From the North Country

子供たちが死を選ぶ 2006年12月09日(土)

  「きっと生まれ変わるから」
そう言って飛び降り自殺した中学生のニュースを読んで、心痛みながら『あの頃』にタイムスリップしてしまった。

感受性豊かで、正しいことを正しく行わない大人たちに失望を抱いていた『あの頃』にである。

無知なこともあったし、教育や宗教それに考え方の違いもあるはずなのに人々がひとつの真理を追い求めていた『あの時代』のことである。

私が16の時、同じクラスの女の子が50メートルの高さの橋から飛び降りて死んだ。
昨日まで席の隣にいた子だった。
いじめではなく卒業していく彼との別れの寂しさであると当時うわさがあった。
子供だった私には眩しすぎるくらい大人の女をイメージさせる同級生が死んで、初めて大人の仲間入りをさせてもらったような記憶が残っている。

以後、私には人の生死について敏感すぎるほどの感受性が備わってしまったようで、人の命は宇宙の中にうごめくひとつのものではなく、『いつの時代の誰それ』という観念を強く抱くようになって、アメリカやイラクで何人死んだというより、誰がどんな人が死んだのかが気にかかるようになっている。

自分の生き様を示して死んだ人は幸いであろう。
たとえ意に反して短く生きる時間しかなかったとしても。
もし若者の自殺がその主張であるなら我々は冷静に受け止めなければならない。
だが、そのうちの多くに純粋さゆえの無知さゆえの環境ゆえの結末であったならば残念だ。

犬たちは決して自らの命を放棄することはない。

守るべき尊厳は生き延びることと飼い主への愛着であることが明白だからだ。
信念を貫こうとする人としての純粋さが、ただ生きるだけの生命力を超えてしまう価値を尊重しないわけではないが、人間には変化し続ける時間と未知の環境への期待が備わっていること、つまり未知の未来があることを知って欲しいと思う。

死を選ぶには若すぎますぞ。
もう少し苦労して、子育てを終え、楽しい時間を過ごし
『そろそろ、もういいかなあ』という思える時まで頑張りなさい!

飛び降りて死んだ同級生のTさんが生きていたらどんな今を送っているのかは誰にも分からないし、今の私の記憶に残っている存在こそがTさんの生きた証であるのかもしれない。

なにを選択するかは大人になって決めることであって、子供には選ぶものの中に死などあってはならないはずだ。
なのに、それが選択されているのが辛く重い。
 

変なヒモ 2006年12月08日(金)

  昨日は東京で一人で暮している長男の誕生日。
数日前から携帯にメールを送っているが返事はない。
親のたわ言には付き合っていられない忙しさだと以前から聞いていたが、今年の12月も相当忙しいのだろうか。
電話に出る暇はないだろうから、息子との唯一の繋がりはメールだけ。
「お小遣い送っとくね」と殺し文句も昨日は入れておいたのに…

息の長い人気番組の『伊東家の食卓』ではアイデアのリサーチをやったことがあって、「お父さん、生卵に小さな穴を開けて中の黄身をかき混ぜてからゆで卵にしてごらん。面白いことになるよ」と教えてくれたりしていた。
現在の担当は『Qさま』というわけの分からない番組でAD(アシスタントディレクター)をしているという。
「番組の最後に矢のような速さで流れる制作者のテロップをスローで再生すると名前が読み取れるよ」と笑っていた。

去年この番組が夜の遅い時間に放映されてた時でさえ「もう5日も家に帰ってない。スタジオの床で寝ている」と言っていたから、最近ゴールデンタイムに放映されるようになって益々忙しくなっているのだろうか。

私の子育てはとっくに終わったから、子供たちがどこでどのようであっても元気で生きていてくれさえすればそれでいい。
それよりもこれからが忙しいであろう子供たちに、親である私が余計な迷惑をかけないようにした方がよさそうだ。
「オトン元気そうだな」
私からのメールを見て、そう思っていてくれてたらいい。

