From the North Country

今回の小さな旅 2007年01月26日(金)

  年が明けてからもずっと穏やかな天候が続いていたので、昨日今日の小旅行は大変な嵐に巻き込まれるのではないかとのネガティブな予想を数週間前からしていた。
その方が、天気に恵まれた時の喜びも大きいし、荒れた時の落胆も小さくて済みそうだから…。

さて結果は、『この上ない最高の天候と訪問先に恵まれ、とても楽しい二日間だった』。
詳細と感想はKが最新情報に書くか、カフェで報告すると思うので、私は別の話題としよう。

今回の旅先は旭川市とその近郊。
私が盲導犬協会で現役だった頃、どういうわけかこの地区を含めた道北の担当が多く、旭川には頻繁に宿泊していた。
朝の気温がマイナス20度を超えると、札幌で入れたガソリンが凍り付いて車の始動ができず、昼頃まで足止めされたこともある。
今でもそうなのだろうか?
幸いにも今朝はマイナス13度だったから問題はなかったが、車内に置いてあったペットボトルのコーヒー飲料ははち切れんばかりに凍結していた。

Kの要望に応えて旭川市内をドライブすると、私は無意識に盲導犬ユーザーと歩行訓練したコースに車を走らせてしまう。
そして流れ過ぎる景色の中に、数年からニ十数年前の光景を思い浮かべるのだ。
『そう、この交差点で安全確認の方法を口酸っぱくアドバイスした』とか『このお店や郵便局の入り口を盲導犬に覚えさせた』などという他愛もないことなのだが、当時の光景が目の前に現れてしまっていた。

そしてついには「ここが○○さんの家。もう死んじゃったけどね。」とか「ここは○○さんの家で、盲導犬○○がいるんだよ」とKに説明し、ユーザーのことや盲導犬の思い出話を披露したりしていた。

本当は立ち寄って声をかけたかったけれど、突然立ち寄れば迷惑にもなるし、きっと話が長くなってしまうだろう。
この街のユーザーは私が出張する度に、みんな集まって夕食会を開いてくれていたのだから。
でも声をかけるのは数年先にしよう。
その時は予定のない生活になっているはずだし、ユーザーの方には前もって知らせることもできるだろうから。

時代と共に少し変わった旭川をドライブし、買い物公園を三人で歩いた。
デパートで買い物したいというKを送り出し、その入り口で我が家の愛犬アモと待っていると、何人かの方が声をかけてきた。
「おりこうさんですね。盲導犬でしょ。実はうちにも犬がいて…」と話題が深まっていた。

現在、盲導犬は旭川市の市民には充分に受け入れられている。
私の記憶の殆どが、そうなるように啓発を続けてきた昔の時代の旭川であるが、実はその勝利を勝ち得るために努力を積み上げてきたユーザーの継続的な活動によって、旭川の市民意識の向上が計られたと実感している。

今回の小旅行は幸いにも天候に恵まれたけれど、『偶然ではなく必然』とするために『多くの時間と努力によって手繰り寄せることができる』という教訓を、長い時間を経て私に伝えてくれたようでありがたかった。

ちょっと違った視点を与えてくれる。
だから旅はいいのだと思う。
 

これが私の体質 2007年01月23日(火)

  年末年始から続いていた腹部から背中にかけて広範囲の発疹がようやく収まって、ガサガサのカサブタ状になってきた。
原因は頂き物の上等な焼酎である。

いわゆる焼酎乙類あるいは本格焼酎と表示されている上等な酒の中には、貧乏性に馴染んだ私の体質に合わない酒が存在する。

この乙類の焼酎は清酒と同様に米を原料として焼酎用の酵母などでもろみを造り、第二の発酵に使われる原料によって麦焼酎・米焼酎・芋焼酎・そば焼酎…などに分類されるらしい。
いわば正統な酒造りによって生まれた由緒正しいものである。

