From the North Country

科学不審 2007年04月22日(日)

  暖かな日が二日も続くと、もうあの寒さは今度の冬まで現れないでと願いたくなる。
ガーデンにはテーブルやサンシェーダーそれに犬たちの平均台とハードルも整った。
夕方まで暖かければバーベキューをする態勢は整っている、と思えるだけで嬉しい。

前回4月20日付のこの欄を読み返すと専門的に言えば誤りがあったけれど趣旨は通じるのでそのままにしておこう。
ファジー(あいまい)という言葉が何年も前に流行っていたが、恐らく電化製品の多くにこの概念が浸透して、私たちはその恩恵を知らぬ間に受けているのだろう。
ナノテクノロジーとかユビキタスという理解を超える言葉より、ファジーという言葉は今でも私に親近感を覚えさせてくれる。

理論的には我が家の愛犬には○○グラムのドッグフードを与えるのが正しいと言われるかも知れないが、そんなのクソ喰らえ(失礼)である。
私は我が家の愛犬アモを培養しているわけでも、実験室で飼育しているわけでもない。
共に暮らしているのだ。

生活環境を共有し、日々変化のある時間を過ごしている。
今日のアモをみて、最近のアモをみて、これからのアモを考えて、その日その日はファジーだけれどトータルできちんと育てているはずだ。

理論や理屈あるいは科学が優位性を示す時代だから、それに従わないと罪悪を犯しているように感じさせられるけれど、自分の嗅覚と感性だけはたとえファジーであっても失ってはいけないと思う。

『法則』は確かな事柄だろうが『科学の一部』は人が作り出すから、道徳のように時代によって変わることがある。
コーヒーは身体にいいのか?酒は百薬の長か?尻がデカイのが美人か、痩身は危険か?(ちょっと違う?)
科学は都合のいいデータを選択し、とりわけすべての人間が持ち身体に大きな影響を及ぼす感情を排除することもあるし、政治にも利用されるから、信じるのは自分か信用できる人の主張であっていい。

年をとったせいか妙な『科学的知見』には身構えるようになってしまった。

人の心も科学されているはずなのに、『殺された学生たちが銃を持っていたなら、あのような惨劇は起こらなかった』とアメリカの悲劇に対し銃社会を擁護するコメントに、誰も科学的な解決策に至る法則を示すことが出来ないでいる。

『我が身を自分で護る権利』
もっともな言い分だが、街を歩いている時、周りの人が皆、凶暴な犬を護身用に連れていたら心すさんでしまう。
ファジーなしつけをした飼い主のそばを通るのは願い下げである。
犬も銃も人間に付随しているが…、

ちょっとヤバイ世界の話題に踏み込んでどう収拾しようか戸惑っているところだ。

私はただ…
暖かな日が二日も続いたから、寒い日々に戻って欲しくなかっただけなのだ。
 

介助犬ムサシ 2007年04月20日(金)

  今夜のテレビドラマで“介助犬ムサシ”というのがあった。
難病で車椅子生活になった中学生の少女が、介助犬ムサシを得て生活するようになるのだが、通学するにあたってPTAを含めた学校説明会が行われる。
そこで辛らつな質問が浴びせられた。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」

非情な言葉ではあるが、ある意味で補助犬の社会的使命を理解していない親の当然の質問でもある。
番組では少女の切実な訴えと、音楽教師の後押しで受け入れられることになった。

番組最後のテロップで『このドラマは身体障害者補助犬法が施行される前の実話に基づいたドラマです』とあったのは、つまり現行法では介助犬などの補助犬を社会では受け入れなければならないという趣旨の法律があり、あのような説明会で許可を得る必要性がないことを述べていたのだ。
ただ、法律があるとはいえ理解を得るためにもあのような説明会は現在でも行われている。

