From the North Country

オープン4年目 2006年12月01日(金)

  晴天なのにきりっと引き締まった寒い朝だった。

いよいよ今日からドッグカフェナガサキは4年目のスタート。
これまでを支えてくださった皆さん本当にありがとうございました。
今後ともお友達をご紹介いただき、ミクシィみたいな愛犬のソーシャルネットワークカフェ作りにご協力下さいますようお願い申し上げます。

さて、昨日の定休日に私たちは、4年前初めて行ったドッグカフェ“プロムナード トゥトゥ”のTさんを訪ねてきた。
その頃は漠然と『愛犬教室でもやるかな』などと考えていて、まさか自分がドッグカフェを始めるなんて思いもよらなかった。

「へぇ、こんな商売もあるんだ。訪れる犬たちとのんびり過ごしながら食べていけたらいいよなぁ」なんてマイペースのTさんと話をしながら、ふと庭を見ると、喧嘩寸前の犬がいたり、壁の張り紙には『ご近所からこんな苦情が届けられていますので皆さんご配慮下さい』と様々な内容のことが書かれてあって、「結構大変なこともあるんだ」と学ばせてもらった記憶がある。

あれから4年を経てもTさんは相変わらずマイペースで楽しんでおられるようだった。
「あの頃、次から次へとドッグカフェやランができ始めましたよね。でも、今では『ここはつぶれた、あそこはやめた』という話のほうが多くなってますね」
薪ストーブの前でタバコを燻らせながらTさんは穏やかに話を聞かせてくれた。

壁にはもはや苦情の張り紙もなく、カフェでの様子を伺うと『オープンして5年の間にこのカフェではすっかりTさんのような穏やかな気風が出来上がっているのだな』と、感じ嬉しくなった。
「いや、口うるさい向かいの婆さんの姿が最近見えなくなっただけで、入院でもしたんじゃないのかな」と話は庶民的で暖かい。
「うちは365日まさに年中無休ですよ。だってここに座っているだけでたとえお客さんが来なくても、うとうと眠りこけてしまえるような快適さがあるんだからね」
傍らには年老いた柴犬が心地よさそうにストーブに身を寄せていた。

Tさんの知識は幅広く、人間性と相まって奥深い。
カフェの前はたしか外車販売の大手K興業に勤められていて、その関係で我が家の愛犬アモの前の飼い主である故N先生とのお付き合いもあった。
以前にカフェを始めるに至るいきさつを伺ったこともあるが、今では忘れ曖昧になってしまっている。
また何年かして薪ストーブの前でゆっくり話ができればいいなと思った。

その前に、Tさんの話では淘汰が始まった業界のようで、3年は当たり前でこれからが大変らしいから今後とも継続できますよう皆様の応援を宜しくお願いいたします。
 

感性を磨く鏡 2006年11月29日(水)

  「このカフェでワンちゃんをフリーにする条件ってあるんですか?」
オンリードとフリーのワンコが混在する中で、そんな質問をいただくことがある。

カフェのルールはオンリード。つまりリードでの係留が基本なのだが、いくつかの曖昧な条件を満たした犬たちはフリーの許可を受けることができるようになっている。
この際だからその条件についてチト考えてみた。

1.何度か来店されていて私たちに安心感を与えてくれる状態であること。
具体的には
@他犬や人に対して積極的な接触行動を起こさず、穏やかであるか、あるいは自分が嫌な状況からはさりげなく身を引ける犬であること。
Aマーキングやトイレのミスがないこと。
B座席やテーブルに手をかけたり、人の食べ物をねだらないこと。
Cたとえこれらができなさそうであっても、飼い主の配慮が行き届き、未然に防げたり、スタッフや周囲の人の制御に容易に反応しそれを持続できればよい。

2.カフェでのレッスン過程である場合は試験的な形でフリーにすることがある。

3.曖昧な表現だけど、人間関係。
@知らないワンちゃんが入店されるときなど、速やかに自分の犬を一旦係留する意味を理解していただける関係であればOK。
Aフリーにされたワンちゃんが調理場に入ろうとした場合、「ああ、ダメよ。ここは入っちゃダメ。」とスタッフの言葉は優しいけど、規定上絶対瞬時たりとも入れてはいけない場所だから、次の瞬間には愛犬が吹っ飛ばされることもあるのを容認していただければOK。

