From the North Country

『犬を飼う』から『育てる』へ 2007年02月10日(土)

  去年の夏ごろ、近所の方がアメリカンコッカーの仔犬を飼い始めた。
そのお宅には先住犬のゴールデンがいて上手に育てておられたようだから、犬のことがわかっている方なのだろうと私は思っていた。
ちょうど私とアモが夕涼みをしていた時に、その方が問いかけてこられたので、私は多頭飼いの難しさとアメリカンコッカーに見られる気難しさから発する攻撃性について話し、仔犬のうちから社会性と楽しい経験を積ませることをアドバイスした記憶がある。

それからほぼ半年経った今日、成長したコッカーとアモの散歩途中に出会った。
残念ながら、やはりすれ違いざまに噛みつかんばかりに激しく吠え立てるコッカーに育っていて、一緒に歩いていた先住犬のゴールデンは「ボクは関係ありませんから」と素知らぬ顔でおりこうさんだった。

恐らく私のアドバイスを正確に理解されていなかったのだろう。
立ち話でもあったから私が詳しく伝えられなかったのも間違いない。
この半年の間、遠くで見かけることもあったがその様子は『犬を育てる』というより『犬を飼ってる』という風にしかみえなかった。

今年に入って生後3ヶ月のアメリカンコッカーモナちゃんがカフェに通うようになってくれている。
特にレッスンをしているわけではないが、私は注意深く観察し必要ならばアドバイスをしている。
モナの家にも先住犬がいて、最近では自宅での吠えがでてきているとのこと。

自宅での吠えについては私はどうしようもないが、カフェでは陽気に他犬と戯れ、いろんな人に抱かれて満足そうにしている。
何より、私が他犬を叱ったり、飼い主から叱られる犬をモナは観察し、人間社会の中での分をわきまえや身の程を知り、無難に振舞う術を感じていることだろう。
しかもそれらのことが楽しい遊びの中でさりげなく学べるようになっている。

仔犬のうちからカフェに通えば、多くの問題は未然に防ぐよう犬を育てることが可能だ。
それは犬自身に働きかけることもあれば飼い主が賢くなって犬に接することが出来るようになるという側面もある。
『犬を飼う』から『犬を育てる』という方向への意識が根付けば嬉しく思う。
 

我流、人イヌにあう 2007年02月09日(金)

  今からおおよそ十万年前に、人類はアフリカで誕生したらしい。
そしておおよそ一万五千年程前、狩猟生活を送っていた人類と犬の祖先である狼などが結びつくことになる。

1.その頃、昼間は狩などを行っていたある人類の群れの近くに、夜になると夜行性の凶暴な動物たちが徘徊し、時には襲われることもあり、人類の群れは心休まることなく身を寄せ、火を絶やさず見張りを立てていた。

2.その人類の群れは、肉を食べ毛皮を剥ぎ骨を武器に加工するなど自分たちが射止めた動物を最大限に活用したが、不要な物は群れの外に廃棄した。

3.そのうち群れの周囲にはその廃棄物を求めてさらに動物が集まり、中でも狼など犬の祖先が優位性を示すようになった。

4.狼などは人類を襲うという危険を冒すより、その廃棄物に糧を得る方が得策と考え、彼らの行動に徐々に変化が生じた。
つまり、人類の廃棄物を独占するため自分たちの縄張りに他者が侵入することを許さなくなったのだ。

5.夜行性の狼は他者の侵入を吠えることで仲間に知らせ、群れで撃退するようになった。
そしてこのことは、人類の群れに安息の夜をもたらすようになり、廃棄物には手心も加えられるようになってお互いの共生関係が暗黙のうちに築かれるようになった。

6.ある時、何かがきっかけとなって親から離れた狼などの幼獣を人類が手にすることがあった。
愛らしい幼獣を育てるうち、群れの仲間に可愛がられたり、群れを守っていた狼などが個を守るようにもなったことだろう。

7.草原で暮らした人類の犬の祖先は、草よりも背丈が高く速く走るようになったし、水辺で暮らした彼らは泳ぎがうまくなり、闘うよりも回収に喜びを見出し温厚で従順になった。

そして現代。
ローレンツ博士などが推測した上記の情景に私も同調することができる。
なんとすばらしい巡りあいだろうか!
餌を撒けば動物は集まる。(まるで理性が進化していない現代人みたい)
だが、その動物が人類と狼などであったことが重要なのだろう。(猫も近いがまた別の繋がり)

北海道では人里にエゾシカやヒグマが出没している。
本州ではイノシシや猿が問題となっている。
大昔にもそんな動物に近いものは存在していただろうに、なぜ人類と狼などの祖先が結びついたのか?
なぜ猿と狼ではなかったのだろう?