さて、その元気なオトン。
昨日の定休日も、バーニーズというドッグカフェに3人で行ってきた。
まずは近くの公園でアモのオシッコをさせておこうと車から降ろしたまではいいが「ウヘェー、リード忘れた!」となり、近くにある100円ショップに買いに走った。
「ペット用品はございません」という店員のつれない返事に私はめげず代用品を探した。

最初に目に入ったのが自転車のゴムロープで、見た目や太さはリードとして誤魔化せそうだったが、長さが3メートルもあるし、ビューンと伸びるのも気に入らなかった。
どれを使ってもどうせバレるのだから、いっそのこと明らかな代用品のほうが説明しやすいと思い、購入したのが長さ1メートルほどの靴紐のようなモノが2本入った用途不明のヒモだった。

結局カフェに着席するやすぐにごろんと寝てしまったアモだから、わざわざヒモを買わずとも携帯のストラップを使えばよかったと後になって思った。

1時間ほど料理を楽しんで支払いを済ませる時、
「長崎さんですよね。盲導犬の。」とオーナーらしき女性が声をかけくれた。
「テレビとかで拝見したことがありますし、ワンちゃんもさすがおりこうだったので、そうじゃないかなあって思ってました」

『昔のことなのに覚えてくれてる人もいるんだなあ』と驚き、
『ちゃんとしたリードを買ってくればよかった』と私は恥ずかしくなって店を後にした。

私と息子は“テレビ”というヒモでも繋がっているらしいから、いつか息子が私の姿をビデオででも発見したらメールを送ってくれるかもしれない。

追伸
この欄をアップし数時間経って日付が変わった頃、息子からメールが入った。
1.潜水(?)と鬼ごっこ(?)のロケで二日間寝てないこと
2.今夜は終電で帰れそうなこと
3.元気であること
4.入金は確認してないが「ありがとう」とのお礼
5.年末のスケジュールはいつものようにぎりぎりまで分からないけど休めたら帰るとのことが書かれてあった。

ニタッ!
 

酔って書く 2006年12月06日(水)

  この欄を無断で二日休んだだけなのに「どうかしたんですか?何かあったんですか?」という問い合わせに驚かされてしまう。
「どうもしません。何ともありません。」
酔い潰れたのと“さとづかの湯”でのんびりしたのが重なった、ただそれだけのこと。
ご安心くだされ。健在です。

どうやら私とKは現在のところ孤独死からは免れそうで、どこかの湯沸しポットみたいな役割を『北の国から』が担ってくれているようだ。
♪忘れたのかい、今日は墓参り〜♪ってな調子ですな。
このコマーシャルを知らない方には失礼しました。

さて、調子に乗りすぎた私たちにちょっとした試練が訪れている。
我が家の愛犬アモの右膝術後の経過が思わしくないのである。

先週の定休日に石狩浜へ日本海の荒波を見に出かけた。
すると車から数百メートル離れた砂浜に打ち上げられていたサッカーボールほどの大きさの壊れた浮き玉が、アモに理性を超える喜びをもたらしたようで、「これ、絶対に持って帰る」と、口を砂だらけにしながらアモは車まで休み休み運んできた。
「そこまで言うなら」とカフェに持ち帰ったが、以後の執着ぶりは目に余るものがあった。

まるで玉乗りを試みるかのように戯れ、それが無理だと分かると愛しそうに抱えて塩味を含んだ浮き玉を舐めており、今日もそれは続いている。

問題なのは、その浮き玉以降、7月にTPLOの手術を受けた右足に変調を感じることで、跛行が今日も見られた。
先月20日のレントゲンでは順調な回復で、先に(右の4ヶ月前)に同様の手術をした左ひざのような回復だったから、同じようなリハビリを行っていたつもりだった。
それがどうやらうまくいってないようなのである。

うがった見方をして間違っていたら申し訳のしようもないのだけれど、前回の左ひざと今回の右ひざの手術では極端に言えば術者あるいは管理者が違っているのではないかと感じられた。
大学病院であるから研修の為にそのようなことがあるのは最初から承知している。
ただ、あらかじめ『今回の手術は○○先生の指導の下○○が対応いたしました』と添えてくれれば、私たちの慎重度も違っていたかもしれない。

