From the North Country

クリスマスプレゼント 2006年12月26日(火)

  Kからのクリスマスプレゼントは、事務所・カフェ・居間・車内そして予備に2個はどっかにある老眼鏡の200倍以上の値段はする“老眼鏡”。
高級だが範疇はあくまでもただの老眼鏡。
左右同じレンズの老眼鏡。
ただ、この老眼鏡を作るに当たっての検査で面白いことが分かった。
私自身は右目が見やすく、左目が悪いと実感していた。
実際、右目を閉じると文字や世界がボヤけて見えるし、疲れやすくなる。

ところが検査師のオプチメトリストは「右目の方が左より悪い結果が出ています」と言い張りよる。

両者の感じ方と検査結果の違いは、どうやら『利き目』の影響によるものだろう。
手にも右利きと左利きがあるように、目にもそれがある。

自分の『利き目』を確かめるには、まず片腕を伸ばして人差し指を一本立て、数メートル先にある縦細長の目標物を両目で見てある程度一致する状態に固定する。
そして、それぞれ片方の目を閉じて一致する状況を見れば一目瞭然である。

私の利き目は右目であるからそちらの方がよく見えるように感じ、検査結果とは違う感じ方をしてしまっているのだろう。

ところで、人は目で物を見ていると誤解しがちだが、実はふたつの意味で脳を介して見ていることを知っておいた方がよい。

ひとつは利き目であり、あるいは実際に“見ている”という現実である。
難しい話で恐縮だが、子供時代に例えば長く眼帯をし続けて“見ていない”状況にいると、眼帯を外した後には目は正常に見えているはずなのに、脳が見えてることを認識しなくなって、本当に見えない状態になってしまうことを理解してもらわなければならない。

もうひとつは、実際には眼科的に見えない状態であるのに“見える”という正反対の現実である。
目が見えなくても、『ここに何かが、恐らく車がある』ことぐらいは分かるようになるし、話し相手の背格好や年齢ぐらいは簡単に判別がつくようになる。

ともあれ、私には高価な老眼鏡がプレゼントされ、その商品が近々届けられることになっている。

その老眼鏡によって私に託されたのは『見やすい』だけではない、他の『大切なこと』を見る眼であるように思っている。

因みに、私からKへのプレゼントはもっともっと値の張るものであったが、口が裂けてもそれを伝えることができないのが残念だ。
 

人生の天気(転機)図 2006年12月25日(月)

  今年のカフェの営業も残すところあと2日。

天気予報では26日が晴れで27日が曇り時々雨。
まるで人生のように『いい日もあれば、普通の日があり、それに辛い日もある』と、一年の営業を締めくくるに相応しい予報が出ている。

私のこれまでの人生を振り返ってみれば、経済的には曇りと雨の日しか知らないけれど、精神的にはいろんな人との出会いに恵まれてほとんどが晴れだったように感じている。
神経が困ぱいするような日々をずーっとおくってきたのは間違いないし、そのための内臓疾患はあったものの、自分がやってきた仕事に喜びと精神的充足感があったから思いつめるようなことはなかった。

肉体的には筋トレのような集中強化型の仕事ではなく、地道に足腰を使って毎日20キロ近く歩き続ける長期消耗型の部類だったので、曇天と寒冷前線が近づけば膝と腰が痛み出しこの部位において常人よりちょっと早めの老化が見られる程度だ。

経済的なものは家系や運それに本人の志向性で人生をそちらの方へ舵取りすればチャレンジすることができ、雨や晴れを体験しながら成功者への道を進むことができる。
精神的なものを充足させるには、経済基盤に基づく場合もあろうが、自己を含めた人からの評価が影響するから
財を成した後に名声を得ようとしても真に充足されるかどうかは定かではない。
成功者が逮捕されたり自殺あるいは家庭内崩壊という報道がそれを示している。
肉体の老化はほぼ平等に訪れるけれど、清らかな精神を持った人間が長生きするとは言えず、知識や人脈それに環境や経済面が影響を及ぼすだろう。

だが、それでも死なない人はいない。

『金じゃなく、最後は精神面だ』などと安易に結論付けようとしているのではない。
物事をどう捉えるかで人は自分の人生を操っているのだろうと思う。
そしてどう捉えるかはひょっとしたら神から与えられた運命ではなく、自分でコントロールできる範疇のものではないのだろうか?
晴れを目指す前に、何が晴れで何が雨なのかを、そして曇りの有難さを今一度考えてみたいと思った。
Take it easy! 気楽にね。自分に正直にね。