ちょっと難しい話になって恐縮だが、盲導犬・聴導犬・介助犬などの補助犬を社会が広く受け入れる必要性を理論的に説明させていただきたい。

1.心理的な“障害とリハビリテーション”について

一般的にリハビリと言えば、辛いけれど長い時間を費やしてでも頑張ればその先に『歩けるようになる』とか『元のような生活が出来る』というイメージがある。
しかし、視覚障害におけるリハビリというのは『元のようには戻らないから、代替手段を使って回復する』という考え方である。
つまり、『元には戻らない』ことを受け入れなければならないという辛い現実があり、心理的に受け入れた段階でスタートラインに立てるのだ。
『失明は死である』という苦悩を乗り越え、『それは見えていた人生の終焉』であって、『人生は終わったのではなく変わったのだ』という心境に至るまでのプロセスは、奈落の底に落ち、そこから生き抜こうと歯を食いしばった人間にしか実感できないだろう。

2.医学的な“障害とリハビリテーション”について

例えば事故に遭って歩けなくなったとしよう。
手術をし、回復過程での歩行のリハビリの結果、元のように/ある程度でも歩けるように復帰できるようにするのが医療である。
一方、命を護るために足を切断し、義足や車椅子を使用できるようにするのも医療における障害のリハビリでもある。
この時、障害というのは次のように進行する。
第1段階
医学的に足を切断しなければ、生命が脅かされ、他に方法がなく切断した状態。
第2段階
足を切断されたが為に、心理的に落ち込み、現実的に歩けなくなった状態。
第3段階
傷は回復し、自宅に戻ってはみたものの、周囲からは気の毒に思われ、仮に介助犬を使って社会復帰しようとしても、前述のように「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」という社会的差別、つまりハンディキャップを背負うことになる。

3.社会的な“障害とリハビリテーション”について

実は、障害者のリハビリテーションというのは上記2の3段階を逆に辿ることを目標にしている。
第1段階
障害者の心理的ケアを行い、社会啓発や法規制によって障害者の社会的受け入れを促し、偏見や社会的ハンディキャップを排除し協力体制を整えること。
第2段階
足を切断されても、目が見えなくなっても、介助犬や盲導犬で“歩ける”よう日常生活が代替手段を用いることで回復できるようにすること。
第3段階
最後に、『足を切断した』『目が見えない』などという医学的現実を受け入れること。
である。

世の中には赤ちゃんから老人まで存在し、男も女もいる。
性格や思想も様々であり、経験上の事柄や貧富の差もあろう。
多様な人種もあれば文明や文化も違うだろう。
病気の時もあれば健康な時もあり、健常者がいれば障害者もいる。
それこそがノーマルな社会である。

ノーマライゼーションというのはこれらを全部ひっくるめて受け入れ対応できる社会を築くことであり、人間の英知が試されているのだと私は思っている。

「訓練されているとはいえ、犬は犬でしょう。もし万が一のことがあったら学校は責任を取れるのですか?」
さて、この質問にあなたならどう答えるだろうか?

未知のウイルス鳥インフルエンザが人間から人間に感染するかも知れない時代に、ピストルで学生や市長候補が殺されている。
今、人間としての私たちの本性が問われているのではないのかと私なら思う。
 

印象 2007年04月16日(月)

  顔馴染みになるのは嬉しくもあり気恥ずかしさも感じる。
一目合って覚える人もいれば、数回会うことで分かる人もおり、何度会っても初対面のような印象の薄い人もいる。
ひどい場合には分かっていても初対面を装いたくなる人もいて、印象というか相性というのは客商売をしていてもどうしても纏わりついてしまうものである。

で、いつもの里塚温泉(さとづかの湯、というのが現在の正式名称だが今後も旧名で書かせてもらう)に、今日も出かけてきた。
今月から新しい源泉が導入されて、番茶色のアルカリ泉は泉質もまずまずで芯から温まり、温泉ヨガには最高である。