ひょっとしたら近いうちに逮捕さえされるかもしれない例の腎臓移植の万波先生を、私なら命を預けられる先生として信頼するし、合法的な行いをしている先生に対して「しっかりせい!」と叱咤することもあるだろう。

患者の心に対して医術は仁術と受け止め対処してくれる医師には信頼関係が生じ、必ずいつかはあるであろう不測の事例がたとえわが子に起こっても『先生、わが子に対する失敗を無駄にするな!今後に生かせ!』と受け入れる気持ちがある。

どうせなら3日連続でこの欄を休めばよかったのに、『書かねば!』の気持ちが先立って妙なことを書いてしまったようで、脈絡が繋がるかどうかさえの判断もできないでいる。
“酔って書く”の一面見たり。
 

『探してます』『保護してます』 2006年12月03日(日)

  開店10時の気温は0度だったが快晴でガーデンの陽の当たる場所はぽかぽかしていた。
その後、ほぼ1時間ごとに気温は1度ずつ下がり、暗くなりかけた夕方4時にはマイナス6度にまで下がって本当に一気に冬が訪れたようだ。

「すごいね。本当にみんなで踏み固めてくれたんだね」
深夜、マイナス9度にまで下がったガーデンでKは喜んだ。
寒い中、次から次と常連の皆さんにお越しいただき、愛犬たちと遊んでいただいたおかげで、ガーデンはすっかり綺麗に整地され、願わくばあと10センチほど雪が降るのを期待してしまうほどだった。

さて、唐突で恐縮だが今日は愛犬がいなくなってしまったり、迷い犬を保護した時の対応について基本的なことを再び書いておこうと思う。
というのも、「生後7ヶ月のスコッティッシュテリアが昨日からいなくなり探しています」と、写真入りのチラシをもった女性が今朝カフェに来られたからだ。

この女性が「どうすればいいでしょう?」と相談に来られたのなら、私はどうすべきかを話すことができたのだが、「もし誰かに拾われたのなら、いずれトリミングにも来る筈だからその時は教えてください」というお願いから話が始まったものだから、私もうっかりして「はい、分かりました」と答えて対処法を伝えるのを忘れてしまっていたのである。

その対処法を対処すべき順番で表せば次の通り。

1.近くの交番なり所轄の警察署(何故か会計課にまわされる)に問い合わせること。
まずはこれが一番で、カフェに寄せられた『探してます』あるいは『保護してます』の相談の解決率は100%である。
その理由として考えられるのは、迷い犬なり怪我した犬(野生動物ではなく飼い犬)を保護する方は、多少なりとも犬を愛する人であるから、『きっと探している人がいるはず』と考え、つまり迷子を保護した感覚になって警察に連絡するものである。
さらに『もし、保健所(実は動物管理センター)に連絡すれば1週間で殺されるかも』と考えてしまうから、そちらの可能性は低いといえる。

2.近隣の犬関連施設(動物病院やカフェのようなところ)に問い合わせること。
そこで発見できる可能性は1.に比べて極めて低いけれど、うまくいけば1.の情報を教えてもらえるし、ネットワークのような繋がりを利用できることがある。

3.張り紙やチラシを出すなら即座に行うこと。
ほとんど役にはたたないが即座ならうまくいくこともある。

4.狭い地域なら地元のタクシー会社に連絡しておこう。
滅多に発見されることはないが、きっと自分でも車で探してみたくなるはずだから。

5.動物管理センターに連絡しておくこと。
場合によっては犬に興味のない方が『変な犬がいる』ということで、良かれと思って通報することもあるので一応ここには連絡しておくべきである。
そこで見つかる可能性は地域によってばらつきがあり、地域特性の研究課題としても面白いものがあるといえるが、もし見つかったときの犬の反応には驚かされるものがありますぞ。(この話の具体例はまたいずれ。マイクロチップの話題になるかも)