これに対し焼酎甲類という『甲乙丙丁』を知っている人間には上位に値するような分類(実際には旧暦で使われた単なる数字のようなもの?)をされ、4リットルのペットボトルで売っている安物の馴染み深い焼酎は、糖蜜やイモ類穀物を原料として蒸留した後、水でエキス分が2%以下になるまで徹底的に薄められ、さらに怪しげなアルコール成分で度数が調整されたものらしい。

上等な乙類でもいいちこや二階堂といった何処でも売られている焼酎は私の体質に合っているのだが、さらに高級でマニアックな焼酎にどうやらまだ適応しきれてないようだ。
厄介なことに、甲類の焼酎でも顔が赤くなったりするものもあり、体質というのは人間の価値観のように物の値段の高い安いに囚われることなく、個々人に正直に表れてしまう。

妙な飛躍的展開で恐縮だが
1.『愛犬が下痢をしたから動物病院へ』という発想に対して『あなたは下痢をしたらすぐ病院へ行きますか?』と私は答えてしまう。
下痢には異物を一刻も早く排出するための生体反応である場合が多く、愛犬の管理が普通にできていれば、原因となるものに心当たりはないか、他に症状はないかを観察した後に、必要なら動物病院へ行けばよいのでは、と考える。
すると『犬はものが言えないから重篤になる場合がある』し『人間は安易に病院に行けば社会医療費の負担増になり国家に迷惑をかけるけど、犬は自分の負担になるだけだから別にいいじゃん』と答えが返ってくる。
まあ、これが現代ペット社会だろう。
焼酎飲んで発疹が続いても病院に行かない人間と、フライドチキン食べ過ぎて下痢しただけの愛犬を抱えて動物病院に駆け込む人間。
極論を言われれば反論のしようもないけど、もしかしたら未来の愛犬家同士の『こんばんは』という挨拶は『今日の動物病院での検査結果はどうだった?』というものに変わってしまうのではないのだろうか、というほど生き物の体質や異常の原因を考えず行動し薬に頼ってしまいそうで怖い。
恐怖の鳥インフルエンザはそのようにして生まれてきただろうに…

2.…以下を予め考えて書き始めたのに、酔っ払っちまって思い出す気にもならず既に2時を過ぎているから今夜はおしまい。

明日からはまだたくさん残っている本格焼酎をいろいろ試しながら、私の体質に合わない原料を見極めようと思っているが、“体質に合わない”イコール“まずい”ではないという壁が高くそびえている。
 

アモは満足に留守番、私たちは映画鑑賞 2007年01月22日(月)

  今夜、Kは“マリーアントワネット”、私は“硫黄島からの手紙”を同じシネマ館で観て帰宅したのが23時半。

お泊り犬がいなくなった途端、私たちは「アモ、悪いね。ちょっと行ってくるから」と、出かけることが多い。

一年前ならうまく状況が飲み込めず、ずっと階下で待ち続けていたアモだったが、今では「あ、そうですか。行ってらっしゃい。」と顔を持ち上げることもなく目の動きでそういって送り出すし、「ただいまぁー」と私たちが帰ってくると、ごそごそと起き出して2階から降りてくるようになった。
アモはアモで、誰にも邪魔されない静かな睡眠をここぞとばかりに満喫しているのだろう。

アモと暮らし始めて1年の報告を10日前にこの欄でもしたが、「ええ!まだ1年ですか?もう3年も前からいるような気がしてます」との声を頂くことも多い。
すっかり家族になったと実感できている。

さて、“硫黄島からの手紙”は65点以上70点未満というのが私の評価である。
無類の戦争映画好きの私だから過度な期待があったのかもしれない。

戦争映画というのは
1.冷酷なまでに淡々とドキュメンタリー的な記録にした映画。(この場合、客観的に見せようとしているが決してそうではなく言葉に出さない力で反戦を示唆することが多い。もとより客観というのは存在しないと私は考えているが、人間ではなくヒトであり、怖さを感じるより冷徹な生き物の争いを天から眺めた後に現実に戻されるような衝撃を受けることが多い。)