最近、レッスンの回数が増えて足腰が疲労するから、レッスンで得た収入以上をつぎ込んで温泉通いをするという訳の分からぬ生活をしている。

して今夜、私たちが着席してまもなく、注文もしないのにキープしてある焼酎とオンザロックの氷とグラスが運ばれてきた。
「おお」と私は感嘆し、Kは「頼んだんじゃないの?」といぶかしがっていたが、明らかに私たちは既に目立つ常連客になっていて温泉の従業員が気を回してくれたようだった。

さて、今日のカフェには午前中、Mダックスを連れた老夫婦が『相談がある』と来店された。
「私たちは高齢で、万が一のことがあって私たちと暮らせなくなった時のこの子の将来が心配です」という夫婦の足元で悲鳴に近い声を上げるわんこが暴れていた。

「治りますでしょうか?」という質問に、しばらく様子を見ていた私は「無理でしょう」と答えた。
その理由は、犬の性格的問題よりも飼い主の旦那側に溺愛に近い優しさがあったからだ。

普通ならここで話は終わるのだが、そのように育ってきたワンちゃんの私なりに感じた飼育ミスを指摘したところ、思い当たることが多かったご夫妻は涙を浮かべわが子の将来を真剣に案じておられることが私の心にひしひしと伝わってきた。

初対面でもあり、最初は『言っても無駄』と感じ、流し去り忘れ去りたい人と思った私だったのが、“何とかできるだけのことをしてあげたい人”にその瞬間変わった。

私は細かい生活上の注意点をひとつひとつ説明し、具体的な方法をアドバイスし、大切な心構えを人生の先輩に説いた。
そしてその説明に対し謙虚に頷く夫婦を見ながら、『こんな風な老いを迎えたい』と頭が下がる思いだった。

今回のワンちゃんがどのように変化するのかは分からない。
私は飼い主の想いを感じ、精一杯の助言を繰り返すだけである。

最初の印象が相手の反応と会話によって覆され、身近な存在となる。
人と人のつながりはこうしてできるものなのだろう。
暖かな時間を感じることが出来たと感謝している。
 

それでも北海道がいい 2007年04月14日(土)

  朝起きたら積雪3センチ
その後も一日中みぞれのような雪は降り続き
夜半のガーデンは冬の積雪状態で、地面はどこか遠くへ消えてしまった。
また振出である。

「今日は24度でした」
一週間前、単身で東京に転勤になったMダックス/きくちゃんのOさんからメールが届いた。
名寄、苫小牧、富良野と一年ごとに道内の建築現場を回った挙句、「この年で今度は東京か」と虚空を見つめながら深いため息をついての出発だった。
「これからの灼熱地獄を思うと ぞっとします 」とも書かれてあった。

東京を目指す人も多いけど、Oさんや私のように『冗談じゃない!あんな都会』という人間からすれば、今日の雪をぼやいている方が幸せに思えてきた。

数日前北海道新聞の折込生活情報紙でカフェの紹介があってから、新規のご来店がちょこちょことある。
この、『ちょこちょこ』というのが嬉しい。
『新聞に出たら、どっと客が押し寄せ行列を作るのが東京』
『新聞に出ても、ちょこちょこ、じわーっとが北海道』
というのが私の勝手なイメージかもしれない。

小さなカフェだし、良くも悪くも大きな変化は望んではいない。
東京の晴天と気温24度はちょっと羨ましくもあるが、その後に長く続く30数度を考えると、やっぱり今日の雪のほうが我慢できる。
“生き馬の目を抜く”ような抜け目のない素早い社会や人の生き方は、その先に灼熱地獄があるようでどうも性に合わない。
 

攻めの訓練と逃げの訓練 2007年04月13日(金)

  とある愛犬雑誌の今月号に、散歩中他犬を見て吠える飼い犬の対処法が書かれてあった。

1.犬よりも先に飼い主が他犬を発見すること。
2.急いで横道にそれるか、それが出来なければ自分が楯になって他犬が見えないようにし、食べ物を与え続けて気づかせないようにする。