酔いが回っておかしな方向に行きそうだ。
我が家の愛犬アモの寝顔を見ながら、一万五千年前からの人類と犬の出会いというものや宇宙の仕組みというものは死んだら知ることが出来るのかな?…

やっぱ、おかしな方向に向いているからおやすみです。
 

2月の雪 2007年02月07日(水)

  2月に入って雪が多くなった。
夕べからの雪は今日も一日降り続き、早朝から除雪を行った。
20センチほど積もったウッドデッキは手作業で除雪し、その後ガロアラシ号で通路・車庫前・駐車場・ドッグガーデンと一通りの作業を終えた時には、ウッドデッキに再び10センチほどの雪が積もっていた。

今日はそんな作業を何度か繰り返したが、ガロアラシ号はすこぶる調子がよく、この冬は安全装置のピンすら一本も折れることなく快適に雪を吹き飛ばしてくれている。
ホンダに勤める柴犬宗一郎の父さんが去年のうちにメンテナンスをしてくれたおかげだと感謝。

ところで、最近の雪が少し灰色っぽく感じるのは年のせいだろうか?
いつもなら朝起きて大雪が積もり、重労働の除雪作業が待ち受けていても、一面の美しい銀世界に感動して笑顔になるのだが、その美しさがあまり感じられないのだ。
一週間前のぎっくり腰が影響しているのだろうか?
鉛色の空のせいだろうか?
シベリアで降ったという黄色い雪の続報はどうなったのだろう?

昨日から始まった札幌雪まつり。
初日は雪像が解け出すほどの暖かさで「新雪の上を歩きたかった」と残念がる観光客が多かったようだが、今日はこれでもかと雪が降り続き、大満足と自然への驚嘆の声をあげていることだろう。
どうか彼らの目に映った雪が純白の美しいものであり、いつまでもそうであり続けて欲しい。
 

仔犬を育てるポイント 2007年02月06日(火)

  犬との暮らしの中で、ある一点のしつけ方を会得すれば、以後どんな犬とめぐり合ってもうまくやっていけるという項目はない。

それに近い項目はあるのだが、そこは非常に微妙で、例えば『ダメはダメと厳しく接すればよい』と単純に導き出して実践している人は手痛いしっぺ返しを受けるし、何より犬自身を台無しにしたり、周囲に不快感を与えてしまい、正解に近いにも関わらず結果的に正解から遠く離れてしまうという皮肉を味わうことになる。

じゃぁ、犬の気持ちを理解して物分りの良い飼い主を演じ続ければよいのかというと、肉体的にも精神的にも経済的にも結構傷つけられる。

今日から我が家に生後50日の仔犬がやってきた。
と仮定しよう。
私なら可愛い仔犬の姿や振る舞いに目を細めながらも、以下のような冷静さを失うことはない。

1.まずは外見や行動様式・排泄物によって健康状態をチェックし犬種特性を考え、そのうえで現時点での性格や特徴的な行動や反応を観察する。
2.排泄習慣を上記の観察結果に基づいて導き出した方法で教え、成功例を積み上げる。
3.甘噛みや遊び、刺激に対する不安や怯え、その回復過程や興奮度をさらに観察し、感受性をチェックする。
4.水の飲み方や量、食事の摂り方をチェックし、健康状態をさらに知り、本能的な行動の中での振る舞いを観察し、しつけや排泄習慣にも役立てる。
5.休憩と睡眠状態を観察し、性格や精神の安定度を推し量り、排泄習慣にも役立てる。
6.夜寝るときの環境を整え、夜中でも仔犬の状況が把握できるようにする。(甘えなのか正当な要求なのかの区別が出来なければならない)
7.数日前との変化を検証し、必要な対応と加えるべき修正を行う。