メリークリスマスの夜に。
 

今年のクリスマス 2006年12月24日(日)

  夕べのこの欄をアップした記憶がないのに、昼過ぎに覗いてみたら、ちゃんとかどうかは別にして書かれていたので驚いてしまった。
記憶にあるのはスーの三回忌のことに触れた最初の部分だけで、その後は行き詰まって結局は最後まで書けずに消去したものとばかり思い込んでいた。
いつもそんな状態に近いけれど、さすがに今日は驚いた。

今夜も日付はとうに変わって、イブではなくクリスマスの夜明け前の深夜になってしまっているから、どこまで正気で書けるかは定かではない。

札幌ではまず間違いなくイブにはホワイトクリスマスになるのだけれど、こんなに一気に降るか!
40センチ以上は降っていた。

目が覚めて20センチは降っていたから除雪を開始したのに、終わった時頃には最初に除雪した場所にさらに20センチ積もっていたし、さらに昼過ぎまで降り続いていた。
もし除雪をしなかったら雪の重さで締まってくるから、最終的な積雪は30センチ程度になるだろうけど、途中で除雪をしたものだからふんわり感が増して、カフェでは間違いなく40センチ以上は降っていた。

ありがたいのはこんな危機的状況にも関わらず、「今年のクリスマスランチを食べに来ました」と駆けつけてくださるお客様の存在である。
○○急便のトラックがカフェの前で雪に埋もれ、しばらく時間をかけて脱出に成功するような状態だったのに、イブとクリスマスの二日間分を準備していた“クリスマスランチ”が昼過ぎには完売してしまったのである。

「美味しい!」というお客様の一言にKは『してやったり』の表情を浮かべ、「明日の分はどうするの?すでに予約のメールも届いているよ」という私の不安に対しては、主婦の心がくすぐられたらしく、つい先ほどまで熱のこもった仕込みをしておりました。

訳あって鶏肉は食べれない私だから何らのコメントもできないけれど、明日こそ売り切れ御免でござりまする。

今夜のクリスマスに愛犬の食事に手心を加えた方は多いはず。
このあとお正月も控えているが、人の食事を食卓で共に味わおうとは考えない方が良いことだけは忠告しておこう。

良かれと思うことが、暮らしの面でも健康面でも悪影響を与えることがあるけれど、それを承知の上で為さるのならこれ以上は言うまい。
それに、盲導犬の訓練を25年してきた私も『今夜は特別。何かプレゼントをしたい』と思うことも当然ある。
ただしそれらは愛犬の食事の中に反映されるのであって、人が食べてる時に要求するような仕組みにはしない。

思いはひとつ、これから先も愛犬と共に快適に暮したいから。
である。
 

我が家の愛犬スーの三回忌 2006年12月23日(土)

  今夜は我が家の愛犬スーの三回忌。
あの夜のことはたとえアルチューハイマーの私であっても、過去のこの欄を読み直すまでもなく鮮明に覚えている。

あの日は本来なら定休日であるはずの木曜だったが祝日と重なりカフェは通常の営業を行っていた。
私とKは手を振り、スーはゆっくり尾を振って最後のお客様をいつものように三人でお見送りした。
それから数分してカフェの片付けの途中、突如スーは倒れ、Kに抱かれながら息を引き取った。

まだカフェを始めて1年の時だった。
どんな生活が始まるのか不安だった私たちだったのに、とにかくいいお客様に恵まれていて、毎日が楽しくてしようがなかった。
「このカフェをやってよかったね」
Kと私の偽りない心境だった。

看板犬だったスーが“暮し易い家庭犬”を標榜するカフェの具体的な姿として当時のお客様に与えたインパクトも確かなものだったのだろうと今になって改めて感じる。
私たちにとって当たり前の愛犬との暮らしをカフェでお見せすることで、以後どれだけの素敵な愛犬家が育ったことかスーには是非伝えてあげたい事柄である。

なのにスーの教えを私が守っていないことは知っているつもりだ。
スーの教えとは『私たち愛犬はいつもあなたを見て振舞っているのです。』という短いものである。

飼い主が愛犬の外見上の容姿振る舞いに翻弄されて接してくれることは嬉しいけれど、それは本当の犬としての愛犬たちを軽視することであり、反対に『犬というものはきっちりしつけなければただの動物である』という威圧的な接し方は、表面上の動きは評価されても実質は虚無的である。
この考えをご理解いただけるだろうか。