2.時代に翻弄された挙句、非現実的な状況にさらされた中での極限を描く究極の人間ドラマ。(この手のものはホラー映画より怖いし、寝付けないし、夢に見るし、考えさせられる。私の最も苦手で好みのジャンルである)

3.日本の時代劇のように、身内としての親しみを感じるよう仕向けた設定の上で、身内の中にそれなりの犠牲を払い、それでも相手を撃破していくテレビゲームのような完全なる戦争ドラマあるいはスペクタクル。(ハラハラしたり、同情したり、憎しみを抱いたり、そして最後には胸がスカッとしてストレスが解消された気分になる考えてみれば恐ろしい映画。)

4.政治家と死の商人、あるいは思想家や宗教指導者のエゴやしたたかな計算に基づいた戦争に発展する映画。(ただの人間である人間が、権力あるいは庶民にない知識や雄弁性を持ち、なお水面下で野心を進めた場合の恐ろしさを描かれればついマジ顔になってしまう。)

と、まあ、酔っ払いなりに感じている。

今夜の“硫黄島からの手紙”はいくつかが中途半端だったように感じ、言葉遣いの時代考証を初めから放棄していたのは現代の若者に理解しやすいよう意図したものであろうことは分かったし、クリントイーストウッドの『階級にとらわれない意思表示』もあったが、この映画に必要な『死に行く人間がそれを否定し、受け入れる』ようになっていく一貫した時系列の表示と描写があればもっとよかったと思う。

批評するは易し、自ら実践するは難し。

ともあれ楽しい時間を過ごさせてもらった。
 

旅に出よう 2007年01月20日(土)

  2002年日韓ワールドカップの年に私は車で全国を放浪していた。
計算すれば私はまだ40代で、今思えば贅沢な旅だった。
あの旅の途中で差し掛かった交差点の、とある光景が未だに思い出されることがある。

赤で信号待ちをしていた交差点に、老婆が立っていた。
私の前を横断したそうなのだが、いつ渡っていいのかが分からない様子である。

周囲の景色は確か城下町だったように記憶している。

信号が青になり発車しようとした時、その老婆は私の前を口をパクパクさせて何か言いながら頭を上げ下げして横断して行った。

あの時は神秘的であったが、今では現実的な高齢化社会を実感させるひとコマである。
パクパク動かす口に戸惑いが読み取れたし、頭の動きで『お互い様』の精神が感じ取れたのは幸運だった。

私の同世代でパソコンや携帯メールを活用しているのは半分もいればいいとこで、信号の渡り方が分からない人間はボケていない限り皆無であろう。
だが、私を含め例えば地デジ初期(キーボードで『ちでじ』と入力しても正しく変換されない)時代にオヤジやバーバとして生きた人間には、当たり前に使えたテレビすら4年後には使えなくなってしまう不安がある。
そんな時代に生きている世代なのだ。

ところであの交差点の婆ちゃん。
いろんなことを知ってたんだろうなぁ

電気がなくても明るくする方法や当たり前に使っている水を調達すること
米や野菜を栽培する根本からの知識
生きるうえで欠かせない生活の知恵
理解できないほど進歩した社会ででも生きる術

手遅れという概念が人間にはあるし、甘んじて動かざるより行動して生きる/死す精神が庶民には受け継がれている。

でもあの婆ちゃん、そんな高尚な感じじゃなかったから、つまりは受け止める側の感性の問題なのだろうが、私はあの時単なる旅人であった。

否、旅人だったことが重要だったのかもしれない。
酔って分けわかんなくなった今夜は、“旅人の視点で自分と社会を見てみよう”と書き残すことにする。

何も考えず一生のうちに旅に出よう!
基本の寝泊りは車で、パートナーと愛犬がいれば違った世界が見えてくるし、絶対に後悔はしないはずだ。
 

ラブラドールを知ればすべてが分かる 2007年01月19日(金)