これらの目的は
1.健康でないなら健康にするため
2.排泄習慣は一日でも早く身につけさせるため
3.仔犬に自分の置かれた状況を理解させ、良心的で寛大で精神的に健やかに育てるため
4.遺伝的に好からぬ本能的行動があるならば、それを未然に発芽させないようにするため
5.生体としてのリズムや潜在的な警戒レベルを知るため
6.これらのことを厳しい環境下で行うのではなく、正当に与えるべきものを与えたうえで知りたいため
7.私の判断がいつも正しいとは限らず、自らに勉強と変化が求められることがあるため

スタートラインで私はこのように考え、振舞うだろう。

すべては2年先のライフスタイルを見越してのことである。
・健康でいて欲しい
・室内生活でなんら問題のない犬であって欲しい
・明るく寛大で物怖じしないで人から好かれ、人が好きであって欲しい
・指示があればどこでも排泄できる犬であって欲しい
・何処へ出かけてもあるいは留守番させても問題ない犬であって欲しい
・ノーリードで歩ける犬であって欲しい
・感情を共有できる犬であって欲しい

枚挙にいとまはないが、犬というものは生後1年が基礎作りに最も適し、その後の1年で教え込むことができ、以後はどんな風に発展するのか楽しみに満ち溢れているのだ。

犬との暮らしに必要な一点という難題には、「先を見据えた対応」と答えるしかなく、その意味するところは上記すべてを包含している。
 

肉体労働・朝風呂・通常業務・そして酒 2007年02月04日(日)

  早朝からの除雪作業でぎっくり腰治療中の私の身体は悲鳴を上げていたかもしれないが、Kが準備してくれた入浴剤入りの朝風呂がすっかりリフレッシュしてくれた。

風呂上りの私に「せっかくの日曜なのに今日は、ヒマそう」とスタッフは吹き荒れる外を見ながら同情していたが、後に「今日は大変だね」と私のほうがスタッフに同情することになった。

カフェに嵐が吹き荒れるたび、「来れるもんなら来てみぃ!」と開き直る私であるが、その言葉に意気を感じてくれたNさんを皮切りに、たくさんの方々がまるでスケジュールをきちんと振り分けたかのように来店してくださり、厨房のKとスタッフMはお互いを励ましあいながら頑張ってくれた。

今回が2度目となる柴犬ピー君のレッスンを行った。
「どうですか?大変なんでしょう?」という私の問いかけに、初回の時は思い詰めたような表情の飼い主さんは「いや、そうでもなくなっています」と嬉しい返答をしてくれた。
そして実に的確な質問を私に与えた。
「室内で目が放せない時は係留するようにしてうまくいってます。夜寝るときはどうすればいいのでしょう?」
私の答えは、「ハウスのドアは開放したまま、ハウスでもあるいはその外ででも愛犬が選択して眠れるようにしてください」というものだった。

いざ訓練に出かけてみると、ピー君は前回よりも遥かに進歩していた。
人の話に耳を傾ける準備が出来つつあるし、交差点での『マテ』の深刻さを理解しているようにも感じられた。

私が思った以上に、飼い主は現状を深刻に受け止め、アドバイスしたことを適切に実践しておられたのだろうと実感できた。

多くの飼い主への忠告。
室内で犬と暮らすということは、しつけもできていない犬を野放しにして苦労を背負い込むことではなく、必要なルールを定め、それを実践できるようになった犬にはより快適な待遇を与え、結果として自由に振舞わせることである。

その意味は理解できても具体的な対応が分からない方はカフェに足を運ぶしかなく、これは何も客寄せに報じているのではなく私の経験則を正直に伝えただけ。

睡魔が襲っている。
今夜の酒は、国稀特別純米酒と土佐焼酎いごっそう、中国白ワイン長城それにいつものガッツマンであった。
 

どうすれば・・・ 2007年02月03日(土)

  今日は節分。
北北西を向いて恵方巻きを一口かじった。
5年前の北海道ではみられなかった新しい習慣が定着し始めたのか、「買い物に行ったら飛ぶように売れてたよ」とKが話してくれた。

この新しい習慣とか現代の常識などというものに、どうしても反発したくなる人がいつの世にも存在して、それはそれで大いに結構なこともあるのだが、愛犬のウンチを放置するという非常識だけはどうしても受け入れることはできない。

毎夕我が家の愛犬アモと散歩するコースに、通学路ではあるが日中や夕方以降はとりわけ人通りのない厚別東通がある。
街灯が新雪を照らし、除雪された歩道の両側にはアモが体をうずめたくなるような柔らかい雪が積もっている。

