From the North Country

あぁ、連休… 2007年04月30日(月)

  ゴールデンウィークに入り、初めてご来店のワンちゃんが急増している。

「ありがたいことだと感謝しなさい!」
人見知りをする私の性格を見透かしたかのように、このところKや常連の方々から叱咤激励が飛んでくる。

勿論ありがたいと心から感謝している。
もし私の顔が曇っているとしたらそれは人見知りもあるのだろうけど、GWに入りカフェの雰囲気がペットのイベント会場や都会のチェーンカフェのように無機質のように感じられているからじゃないだろうか。

連休を利用してふらっと訪ねて下さる方や、お友達と愛犬同伴で会話を楽しまれる方、いろんなカフェめぐりを趣味にされている方もおられるから、こちらから声をかけることも少ないし、ワンちゃんたちが吠えていても『一過性の状況だろうから』と余程でないとアドバイスをすることもない。

それはそれで割り切り、ミニコミ誌で紹介していただいた後に連休が続いたわけであるから、祭りの屋台のように少しでも多くの方に利用してもらえれば大成功のはずだ。
そして気に入っていただいた方が以後も訪ねてくだされば文句のつけようがないのだけれど…

『わかっちゃいるけどやめられない』

イラクの自爆テロのように、いつ何があるか分からないような緊張感から解放されたい。
早く連休が終わっていつもののんびりしたカフェに戻りたい。
そして再度訪ねてくださる方がいれば、時間をかけてワンちゃんを通じた交流ができればいいなと思う経営者失格人間である。

ただ、今日の私の顔が曇っていたとしたらそれはもうひとつの理由がある。
Kの起床につられて慌てて起きた私は、お泊り犬の排泄を済ませ新聞を読みながらふと時計を見た。
「1時間早いじゃん!」
夕べは1時過ぎに寝たのに、あまりの天気の良さにKが勘違いし早起きをさせられてしまったのだ。
私の顔以上に今日は我が家の愛犬アモが曇っていた。
 

進化の途中 2007年04月28日(土)

  昨日のなごり雪が信じられないような暖かなゴールデンウィークの初日だった。
ガーデンは朝からワンちゃんたちで賑わっているのに、カフェ内に人の姿はなくご注文を頂くまで随分と時間がかかるいつもの光景に私たちはある種の安堵を覚える。

天候の良いのが一番の理由だろうが、犬たちと飼い主同士が安全に快適に楽しめる状況が今日も確保できていると感じとれるからだ。

紆余曲折はあったものの、ガーデンは三年を経てゼオライトの白い世界を眩しいくらいに表現しているし、犬たちのトイレ代わりにもなっているのに排泄臭は全くと言っていいほど無い。
火曜日に塗り替えたウッドデッキの臭いも今日の午後には気にならないまでになってきた。
デッキに4人掛けのテーブルがふたつ出せるのは、暖かいおかげだ。
狭いガーデンには犬たちのためのハードルと平均台、それに人間用の天幕がふた張りあって、これからは陽射しを避ける場所を提供してくれる。

これ以上の設備を増やせば、遊ぶ空間がなくなってしまいそうだが、中央に冬の雪山の代わりになるものがあってもいいかなと時々思うことがある。
ハードルや平均台のように私の手作りになるから、構想だけで終わってしまいそうだ。
何しろ、丈夫で危険性が少なく、冬には片付けることができ、しかもしまう場所を取らないという難しい条件があるからだ。

単純に考えれば『無理』という結論になるが、発想を転換すれば可能性も見えてくる。
天幕やテーブルのように気候によって片付ける必要性があるものと、ハードルや平均台のように除雪の妨げになるものがある。
仮に雪山の代わりになるような構築物を、頑丈に作って移動・解体しなくてもよいようにし、冬は雪山の骨組みになるようにすればどうだろうか?などと空想は尽きない。

カフェは私とKの遊び心を第一義としているからガーデニングのように楽しみながら変遷を積み重ね、厚みと温か味のあるものにしてしかもシンプルでありたいと考えている。
まだまだ進化途中である。
 

蒼く生きる 2007年04月27日(金)

  私とKの最高の楽しみは自然の中を散策をすること。

カフェ連休初日の25日は絶好の天気の中、誰もいない月形の皆楽公園をゆったりと歩いた。
Kはエゾエンゴサクが咲き誇る光景に大喜びし、私はアカゲラに久しぶりに出会えたことが嬉しかった。
我が家の愛犬アモはみんなひっくるめて楽しそうだった。