これが私のカフェの大まかな不文律ではあるが、あとは状況次第で対応させていただくというのがそれぞれのお店の個性だろう。

ところで、どこのカフェや愛犬と泊まれる宿でも“最も嫌われ、印象を悪くする犬と飼い主”というケースを想像してみたので一応紹介しておこう。

最悪なのが、愛犬を許可なくフリーにした挙句、その犬があちこちにマーキングしたり、迷惑がる他犬を執拗に追い回したり、あるいはソファーに駆け上ってテーブルのものに手をかけているのに、そのことには全く無頓着で「このお店、なかなか素敵ね」などと、のたまわっている人種であろう。

同様に、愛犬の所作で周囲が明らかに迷惑を受けているにも関わらず、即時直接的な対応をとらず「○○ちゃんダメよ。」と言葉では言いながら、結果的に状況を放置している飼い主も槍玉に挙げられるはずだ。

明るく奔放なのはいいが、目に余る行動を制御されると『ウー!』と唸る犬も敬遠されがちである。

これとは逆に、ここぞとばかりに愛犬に対して『オスワリ!オスワリ!カム!ヒール!』と命令を繰り返す方はどんなにおりこうそうでもちょっと敬遠されるし、
『すみません。すみません。』といつも周囲に気を配っておられる方には、「せっかく楽しみに来たんだから、もう少し気楽に考えましょう」と気の毒になる場合がある。

顧客を受け入れることで商売が成り立っているカフェが、まるで店内でのマーキングを常習とする犬のような自己主張をしてよいものかとの批判を受けそうだが、こんなことでも書けという自分が確かに自分の中に存在している。

犬と暮らすということは、宝石を着飾ることでもないし、偉ぶることでも卑屈になることでもなく、自分の生き方を素直に表現し、鏡のように偽りなくそこに映った自分を見つめ直すちょっとしたチャンスを与えてくれているのではないのかと、問うてみたかっただけのことである。
 

カフェ3年間の蓄積 2006年11月28日(火)

  我が家の愛犬アモの術後(前十字靭帯断裂後のTPLO手術)経過は順調だから、日々の散歩は殆ど気遣うことなく普通にできるようになった。

この1ヶ月の散歩の中で、『コーナーだよ』といえば横道がある道路の角で止まることを教えたし、『ついて』の言葉で私のもとに駆け寄り、そばから離れないことも教えた。
もちろん、これらはノーリードの状態でできるようにしている。

『コーナー』については道路への飛び出しを防ぐためであり、盲導犬の場合には『コーナー』と言わなくても自らの判断で止まるように訓練してあるが、私は目が見えるからそこまでやる必要はなかった。
『ついて』を教えたのは、あたかもリード歩行をしているかのように見せかける必要性がこの田舎町でもたまーにあるからで、
『つけ』あるいは『ヒール』という言葉にしなかったのは、仰々しくてかっこ悪いし、何よりKが使いやすい言葉にしたかったからである。
Kなら「アモちゃんついて」って言うだろうかなと思っていた。

いわゆる命令語というものを、私は社会生活に照らし合わせて決める傾向がある。
例えば、人前で犬を呼び寄せる時、口笛を吹いたり舌を鳴らすのは犬を動物のように扱う感じがして低俗的に過ぎるし、「来い!」とか「カム」というのも強烈過ぎたり訓練っぽかったりして今の自分達の肌に合わない。

犬にとって命令語はどれもシグナルであるわけだから、言葉は何でもいいわけである。
だから敢えて私は最終警告でもある『絶対、今すぐ、ここに来なさい!』という意思を含んだ命令語を『ちょっとおいで』という言葉にしている意味を理解していただけるだろうか?
日頃の社会生活に照らし合わせると『ちょっとおいで』の言葉ですごすごと戻ってくる犬って感心させられるでしょ?
当然、それまでのプロセスがあるのですが…。

ところで、アモは他犬意識と臭い取りの稟性を強く持っているから、普通の人が歩くと結構大変なわんこだと思う。
『暮しやすさ』という観点から見ればとても優れているが。
必然的に私は、毎日の散歩に必要不可欠な最低限のルールをアモに教え、暮しやすさが優れているから家庭内では最高の待遇をアモに与えている。
ドライブに出たときの振る舞いはAランクにようやくなったけど、まだ不足分があってトリプルAと言えないのが課題でもある。