  愛犬を『可愛い、可愛い』だけで育てた結果、自分の想いとは違った事態を招き、困惑される飼い主が多い。
今日の愛犬相談もそんなポメラニアンの飼い主からのものだった。

「外出でお留守番をさせなきゃならない時、狂ったようにパニックを起こして泣き喚いてしまうのです」

このような相談はとりわけ小型室内犬に多いが、中型犬以上の場合は室内を破壊したり悲惨な自傷行為に走ることもあり深刻な問題となり、『ちゃんと犬を育てなさい』と日頃から私が書き続ける意図はそこにある。

私はこれまでの経験上、ネガティブになって犬を評価し“負の結果”を想定し、そうならないようポジティブに接していることを伝えてきた。
私のいう“負の結果”とは、いうことを聞かないとか、オスワリやマテができないあるいは人に飛びつく、散歩の時引っ張る、他犬を見て吠える、などという甘っちょろいことではない。

1.他人や他犬に対してだけでなく家族でさえも安心して触れないような凶暴性・攻撃性
2.マーキングや破壊行動など共に暮せないような野生的振る舞い
3.病的な依存心、わがまま・興奮
医学的・遺伝的な問題で対応不可能な犬を除くと、これらがトップスリーであろう。(酔ってるから抜け落ちてるものもあるかも…)

そして、これらすべての問題に関して、たとえ遺伝的な要素であっても、育て方と家庭犬としてのオス犬には当然の去勢などで駆逐できると考えている。
勿論、到達目標には相当の幅をもたせざるを得ないが。

問題となるのは、『すでにそのような問題犬に育てられた犬』と『そのようにしか育てられなかった心優しい飼い主』への対応である。

このような問題行動のきっかけは『愛犬の愛らしい姿や振る舞い』と『飼い主の優しさ(甘さ)』それに『飼い主の経験・知識不足(換言すれば文化)』に起因していると思われる。

だが、『仔犬の愛らしさ』を無くせはしないし、『人の優しさ』を誰が責められよう!
残された要素はつまり、『経験と知識』つまり文化であり、それを知った後の飼い主の変化なのだ。

変化は相当に難しい。
何故なら、文化にはその時代に生きた自己が反映されるし当時の法律や常識が適用されるからだ。
『心優しさ』と『毅然とした対応』、例えば、「散歩は嫌だ」という愛犬をあなたは“社会経験のために連れ出した”か?に問う。
来客や外の犬を見て吠えまくり興奮する犬を、他人が見れば『虐待』と勘違いされるほどの意識を持って諌めたことはあるか?と問う。
すべては犬の行動の想定内にあるのに、あなたは適切に対処したかを、今私は問うている。

話が一気に飛躍して恐縮だが、犬と暮したい方は、まずラブラドールと暮らすべきである。
私がここでどれだけの言葉を並べ立てたとしても、それはほんの一部に触れているだけに過ぎず、言葉に出せない真理すべては彼らが教えてくれることだろう。

・問題となるのは、『すでにそのような問題犬に育てられた犬』と『そのようにしか育てられなかった心優しい飼い主』への対応。
と言いながら、最後は『ラブラドールと暮らせ』になってしまった。
何故かしら凝縮した答えがそこにあるように思えたのだ。

今夜の一文は明日読み返して手直ししよう。
もう、しどろもどろの状態だから。
 

諦めないこと 2007年01月17日(水)

  暖冬であることはもはや議論の余地はないところであるが、アメリカの異常気象を知ると、今後春までの2ヶ月ちょっとの間に何が起きてもおかしくない不安を覚えてしまう。

でも今夜は様々な情報を読み、不安を感じながらも研究し行動している人たちがたくさんいることを知ることができ、嬉しく思えた一日でもあった。

阪神淡路大震災からちょうど12年目を迎えた今日、大地震の予知を可能にするかも知れないという発表があり、その現実性に大きな期待を寄せた。
あの震災の数週間前から大気中のラドンが異常に増えていたというのだ。