なんてことのないこんな時間がかけがいのないものになっている。

私たちは野鳥や草花の名前をあまり知らないけど、興味だけは持っている。
だからどんなに小さな花や草木も、群れている場所があればそこに名前と特徴を書いた標示物があれば嬉しいのに、そんな公園は少ない。
仕方がないから北海道野鳥図鑑とか野の花図鑑なんかを調べ、それはそれなりに楽しいのだが、もっとも分かり易いと評判のこれらの本でも解説重視の為に、一目で現物と名前を特定するのにはまだ不便を感じてしまう。
詳細は後ほどゆっくり図鑑で調べればいいのであって、実物と名前だけに特化した本・その場で実物と名前を一致させるだけの分かりやすい初心者向けの本がどうしても見つからないのは残念だ。

今日のガーデンにもスズメ大で胸からお腹が黄緑色の濃淡を示す野鳥が鳴いていた。
声はジージージージー、チュルチュルチュルチュル、ピッピーッピッピーと一貫性がない。
尾の付け根辺りに黒い縦の紋様があり、頭にも黒い色も見えていたが下から見たので背の色は定かではない。
嘴はベージュか淡い黄色に見え、鋭く長いものではなく短くシジュウカラよりずっと丸みがあった。
アオジのように見えたが、アオジがジージーと鳴くのか図鑑には別の鳴き方が記されていて不明である。

雌雄や成長度合いによって色も変化するのであろうし、犬たちでもクロスの場合には判別がしづらい事もあるように『一目見て』というのは難しいのかもしれないが、季節や環境を加味すればもっと分かりやすいものができるのではないだろうか?

専門家はついつい多くのことを書きたがり、端折られたことの中に重要な意味があることを力説したがるものだ。
私が犬の育て方について書いた原稿が以前、大手出版社から出版される段取りになっていたが、それがチャラになった原因もそこにあった。

何も後悔しているのではない。
犬種の見分け方や特徴を記す本なら分かりやすさを追求し、担当者の意見を尊重して書き直しただろうが、『育て方』となると、そう簡単に妥協できるものではなかった。
自分ですらまとめきれず言葉足りないと感じているところを、さらに端折って『別の話題(エピソード)を増やせ』と言われても応じるわけにはいかなかった。

今思えば、蒼い話である。
最初に特徴的な訓練法とその結果による感動的なエピソードを発表して社会の関心と注目を集め、その後に本質に迫るようなものをじっくり書いていけばいいだけのことだったのだが、私はその道を選ばなかった。

能力がないのが第一の理由。
能力とセンスそれに興味がないのが最後の理由であった。

小さな旅に出て小さな喜びを見つけるのが今も昔も私の最大の楽しみであり、打算と駆け引きが苦手なものだから。

去年の夏、ハクセキレイのせっちゃんがガーデンに遊びに来ていた。
あんな野鳥が今年もやって来ることってあるのだろうか?
セキレイって何年生きるの?
今の大きな関心事である。
 

メンテナンス 2007年04月24日(火)

  夜に入っても顔が火照っているのは酒のせいだけではなく、日中の暖かな陽射しが身体に残っているからだろう。

25日(水)の臨時休業を前に夏タイヤに交換し、ウッドデッキのメンテナンスを夕方から行った。
茶色のウッドガードが途中で足りなくなり、余っていた別の色を混ぜたものだから、乾いた後の仕上がりはまだら模様になってしまうはずだ。

なあに気にしなくたっていい。
シャンプーした直後に犬を遊ばせて汚れてしまうことがあっても、それはいずれ汚れるものであるからガッカリすることではなく、大切なのはメンテナンスを行ったという事実である。

48時間乾燥のウッドガードを金曜日の朝10時まで63時間乾燥させれるのだから、見た目がどうあれメンテナンスを行ったことに変わりはなく、防雨防蝕の効果はあるに違いない。

ところで、我が家の愛犬アモにもメンテナンスが必要だと感じることがある。
健康面ではなくしつけにおいて。

すっかり家族になっているし、『お利口になれば待遇も良くなる』という我が家の原則をアモは拡大解釈(曲解?)して、『家族の一員になれば大目にみられることもある』と私的行動を広げ始めているようだ。