酔いが回っており、手短かにならなくなってしまったようだからそろそろ締めよう。

夕方になって「見つかりました!」と例の女性が来られた。
警察に問い合わせたら「保護している」とのことだったようだ。
凍死体や轢死体でなくて本当によかった。
今回も、めでたし、めでたし。
 

冬宣言 2006年12月02日(土)

  『今日から冬!』
とても分かりやすい寒さと降雪があり、このまま根雪になると思われる。

明朝はガロアラシ号とご来店いただく方それにワンちゃんたちに頑張ってもらうことになりそうだ。
というのも、斜路と通路は除雪するけど、駐車場とガーデンは一度すっかり踏み固めたほうが以後の使いやすさとメンテナンスが容易になるからで、駐車場は皆さんの車で踏み固め、ガーデンは犬たちに駆け回ってもらえるとありがたい。
小型犬だと埋もれてしまいそうな今夜の雪の降り方だから、中型犬以上の参加を午前中は切に望む。

なんて書いたが、実際そんな日は皆さんご自宅の除雪で忙しくカフェはヒマなはずだから、私はのんびり駐車場を踏み固め、ガーデンはKとアモそれに重量級のスタッフに転げまわってもらおう。

ところで、今月のパスタはこの寒さとピッタリの相性のようで初日から評判がいい。
「私をあんまり働かせるな!」というのがKの口癖であるが、見ていると美味しい料理を作りたいという執念は強く、試作段階からなんだか一生懸命で気迫すら感じて勝手に働く時間を延長しているようでもある。
Kの素晴らしいところはそこからのアレンジで、あっという間に私が感じる不足分を補う凄さである。

“一流シェフ”などという冠に惑わされて紹介される料理もあるが、『あ、美味しい!』と素直に言わせる味が私は好きだ。
『料理は目で楽しむ要素もある』という傾向が強くなっている時代だが、それは味と素材の限界を認めることの発想であり、純粋に例えば目隠ししてでの食味実験を一般人を対象に行うべきだろう。

勿論、優勝は“おふくろの味”だろうから、地域によって特色が出るに違いない。
勝負は2番手以降であり、そこに反映される結果はきっと面白いことになるのではないか。

「こんなところにイタリアンレストラン?」
窓から見える牧歌的な風景と相まって、心から「美味しかった!」といえる穴場が増えているし私たちも大好きだ。

『何月のあのパスタは美味しかったよね』
そんな風に推薦されるパスタが我がドッグカフェにもあったらKは益々張り切って、とびっきりの一品を今後も提供してくれるかもしれない。
そんなことをKに話していたら「お前の話はつまらん。」と一蹴されてしまった。

『今日から冬だ!』といえるような明快さが料理の世界にもあるように感じたけど、なんだかもっと複雑なようだ。
 

オープン4年目 2006年12月01日(金)

  晴天なのにきりっと引き締まった寒い朝だった。

いよいよ今日からドッグカフェナガサキは4年目のスタート。
これまでを支えてくださった皆さん本当にありがとうございました。
今後ともお友達をご紹介いただき、ミクシィみたいな愛犬のソーシャルネットワークカフェ作りにご協力下さいますようお願い申し上げます。

さて、昨日の定休日に私たちは、4年前初めて行ったドッグカフェ“プロムナード トゥトゥ”のTさんを訪ねてきた。
その頃は漠然と『愛犬教室でもやるかな』などと考えていて、まさか自分がドッグカフェを始めるなんて思いもよらなかった。

「へぇ、こんな商売もあるんだ。訪れる犬たちとのんびり過ごしながら食べていけたらいいよなぁ」なんてマイペースのTさんと話をしながら、ふと庭を見ると、喧嘩寸前の犬がいたり、壁の張り紙には『ご近所からこんな苦情が届けられていますので皆さんご配慮下さい』と様々な内容のことが書かれてあって、「結構大変なこともあるんだ」と学ばせてもらった記憶がある。

あれから4年を経てもTさんは相変わらずマイペースで楽しんでおられるようだった。
「あの頃、次から次へとドッグカフェやランができ始めましたよね。でも、今では『ここはつぶれた、あそこはやめた』という話のほうが多くなってますね」
薪ストーブの前でタバコを燻らせながらTさんは穏やかに話を聞かせてくれた。