酔っているからきちんと問うわけにも行かないが、要は犬は飼い主が感じるほど動物的ではないし、訓練士が主張するほど人間的ではないのだろう。
ただ、人間的に接することでより人間的に自在に変化するし、ツールととらえればそのような反応をする。

そして多くの犬たちは生き物としてではなく、犬として心の繋がりを求めているように思う。
無理!絶対無理!酔ってるから無責任で意味不明のことを…おやすみなさい。
 

今時の中年女たち 2006年12月22日(金)

  今日は冬至。
明日から少しずつでも日が長くなると思えばうれしくなってしまう。
地底人じゃないからやはり明るさはありがたいし、夕方の散歩も明るいだけで楽しくなる。
ただ、もうひとつの明るさ、“雪明り”をもたらしてくれる雪が少ないのがちょっと寂しい。
ドカ雪はいらないけど毎日5〜6センチ程度にでも分散して降ってくれれば北海道の冬は最高だろう。

今冬のウィーンも記録的な暖冬のようで「雪もなく暖かい」と先ほど現地から電話が入った。

別にウィーンに駐在員の友人がいるわけではなくて、たまたま今年から乗馬を始め、このところ熱のこもっていたHさんに、もともと馬をやっていたKがウィーンのスペイン乗馬学校のすばらしさを話したものだから、Hさんは目を輝かせ即座に渡航手続きをして1週間後にウィーンに飛んでいったのだ。

3日前から先生について言語を習っていたのに、前日にも関わらずオーストリアの通貨すら知らなかったHさんだからどんな一人旅をしてるか心配していたら、「すっごい素敵!会話は身振り手振りで全然大丈夫」と相変わらずノー天気な様子で安心した。

電話を切った後のKは一言。
「長生きするよ。ほんとに。」
とHさんの行動力と破天荒さに呆れていたが、帰国してからの土産話を楽しみにしているようだ。
私はといえば「絶対帰って来いよ。レオンベルガーとチワワをこのまま我が家に残すなよ」と祈るような思いでいる。
その不安の一端はHさんの外見とは別の隠された性格によるものである。

彼女が愛犬とドッグフードを私に託して行ったのはいいものの、そのドッグフードの袋の切り方に性格が表れているのだ。
ファスナー付のドッグフードで『この線からハサミでお切りください』と書かれてあり、Hさんもその線の近くを切ってはいた。
しかし、線より少し上の部分を切ったものだから開封もできずファスナーも機能するチャンスがなかったのだろう。
結局彼女は『うっとうしい!』と思ったのか、ファスナーの下をハサミで切り裂いてフードが露出してでも使いやすい方法を選んだようだ。

要するに、細かいごちゃごちゃしたことはウザッタイらしい。

今年初めて乗馬体験をした私も、来年からはその回数が増えるかもしれない。
なにしろKとHさんは馬のことで意気投合しているようだし、その渦中に私と彼女たちの愛犬が存在しているようだから、そこそこのつき合いというか忍耐が求められているように感じる。
今時の女は何をしてもおかしくない。
男と犬は黙ってついていくしかないのだ。
 

襲われたチワワのゴンタ 2006年12月19日(火)

  いつも元気で威勢のよい話し方をされるチワワのゴンタくんの母さんがトリミングを兼ねてカフェを訪ねてくれた。

今回は威勢のよさに加えて、怒りまで伴っているものだから、それはそれは迫力満点だった。

「あそこの大きな公園あるっしょ。あのすり鉢状になってる公園さ」
「ああ、里塚緑ヶ丘公園ですね」
「そうそう、その真ん中でボール投げして遊んでる男とゴールデンがいたのさ。
あんなとこで放して遊んでるくらいだからちゃんとしつけがされてるって思うっしょ?
だからそのままゴンタと遊歩道を散歩してたのさ。
したっけ、そのゴールデンが遠くから猛然と走ってきて近づくにつれ『ウグゥガォー』って唸り声が聞こえるの。」
「ほぅ、それで?」
「あたし慌ててゴンタを抱き上げようとしたけど間に合わないのさ!
ドーンってゴンタが吹っ飛ばされ、ゴールデンが馬乗りになったから、あたし必死になって『やめろ!この野郎!やめろっ!』って、ようやくゴンタを抱き上げたんだ。」
「大丈夫だったの?」
「そんときゃまだ分からないさ。すぐに男がやって来て、謝るかと思ったら何て言ったと思う?『こんなことしたの初めてだ』って謝りもしないんだよ」
「ひどいね。頭にきた?」
「うん。だけどゴンタが怪我したり骨折してないかとあたしも必死に調べたさ。
そして『なんで管理もできない犬放してんだ!』って怒鳴ろうと『なんで管理も』まで叫びながら振り返ったら誰もいないの。
もう遠くの方を逃げるように犬と走ってんだよ。
あたし振り上げた拳の下ろしどころがなく、悔しくって悔しくって『このクソジジイ!!』って叫んだけど、その声すら届かない距離だったから、2ヶ月経った今でも悔しいのさ。
あたしリードつけて散歩してたんだよ。」