・散歩前の排便は事前に済ませていたのに最近では『散歩中にするとなんかスッキリするんだよね。どうせちゃんと片付けてるんだしさ』と言い張る。

・カフェでは一方的で無礼に手をかけてくる犬や、しつこく身体の臭いを嗅ぐ犬に対して、以前なら身をかわすか忍耐強くしていたのに、最近では『しつこいぞ!無礼者!』と空砲を鳴らすこともある。

・昼過ぎのおやつを食べたにもかかわらず、物忘れのひどい私を見透かしたかのように、3時頃私の顔を見て『何か忘れてません?』と試すようなモーションをかけるのも腹立たしい。

訓練士というのは自分の犬は訓練しないものである。
生活に必要な教えは当然行っているのだろうが、それはほとんど普通に接する中から犬が学んでいるだけで、真に訓練しようなどという意識は毛頭ない。

前記のメンテナンスに値する行動も、アモは意図的・段階的に行っていて、私が特に色めきたって反応することがないから自分なりに勢力図を拡大できたと感じていることだろう。

こうやって愛犬に飲み込まれていくのも(優しくも哀しい)愛犬家であり、ある意味で釈迦の手のひらの孫悟空と楽しめるのも愛犬家である。

犬たちは何も考えずに振舞っているのではなく、絶えず周囲や主人を観察し、その結果をフィードバックしながら明日への振る舞いを積み上げていっている。
効果のない叱責や諦め・無反応はOKという意味であり、虐待のようなしつけは犬の行動をアングラ化させてしまう。

さて、私はどうしたものだろう?

実はアモの前ではもう少し下僕になる時間を楽しみたいと思っている。
『メンテナンスフリー』という概念だって面白い!

GW前の連休を楽しんできまーす。
 

科学不審 2007年04月22日(日)

  暖かな日が二日も続くと、もうあの寒さは今度の冬まで現れないでと願いたくなる。
ガーデンにはテーブルやサンシェーダーそれに犬たちの平均台とハードルも整った。
夕方まで暖かければバーベキューをする態勢は整っている、と思えるだけで嬉しい。

前回4月20日付のこの欄を読み返すと専門的に言えば誤りがあったけれど趣旨は通じるのでそのままにしておこう。
ファジー(あいまい)という言葉が何年も前に流行っていたが、恐らく電化製品の多くにこの概念が浸透して、私たちはその恩恵を知らぬ間に受けているのだろう。
ナノテクノロジーとかユビキタスという理解を超える言葉より、ファジーという言葉は今でも私に親近感を覚えさせてくれる。

理論的には我が家の愛犬には○○グラムのドッグフードを与えるのが正しいと言われるかも知れないが、そんなのクソ喰らえ(失礼)である。
私は我が家の愛犬アモを培養しているわけでも、実験室で飼育しているわけでもない。
共に暮らしているのだ。

生活環境を共有し、日々変化のある時間を過ごしている。
今日のアモをみて、最近のアモをみて、これからのアモを考えて、その日その日はファジーだけれどトータルできちんと育てているはずだ。

理論や理屈あるいは科学が優位性を示す時代だから、それに従わないと罪悪を犯しているように感じさせられるけれど、自分の嗅覚と感性だけはたとえファジーであっても失ってはいけないと思う。

『法則』は確かな事柄だろうが『科学の一部』は人が作り出すから、道徳のように時代によって変わることがある。
コーヒーは身体にいいのか?酒は百薬の長か?尻がデカイのが美人か、痩身は危険か?(ちょっと違う?)
科学は都合のいいデータを選択し、とりわけすべての人間が持ち身体に大きな影響を及ぼす感情を排除することもあるし、政治にも利用されるから、信じるのは自分か信用できる人の主張であっていい。

年をとったせいか妙な『科学的知見』には身構えるようになってしまった。

人の心も科学されているはずなのに、『殺された学生たちが銃を持っていたなら、あのような惨劇は起こらなかった』とアメリカの悲劇に対し銃社会を擁護するコメントに、誰も科学的な解決策に至る法則を示すことが出来ないでいる。

『我が身を自分で護る権利』
もっともな言い分だが、街を歩いている時、周りの人が皆、凶暴な犬を護身用に連れていたら心すさんでしまう。
ファジーなしつけをした飼い主のそばを通るのは願い下げである。
犬も銃も人間に付随しているが…、

ちょっとヤバイ世界の話題に踏み込んでどう収拾しようか戸惑っているところだ。

私はただ…
暖かな日が二日も続いたから、寒い日々に戻って欲しくなかっただけなのだ。
 

介助犬ムサシ 2007年04月20日(金)