しかし、私たちが歩く1キロほどのそのコースに毎日のようにラブラドール前後クラスの同一わんこのウンチが放置されている。
食べているものは安物のドッグフードで、副食は無し。
時には2箇所に同じ量のウンチがあるから、恐らくすぐ近所に住み、普段は排便にも出してもらえず、日に1回の散歩が排尿便を兼ねたものになっているようだ。

外飼いだとしたら、自宅敷地ではウンチをしない律儀なわんこであり、室内暮らしなら、犬が飼い主に寄せる想いほど飼い主からの手厚い待遇は受けていない。
それでも水は充分に与えられており、健康状態も悪くはなさそうだ。

『警告!毎日この道でウンチを放置している大型犬の飼い主へ。
以後も放置するようなら、あなたの姿がバッチリ写っている現場の証拠写真をお届けしましょうか?』

今夕の散歩でそんな貼り紙をイメージしたが、自分の性格の悪さの方が映し出されて二重に不愉快な思いをしてしまった。
通行人を不愉快にさせず、当事者を素直に改心させるにはどうすればよいのか?

現場付近の電柱数箇所に『わんちゃんのウンチ袋です。困ったときはお使いください』とでも書いて数日ぶら下げておけばどうなるのだろう?
 

辛い報告 2007年02月02日(金)

  水曜日の早朝、トイレに腰掛けて新聞を広げた途端、腰に違和感が走った。
『大丈夫、別にギクッてなった訳でもないし、大した被害はないだろ』」
そう思ったのも束の間、動くに動けなくなった。

やっとの思いで腰をかがめながら出てきた私は、すぐにS治療院に電話を入れ、空きのあった11時に予約をとった。

久しぶりの治療に不安があったが、驚くことに泣き喚くほどの痛みはなかった。
この1年半の間に行ったヨガとそこから独自に発展させた温泉ヨガが私の身体をそこそこ守っていてくれたらしい。

今日で3日目になるが、座っているのが一番辛く、次に辛いのが、散歩の時思いがけなく雪の下の深みにはまった時で、腰に激痛が走る。

いつか大事になるのかもしれないが何故か今は楽観して『またそのうち良くなるだろう』と感じている。
『寝込むのはまだ先。もう少し年老いてから』
いつかこの思いが裏切られる日が来て、涙が自然に溢れ出るのだろうな。

そんな甘っちょろいものではなく、余命1ヶ月という死の宣告を受けたゴールデンのムータン(夢太)が今日お別れにやってきた。
血管腫との診断でいつ脾臓から大出血が起きて死んでもおかしくない状態だそうで、飼い主のMさんは涙をこらえながら気持ちを整理するように話してくれた。
せっかちな私は詳しい情報を聞きだそうとし、いつもは見かけによらずひょうきんでいて奥深い話をされるMさんも、さすがに慎重で言葉を選びながら降りしきる雪の中で重い口を開いてくれた。

Mさんの説明にあった診断結果による死に至る詳しい必然性は私には理解できないし、彼女には悪いが理解したくもなく極端な話どうでもいいことだった。
生あるものはいつかは死ぬし、死に及ぶとき悲しむ存在がそばにいてくれたらそれだけでいい、と日頃から思っているからだ。

非情と捉えられても仕方ないが、ムータンはその条件を整えているし、我が家の愛犬だったスーの死と同じような経緯を辿っているから心の隅で本望だろうとの思いがある。
なにより同様に感じておられるMさんも既に家族で泣きはらし、カフェでは気丈に振舞ってくれていた。

ただ、ムータンの死が直近であっては欲しくないと願った。
では『いつならいいのだ』と問われても答えることはできないけれど、少なくとも2年先、いや今日のように元気で甘えたがりつぶらな瞳で見つめている時であってはならない。

「検査して、そのような状態であることがわかってよかった」とMさんは言う。
「後悔したくないから」というのが理由だそうだ。

交通事故などによる突然死と告知されたうえでの死の違いは、本人はともかく少なくとも残される者の受容の過程で大きく違ってしまうのは確かである。
状態を知りできる限りの手を打つうち、本人の衰弱を目の当たりにし徐々に受け入れてしまうこともあり、それが喪失感と悲しみを少しでも和らげてくれるのも経験している。