母さんは話しながら当時の怒りが蘇ったように打ち震え声も大きくなっていたが、同調する私たちを見て心は少しずつ安らいでいった。

「で、ゴンタの心の傷は?」
「昔から知ってる大型犬は大丈夫だけど、そうじゃない犬には緊張してるみたいだよ」

天真爛漫、母さんみたいに大らかだったチワワのゴンタは、確かに控えめで慎重になっていた。
「5キロもあるチワワだから助かったのかも」
「あはは、そうかも知れないね」
母さんは豪快に笑ってトリミングが終わったゴンタと帰って行った。

愛犬を最高ランクにしつけるプロセスとして、広い場所でノーリードにすることがある。
プロの私でも緊張する場面だ。
犬がその壁を乗り切り、制御を受け入れることで信じられないほどの関係作りと最終段階へのスタートになるのだから。

だが、それはあくまでもプロセスであって、基本的しつけの段階を経たうえでのステップであり、“犬の放し飼い禁止”という決まりの中で、世間の目を完全に避けたうえでひっそり行われるべき儀式であり、仮に失敗しても大事にならない環境設定が大前提である。

この前提を考えず、犬の稟性すら知らずに野放図な愛犬家を演じる飼い主がいるからゴンタのような犠牲者が後を絶たないのである。

いつかこの欄で究極の犬育ての方法が紹介できたらいいと思うが、酔い潰れそうな私に期待されるのも重すぎるし、犬をイヌとしてしか見ていない最近流行のしつけ方を卑下する気持ちもある。
過去にも書き綴ったであろう犬育ての極意をちりばめながら実例を挙げ今後も書き続けていけたら面白そうだ。
 

どうかひとつ 2006年12月18日(月)

  朝までに10センチほどの新雪が積もってガーデンが綺麗になった。
勿論除雪は行わず踏み固めて大切に保存することにしたけど、ご来店いただいた方々には足場が悪くてご迷惑をおかけしました。
ガーデンの適正状況が整うまでどうかひとつご協力ください。

さて、
「あのぉ、ちょっとお伺いしたいのですが、こういうカフェやランでマウンティングを禁止しているのは何故なんですか?」
今日カフェに来られた方から質問があったので、その理由のいくつかをあらためて説明しておこう。

1.マウンティングとはそもそも性行為の前段であり、密かな場所でお互いの合意においてなされるものである。
繁殖のため犬の交配を何度も経験されてる方はご存知だろうが、オス犬にどれほどの欲望があろうとも、メス犬の合意がないと大変なことになってしまう場合があるのだ。
カフェやランなどで出会ったばかりの犬たちが即座に合意する確立はきわめて低く、放置すれば自尊心を賭けた争いになる危険性は高くなる。
人間社会でも一方的なものは当然犯罪であり、不特定多数が集まる社交場でそのような行為をするものはつまみ出されて拘束される。

2.鮭やイワナなどの産卵光景をテレビでご覧になったことがあると思うが、授精するオスとしての権利を得るため同様の目的を持ったもの同士の血みどろの争いを念頭において欲しい。
マウントしている犬が、鮭のように去勢されてないオス犬ならば彼は本能におもむく行為を無心に繰り返し、周囲の犬たちをも争いに巻き込むだろう。
殆どの犬たちは社交的に振舞っているにもかかわらずにである。

『うちの犬はそんな非難されるような荒っぽい気持ちでやってるのではありません』と言う飼い主には『あなたにとってはそうでしょうね。だけど相手があることを考えなさい!』と言うしかない。