  今夜のテレビドラマで“介助犬ムサシ”というのがあった。
難病で車椅子生活になった中学生の少女が、介助犬ムサシを得て生活するようになるのだが、通学するにあたってPTAを含めた学校説明会が行われる。
そこで辛らつな質問が浴びせられた。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」

非情な言葉ではあるが、ある意味で補助犬の社会的使命を理解していない親の当然の質問でもある。
番組では少女の切実な訴えと、音楽教師の後押しで受け入れられることになった。

番組最後のテロップで『このドラマは身体障害者補助犬法が施行される前の実話に基づいたドラマです』とあったのは、つまり現行法では介助犬などの補助犬を社会では受け入れなければならないという趣旨の法律があり、あのような説明会で許可を得る必要性がないことを述べていたのだ。
ただ、法律があるとはいえ理解を得るためにもあのような説明会は現在でも行われている。

ちょっと難しい話になって恐縮だが、盲導犬・聴導犬・介助犬などの補助犬を社会が広く受け入れる必要性を理論的に説明させていただきたい。

1.心理的な“障害とリハビリテーション”について

一般的にリハビリと言えば、辛いけれど長い時間を費やしてでも頑張ればその先に『歩けるようになる』とか『元のような生活が出来る』というイメージがある。
しかし、視覚障害におけるリハビリというのは『元のようには戻らないから、代替手段を使って回復する』という考え方である。
つまり、『元には戻らない』ことを受け入れなければならないという辛い現実があり、心理的に受け入れた段階でスタートラインに立てるのだ。
『失明は死である』という苦悩を乗り越え、『それは見えていた人生の終焉』であって、『人生は終わったのではなく変わったのだ』という心境に至るまでのプロセスは、奈落の底に落ち、そこから生き抜こうと歯を食いしばった人間にしか実感できないだろう。

2.医学的な“障害とリハビリテーション”について

例えば事故に遭って歩けなくなったとしよう。
手術をし、回復過程での歩行のリハビリの結果、元のように/ある程度でも歩けるように復帰できるようにするのが医療である。
一方、命を護るために足を切断し、義足や車椅子を使用できるようにするのも医療における障害のリハビリでもある。
この時、障害というのは次のように進行する。
第1段階
医学的に足を切断しなければ、生命が脅かされ、他に方法がなく切断した状態。
第2段階
足を切断されたが為に、心理的に落ち込み、現実的に歩けなくなった状態。
第3段階
傷は回復し、自宅に戻ってはみたものの、周囲からは気の毒に思われ、仮に介助犬を使って社会復帰しようとしても、前述のように「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」という社会的差別、つまりハンディキャップを背負うことになる。

3.社会的な“障害とリハビリテーション”について

実は、障害者のリハビリテーションというのは上記2の3段階を逆に辿ることを目標にしている。
第1段階
障害者の心理的ケアを行い、社会啓発や法規制によって障害者の社会的受け入れを促し、偏見や社会的ハンディキャップを排除し協力体制を整えること。
第2段階
足を切断されても、目が見えなくなっても、介助犬や盲導犬で“歩ける”よう日常生活が代替手段を用いることで回復できるようにすること。
第3段階
最後に、『足を切断した』『目が見えない』などという医学的現実を受け入れること。
である。

世の中には赤ちゃんから老人まで存在し、男も女もいる。
性格や思想も様々であり、経験上の事柄や貧富の差もあろう。
多様な人種もあれば文明や文化も違うだろう。
病気の時もあれば健康な時もあり、健常者がいれば障害者もいる。
それこそがノーマルな社会である。

ノーマライゼーションというのはこれらを全部ひっくるめて受け入れ対応できる社会を築くことであり、人間の英知が試されているのだと私は思っている。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」
さて、この質問にあなたならどう答えるだろうか?

未知のウイルス鳥インフルエンザが人間から人間に感染するかも知れない時代に、ピストルで学生や市長候補が殺されている。
今、人間としての私たちの本性が問われているのではないのかと私なら思う。
 

印象 2007年04月16日(月)

  顔馴染みになるのは嬉しくもあり気恥ずかしさも感じる。
一目合って覚える人もいれば、数回会うことで分かる人もおり、何度会っても初対面のような印象の薄い人もいる。
ひどい場合には分かっていても初対面を装いたくなる人もいて、印象というか相性というのは客商売をしていてもどうしても纏わりついてしまうものである。