最初は笑い話かと思ったが、どうやら大真面目のようだ。

そして夕方の散歩の時、前方から歩いてくるサモエドの飼い主(娘さん)を見て
『そうか、あの子は1年も前からそれを実践していたのか』と納得した。
他犬の姿を見ると慌てて走り出して姿を隠してしまうのだが、冬の間は相当苦労していたようだ。
何しろ除雪された歩道はようやくすれ違うことが出来る幅しかないうえに、道路の反対側に渡ろうにも雪山が高く積み上げてあるのだから、逆走するか膝上まで雪に埋もれて雪原に避難するしかなかったのだ。
そんな状況だからサモエドの視界から他犬を見えなくするなど不可能であり、吠え立てる犬をへその位置で押さえるのが精一杯のようだった。

1年経っても何も変わってはいないのが気の毒。

“犬よりも先に飼い主が発見する”こと、あるいはそのような習慣をつけておくことは犬と歩くときには重要であり常識ともいえる。

・拾い食いをする
・枯葉など動くものに反応する
・人や犬を見ると急に引っ張り出す

もしこれらのことが緊急地震情報のように数秒前に分かれば対処の仕方もあろうから。

ただ飛躍した極論で批判もあろうが、
・拾い食いをするような物が落ちてない所を歩きましょう
・枯葉など突然動くものがあるような所は歩かないようにしましょう
・人や犬を先に見つけ、誰もいない道に逃げ込みましょう
という発想はどうかと思う。
これらは手の施しようのないバカ犬か病気の犬の飼い主に対する緊急避難であって、健全な犬に対するしつけなんかではないと私は思う。

『お前は悪い子だ!』と犬を責めるような訓練法を対極に置き、一方に問題行動を一種の病気と捉え医学や行動学によって治療しようとする概念は充分に理解できる。
問題行動解決にあたってまず考えなければならないのは、その行動が心身の健康状態に起因していないかどうかを知ることであるからだ。

ところが、何でも病気にしたがる現代社会で流行って過剰ともいえる“心のケア”のように、見せかけの愛情(この概念さえ念仏のように唱えていれば誰も傷つかず、いいことしてる気分)に溢れた発想が、ペット社会にも飛び火しただけでなく、どこか極右の動物愛護精神と相まって、本来シンプルであるはずの人と犬の関係を複雑にしてしまっている。

吠えるにはこうしましょう。
引っ張る犬にはこうしましょう
拾い食い・咬む犬…こうしましょう。
どれも心を説かずより安易な手法を無責任に羅列するだけなのに、マスコミや愛犬家には評判がいい。

ならば問う。
吠える犬の飼い主さん。本当に吠える以外の問題は抱えていませんか?

健全な犬であれば、どんなに多くの問題を抱えていても根っこはひとつかふたつ。
とてもシンプル。

ただ、残念なことに現代の風潮の中で人々はその根っこを見ないで済む方法がお好きなようだ。
そして何かを失っていくのだろう。
 

老犬の入り口 2007年04月11日(水)

  14歳柴犬の吹雪が先日からお泊りしている。
お預かりしたドッグフードの臭いを嗅いだ途端に食欲は失せ、足元がおぼつかないのは老化のせいなのか栄養不良なのかと私は判断しかねている。

ただ私もKも吹雪への対処法は最初から決まっていて、それは老犬に対してのものであり、今後を考えた『しつけの範疇』ではなかった。

つまり、与えられた食事を食べないのはグルメや甘えであるという発想を捨て、今の体質に合わず身体が受け付けないから拒否していると理解することにした。

だからと言って私たちが食べるものを与えていては、美味しいだろうけれど塩分が多すぎるしバランスも悪い。
何より本当のグルメ犬にしてしまう危険性があるので、基本的には『わんこのごはん』から外れないよう注意している。