『ローマは一日にして成らず』という諺があるように『愛犬は…』である。

カフェでは生後間もない犬達の飼い主に対して適切なアドバイスを用意しており、ひょっとしたらそれが得意分野ともいえるのかもしれないと感じている。
そしてその経験談を語れる顧客なら、カフェには四方八方におられることを最後に付け加えておこう。
 

カフェ広告について 2006年11月27日(月)

  今月末で札幌市内を走る中央バスの液晶広告からカフェの映像が消える。
パソコンで自ら製作した、私自身はとてもお気に入りの癒し系の広告だと満足していたものである。
9月からの3ヶ月契約で6万数千円の格安経費だったこともあって快く契約を結んだけれど、「広告見て来ました」というお客様は二人くらいで、「私、毎日見てます」というスタッフTの話はうれしいけれど
「スタッフが毎日見ててもどうなんだ!」と論外であり、結局宣伝効果は低かったようだ。

地域のタウンページともいえる冊子にも広告を出したことがあり、その経費は未だに引き落とされてもいるけど、こちらの方も宣伝効果は投資には見合うものではないことが分かっている。

これまでのカフェの宣伝で顕著な成果を上げているのは、テレビ局による放映と、新聞社の取材による記事であるが、どちらも私自身は乗り気な分野ではないから、今後も放置しておくつもりである。

もともと静かにひっそりとオープンしたカフェであるから、今後も最大の広告塔は来店経験者の口コミであると思っている。

と、このあたりまでを書いて私は眠りこけ、日付が変わってからKに起こされた。
先週の定休日が旗日だったから、休み無しで働いた疲れと、久しぶりの“さとづかの湯”での心地よさが身体を解放してくれたのだろう。

今度のコマーシャルは、入浴シーンを入れて、『愛犬の飼い主にとって温泉みたいに心地よいカフェ。』というキャッチコピーにしたらどうかと、ふと考えた。
 

育つことと育てること 2006年11月25日(土)

  暖かでよく晴れた一日だった。
『雪踏み固め作戦』は予想以上に功を奏し、午後になってもガーデンでは犬たちが汚れることなく雪上での遊びを楽しんでいた。
明日の最低気温はプラス3度と言ってたけど、11時過ぎにガーデンに出てみると夜空には星が輝き、足元の雪と氷はカチンカチンだったから、放射冷却がおきているのか明日の午前中まではコンディションを維持できるかもしれない。

「急にリードを引っ張り出すし、人には飛びつくし、雪や枯葉をすぐに食べるんですよねぇ」との相談を受け、
「ラブの6ヶ月といえばそんなものですよね。これからもうしばらくはさらに大変ですよ。」と私は答えながら、
『傾向としては確かにそうだが、もし自分の犬だったら許容するだろうか?』と考え始めていた。

人間の命に比べ犬の寿命はあまりにも短い。
その僅かな時間を私なら仔犬のうちからどこへでも一緒に出かけられるようにしつけて、成長段階に応じた思い出作りに少しでも時間を割きたいと考えてしまう。

我が子は勿論人間の子だったから、育てながら大目に長い目で見て、個性を楽しませてもらいながら成長と共に好きな道に進んでいる過程を今でも見守っている。
子供たちが二十歳を過ぎると『おやじの背中』は見ていてくれたのだなと感じてもいる。

さて、犬は『おやじの背中』を見ることはないけど、家風に応じた行動や感性をもつのは間違いない。
ただ、家風というのはその家の人間が意図した行動様式の中から生まれるのではなく、家人の日頃の振る舞いが相手の目にどう映るかによって決められるものであろう。

だから例えば、愛犬に対して物腰柔らかく接し、大抵のことは大目に見て大切に愛しく育てたとしても、その犬がそのような振る舞いをするのは、(稟性によって大きく左右されるが)一般的にはかなりの年を経てからであり、実際には甘いご主人の優しさにつけ込み、自分を律することなく身勝手なのに愛らしい振る舞いを覚え、家庭では立派な一員となっても社会的に問題を抱えてしまうケースが多いように思う。

『小難しく考えないで、可愛いんだから犬らしく育てればいいじゃん』という考えには大いに同意するけど、同時にその状態に育った犬を『社会的なパートナー』と唱えることの反社会性をチト考えてみるべきではないかとも思う。

決して誤解して欲しくない例え方で恐縮だが、“身体の傷はそのうち癒える。
だが傷ではない『育てられた感性と行動様式』はいつまでも残り続ける”ことを思うとき、私たちは愛犬とどのように向き合えばよいのか折に触れて考えさせられることがある。