壁にはもはや苦情の張り紙もなく、カフェでの様子を伺うと『オープンして5年の間にこのカフェではすっかりTさんのような穏やかな気風が出来上がっているのだな』と、感じ嬉しくなった。
「いや、口うるさい向かいの婆さんの姿が最近見えなくなっただけで、入院でもしたんじゃないのかな」と話は庶民的で暖かい。
「うちは365日まさに年中無休ですよ。だってここに座っているだけでたとえお客さんが来なくても、うとうと眠りこけてしまえるような快適さがあるんだからね」
傍らには年老いた柴犬が心地よさそうにストーブに身を寄せていた。

Tさんの知識は幅広く、人間性と相まって奥深い。
カフェの前はたしか外車販売の大手K興業に勤められていて、その関係で我が家の愛犬アモの前の飼い主である故N先生とのお付き合いもあった。
以前にカフェを始めるに至るいきさつを伺ったこともあるが、今では忘れ曖昧になってしまっている。
また何年かして薪ストーブの前でゆっくり話ができればいいなと思った。

その前に、Tさんの話では淘汰が始まった業界のようで、3年は当たり前でこれからが大変らしいから今後とも継続できますよう皆様の応援を宜しくお願いいたします。
 

感性を磨く鏡 2006年11月29日(水)

  「このカフェでワンちゃんをフリーにする条件ってあるんですか?」
オンリードとフリーのワンコが混在する中で、そんな質問をいただくことがある。

カフェのルールはオンリード。つまりリードでの係留が基本なのだが、いくつかの曖昧な条件を満たした犬たちはフリーの許可を受けることができるようになっている。
この際だからその条件についてチト考えてみた。

1.何度か来店されていて私たちに安心感を与えてくれる状態であること。
具体的には
@他犬や人に対して積極的な接触行動を起こさず、穏やかであるか、あるいは自分が嫌な状況からはさりげなく身を引ける犬であること。
Aマーキングやトイレのミスがないこと。
B座席やテーブルに手をかけたり、人の食べ物をねだらないこと。
Cたとえこれらができなさそうであっても、飼い主の配慮が行き届き、未然に防げたり、スタッフや周囲の人の制御に容易に反応しそれを持続できればよい。

2.カフェでのレッスン過程である場合は試験的な形でフリーにすることがある。

3.曖昧な表現だけど、人間関係。
@知らないワンちゃんが入店されるときなど、速やかに自分の犬を一旦係留する意味を理解していただける関係であればOK。
Aフリーにされたワンちゃんが調理場に入ろうとした場合、「ああ、ダメよ。ここは入っちゃダメ。」とスタッフの言葉は優しいけど、規定上絶対瞬時たりとも入れてはいけない場所だから、次の瞬間には愛犬が吹っ飛ばされることもあるのを容認していただければOK。

これが私のカフェの大まかな不文律ではあるが、あとは状況次第で対応させていただくというのがそれぞれのお店の個性だろう。

ところで、どこのカフェや愛犬と泊まれる宿でも“最も嫌われ、印象を悪くする犬と飼い主”というケースを想像してみたので一応紹介しておこう。

最悪なのが、愛犬を許可なくフリーにした挙句、その犬があちこちにマーキングしたり、迷惑がる他犬を執拗に追い回したり、あるいはソファーに駆け上ってテーブルのものに手をかけているのに、そのことには全く無頓着で「このお店、なかなか素敵ね」などと、のたまわっている人種であろう。

同様に、愛犬の所作で周囲が明らかに迷惑を受けているにも関わらず、即時直接的な対応をとらず「○○ちゃんダメよ。」と言葉では言いながら、結果的に状況を放置している飼い主も槍玉に挙げられるはずだ。