3.去勢や避妊している犬同士が雄雌に関係なくマウントすることがある。
ホモやレズの話ではなく、犬の中には、ある特定の犬に対する好意表示行動としてあるいは自慰的行為としてそのような行為が存在しているのだろう。
しかしこれもお互い分かり合えた関係の犬であっても、公衆の面前で行うと周囲に影響を及ぼしてしまうし、自慰的なものならば、やはり相手があることを考えねばならないし、どっかでこっそりやってもらうべきだ。

厳しいことを書いているが、
・本能におもむくままの行動を我を無くして社交的な場で行おうとする犬
・その姿を平然と見つめるか、言葉だけでいさめる飼い主
には、ストレートにこのまま受け止めて欲しい。
今日カフェで相談された方も、散歩中に出会った犬が自分の犬にマウントする犬の飼い主から
「まあ、いいじゃないか」と強要まがいの言葉を浴びせられていたらしい。

ただ、カフェにやってきてマウントしたがる多くの犬たちの気持ちが分からないわけでもないし、その性格を知っている私には犬たちのような寛容な精神を備えている。
私が知ってる、彼/彼女たちの振る舞いはとても控えめで
「私に納得できるかどうかはともあれ、この行為が悪いとされていることは重々承知しております。
でも…、
そんなわたしですが…、
どうかひとつ…
乗っけてもらえませんか?」
そんな感受性豊かで自制心を備えたわんこ同士が揃った時には、見ぬふりをしてガーデンを貸切にするくらいの配慮をしているつもりだ。

『どうかひとつ』
この言葉に私は弱い。
Kの殺し文句であるからだろう。

そのKが今、台所で洗い物をしている最中、誤ってガチャンと食器を床に落としてしまった。
それでも辺りはシーンとしている
「一体、どうなってるの!誰も大丈夫かって聞いてくれないの!」
とKはご立腹である。
対面式キッチンの前でこの欄を書いてた私は無心だったし、我が家の愛犬アモは天井向いて寝てたし、お泊り犬レオンベルガーのジェニーとチワワのチビは、『普段の生活音でしょ』と意に介していなかったようだ。

そんな平和な空間から今夜は『どうかひとつ』という言葉が持つ不思議な力を借りて発信しよう。
「どうかひとつ、今後とも我がドッグカフェナガサキをよろしく」と。
 

どうぞお構いなく 2006年12月16日(土)

  しっかり踏み固めて大切に保存しているガーデンの雪が少なくなり、一部で地面が見え始めてきた。
解けるのではなくそのまま気化しているようだから、犬たちが汚れることはないけど、今年の12月も雪が少ない状態だ。

さて、カフェを始めて4年目になると、訪れるワンちゃんたちにも変化があることに気づかされる。
「さあ、遊ぶぞ!」という犬たちとは別に、「どうぞお構いなく」というタイプのわんこたちがひとつの地位というかカテゴリーを築き、飼い主の方もそれを受け入れるようになったことである。

どういうことかを順を追って説明すると

1.うちの子もよその犬と楽しく遊ばせたいからカフェに来た。
2.でも何度通っても他のワンちゃんと遊ばないし、この子はドッグカフェが嫌いなのかもしれない。
3.それなのに「カフェに行く?」と言うと大喜びするし、カフェが近づくと車の中でそわそわしている。
4.やっぱり今日も誰とも遊ばない。ただ最初の頃は知らないわんこや人を見ると、怖がるように逃げ惑っていたのに最近では何ともなくなって、さりげなく相手をかわすように「どうぞお構いなく」とでも言ってるようだ。

そんなわんちゃんの気持ちが理解できるとカフェ通いも結構楽しいものになる。
他犬に興味はあっても、他犬から興味を示されることに苦手なわんこは相当な割合でいるものだ。
決して存続が危ぶまれるような少数野党ではなく、黙っていてもキャスティングボートを握れるくらいの議席が確保できる存在なのだ。

『遊ばせてあげたい』という親心が、実は一方的で愛犬の気持ちを考えずに無理強いしていたということに気づき、『カフェではこの子なりに楽しんでるんだ』ということを感じることができる飼い主が増えていることはとてもすばらしいと思う。

愛犬にとっての喜びは“新しい世界”を知ったことと“ご主人と共にいる”ことで、例えばこれまで自分は車内に残されレストランに消えていく家族を寂しげに見送っていたのに、カフェでは一緒に行動できることがうれしくてたまらないのである。

