犬に対して、以前なら身をかわすか忍耐強くしていたのに、最近では『しつこいぞ!無礼者!』と空砲を鳴らすこともある。

・昼過ぎのおやつを食べたにもかかわらず、物忘れのひどい私を見透かしたかのように、3時頃私の顔を見て『何か忘れてません?』と試すようなモーションをかけるのも腹立たしい。

訓練士というのは自分の犬は訓練しないものである。
生活に必要な教えは当然行っているのだろうが、それはほとんど普通に接する中から犬が学んでいるだけで、真に訓練しようなどという意識は毛頭ない。

前記のメンテナンスに値する行動も、アモは意図的・段階的に行っていて、私が特に色めきたって反応することがないから自分なりに勢力図を拡大できたと感じていることだろう。

こうやって愛犬に飲み込まれていくのも(優しくも哀しい)愛犬家であり、ある意味で釈迦の手のひらの孫悟空と楽しめるのも愛犬家である。

犬たちは何も考えずに振舞っているのではなく、絶えず周囲や主人を観察し、その結果をフィードバックしながら明日への振る舞いを積み上げていっている。
効果のない叱責や諦め・無反応はOKという意味であり、虐待のようなしつけは犬の行動をアングラ化させてしまう。

さて、私はどうしたものだろう?

実はアモの前ではもう少し下僕になる時間を楽しみたいと思っている。
『メンテナンスフリー』という概念だって面白い!

GW前の連休を楽しんできまーす。
 

科学不審 2007年04月22日(日)

  暖かな日が二日も続くと、もうあの寒さは今度の冬まで現れないでと願いたくなる。
ガーデンにはテーブルやサンシェーダーそれに犬たちの平均台とハードルも整った。
夕方まで暖かければバーベキューをする態勢は整っている、と思えるだけで嬉しい。

前回4月20日付のこの欄を読み返すと専門的に言えば誤りがあったけれど趣旨は通じるのでそのままにしておこう。
ファジー(あいまい)という言葉が何年も前に流行っていたが、恐らく電化製品の多くにこの概念が浸透して、私たちはその恩恵を知らぬ間に受けているのだろう。
ナノテクノロジーとかユビキタスという理解を超える言葉より、ファジーという言葉は今でも私に親近感を覚えさせてくれる。

理論的には我が家の愛犬には○○グラムのドッグフードを与えるのが正しいと言われるかも知れないが、そんなのクソ喰らえ(失礼)である。
私は我が家の愛犬アモを培養しているわけでも、実験室で飼育しているわけでもない。
共に暮らしているのだ。

生活環境を共有し、日々変化のある時間を過ごしている。
今日のアモをみて、最近のアモをみて、これからのアモを考えて、その日その日はファジーだけれどトータルできちんと育てているはずだ。

理論や理屈あるいは科学が優位性を示す時代だから、それに従わないと罪悪を犯しているように感じさせられるけれど、自分の嗅覚と感性だけはたとえファジーであっても失ってはいけないと思う。

『法則』は確かな事柄だろうが『科学の一部』は人が作り出すから、道徳のように時代によって変わることがある。
コーヒーは身体にいいのか?酒は百薬の長か?尻がデカイのが美人か、痩身は危険か?(ちょっと違う?)
科学は都合のいいデータを選択し、とりわけすべての人間が持ち身体に大きな影響を及ぼす感情を排除することもあるし、政治にも利用されるから、信じるのは自分か信用できる人の主張であっていい。

年をとったせいか妙な『科学的知見』には身構えるようになってしまった。

人の心も科学されているはずなのに、『殺された学生たちが銃を持っていたなら、あのような惨劇は起こらなかった』とアメリカの悲劇に対し銃社会を擁護するコメントに、誰も科学的な解決策に至る法則を示すことが出来ないでいる。

『我が身を自分で護る権利』
もっともな言い分だが、街を歩いている時、周りの人が皆、凶暴な犬を護身用に連れていたら心すさんでしまう。
ファジーなしつけをした飼い主のそばを通るのは願い下げである。
犬も銃も人間に付随しているが…、