いつものように酔いつぶれているから、文章として成立しているのか、はたまた思考回路が正常なのかすら判断できないでいる。
『可愛がり理解するだけでは足りないものが、人と犬が最初に関わった頃からあるのでは?』という内容が伝わったらよしとしよう。
 

それぞれにこだわりがあることを受け入れるのが始まり 2006年11月24日(金)

  予想もしていなかった降雪で客足は遠のいてしまったけど、我が家の愛犬アモとお泊り犬は大喜びでガーデンを駆け回っていた。
明日には暖気が入って天気も晴れマークのようだから、本当は除雪したほうがガーデンのコンディション回復には良かったのだろうが、犬たちの喜びようを見て、私は除雪をやめ踏み固めて融解を遅らせる道を選んだ。

明日の午前中は綺麗に濡れる程度で雪遊びを楽しむことができまするぞ!

『じゃ、午後と日曜日は?』と問われれば
『野暮な話はやめましょう。一寸先は分かりませぬ。とりあえず昼頃まで楽しめるのですぞ』と答えるしかない。
長靴と犬用のタオルさえあればどうにでもなることだ。

さて、お泊り犬ボーダーコリーのハグは土足の建物の床は滑るものだと思い込んで不安に陥り、緊張で足元にはよだれ池ができてしまうので2階の居間で過ごしている。
トイレの時間にガーデンに出すのだが、用が済むとそそくさと2階に駆け上がってニコッとして満足そうだ。

ボーダーの行動には一途な面が多く見られ、ディスクドッグなどアジリティ系には向いているけど、思い込みが強すぎて融通が利かない欠点もある。
因みにハグという名前は『ハグハグする』という今時のナウイ由来ではなく、飼い主が歯医者さんで『歯茎(はぐき)』から取ったハグだそうな。

ミックス犬の緋梅(ひめ)も見知らぬ人と犬が苦手だから、人目につかない部屋が好みなのかと思いきや、好奇心が旺盛なものだからカフェでうまく身をかわしながら両者を観察するのが楽しいようだ。
相手の隙を見ては後ろから臭いを嗅いで満足し、振り返られると慌てて何事もなかったような顔をして『私には構わないで』と発している。

お預かり時のフードにチキン肉の缶詰や牛乳を加えると見向きもしない。
仕方なくドライフードに煮干だけを加えるとあっという間に美味しそうに食べてしまった。

よく分からないけどやはりこだわりがあるようだ。

今夜の我が家は人と犬が同じ屋根の下にいるけど、なんだかそれぞれにこだわりがあって、それぞれに自分たちの時間を過ごしているようで、独特な雰囲気があって面白いと感じている。
 

死んでもしばらくは残るものをあなたは持っていますか? 2006年11月22日(水)

  夜9時の時点で2センチほどの積雪があり、なお降り続いて辺りは銀世界に変わった。
気温も午後から急速に下がって氷点下となっている。

このまま根雪になってくれればありがたいが、週間予報ではその可能性はなく、来週には暖気でザクザクドロドロの道路になるらしいから、明朝はどんなに雪が積もっていてもガーデンは除雪せずに大切に踏み固めて、少しでも長持ちさせるようにしなければならないと思っている。

さて今日はカフェの除雪機『ガロアラシ号』のために、柴犬宗一郎の父さんがホンダの自社整備場への運搬と整備で奮闘してくれた。
整備以外に複数の部品交換があったので、請求金額を尋ねると
「宣伝広告費で落としておきますから、いいです。」と大胆且つありがたい返事であった。

しからばコーヒーをサービスするくらいでは申し訳ないので、ホンダハイブリッド除雪機『ガロアラシ号』を、ふた冬使用した者として、その満足度を今夜は紹介することにしよう。

ガロアラシ号はこれまでに何度も紹介した私の亡き友人ガロ産業の社長が、カフェのオープンにと仕入れ値で譲ってくれた思い出の除雪機だ。

発売年の冬を迎える時に私が社長に頼んだものだから、社長はずいぶん無理を押し通してホンダのスタッフをあたふたさせたと今日宗一郎の父さんから伺った。

「クリスマス頃じゃないと納品できません」というスタッフに
「何としても12月1日までに届けさせろ。この展示品を持っていってもいいのか?」とガロ社長は食い下がったという。
3年前の12月1日がカフェのオープンだったからである。