酔いと夜中の1時が回り、文章の体をなしているのか分からなくなってしまっているから、前後関係は良きに理解をして下され。

最近、定休日には犬と入れるお店や観光地めぐりを私たちは楽しんでいるが、普通のレストランやラーメン屋に入るとき我が家の愛犬アモを車に残すと「ええ!なんでぇ?」という顔をされるのがちょっと辛い。
「ボク、何か悪いことした?いつも(人前では)お構いなくって振る舞い、いい子にしてるのに。なんで?」と顔が訴えている。
「ごめんね」と思うが説明のしようがない。

『どうぞお構いなく』という振る舞いこそが『おりこうなワンちゃんですね』と社会に受け入れられる要素であるから、そんなワンちゃんと暮している飼い主は、『
他犬と遊べない』と嘆くより、天から授かった性格をうまく伸ばすために我がカフェをご活用いただきたい。
 

ペット臭について 2006年12月15日(金)

  毎日犬たちと生活していると、その臭いに鈍感になるのは仕方がない。

だからといって臭いが残るのを受け入れ、何もしないでいたら床や壁にまでその臭いが染み込んで本当に臭くなってしまうものだ。
自分たちにはとりわけ何も感じなくても消臭対策を日々講じておくことが犬臭い家にならない大切な心がけだろう。

犬臭さには体臭と排泄臭が考えられる。
体臭には健康状態の不具合からくる例えば口内の異状による口臭や、消化器系のトラブルによる呼吸臭あるいは耳の病気や体表の炎症部位からの異臭があり、これらは歯磨きなどの日常の管理や動物病院での治療によって解決しておかなければならない。

とりわけ老犬となった場合にはこれらの臭いが同時に問題となるから、せめて歯周病にならない対策を日頃からとっておいたほうがよい。
カフェでは『歯磨きセット』や商品名『ペットキッス』という優れものの商品を販売しているが、歯磨き習慣がある犬とそうでない犬の場合、ある程度の年齢に達すると口臭や歯石に大きな差が見られる。

体臭にはもうひとつ、正に個々の身体の臭いがある。
犬の身体を濡らして、体表が乾く際に発せられるあの臭いである。
日頃から犬を乗せてる車に戻って、ドアを開けた瞬間の臭いでもあろう。

毎日のブラッシングは当たり前として、月に1回のシャンプーを行えばこれらの臭いはかなり軽減できる。
最近コマーシャルで見かけるペット消臭の商品については、広い家に漠然とスプレーするよりも、車にスプレーすれば自ら消臭効果を確かめやすい。

ただ、毎日犬と暮らす私ですら耐え切れないのが、実は排泄臭で、ペット関連施設やペット同伴ホテル・カフェ・レストランそれに愛犬家のお宅などで、私は敏感に反応してしまう。

夏は屋外に立ち上る異臭、冬は暖房が効き始めた室内の異臭で、新鮮な排泄臭についてはまろやかさ?があるけれど床や壁に染み込んだ排泄臭は、ハッカを口に含んだときのようなヒヤッとした感覚が起こり、その後にアンモニアが口の中で溶け出すような不快感と、慣れるに慣れ切れない臭いが頭をクラクラさせて、ペット臭というより放置・管理怠慢臭という怒りさえ込み上げてくる。

かく言う我がカフェでも『万全か?』と問われれば自信はないし、「臭い!臭い!どこか臭い!」と私が叫んでスタッフを慌てさせていることもある。
小型犬は大型犬ほど排泄習慣が確かではないからこっそりされても気づかないこともあるし、大型犬は外できちんと排尿しても、陰部に残ったしずく一滴が小型犬のそれに相当する場合もある。

つまり臭いの所在は確かめられなくても、存在する可能性は当然あるというスタンスで日々対処するのが肝要であるということだ。

ストーブが焚かれ、臭いが立ち込めやすい冬の室内での生活がある今だからこそ、外出先から戻った瞬間の家の臭いを気にしてみよう。

『排泄臭より靴の臭いが気になった』というのであれば全然OKですぞ。
あなたの愛犬管理は万全です。あとは家族管理をしっかり!