ワニが反り返るとかナマズが大暴れするという類のものでなく、地底の岩盤の変化によって発生することが確認されているラドンに注目したのは凄いと思う。
ゴジラかラドンか知らないが、恐竜のような生物が事前に反応することの方が科学万能に不安を持つ私には分かりやすいが、彼らの反応はせいぜい数日前の予兆であるのに対し、この放射性物質のラドンは数週間前に“異常な”数値を示したというから、もしこれが『地震前にはいつもそうなる』のであれば凄い発見だと思っている。

次に、まだ人間への治験が始まったばかりという『テロメライシン』という薬に私は注目している。
正常な細胞を犯すことなく、がん細胞だけを死滅させる薬のようであるからだ。
マウスに移植された人間のがん細胞を無くすことができ、ヒトでの治験が始まっているらしい。
不可能を可能にするために飽くなき探求が行われているのが人間らしくて興味をそそられる。

町工場の職人が自転車を漕ぐだけでタイヤの空気圧を一定に保つ機能を備えたハブという部品を世界でただ一社だけ製造している報道にも心打たれた。

そして自分を振り返った。

例えば「他のわんちゃんと遊べるようにしたいのです」という飼い主の願いに対し
「無理です。諦めたほうがいいし、何も他犬と遊べることが犬の幸せではないでしょう。あなたの愛犬は『どうぞお構いなく』と言ってるではないですか。」と答えている私。

実際には他犬と遊べるようになる方法はあるのだが、それには時間もお金もかかるから現実的なものではないので私は「無理です」と答えている。

でも工夫し科学する人たちの熱意を知れば、私は「無理です」と言わず「やってみますか?」と、その内容を提示するべきだったのかもしれない。
そのことによってさらに合理的で科学的なアイデアが生まれるのだろうから。

では、主訴である例えば『Aちゃんという、他犬と遊べないわんちゃんを遊べるようにする』原始的非経済的方法を紹介しよう。

1.飼い主は3ヶ月間私のカフェを貸切にするための営業保障を行う。
2.そのうえで毎日私のカフェに通うか、Aちゃんをカフェにお泊りさせる。
3.この期間は私が選んだ犬だけカフェに来ていただくから、その経費も負担していただくことになる。
私が選ぶ犬とは、Aちゃんのように『どうぞお構いなく』と他犬に興味のないわんちゃんで、Aちゃんよりも小さいか同程度の大きさのわんちゃんであり、これは進度によって変更される。

このことで、ほぼ間違いなくAちゃんは私のカフェにおいて、他犬と遊べるようになるだろうが、飼い主の経費負担は少なく見積もっても数百万に上るだろう。
だから「他のわんちゃんと遊べるようにしたいのです」という飼い主の願いに対し「無理です」と答えているのだ。

仮に、どこかの金持ちが「あ、そう。じゃ、お願いします」とあっけなく依頼してきたら…
「やってみますか?」とチャレンジするかもしれないし、体よく断るかもしれない。
どうなるかはすべて時と場合による。

ただ実は『無理です』という言葉を自分自身に投げかけたくはないと思っている。
 

仔犬との正しい付き合い方 2007年01月16日(火)

  昨日は8ヶ月のバーニーズマウンテンドッグ、今日は4ヶ月のラブラドールが来店してくれた。

若い犬が来店した時の飼い主の反応が面白い。

大概は『いやー大変です。困っています。どうしたもんでしょうか?』と駆け込み寺のように相談を受けるのだが、今日のラブラドールのように『すべては織り込み済み。この子はどんな子に育つのか楽しみ』と、泰然とした飼い主もおられる。
盲導犬のパピーウォーカーとしての経験を積み重ねる内に体得した“犬を育てるということ”を知ったNさんだった。

仔犬というものは、当然犬種にもよるが普通は人間の生活を破壊し、場合によっては思い詰めさせるような振る舞いをするものである。
排泄の失敗の繰り返し、腕を傷だらけにするあま噛み、室内の破壊行為、飛びつき、命の心配をさせるほどの誤飲誤食…etc.