ちょっとヤバイ世界の話題に踏み込んでどう収拾しようか戸惑っているところだ。

私はただ…
暖かな日が二日も続いたから、寒い日々に戻って欲しくなかっただけなのだ。
 

介助犬ムサシ 2007年04月20日(金)

  今夜のテレビドラマで“介助犬ムサシ”というのがあった。
難病で車椅子生活になった中学生の少女が、介助犬ムサシを得て生活するようになるのだが、通学するにあたってPTAを含めた学校説明会が行われる。
そこで辛らつな質問が浴びせられた。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」

非情な言葉ではあるが、ある意味で補助犬の社会的使命を理解していない親の当然の質問でもある。
番組では少女の切実な訴えと、音楽教師の後押しで受け入れられることになった。

番組最後のテロップで『このドラマは身体障害者補助犬法が施行される前の実話に基づいたドラマです』とあったのは、つまり現行法では介助犬などの補助犬を社会では受け入れなければならないという趣旨の法律があり、あのような説明会で許可を得る必要性がないことを述べていたのだ。
ただ、法律があるとはいえ理解を得るためにもあのような説明会は現在でも行われている。

ちょっと難しい話になって恐縮だが、盲導犬・聴導犬・介助犬などの補助犬を社会が広く受け入れる必要性を理論的に説明させていただきたい。

1.心理的な“障害とリハビリテーション”について

一般的にリハビリと言えば、辛いけれど長い時間を費やしてでも頑張ればその先に『歩けるようになる』とか『元のような生活が出来る』というイメージがある。
しかし、視覚障害におけるリハビリというのは『元のようには戻らないから、代替手段を使って回復する』という考え方である。
つまり、『元には戻らない』ことを受け入れなければならないという辛い現実があり、心理的に受け入れた段階でスタートラインに立てるのだ。
『失明は死である』という苦悩を乗り越え、『それは見えていた人生の終焉』であって、『人生は終わったのではなく変わったのだ』という心境に至るまでのプロセスは、奈落の底に落ち、そこから生き抜こうと歯を食いしばった人間にしか実感できないだろう。

2.医学的な“障害とリハビリテーション”について

例えば事故に遭って歩けなくなったとしよう。
手術をし、回復過程での歩行のリハビリの結果、元のように/ある程度でも歩けるように復帰できるようにするのが医療である。
一方、命を護るために足を切断し、義足や車椅子を使用できるようにするのも医療における障害のリハビリでもある。
この時、障害というのは次のように進行する。
第1段階
医学的に足を切断しなければ、生命が脅かされ、他に方法がなく切断した状態。
第2段階
足を切断されたが為に、心理的に落ち込み、現実的に歩けなくなった状態。
第3段階
傷は回復し、自宅に戻ってはみたものの、周囲からは気の毒に思われ、仮に介助犬を使って社会復帰しようとしても、前述のように「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」という社会的差別、つまりハンディキャップを背負うことになる。

3.社会的な“障害とリハビリテーション”について

実は、障害者のリハビリテーションというのは上記2の3段階を逆に辿ることを目標にしている。
第1段階
障害者の心理的ケアを行い、社会啓発や法規制によって障害者の社会的受け入れを促し、偏見や社会的ハンディキャップを排除し協力体制を整えること。
第2段階
足を切断されても、目が見えなくなっても、介助犬や盲導犬で“歩ける”よう日常生活が代替手段を用いることで回復できるようにすること。
第3段階
最後に、『足を切断した』『目が見えない』などという医学的現実を受け入れること。
である。

世の中には赤ちゃんから老人まで存在し、男も女もいる。
性格や思想も様々であり、経験上の事柄や貧富の差もあろう。
多様な人種もあれば文明や文化も違うだろう。
病気の時もあれば健康な時もあり、健常者がいれば障害者もいる。
それこそがノーマルな社会である。

ノーマライゼーションというのはこれらを全部ひっくるめて受け入れ対応できる社会を築くことであり、人間の英知が試されているのだと私は思っている。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」
さて、この質問にあなたならどう答えるだろうか?

未知のウイルス鳥インフルエンザが人間から人間に感染するかも知れない時代に、ピストルで学生や市長候補が殺されている。
今、人間としての私たちの本性が問われているのではないのかと私なら思う。
 


- Web Diary ver 1.26 -