だがそんな状況にあってこそ“奇跡”の価値があろうというものだ。

Mさんはムータンとまた来店してくれるはずだ。
そう願って私はカフェから見送った。
今悲しむことはない。
手立てを尽くせば何かが得られるに違いないのだから。
 

骨が折れる 2007年01月30日(火)

  「やいや、ひっどいもんだねぇ」
そんな挨拶が今日札幌のあちこちで聞かれたことだろう。
1月末の暖気に対する驚きと、道路の雪が解け、水しぶきをあげて走る車からの泥ハネがそれほど凄かった。

明日は雨の予報となっており、雪祭りの雪像は大丈夫なのかと札幌市民として心配になってしまう。

さて、前十字靭帯断裂のため去年の3月に左足、7月には右足の骨を一旦切断し膝関節の角度を変えるいわゆるTPLOの手術を受けた我が家の愛犬アモの検査に昨日行ってきた。

通常の散歩や運動はほぼ支障なく行えるようになったが、雪中を存分に駆け回ろうとするとアモは足を上げて一時的に歩けなくなることがあって心配していた。
術前の先生の話では「この手術で存分に駆け回れるようになりますよ」とのことだったので、どこかに異常があるのかもと不安を感じていた。

が、レントゲンを診た先生は「いいですねぇ。しっかり接合できましたね」と結果が上々であることを説明したうえで、「いやはや、実はね、私も去年の秋にここの骨を折りましてね」と左鎖骨辺りをさすりながら、「これまでたくさんの犬の手術をしてきたけど、骨折の術後経過というのはずいぶん大変で長引くものなんですねぇ。今でもホレ、ここまでしか腕が上がらないんですよ。」と左腕を水平に上げてみせた。
そして、「今年の冬は天気予報なんて見なくても、ここの痛み具合で明日の天気が分かっちゃいますねぇ。」とご満悦な様子だった。

名医と評されている先生だが、これからはさらに患者の苦悩と痛みを理解し、『いい先生だよね』と親和を込めて語られる先生になられることだろう。

ただ、先生の肩の違和感がなくなる前にアモの両足の状態が万全になることを期待している。

「やいや、ひっどいもんだねぇ」
明日は雨の予報であるから、そう言って先生は肩をさすっているかもしれない。
アモはといえば、今日は寝てばかりいた。

早朝から除雪をし、アモの管理をし、先生の話にも耳を傾けなければならない私も結構骨が折れる。
 

静かな怒り 2007年01月29日(月)

  日付も変わろうとしている厳冬であるべき季節の深夜なのに、降り続く雪はまるで北陸の豪雪地帯のように重く湿っている。
日中フル稼働したロードヒーティングの余熱で、階段や玄関前の雪は解け、手摺やフェンスでは普段のパウダースノーでは通常有り得ないような形状(まるで雪庇)のようにせり出している。

夜中に近所迷惑で申し訳ないと思ったが、必要な場所だけガロアラシ号を稼動した。
除雪を終えてしばらくすると、近所でも除雪機の音が響き始めたとKが教えてくれた。

降り続く雪で殆ど来店のないカフェだったが、そんな中、駐車場からクレートを引きずりながら駆け込み寺にやって来られた柴犬の飼い主には幸いだったかもしれない。
「困ってます!」という飼い主の表情以上に私の顔は引きつってしまっていたが、どうせ他にすることもなかったので、夕べこの欄で書いたレベル3以下の条件にも関わらず、レベル1あるいはそれ以上のサービス対応をしてしまった。

飼い主を噛むは、家中を休むことなく走り回るは、ついには近所からの苦情で、留守中吠えっぱなしの愛犬の行状に苦悩し疲れ果てた顔がそこにはあった。
「この犬の前に飼っていたゴールデンはとてもいい子だったのですが…」

そう、この国の愛犬家はたまたま良い犬に恵まれた結果、『犬というもの』を勝手に美化し理解した気分になり、自らを愛犬家と称し、鼻高々に芸を披露し、犬というものを賛美してその中心に自分がいることを喜びとしている。

つまり偶然、良き家庭犬になった犬との暮らしによって今後もその楽しい暮らしが必然的に訪れると勘違いしている。
あたかも、カフェで「今日は今月のパスタ」「今日は温麺」とメニューの違いを楽しむように犬種を変えて暮らせると誤解しているのだ。