挽き肉をまぶしてもとにかくドッグフードを含めるだけでそっぽを向いてしまう吹雪。
恐らく1週間与え続けても彼女は食べず、衰弱を選択するとみた私は、鹿肉とラスクそれにヨーグルトを与えると8割を食べた。
次に与えた同じ食事には反応しなかったので、やはりグルメなのかもしれないという思いと、食事は日に一回の体質になっているのかもしれないという考えが交錯している。

どちらかといえば犬たちに厳しいスタンスをとる私であるが、
・話し声が聞こえないのか声をかけても反応はなく、
・口笛を吹くと雷が落ちたようなびくつきを示す
そんな年老いた吹雪にちょっとした贅沢気分を味合わせてやりたい思いでいる。

その先にはもっともっと予期せぬこともあるのだが、まずは老犬と暮らす入り口の一部を書いてみた。
 

我をなくし意味不明なことを書いてしまった 2007年04月10日(火)

  こんなことは何度も書いてきたからもう書きたくないのだけど、『週間天気予報』ってエイプリルフールだけにして欲しい。

毎日毎日ウソの未来予報を公共電波を使って流し、人々をたぶらかし、一喜一憂させて何が面白いのだろうか?
分からんものは分からんと正直に告白し、『皆さん、西の空を見よ』といって、空の見方や気圧配置と上空の気温それに雲の様子を淡々と実況してくれた方が余程ありがたいと私は思う。
短波ラジオで流している情報を伝え、そこから得られる様々な解析の仕方を解説し、聞いた人たちが予想できるような天気報道であって欲しい。

確率での表現が免罪符になっているとでも思っているのか、本当にいい加減な予報が目立って腹立たしい。
とりわけ春と秋の予報が難しいのはみんな知っていることなのだから尚更週間天気予報は自粛すべき季節だと思う。
せめて『ごめんなさい、昨日の週間予報とは違ってしまいました』の一言が何故言えないのだろうか?
特別番組/欄まで作って自社の不祥事の言い訳を横槍なしに放送/掲載することが出来る会社なんてマスコミ以外にはないことを傘に着ているとしか思えない。

『長崎め、今夜はずいぶん苛立っておるな』
そう思われるかも知れないが、実は嬉しいことが1杯だから心のたけを書くことができるものなのだ。

嬉しいこと
その1.
20年以上前、私が盲導犬と暮らすことを勧めた女性から今日メールが届いたこと。
松山千春の古里である足寄町に私が初めて出張し、そこで暮らすKさんに盲導犬の説明をしたのは20数年前。
彼女の家の前にあった踏切には『K踏切』と自分の家の名前がつけられていた。
そして泊まった旅館で出されたお吸い物には、今では絶品と評されるタチの白子が入っていたのに、私はそのグロテスクな姿を見てすぐにふたをした。
生まれながらにして目が不自由だったKさんが、今では盲導犬と自由に歩き、その盲導犬は仔犬時代に何度もパピーウォーカーとカフェに来ていたノルディーであることを知りさらに嬉しくなった。
ましてや全盲の彼女がパソコンを使って私に「覚えてますか?」と誤字の少ないメールをくれるのであるから嬉しくないはずはないのだ。

その2.
わざわざ釧路からI夫妻が訪ねてくれたことや、テレビで『ベーブ』が放映され、原語で楽しみながらその映像は勿論、撮影スタッフの手法に改めて感心したこと、それにKと夫婦観や人生観について話し合えたことなど、すべて取りまとめて楽しい時間であった。

カフェの明日を占う予報士などいないから、想定外のことがあっても楽しいし、自ら学習して独自の素案をすばやく練り上げることが出来る可能性が残されている。

長い時間を経ても、人を基本にしてコミュニケートできる人生を歩んでいけるかどうかが、いつの時代も問われているのだろう。
 

安らかにジャスミン 2007年04月08日(日)

  書かなければならないテーマを以前から抱えているのだけれど、まだ書けないでいる。
いや、たぶん大筋のことは折に触れて書いてきたのに独立したテーマとして扱えないだけだ。