すぐにでも解決させたい問題が山積していて、時には『この犬はバカか?』と真剣に悩まされることもある。

今夜は結論から言おう。
1.この時期に完璧なしつけを一般の方が行うのは無理があり、むきになってしつけたりインチキ訓練士に頼んで“よい子”にさせてしまうことは将来思わぬ弊害を招くことになるだろう。
2.だからといって、“良き理解者”を演じて放任してしまうと、取り返しのつかない厄介ごとを抱えるようになってしまう。

つまり、必要なしつけを行いつつも、この時期に完璧を求めてはいけないという事である。

必要なしつけとは
1.トイレのしつけ
これは多くの方が誤解している項目で、『したくなったらペットシーツで正しい場所にする』なんていうものではなく、飼い主自身が愛犬が尿意・便意を催しているかどうか、あるいは催す時間かを理解したうえで、愛犬には『シーシー、あるいはシッコ』『ベンベン、あるいはウンチ』という言葉を完全に教え込み、指示された場所で排泄ができるようにすることである。

2.破壊行為の撲滅
子犬を育てる度に家具や壁を破壊されるのは、♪柱の傷ーは♪のように、よい思い出になるかもしれないけれど、必ず通らねばならない道でもない。
しつけもできていない犬を室内でいつもフリーにするのは、『どうぞお好きなように』と宣言しているようなもので、しつけの基本である“成功例の積み上げ”に反した“失敗例の積み上げ”を促すだけである。
『おりこうになれば、待遇も良くなる』という原則を忘れてはいけない。

3.正当な要求による吠え声を出させないこと
遠まわしな表現になるから注意して理解していただきたいのだが、『喉が渇いた』『排泄したい』『寒過ぎ・暑過ぎ』などといった正当な要求を犬にさせてはならず、文句を言わせない程度の飼育環境は常に与えるべきである。
そのうえで愛犬の声に対しては、飼い主が見落としてしまった正当な要求なのか、継続的に与えることのできない高望みの要求であるのかを判断し、仮に後者の要求であるのなら毅然とした態度が求められる。

仔犬の時期の服従訓練・落ちつきのなさ・好奇心や不安による行動などはほぼどうでもいい項目であり、これらはしつけるよりも経験を積み上げて積極的に付き合っていかなければならない事柄である。

それでも『大変だ、大変だ』と思い悩み、『ごめんなさい、ごめんなさい』と周囲に頭を下げ、『冗談じゃない、この野郎!』とキレてしまうのが1歳までの犬との正しい付き合い方である。

愛犬の愛らしさに振り回される飼い主であってはならないし、傲慢なのもいけない。
犬と暮らすということは“人生のものさし”を問い直すことなのだろうと思う。

今夜の酒は、お泊り犬無しの開放感を味わうためKと夕食に出かけたイタリアン/フィノッキオで下から2番目に安かった白ワイン『オルビエット・クラッシコ』、それにMさんのお土産デザートワインの『インニスキリンのアイスワイン、ゴールドリザーブ』、最後はいつものセイコーマートの焼酎『ガッツマン』でした。
 

何かが違っていることに気づいて欲しい 2007年01月14日(日)

  この国のペット事情はどうしようもなく救いようのない商業主義に踊らされ、とんでもない方向へ針路を取り、マスコミによってそのスピードは加速しているようだ。

事件報道や組織相手のいじめには過剰なまでの正義感と息苦しくなるような倫理観を並べ立てて『首を取ったり!』とオピニオンリーダーとしての優越性を誇示したがるマスコミも、ペット関連では何らの判断も自らは下さず、ただ『可愛い』という言葉で自社の汚れかけたイメージを美化し、読者にほのぼのさせて会社のイメージを高めようとしているように思えてしまう。

内部告発制度に言及し、それを社内に設けたマスコミの記者諸氏。
事件を追及する情熱を持って自社あるいは職員の不正を日々チェックしていますか?
それに対して私は片目をつむるから、せめてペット、少なくとも犬に関する報道と世論誘導を見直していただけないものだろうか。

テレビ局のアナウンサーがペットショップのふれあい広場という柵の中へ入り込み、まるで鶏小屋で餌を撒くようにフードを与え、「やあ、可愛いですねぇ。もう懐いちゃいましたよ。犬って最高ですねぇ」と叫んでいる。

本当にこれでいいのですか?