で、いつもの里塚温泉(さとづかの湯、というのが現在の正式名称だが今後も旧名で書かせてもらう)に、今日も出かけてきた。
今月から新しい源泉が導入されて、番茶色のアルカリ泉は泉質もまずまずで芯から温まり、温泉ヨガには最高である。

最近、レッスンの回数が増えて足腰が疲労するから、レッスンで得た収入以上をつぎ込んで温泉通いをするという訳の分からぬ生活をしている。

して今夜、私たちが着席してまもなく、注文もしないのにキープしてある焼酎とオンザロックの氷とグラスが運ばれてきた。
「おお」と私は感嘆し、Kは「頼んだんじゃないの?」といぶかしがっていたが、明らかに私たちは既に目立つ常連客になっていて温泉の従業員が気を回してくれたようだった。

さて、今日のカフェには午前中、Mダックスを連れた老夫婦が『相談がある』と来店された。
「私たちは高齢で、万が一のことがあって私たちと暮らせなくなった時のこの子の将来が心配です」という夫婦の足元で悲鳴に近い声を上げるわんこが暴れていた。

「治りますでしょうか?」という質問に、しばらく様子を見ていた私は「無理でしょう」と答えた。
その理由は、犬の性格的問題よりも飼い主の旦那側に溺愛に近い優しさがあったからだ。

普通ならここで話は終わるのだが、そのように育ってきたワンちゃんの私なりに感じた飼育ミスを指摘したところ、思い当たることが多かったご夫妻は涙を浮かべわが子の将来を真剣に案じておられることが私の心にひしひしと伝わってきた。

初対面でもあり、最初は『言っても無駄』と感じ、流し去り忘れ去りたい人と思った私だったのが、“何とかできるだけのことをしてあげたい人”にその瞬間変わった。

私は細かい生活上の注意点をひとつひとつ説明し、具体的な方法をアドバイスし、大切な心構えを人生の先輩に説いた。
そしてその説明に対し謙虚に頷く夫婦を見ながら、『こんな風な老いを迎えたい』と頭が下がる思いだった。

今回のワンちゃんがどのように変化するのかは分からない。
私は飼い主の想いを感じ、精一杯の助言を繰り返すだけである。

最初の印象が相手の反応と会話によって覆され、身近な存在となる。
人と人のつながりはこうしてできるものなのだろう。
暖かな時間を感じることが出来たと感謝している。
 

それでも北海道がいい 2007年04月14日(土)

  朝起きたら積雪3センチ
その後も一日中みぞれのような雪は降り続き
夜半のガーデンは冬の積雪状態で、地面はどこか遠くへ消えてしまった。
また振出である。

「今日は24度でした」
一週間前、単身で東京に転勤になったMダックス/きくちゃんのOさんからメールが届いた。
名寄、苫小牧、富良野と一年ごとに道内の建築現場を回った挙句、「この年で今度は東京か」と虚空を見つめながら深いため息をついての出発だった。
「これからの灼熱地獄を思うと ぞっとします 」とも書かれてあった。

東京を目指す人も多いけど、Oさんや私のように『冗談じゃない!あんな都会』という人間からすれば、今日の雪をぼやいている方が幸せに思えてきた。

数日前北海道新聞の折込生活情報紙でカフェの紹介があってから、新規のご来店がちょこちょことある。
この、『ちょこちょこ』というのが嬉しい。
『新聞に出たら、どっと客が押し寄せ行列を作るのが東京』
『新聞に出ても、ちょこちょこ、じわーっとが北海道』
というのが私の勝手なイメージかもしれない。

小さなカフェだし、良くも悪くも大きな変化は望んではいない。
東京の晴天と気温24度はちょっと羨ましくもあるが、その後に長く続く30数度を考えると、やっぱり今日の雪のほうが我慢できる。
“生き馬の目を抜く”ような抜け目のない素早い社会や人の生き方は、その先に灼熱地獄があるようでどうも性に合わない。
 

攻めの訓練と逃げの訓練 2007年04月13日(金)

  とある愛犬雑誌の今月号に、散歩中他犬を見て吠える飼い犬の対処法が書かれてあった。

1.犬よりも先に飼い主が他犬を発見すること。
2.急いで横道にそれるか、それが出来なければ自分が楯になって他犬が見えないようにし、食べ物を与え続けて気づかせないようにする。