何の話か分からなくて申し訳ない。

我が家の初代看板犬スーの母親ジャスミンが昨日亡くなった。
盲導犬の繁殖犬としての役目を担ったゴールデンレトリーバー、13歳だった。

『老老介護だよ』とつとめて明るく奮闘していたI夫妻には心からのお悔やみを改めて申し上げます。

長い間の闘病と介護だったのに、よりによってご主人が東京から札幌に出張した途端に逝ってしまうなんてジャスミンも最期にしゃれたまねをしてくれたものだ。

きっとジャスミンには『父さんに私の最期を見せたら取り乱して収拾がつかなくなるよね、母さん』と女同士の取り決めがあったのだと私は踏んでいる。

「ジャスミンが死んじゃったよぉ!なんで肝心なときに居てくれないの!」と悲しみとやるせなさの矛先を父さんに向けた母さん。
驚き悲しみ衝撃で我をなくし「すぐ帰る!」という父さんに
「明日の仕事が終わってから帰りなさい!」と既に女の気丈さを取り戻した母さん。

おかげで父さんと私は夕べ弔い酒をじっくり飲むことができたよ、ジャスミン。
君の父さんはさすがに酔えなかったみたいだけど、僕の方はすっかり意識不明に陥るまで飲めたよ。
2年ぶりの再会だったしね。

君と母さんのところにも獣医さんや盲導犬ユーザーはじめいろんな人が駆けつけてくれて盛り上がっていたみたいだね。
明日父さんが帰ったら崩れ落ちてしまうだろうけれど、そのうちちゃんと立ち直れるようにしといたからね。

たくさんの思い出と子供たち、とりわけ私たちにスーを授けてくれてありがとう、ジャスミン。
天国でスーたちが待ってるよ。
安らかに。
 

不明確な意思と意図 2007年04月06日(金)

  毎日のように小雪が舞う中途半端な春の訪れに風邪をひいてしまった。
インフルエンザのようにドカーンとくるのではなく、じわじわと喉と鼻の奥を痛めつけられているから、くしゃみをするたび擦り傷のように痛む。
鼻から焼酎を飲んで消毒するわけにもいかず全く困ったものだ。

さて、今日数ヶ月ぶりの来店となるシェルティーのレッスン依頼があった。
『はては元の状態に戻って、くるくる回ったり車に吠えかかって困り果てているな』私はそう直感した。
間も開きすぎているし、ワンちゃんも私が教えたことを忘れてしまっている可能性もあった。

ところがいざ歩き始めると、シェルティーは冷静で、歩行は以前よりもむしろ良くなっていた。
車に対する不安はあるのだが、取り乱しそうな気持ちになっても私の堂々とした振る舞いを見て安心し自重し「これでいいんですよね」と語りかけている。

同行していたご主人はその様子に驚き、「いつもとは全く違います。冷静ですよねぇ」と感心されていた。
感心されても意味を持たないので、私は頭を巡らせながら説明を始めた。

1.くるくる回ったり車に吠える傾向はシェルティーには多くあるものです。
2.だからといってそれを放任すれば、さらにエスカレートし、楽しいはずの散歩が苦痛になってきます。
3.これらの行動を『興奮した状態』と捉え、冷静にさせるのが制御です。
4.レベル5の興奮に対してはレベル6の冷や水を浴びせ、立て続けの制御を行いながら、こちらの無言の意思が伝わったかを確認し、「えらいぞ」で次にすすむ。

と、まあいつものセリフであったが、違うことは心構えについて話したことだ。

・私は犬に対して、『楽しく暮らしたいから、絶対きちんとさせる』と割り切ることが出来る。
・一方、仔犬の頃から育て、情が移った飼い主はついつい手心と物分りのよさと思い入れと妥協と最後に諦めが絶対的にある。
このことが様々に影響を与えてしまう。

例えば他人である私に対して、犬はある程度の緊張があるから制御に敏感に反応するが、飼い主が同じ制御をしても『愛情もどき』のクッションがあるので、犬に同様に伝わることがない。
ましてや『だめ、いけない、ノー』という聞き慣れた声を聞いて犬は励ましを受けた気分になってしまう。