12月7日に「遅くなって済まんな」と言って社長は家族3人でカフェにやって来てくれた。
Kが作ったカレーを「うまい、うまい」と食べた後、除雪機の扱いには慣れている私に、まるで良心的なブリーダーが自分の愛犬の仔犬を手放すときのように大切に扱うよう説明を繰り返してくれた。

その3日後に社長は死んだ。
今日除雪機について納品までの事情を宗一郎の父さんから聞かされた私は、もしガロさんの要求をホンダが意に介さず普通の流れでクリスマス頃に除雪機が納品されていたら、社長は死んでも死にきれなかっただろうし、だからこそ相手を突き動かすような気迫が言葉の端々にほとばしっていたのかもしれないとも思った。

『満足度による宣伝の方はどうなった?』とホンダの宗一郎から叱られそうなので、最後に付け加えておこう。

昔から家庭用の除雪機を職場で使っていた私に言わせれば、「シンジラレナーイ!」の一言である。
小型なのに13馬力なんてどこにもないし、少ない雪の除雪は少ないパワー、多くなるにつれてパワーが自動的にアップすることに人間味を感じ、除雪作業は一人じゃなくて『ガロアラシ号』と一緒にやってるという連帯感と安心感が生まれている。
大雪だった朝、雪の重みでさらに締まった雪を一気に遠くへ飛ばす快感があるから、苦痛であるはずの除雪作業が楽しくなることだってあるのだ。

『今年は我が家にも除雪機を』とお考えの皆さん!
カフェに相談してください。
いいモノをご紹介いたしますよ。
細かな商談については柴犬宗一郎の父さんを見かけたときにお願いします。
これでいいっすか?

外の雪は静かに降り続いている。
 

つい疑ってしまう 2006年11月21日(火)

  非婚少子化の傾向が続き、様々な施策が講じられている。

その原因として経済的に子育てできないとか育児休暇や支援施設の不足など、社会整備に問題があるように認識されがちだが、私はファミコン世代に育った若者が自分の時間を奪われるのを嫌ったり、さらに進化しているゲーム機や携帯電話をも含めた電子的娯楽が、本来人間の持つ『愛する人と暮したい欲求』を上回っているという一面もあるのではないかと思う。
そしてそれ以上に最も影響を与えているのが環境破壊によるホルモン異常というある種の社会適応反応ではないかとも思っている。

例えば現在長寿を誇る日本でも、戦後世代が摂取し続けた化学物質や環境ホルモン等によって、今後極端なほどの寿命低下が起こるし、途上国で人口が増え続け工業発展が進むとさらなる排出ガスが地球温暖化を加速し、数十年後には住む場所が水没して土地を追われた難民と、受け入れ住民による争いごとや食料不足が現実のものとなる。

日本人の若者の脳は既にそれを察知し、ホルモン調整を行って性欲や母性父性を減衰させ、人口の少ない島国を作り上げて、僅かな資源と食料で生き延びるよう『種の保存』に走っているのではないかと感じているのである。

となれば現在の施策を転換し、若者には『生活の基盤』である農業などの一次産業におけるノウハウや『生活の知恵』ともいえる伝来の技をゲームソフトにして残しておくことも重要であるはずだ。

11月も下旬に入っているのに雨が降り続く札幌の夜に不安を感じて、そんなことを考えてみた。

さらに、10数年ぶりに歯の治療に通い、溜まりに溜まった歯石を取り除いてもらったら、食べカスが歯の間に挟まって気持ち悪い。
虫歯になりかけていた歯は一本だけで、如何に私の管理がよかったかが伺える。

『歯垢はばい菌の集まりだけど、歯石は歯と歯の隙間を埋めてお互いを支えあう役目も果たしているはず』と私は勝手に解釈している。
それを取り除いたから隙間に食べ物が挟まり、そこに虫歯菌が集まりやすくなって、放置しておくと再び虫歯になる危険性が高くなるのではないか?

もし『歯石はそんなばい菌と戦った末に、歯を守るために構築された砦ではないのだろうか?』と、言ったら科学的にギャフンと潰されるだろうし、歯が悪くなることイコール日常生活どころか肉体の死を意味することに繋がりかねないと脅されることだろう。

『じゃ、歯磨きの習慣や歯医者が無かった大昔の人たちが80歳まで生きれたのは何故なのですか?』
と屁理屈だけはすぐに頭をよぎる私。

だけじゃない、他の要素もあるのではないですか?
それを伏せておいて危機感を煽っているという医療のあやまちの可能性はゼロなのでしょうか?
昔80時歳まで生きた人は奇跡であって例外の範疇なのでしょうか?