明るく奔放なのはいいが、目に余る行動を制御されると『ウー!』と唸る犬も敬遠されがちである。

これとは逆に、ここぞとばかりに愛犬に対して『オスワリ!オスワリ!カム!ヒール!』と命令を繰り返す方はどんなにおりこうそうでもちょっと敬遠されるし、
『すみません。すみません。』といつも周囲に気を配っておられる方には、「せっかく楽しみに来たんだから、もう少し気楽に考えましょう」と気の毒になる場合がある。

顧客を受け入れることで商売が成り立っているカフェが、まるで店内でのマーキングを常習とする犬のような自己主張をしてよいものかとの批判を受けそうだが、こんなことでも書けという自分が確かに自分の中に存在している。

犬と暮らすということは、宝石を着飾ることでもないし、偉ぶることでも卑屈になることでもなく、自分の生き方を素直に表現し、鏡のように偽りなくそこに映った自分を見つめ直すちょっとしたチャンスを与えてくれているのではないのかと、問うてみたかっただけのことである。
 

カフェ3年間の蓄積 2006年11月28日(火)

  我が家の愛犬アモの術後(前十字靭帯断裂後のTPLO手術)経過は順調だから、日々の散歩は殆ど気遣うことなく普通にできるようになった。

この1ヶ月の散歩の中で、『コーナーだよ』といえば横道がある道路の角で止まることを教えたし、『ついて』の言葉で私のもとに駆け寄り、そばから離れないことも教えた。
もちろん、これらはノーリードの状態でできるようにしている。

『コーナー』については道路への飛び出しを防ぐためであり、盲導犬の場合には『コーナー』と言わなくても自らの判断で止まるように訓練してあるが、私は目が見えるからそこまでやる必要はなかった。
『ついて』を教えたのは、あたかもリード歩行をしているかのように見せかける必要性がこの田舎町でもたまーにあるからで、
『つけ』あるいは『ヒール』という言葉にしなかったのは、仰々しくてかっこ悪いし、何よりKが使いやすい言葉にしたかったからである。
Kなら「アモちゃんついて」って言うだろうかなと思っていた。

いわゆる命令語というものを、私は社会生活に照らし合わせて決める傾向がある。
例えば、人前で犬を呼び寄せる時、口笛を吹いたり舌を鳴らすのは犬を動物のように扱う感じがして低俗的に過ぎるし、「来い!」とか「カム」というのも強烈過ぎたり訓練っぽかったりして今の自分達の肌に合わない。

犬にとって命令語はどれもシグナルであるわけだから、言葉は何でもいいわけである。
だから敢えて私は最終警告でもある『絶対、今すぐ、ここに来なさい!』という意思を含んだ命令語を『ちょっとおいで』という言葉にしている意味を理解していただけるだろうか?
日頃の社会生活に照らし合わせると『ちょっとおいで』の言葉ですごすごと戻ってくる犬って感心させられるでしょ?
当然、それまでのプロセスがあるのですが…。

ところで、アモは他犬意識と臭い取りの稟性を強く持っているから、普通の人が歩くと結構大変なわんこだと思う。
『暮しやすさ』という観点から見ればとても優れているが。
必然的に私は、毎日の散歩に必要不可欠な最低限のルールをアモに教え、暮しやすさが優れているから家庭内では最高の待遇をアモに与えている。
ドライブに出たときの振る舞いはAランクにようやくなったけど、まだ不足分があってトリプルAと言えないのが課題でもある。

『ローマは一日にして成らず』という諺があるように『愛犬は…』である。

カフェでは生後間もない犬達の飼い主に対して適切なアドバイスを用意しており、ひょっとしたらそれが得意分野ともいえるのかもしれないと感じている。
そしてその経験談を語れる顧客なら、カフェには四方八方におられることを最後に付け加えておこう。
 

カフェ広告について 2006年11月27日(月)

  今月末で札幌市内を走る中央バスの液晶広告からカフェの映像が消える。
パソコンで自ら製作した、私自身はとてもお気に入りの癒し系の広告だと満足していたものである。
9月からの3ヶ月契約で6万数千円の格安経費だったこともあって快く契約を結んだけれど、「広告見て来ました」というお客様は二人くらいで、「私、毎日見てます」というスタッフTの話はうれしいけれど
「スタッフが毎日見ててもどうなんだ!」と論外であり、結局宣伝効果は低かったようだ。