制御とは物理的力の強さでだけでなく、しっかりした意思であり意図するものを示しているかどうかが影響している。
よく『気迫』と表現されるがこれは少し違っていると私は思っている。
気迫は本来無言でも現すことができるのに、実際には大声であったりドスの利いた脅しであったりして、理不尽なことでも相手に強要したり、自分に思い込ませたりするような具体的な用いられ方をしており、家庭犬の制御にはそんな一方的な圧力は必要ないと私は考えている。

大切なことは明確な意思と意図であり、それを具体的な形や知識として飼い主が持っていないことである。
例えば車が接近したときに犬が吠えたとしよう。
1.大声を出して犬を叩き、厳しく叱って仮に吠えるのを止めさせたとしても、犬は『やっぱり車が来ると嫌な事が起こり、あれはいやな存在である』と刷り込むだろう。
2.「大丈夫だよ、怖がらないで」と飼い主が安心させようと抱きしめる度、犬は『ああ、これから不安なことが起こるのだ』と予兆してしまい、『自分が頑張らなければ』と吠え立ててしまうことだろう。

未経験あるいは過去の経験によって取り乱す犬に対し、制御で冷静さを取り戻させ、何事もないように毅然と振る舞い、それでもあたふたする犬にさらなる制御と安定した言葉がけを与えることで、犬は飼い主に拠り所を覚え、すべてを委ねるようになる。

飼い主に明確な意思と意図がないから、犬たちは『自分たちが頑張らねば』と機転を利かせて吠え立てている現実がある。
知識については犬の心理学も大切だが多くは人の心理と一致する。
つまり、人を知れば犬を知ることが出来るのだが、何故か人は犬に対して人よりも優しくなってしまう。
きっと私の知りえない崇高な理由があるのだろうが、今年の春のような中途半端な接し方を犬に対して行った挙句、風邪をひかされるのは御免被りたい。
 

ブラックユーモア 2007年04月03日(火)

  「大学病院からメールがきてね、術後の経過を検証したいからアモちゃんを大学に譲ってくれないだろうかって。勿論これまでの手術費用は全額お返ししますだってさ。」パソコンを見ながら私はそう言った。
「え!!それでどうするつもりなの?」

その続きのストーリーに入ろうかと思ったが、あまりにもKの顔がこわばり、声には怒気を含んでいたから私は恐ろしくなってやめてしまった。

これが4月1日私のKへのエイプリルフールだったが、ブラックユーモアも度を過ぎた場合の恐怖を味わった。
私はただ、去年の仕返しがしたかっただけ。
「去勢したのに、らむちゃんにまたタマタマが降りてきたんだって。どうすればいい?」という去年のKのウソに私はすっかり騙されムキにさせられてしまった苦い思い出がある。

さて、ブラックユーモアで済まされないのがKが昨日の最新情報に書いていた解凍放置便。
「きったねぇー」とか「うんこふみい」と私はからかっていたが、実際のところ特定の範囲はまるで地雷原である。
『何か効果的な対策はないか』とKは尋ねていた。

“この先地雷原。悪の枢軸である犬の飼い主が放置した便多数あり。”
という標識は憂さ晴らしに使える。
“ちょっとキミ。見られてますよ、見てますよ”
というのは警告の意味があっていいと思う。
ただ、それらの標示そのものが不愉快な存在になっても困る。

“この道を歩いたご意見をお聞かせください”とご意見箱を設置すれば、放置便を正当化する飼い主の屁理屈も聞けるかもしれない。

ユーモアで解決できればそれに越したことはないが、昨日ウンチを踏んづけたKの今日の目は、真剣で怒りの矛先を見つけられない苛立ちを放っていた。

“Kを怒らせると怖いじょぉー。”
私にとってはこれが最高のコピーである。
 


- Web Diary ver 1.26 -