純粋無垢で善意に溢れ、良心的な飼い主の生活を愚弄しながら甘い汁を吸い上げ、挙句には奈落の底に突き落としている元凶は、身の毛もよだつ『生体販売』に腐心するペットショプをはじめとする大手を含めたペット産業であることは間違いない。

なぜ、せめて、犬種特性を正しく伝え、まともな犬を繁殖に用いないのか?
その評価の仕方すら知らない連中から、まるでロシアンルーレット(一発だけ銃弾を込めた回転式銃を頭に当て、引き金を引きスリルを楽しむ拷問)のような際どい状況下で、見た目に惑わされ購入する飼い主。

唯一彼らの商法に対抗できるのは不買であるのに、人としての優しい心がそれを置き去りにして、彼らの商売を助長している現実。

さらに飼い主の無知と、商売の巧みさ。
これらが合致した現実が日々私の前にさらされ、新たな商売としていくらでも展開できるようになっているのだ。
弄ばれるのは、誰もが口をそろえて「可愛い」と言う犬たちである。

どこかおかしいでしょ?そう思いませんか?

今日訪ねてくれた問題犬の柴犬はいい子であり、問題もあった。
だからこそ私は悔しいのである。

この話題になるとつい熱くなってしまう。
絶対の信念と理論があり、世界中の誰とも共感できる自信があるからだ。

明日の除雪が私の当面の課題であり、時間は深夜1時を過ぎている。
クールダウンしてそろそろ寝ることにする男からのささやかな発信である。
 

お困り犬対処の費用別3案 2007年01月28日(日)

  ここ数日、お困り犬の相談が舞い込んでいる。
今回はどれもが柴犬で、お困り事はいつもの想定範囲内の行状である。
「何とかならないでしょうか」との悲痛な相談に私は何と応えればいいのか未だに迷ってしまう。

今夜は私の頭を整理するためにこの欄を使わせてもらおう。

1.ほぼ完璧にご希望に応えることができる第1案。

1頭につき毎月の訓練報酬が100万で、期間は最低6ヶ月、犬によっては1年を考えていただければ、私の生活の一部としてそこそこご希望に沿った『育てなおし』が可能だろう。
ただし、保険料と訓練にかかる旅の費用や飼い主との合宿訓練費は別途請求させていただき、その他の経費はサービスさせていただく。(生後5ヶ月以内の仔犬なら基本料金はさらに安くしてでもお受けできるだろう)

2.うまくいけば納得できる結果が得られる第2案。

一頭につき毎月の訓練費は10万程度と格安になり、期間は同じく半年から1年。
ただし1案とは違い、お泊り訓練は月に10日ほどで、カフェを営業する中での対応とさせていただく。
事前面接で到達目標が設定されるが、カフェと自宅では振る舞いが違ってしまう可能性が高く、フォローアップは必須項目となる。

3.最もリーズナブルでそれなりに満足できる第3案

自らの『犬観』というものを一度棚上げにして、できれば仔犬の時から私のカフェに通い続け、『犬種特性』と『家庭犬の本質』を今一度考え、そこで知り合った仲間や私と意見交換し、私の犬に対する振る舞いを素直に学ぶか、疑問をぶつけて議論し納得のいく育て方を模索する方法がある。
それと同時にカフェのドッグフードやおやつなど継続的に購入していただければ、地味に私たちは感謝するはずだから気づいた頃には立派な愛犬が育っていることだと思う。
計算すれば費用は格安どころではないはずである。

最近、第3案のきっかけになる方が来店されておられるのだが、私自身の愛想がもう少しマシで、商売向きな性格だったらうまく対応できるのだろうに、そうじゃないから迷惑をかけてしまっている。
犬種特性を犬に問うのではなく個人特性が問われているようで恥ずかしい。

でも、犬の特性を知った上で相手を変化させるのは人間の特権でもあり、場合によっては人間に対する傲慢に繋がりかねないことを自戒しつつ自らの姿を反映すれば、犬と共に育つことが理解されるであろう。

愛犬相談を受けたとき、この三つを提案し、さらに私の奔放なやり方に異議を唱えないという条件を受け入れてくれれば何とかなるかもしれないと思ったが、どうだろうか?

明日の朝この欄をコピーし、まるでファーストフードのお店のようにマニュアルに沿った返答ができたらどんなにか気持ちは楽だろうと思うが現実は…。
 


- Web Diary ver 1.26 -