具体的な提案をしましょう。
1.ペットショップでの生体販売に批判的な眼を向けていただきたい。
理由
@24時間6ヶ月密着取材していただければ分かるが、仔犬虐待以外の何ものでもない。
A処理場に持ち込まれる犬の多くがペットショップからのものであり、その経費すらを削減するため捨てられる犬だっているのだ。
解決策
ペットショップでは各犬種の特徴を説明するビデオが流され、あるいはブリーダーの様子が流され、顧客が予約するシステムを紹介すればまだマシな方向へ向かうだろう。

2.犬が座席に座ってテーブル上の食べ物を平気で食べるような何でもアリのドッグカフェを紹介しないで欲しい。
理由
@一般社会から愛犬家が締め出され「そんな犬と過ごしたいなら、ゲットーに居ればいいじゃん」って言われるようになるから
Aまともな飼い主に不快感を与え、未来の愛犬家に誤解を生じさせるから
解決策
ヨーロッパの子供たちがどんな風に仔犬を迎え入れ、親はどのように接しながら育て、街角や車内・カフェやパブなどでどう振舞っているのかを解説無しで、淡々と流して欲しい。

3.良心的な個人ブリーダーは多犬種の繁殖を行っていないのが普通であること。良心的な愛犬施設は専門家のもとに愛犬スタッフが常駐していることを伝えて欲しい。
理由
@生まれた子犬に将来がありそうだから
A何処かのドッグパークや繁殖場の悲劇を繰り返さないために
解決策
大手企業の宣伝にマスコミが乗せられないこと。
事件報道のように社内で充分吟味して、この国の愛犬社会の方針を考えること。

「え?犬って猫や鳥、馬や羊、ハムスターや金魚などのペットとは違う特別な存在なの?」って言われたらどんな愛犬家も憤るに違いない。(ごめんなさいね。豚だってちゃんと立派なペットになることは承知してるし、小鳥を心から愛している方には申し訳ないが、今夜は例えの意味を強調するために犠牲になってください)
だが、愛犬家を自称する人の中には平気で犬を殺す人もいるし、良かれと思って結果的に犬を社会からはじき出す人や殺してしまっている人は案外多い。

これまで何度も叫んできた事柄なのに、この国のペット事情は悪化の一途を辿っているのは、恐らく私が異端児で誤った思想の持ち主だからなのだろう。

だけど、誰もいなくなったペットショップで誰にも届かない声ではあろうが、私は彼らの想いとその後の暮らしぶりに思いを馳せ、遠吠えを続けて行きたいと思っている。
この声がまずは小さな町の愛犬マスコミスタッフにでも届くことを信じながら。
 

マーリーという本 2007年01月13日(土)

  ジョン・グローガン著の『マーリー(Marley & Me)』を読まれた方は多いと思う。
抱腹絶倒、笑いと共感そして感動と涙を禁じえない、ラブラドール好きには絶対お勧めの名著である。

「どうだった?」とK。
「最高!凄い面白かった」と私。

ラブラドールを奔放に育てるとこうなるであろう、という具体例がそのまま描かれていて、「そうそう、そうなるよな」と私も笑い転げていた前半。

アメリカ男は凄いよな。
まるでラブラドールのように奥さんや家族に忠誠を誓って自らの喜びとしており、日本男性には絶対継続できないと思われるような感性と行動で家庭を築きあげているし、職場を含めた社会がそれを受け入れているのが凄いと感じた。
勿論、一部の敬虔なカソリックの家庭生活が全米を代表しているとは言えないけれど、少なくとも著者のジョンはすばらしい男性だと今後の生き方を学ばせてもらった中盤であり、アメリカ社会の恐ろしさも感じた中盤だった。