今の私は勿論、すがりついてでも歯医者で悪いところを治してもらう。
ただ、『本当かな?』って、つい思ってしまうのだ。

どれも本当であり、過大過小評価であるのだろうから、どの辺に重点をおくかを判断するのが個々人に問われているのだと思う。
 

終焉(しゅうえん)ではなく新たな始まり 2006年11月20日(月)

  昨日のこの欄にも登場していただいたG動物病院のM先生のところに、今日はラブラドールの凛ちゃんを連れて行ったというSさんが帰りに立ち寄ってくれた。

凛は月に2回はてんかんの発作を起こしてしまう黒ラブで、Sさんはいつも心痛めていた。
カフェで製造販売している『活性水素水』をスタッフSが自分の愛犬に飲ませ続けると、それまで頻繁に起きていたてんかんの発作がウソのように収まってしまったという話を以前に紹介したが、Sさんもしばらくその水を飲ませ続け、ある程度の効果を確認された後、その器械まで購入されていた。

しかし、その後再び凛の発作は続いてしまったようで『活性水素水』が有効ではない事例がひとつはっきりした。(我が家ではりんごや梨を食べると喉が痒くなって食べられなかったKが、今では問題なく食べれるようになり、『あの水のおかげじゃないか?』と喜んではいるが…)

で、動物病院で発作を抑える治療を並行し、飲み薬と検査に毎月1万円程度の費用がかかっていたらしい。

「それが今日M先生に診てもらい、お話を伺ったらなんだかビックリというかすっきりした気分になりました」とSさん。

Sさんから伺ったM先生の話を総合すると
『犬のてんかんは完治するというものでもないし、ある種の障害という捉え方をすれば、凛ちゃんの個性でもあるわけですよね。
検査やお薬にお金をかけようとすればいくらでもできるけど、それで完全に治せるわけでもないわけです。
高い治療をし続けてやれないという理由で、自分を責めれば心以外に家計などにも負担が大きくなり、別の問題だって浮上してくるでしょう。
個性だと受け止め、それなりにできることをして目をそらさず向き合って暮していけばいいんじゃないですか』

結局M先生とこでの1ヶ月の薬代は1800円で、私の勝手な解釈も加えた内容であるから、M先生には叱られるかもしれないし褒められるかもしれない。

ある状況に対して安易に『あきらめろ』と言ってるのではない。
『確かなことにまで反発して、いつまでもくよくよし、医療や神頼みで心痛めるのではなく、現実を受け入れた中でこそ新たなスタートを切ることができ、新世界の境地を開くことができる』と真理を述べているのである。

豊富な知識を持ち、社会の理不尽さに対する反骨心が加味され、それに人の心を理解し、さらにその先の可能性を知っているからこそ発せられる言葉なのだ。

2000年3月。私が盲導犬協会で指導部長をしていた時、日本糖尿病眼学会の当時の会長をされていたT先生から
「長崎さん、あなたの考えを是非学会で発表して欲しい」との依頼を受け、札幌で開催された総会で辛口の講演をしたことがあった。

「医学的に回復不可能な眼疾患の患者に対し、先生方の思わせぶりな発言での医療の延長が、結果的に本人の社会復帰を遅らせ、失業による経済的な破綻に始まる家庭の崩壊を招いている現状を知って欲しい。
先生方の病院では人生を悲観した自殺者を増やしたくないだろうから、告知を躊躇する気持ちは充分承知しております。
だけど告知の場面あるいは後のケアを担当できる私たちの仲間である専門員が全国にいます。
どうか、失明が人生の終わりではなく、変化した新たな人生の始まりであることを理解してください。
医療の終わりが人生の終焉ではなく、新たな始まりであることを知ってください。
あなた方が理解できないことを患者に伝えることなどできないのです。
医療と視覚障害リハビリはもっと連携すべきであります」
と、数字や具体的な方法論を示したが、心の底を巡っていたのは科学的発表の場に相応しくない人間論であったかもしれない。

「よくぞ言ってくれた」
講演後に駆け寄ってくれた先生と、「あいつ何を言ってるんだ?」という先生の姿を同時にあの時見た。
あれから6年が過ぎている。
どこかが少しでも変わってくれただろうか。