地域のタウンページともいえる冊子にも広告を出したことがあり、その経費は未だに引き落とされてもいるけど、こちらの方も宣伝効果は投資には見合うものではないことが分かっている。

これまでのカフェの宣伝で顕著な成果を上げているのは、テレビ局による放映と、新聞社の取材による記事であるが、どちらも私自身は乗り気な分野ではないから、今後も放置しておくつもりである。

もともと静かにひっそりとオープンしたカフェであるから、今後も最大の広告塔は来店経験者の口コミであると思っている。

と、このあたりまでを書いて私は眠りこけ、日付が変わってからKに起こされた。
先週の定休日が旗日だったから、休み無しで働いた疲れと、久しぶりの“さとづかの湯”での心地よさが身体を解放してくれたのだろう。

今度のコマーシャルは、入浴シーンを入れて、『愛犬の飼い主にとって温泉みたいに心地よいカフェ。』というキャッチコピーにしたらどうかと、ふと考えた。
 

育つことと育てること 2006年11月25日(土)

  暖かでよく晴れた一日だった。
『雪踏み固め作戦』は予想以上に功を奏し、午後になってもガーデンでは犬たちが汚れることなく雪上での遊びを楽しんでいた。
明日の最低気温はプラス3度と言ってたけど、11時過ぎにガーデンに出てみると夜空には星が輝き、足元の雪と氷はカチンカチンだったから、放射冷却がおきているのか明日の午前中まではコンディションを維持できるかもしれない。

「急にリードを引っ張り出すし、人には飛びつくし、雪や枯葉をすぐに食べるんですよねぇ」との相談を受け、
「ラブの6ヶ月といえばそんなものですよね。これからもうしばらくはさらに大変ですよ。」と私は答えながら、
『傾向としては確かにそうだが、もし自分の犬だったら許容するだろうか?』と考え始めていた。

人間の命に比べ犬の寿命はあまりにも短い。
その僅かな時間を私なら仔犬のうちからどこへでも一緒に出かけられるようにしつけて、成長段階に応じた思い出作りに少しでも時間を割きたいと考えてしまう。

我が子は勿論人間の子だったから、育てながら大目に長い目で見て、個性を楽しませてもらいながら成長と共に好きな道に進んでいる過程を今でも見守っている。
子供たちが二十歳を過ぎると『おやじの背中』は見ていてくれたのだなと感じてもいる。

さて、犬は『おやじの背中』を見ることはないけど、家風に応じた行動や感性をもつのは間違いない。
ただ、家風というのはその家の人間が意図した行動様式の中から生まれるのではなく、家人の日頃の振る舞いが相手の目にどう映るかによって決められるものであろう。

だから例えば、愛犬に対して物腰柔らかく接し、大抵のことは大目に見て大切に愛しく育てたとしても、その犬がそのような振る舞いをするのは、(稟性によって大きく左右されるが)一般的にはかなりの年を経てからであり、実際には甘いご主人の優しさにつけ込み、自分を律することなく身勝手なのに愛らしい振る舞いを覚え、家庭では立派な一員となっても社会的に問題を抱えてしまうケースが多いように思う。

『小難しく考えないで、可愛いんだから犬らしく育てればいいじゃん』という考えには大いに同意するけど、同時にその状態に育った犬を『社会的なパートナー』と唱えることの反社会性をチト考えてみるべきではないかとも思う。

決して誤解して欲しくない例え方で恐縮だが、“身体の傷はそのうち癒える。
だが傷ではない『育てられた感性と行動様式』はいつまでも残り続ける”ことを思うとき、私たちは愛犬とどのように向き合えばよいのか折に触れて考えさせられることがある。

いつものように酔いつぶれているから、文章として成立しているのか、はたまた思考回路が正常なのかすら判断できないでいる。
『可愛がり理解するだけでは足りないものが、人と犬が最初に関わった頃からあるのでは?』という内容が伝わったらよしとしよう。
 


- Web Diary ver 1.26 -