後半は胸をどきどきさせられながらも逃れることのできない終着点がどのように訪れ、この家族がどう受け止めるのかに胸が高鳴った。

「どうだった?」
再びKの言葉が聞こえて、私はとつとつと話し出した。
「え?え?分かるように話して」
そう問いかけるKの言葉に私はあまりにも日本人的で専門的な返答をしてしまった。

要約するとうんざりする夢のない男の供述調書になるのだが…

・マーリーがもし陽気な破壊的犬ではなくて、攻撃的で凶暴な犬だったらこの夫婦はどうしてたんだろうね?
・世界で最悪な犬にしなくても、『かけがいのない最高の愛犬』に育てられただろうに…
感動しながらも批評を口にする私の姿がそこにあった。

とりわけ専門的な話で恐縮だが、雷恐怖症が大きく取り上げられていたけど、私にとっては犬が雷恐怖症に陥ることは織り込み済みのテーマである。
つまり、マーリーはある日突然雷を恐れるようになったわけではなく、仔犬の頃からそのような兆候がみられたと考えられるのだ。
そのことを放置したジョンには無知だった責任があると言えよう。
雷恐怖症は後々大きな問題を起こし、飼い主にも愛犬自身にも取り返しのつかない結果を残すから適切な対応が必要だったのである。

しかるにジョンはアメリカ人らしく薬に頼ってしまった失敗を犯してしまう。
雷に慣れされる系統的脱感作療法というものをまずは適切な時期に試みるべきであったろうに。

今夜のテーマは批判ではなく共感だ。
何がどうあれこの本はすばらしかった。
題名の愛犬もさることながら、男と女、とりわけ男を考えさせてくれる一品である。
いい本にめぐり合えた気持ちと生活に必要な感性を考えさせられて嬉しく思う。

今夜飲んだ酒:姫路の壷坂酒造の吟醸酒で名前はオーダーによるもの。
次は昨夜の残り土佐焼酎『いごっそう』である。
 

アモの一周年記念 2007年01月12日(金)

  一年前の今日、木曜日で定休日だった我が家に愛犬アモがやってきた。
今は亡きN先生に今は亡き眞知子が育てた盲導犬候補生だったアモを引き渡した私が今はKと一緒にアモと暮している。

我が家の愛犬スーを一昨年の12月23日に亡くした後、「次の犬は?」と問われても「そんな気持ちはありません。巡り会わせがあれば…」と答えていた私たちに巡り合わせがあって暮し始めたアモである。

室内でのマナーに問題があり、車内でのそれにはあっけにとられる行動もあったが、今ではすっかりカフェの看板犬を任せられるようになったし、何処でも出かけられるように育てることができた。

一年という年月は私たちにかけがいのない繋がりを築いてくれたと感謝している。
両足の靭帯断裂やリハビリで出費があったものの、自力で散歩しカフェの階段を上り下りできるようになったのはありがたいことだ。

『論より証拠』『百聞は一見にしかず』
そんなプレッシャーを受けながら、私とアモは明日からも『看板犬』という役目を気楽に果たしていきたいと思う。

ところで、毎夜消費する酒をこの欄に記帳し後々の思い出に花を添えようと考えるようになった。
今夜の酒はアルコール30%・黒糖米麹で喜界島酒造の『三年寝太蔵』と、アルコール43%・米・米麹で高知県司牡丹酒造の土佐焼酎『いごっそう』となっている。

積み上げることでの思い出の一ページであるが、此処に記されない多くの酒がこれまでにあったのを忘れまいし再登場するのを楽しみにしている。
 


- Web Diary ver 1.26 -