最初は笑い話かと思ったが、どうやら大真面目のようだ。

そして夕方の散歩の時、前方から歩いてくるサモエドの飼い主(娘さん)を見て
『そうか、あの子は1年も前からそれを実践していたのか』と納得した。
他犬の姿を見ると慌てて走り出して姿を隠してしまうのだが、冬の間は相当苦労していたようだ。
何しろ除雪された歩道はようやくすれ違うことが出来る幅しかないうえに、道路の反対側に渡ろうにも雪山が高く積み上げてあるのだから、逆走するか膝上まで雪に埋もれて雪原に避難するしかなかったのだ。
そんな状況だからサモエドの視界から他犬を見えなくするなど不可能であり、吠え立てる犬をへその位置で押さえるのが精一杯のようだった。

1年経っても何も変わってはいないのが気の毒。

“犬よりも先に飼い主が発見する”こと、あるいはそのような習慣をつけておくことは犬と歩くときには重要であり常識ともいえる。

・拾い食いをする
・枯葉など動くものに反応する
・人や犬を見ると急に引っ張り出す

もしこれらのことが緊急地震情報のように数秒前に分かれば対処の仕方もあろうから。

ただ飛躍した極論で批判もあろうが、
・拾い食いをするような物が落ちてない所を歩きましょう
・枯葉など突然動くものがあるような所は歩かないようにしましょう
・人や犬を先に見つけ、誰もいない道に逃げ込みましょう
という発想はどうかと思う。
これらは手の施しようのないバカ犬か病気の犬の飼い主に対する緊急避難であって、健全な犬に対するしつけなんかではないと私は思う。

『お前は悪い子だ!』と犬を責めるような訓練法を対極に置き、一方に問題行動を一種の病気と捉え医学や行動学によって治療しようとする概念は充分に理解できる。
問題行動解決にあたってまず考えなければならないのは、その行動が心身の健康状態に起因していないかどうかを知ることであるからだ。

ところが、何でも病気にしたがる現代社会で流行って過剰ともいえる“心のケア”のように、見せかけの愛情(この概念さえ念仏のように唱えていれば誰も傷つかず、いいことしてる気分)に溢れた発想が、ペット社会にも飛び火しただけでなく、どこか極右の動物愛護精神と相まって、本来シンプルであるはずの人と犬の関係を複雑にしてしまっている。

吠えるにはこうしましょう。
引っ張る犬にはこうしましょう
拾い食い・咬む犬…こうしましょう。
どれも心を説かずより安易な手法を無責任に羅列するだけなのに、マスコミや愛犬家には評判がいい。

ならば問う。
吠える犬の飼い主さん。本当に吠える以外の問題は抱えていませんか?

健全な犬であれば、どんなに多くの問題を抱えていても根っこはひとつかふたつ。
とてもシンプル。

ただ、残念なことに現代の風潮の中で人々はその根っこを見ないで済む方法がお好きなようだ。
そして何かを失っていくのだろう。
 

老犬の入り口 2007年04月11日(水)

  14歳柴犬の吹雪が先日からお泊りしている。
お預かりしたドッグフードの臭いを嗅いだ途端に食欲は失せ、足元がおぼつかないのは老化のせいなのか栄養不良なのかと私は判断しかねている。

ただ私もKも吹雪への対処法は最初から決まっていて、それは老犬に対してのものであり、今後を考えた『しつけの範疇』ではなかった。

つまり、与えられた食事を食べないのはグルメや甘えであるという発想を捨て、今の体質に合わず身体が受け付けないから拒否していると理解することにした。

だからと言って私たちが食べるものを与えていては、美味しいだろうけれど塩分が多すぎるしバランスも悪い。
何より本当のグルメ犬にしてしまう危険性があるので、基本的には『わんこのごはん』から外れないよう注意している。

挽き肉をまぶしてもとにかくドッグフードを含めるだけでそっぽを向いてしまう吹雪。
恐らく1週間与え続けても彼女は食べず、衰弱を選択するとみた私は、鹿肉とラスクそれにヨーグルトを与えると8割を食べた。
次に与えた同じ食事には反応しなかったので、やはりグルメなのかもしれないという思いと、食事は日に一回の体質になっているのかもしれないという考えが交錯している。

どちらかといえば犬たちに厳しいスタンスをとる私であるが、
・話し声が聞こえないのか声をかけても反応はなく、
・口笛を吹くと雷が落ちたようなびくつきを示す
そんな年老いた吹雪にちょっとした贅沢気分を味合わせてやりたい思いでいる。

その先にはもっともっと予期せぬこともあるのだが、まずは老犬と暮らす入り口の一部を書いてみた。
 


- Web Diary ver 1.26 -