他人事のように書いてしまったが、この臭いの問題についてはペット関連施設においては永遠の課題であり、とりわけ住宅街にある我がカフェでは死活問題でもある。
個別臭は別にして『シッコ臭い!』と感じられれば、ぜひとも早い段階でお知らせいただければありがたいのであります。
何しろ我々の鼻は鈍感になっており、シッコ臭くなる条件は日々整っているのだから。

因みに現在のカフェ消臭管理体制は
1.仮に排尿失敗があれば商品名『バイオチャレンジ』(カフェで販売することもできます)を用いてその都度消臭消毒
2.毎朝、掃除機による清掃後、洗剤を使ってのモップかけ
3.週に一回、乳牛の搾乳消毒に使われる薬剤を同等に希釈しての拭き掃除および噴霧
4.ガーデンにおいては吸着性の強い多孔質な素材を使用し特定バクテリアの散布
を行っている。

経費の問題もあり、消臭消毒回数の増加やオゾンその他による効果促進機器の導入は控えているが、現在の我がカフェは家庭でもできる範囲での衛生管理を行っているはずだから、もしペット臭で気になっている方は相談していただければ一緒に解決していけるものと考えている。
 

財政再建団体夕張市に思う 2006年12月12日(火)

  夕張市の財政破綻による街の衰退が気にかかってしょうがない。

北海道が好きで昭和52年に札幌に移り住んできた私であるが、まだしばらくは働ける私の経歴を夕張の振興に仮にでも使ってもらえることがないだろうかと案を練りながら、街の復興について考えてみた。

1.『夕張は映画の街である。』という積み上げてきた歴史は今後も大いに活用できるから、決して後退させてはならぬと思う。
映画というのは『映画祭』自体のすばらしさは勿論だが、街角に掲げられている映画の看板を描く職人や、夕張の自然に囲まれた中で絵画や陶芸など、夕張は芸術を育む土壌に恵まれていると思う。

2.これに加えて『音楽の街』というのも人々をひきつけるものがある。
ちょっと気取ったクラシックもいいだろうし、団塊の世代が喜びそうな『あの頃』の歌手による参加型のコンサートが年中催されるのも素敵だし、新人登用の道が開けるライブハウスも当然備えていたら気にかかってしまう。

3.定年退職して移り住んできた人たちが、それまでに培った知識と技術を存分に発揮できて、街作りに生かせるプロジェクトなりバンクを備えているとなんか楽しくなってしまう。

4.そして私の出番である。
@『夕張石炭の歴史村』あたりを会場にして、全国の愛犬家を対象に『愛犬との暮らしすべてをカバーする講座』を設け、夕張の街を愛犬家とその愛犬とで埋め尽くし、しかも見事なほどにしつけとマナーが行き届いている状況を全国に発信するのである。

Aそのためには当然様々なクラスが設けられ、例えば『ひよこクラブ』『ブロンズクラブ』『シルバークラブ』『ゴールドクラブ』『アジリティークラブ』『セラピークラブ』『スペシャルクラブ』などなど、愛犬と飼い主の適性に応じたコースが整備されているとよい。

Bこれらのコースのインストラクターを養成したり、愛犬そのものをある程度訓練する共同宿舎には、統廃合になった学校施設が他の芸術家たちと共に有効活用されるだろうし、そのことは若者の人口流入に繋がるばかりか、このような若者は子供をたくさん産むと思っている。

C『愛犬講座』では総論のほかにも個別のケーススタディを多用するから、講座は1日から数日を要し、来場者は夕張の街で食事をするし、場合によっては愛犬と泊まれる宿が求められるようにもなるだろう。

D愛犬の社会適応進度が進むにつれ、愛犬家はペンションやロッジで夏冬を通じて新たな楽しみを模索するようになり、そこで出会った人々との連携も深まり、ついには彼ら自身が指導者になることも情報発信者になることも期待でき、夕張の自然は愛犬家にとってのパラダイスになる可能性を秘めている。

E夕張には温泉やスキー場もあるし、幸せの黄色いハンカチ公園や滝之上公園もある。
修学旅行生や観光客にはホテルもいいけど、分散型のペンションなんかも思い出深くなるし、『次は別の宿で』というのもありだろう。
街の傾斜を生かせばニセコのようなラフティングも可能なのではないだろうか。

Fジジババによる炭鉱街の物語は、聞くものを感動させてくれるし、語るものを長生きさせるにも違いない。

夕張は財政再建団体となって、伝え聞くニュースは暗いものばかりだ。
私は『そうとばかりも言えないし、何とかできるのではないか、いや変化するチャンスである』と受け止めている。

飲んだくれてはいるが、今夜はちょっとまじめに考えてみた。
 


- Web Diary ver 1.26 -