M先生が同意してくれるかどうか確認はしていないが、私と立場こそ違え、そんな思いを発信しているように思える。
 

忘れかけているもの 2006年11月19日(日)

  北海道のさらに田舎町で、実に北海道らしい出来事があったのでお伝えしたい。

主役はゴールデンのムーンとトムの母Kさん。

カフェからそう遠くないハイジ牧場のすぐ近くでご主人手作りの家を建てて住んでいるKさんご夫妻だが、その建築作業は数年経った現在も続けられ「今年はお風呂を作ったよ」などと至ってのん気なものである。

そのKさんが今週もカフェにやって来て
「いやぁ、もうビックリしたさ」と話を聞かせてくれた。

先日、仕事から帰宅途中、家の近くで犬が車に轢かれるのを目撃したKさんは、そのまま立ち去る車には目もくれずに停車し、横たわったシェルティーに駆け寄り、後続の車や前から来る車に大きく手を振りながら悲鳴のような声を上げて、再び轢かれないようにしたという。
「もう動転してたから、何がなんだかよく覚えてないんだけど、すぐにG動物病院に電話したんだ。
したらM先生が出て、内臓が出てたらどうのこうのって言ってんだよね。その電話をしてる最中にも車が走ってきたりするもんだから、ぎゃー!やめてー!来ないでー!って私悲鳴上げてたからそれだけで状況が伝わったんじゃない?」

「で、犬はまだ生きてたの?」と私。
「うん。他の車から男の人が降りてきて手伝ってくれたんだ」
「触ろうとしたら怒らなかった?」
「最初、鼻にしわを寄せてウーって言うから、大丈夫だよ、ちゃんと助けてやるからねって言い聞かせたら大人しくなったの。」

「で、助かったの?」と私。
「あのね、私夢中で運転してたから後ろの様子なんて見てなかったでしょ。G動物病院に着いたら先生も駆け出してきてバックドアを開けたんだよね。」
「うん」
「したら、ちょこんってオスワリしてんの」

まずは一安心だったが、そこからがまた面白かった。

「首輪ついてたの?」
「え?あ、いやあ、私の地区知ってるでしょ。あの辺じゃ犬に首輪つけないし、トイレだって勝手に外に出して、犬も適当にその辺走り回って帰って来るんだもん。」
「じゃ、その犬知ってる犬だった?」
「うん、見たことはあるけど、誰の犬かは知らない。こないだだって、よく見る犬が放れてたんだ。遊んでるんだなって後ろ見たら自転車に男の人が乗ってて、ああこの人が飼い主なんだって初めて分かったくらいだから。」

「で、どうなったの?」
「うん。私、治療費がどのくらいかかるか心配になってきたんだ。普通なら数万円でしょ。でもG動物病院だから6千円くらいかなって。」
「それでいくらだった?」
「タダ。凄いでしょ?」
「さすがだね、M先生。で、シェルティーはどうなったの?」
「捨て犬じゃないですよねって先生に訊いたら、『口を開けたりどこをどう触っても、嫌がりもしないからこの子は飼い犬です。Kさんとこの地区の犬なんでしょ?じゃ、治療したあとであの辺に返しておくから、あとは自分で家に帰るでしょ。』っていうから、戻ったんじゃない」

なんと大らかな土地柄だろうか。
いろんな批判もあるだろうし、もしその地区に盲導犬がいるなら意識改革を訴えなければならないだろう。
でも、必死になって助けたKさんも「そりゃそうだ」と納得した結論であり「まだ戻ってなければ回覧板で連絡がくるからいいんじゃない」と、あっけらかんとしている。

犬を飼ううえでの決まり事は必要だし、犬に対する愛情も深くあって欲しい。
また、物事をいい加減に処理すると後々ややこしい問題が持ち上がってもくることも知っている。
しかし近時、何事においてもがんじがらめに社会規範を設けて押し付けようとする風潮があるが、私には一見正しく聞こえる屁理屈が、責任逃れと結果的に自分の首を縛り上げ、人間本来の心の豊かさを奪っていると思っている。

規律社会では『見てみぬふりをすることもわが身を守ることに繋がる』知恵であろうが、多くの助けられる命がそのことによって見捨てられてもいるはずだ。

これ以上のことは言うまい。
今夜はKさんやM先生と知り合っていて本当によかったと思っている。
 


- Web Diary ver 1.26 -