From the North Country

弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる 2006年10月24日(火)

  昨夜は酔っていたし寝ぼけてもいた。

それに例え平常心であっても誰だって誤りはあるものだ、よね、だしょう?

フツウ、ペット繋がりの友人を携帯電話に登録する時『長崎アモ』とかにするじゃん。
だから夕べ、突然お預かりになったNさんから私の携帯に電話が鳴ったときに『Nアラン』と表示され、私がすっかりNさんの愛犬をアランだと信じ込んだとしても仕方がないのである。

でもそれが何年も前に登録されていて、現在の愛犬の名前ではなかったとしたら…?

そんな過ちを私は犯し、夕べ遅くから今夜遅くまで預かっていたワンコを我が家の愛犬アモと同胎のアランと信じ込み、この欄でも紹介してしまったのである。

アランは確か釜石市(これは本当か?)で立派に盲導犬として活躍しているのを知っていたはずなのに、この段階ですっかり“思い込み”が働き、夕べから本当の名前を『ナック』というわんこを『アラン』と呼び続け「アモの兄妹です」と今日一日紹介してしまっていた。

盲導犬候補犬としての性質が似通っていたのと、体型の違いはオスメスの性差だと思い込んでいたから、最後まで疑問を抱かずに皆さんには結果的にウソを言い続けてしまった。
実際、目の色や形に違いはあるものの性質的にはとても共通するものがあった。

今夜遅く、お迎えに来られたNさんが「ナック!」と呼びかける声を聞いた途端、私はうろたえ、しどろもどろになってしまった。

だが、しばらくして私に助け舟となるチャンスが巡ってきた。
「釧路の帰りに帯広によって買ってきたクランベリーのスウィートポテトです。食べてください。」とNさんから頂いたお土産を開封すると、中にはNさんちの人数分のショートケーキが5個入っているではないか。

「渡す土産を間違えたな!」
すぐさまNさんに電話を入れて、解けかけたショートケーキを食べる許可を頂き、アランとナックの勘違いを正直に告白し、お互いのミスはチャラになった。

ただひとつ誤算だったのは、5個のショートケーキを黙々と食べ続けようとするKの食欲であったのが怖い。
 

急なお泊り 2006年10月23日(月)

  お泊り犬がいなくなった途端、嬉々としてカフェをたたんで私はアモの散歩をたっぷり行い、その間にKは仕入れに出かけ、アモに一品多目の夕食を済ませてから『里塚の湯』に走る私たちであった。

その途中、私の携帯が鳴って「突然ですみません。今夜からお泊りをお願いできませんか?」といつもは元気な元パピーウォーカーのNさんが電話の向こうで不安そうに話しかけてきた。

「今、出先ですが」と私が答えると
「実は主人の父が倒れてしまって釧路まで行かなければ…」と、話は切実であった。

Kは次の中央分離帯が途切れた場所でUターンし、カフェに戻る準備を整えた。

いつでもOKのお預かりの心構えを整えたが、幸いにもその時間まで『里塚の湯』を楽しむ猶予が残されていたので再びUターンして、温泉ヨガをしっかり行って体調を万全に整えた。

お泊りのアランはアモと全くの兄妹だから、何ともいい子である。
生まれが同じで育ちが違い、方やオス犬で方やメスであり、その違いを知りたい方は明日からのご来店で確かめて欲しい。

途中で居眠りし気づいたら夜中の3時になってしまった。
ごめんです。おやすみなさい。
 

気ままに生きる 2006年10月22日(日)

  『そのうちカフェをやめたらペットホテルを月に20日だけやって細々とひっそり楽しく暮らしていこうね』
そんな共通認識が私とKの間にある。
ガーデンもあるしカフェのスペースを改造してうまく使えば、喜んでもらえる環境は整うであろう。

たぶん今すぐにカフェやレッスン・愛犬の美容室をやめてペットホテルに特化しても得られる利益は大して変わりはないと思われる。
なのに、交代といえども5人のスタッフを使い、毎月のパスタや日々の料理・おもてなし・レッスンに心砕きながら営業しているのは、利益だけではない繋がりやお役立ちそれに何より楽しみが私たちを包み込んでくれているからだと感謝している。

『お金では買えないもの』という禅問答のような『意義』について感じ始めたとしても笑われるような年齢ではなくなった。
もともと盲導犬事業に関わってきたのだから、世間並みの金銭的充足欲求を棄てて精神的充実の世界を選んでいたわけであり、その延長が未だに続いているだけのことである。

怖い話だし、だからといって私たちが開き直って変な意味で大名商売をしているなら痛烈な批判を浴びせていただきたいのだが、実際のところそれを意識してお客を選ばせていただいているのはペットホテル部門であろう。

『基本的に一見のお客様のワンちゃんはお泊りできません』
という決まりにしたのは失礼ながら大正解だと思っている。
今夜だって気心の知れたラブラドールとゴールデンが、私の横ですっかりリラックスして寝そべっている。
知らない犬だったら、北海道日本ハムファイターズが逆転したときに飛び上がった私に吠え立てていたかもしれないし怖気づいたかもしれない。

今夜、気に入らないのは、私が飛び跳ねたのに対して「またバカやってる、このオヤジ」というように、私よりも犬たちのほうが私の行動を冷静に予測していて寝ぼけたように冷たい視線を浴びせ、盛り上がりに欠けたことくらいだ。

かくして、北海道日ハムは今夜の勝利を収め、私の喜びに同調してニコニコやってきたのは我が家の愛犬アモだけであった。

わがままな商売をさせていただいてるけど、私たちが楽しみ愛犬もそれを見守ってくれてる生活こそ長続きの秘訣でもあるかもしれないのでご理解のほどよろしく。
 

晩秋 2006年10月21日(土)

  春からガーデンに張っていた日除けテントを今朝撤収した。
陽光が降り注ぐ時はとても気持ちよく、雲に遮られた途端に身震いしそうな寒さを感じる季節になったから。

確か去年の10月末に白鳥の群れが見事な編隊を組んでカフェの上空を飛行していたので、今年も見られればと毎日期待して耳を澄まし北の空を眺めることが多くなった。

まだ大した数ではないが雪虫が飛び始めている。
ガーデンの淵に溜まった枯葉を庭ボウキで掻き集めると、太さが6ミリ以上もあるミミズがうじょうじょ出てきて再び土に潜ろうともがいていた。

白樺やアカシアの葉が徐々に落ち、向こう側が透けて見えるようになったし、窓から見える公園の木々の中で一本の木だけが燃えるように鮮やかに赤く輝いているから明日種類を調べてみようと思う。

食欲にムラがあったシベリアンハスキー/チェスの身体が明らかに丸くなり、Kは毎夜「アイスクリーム食べていい?」と私に尋ねるようになった。

長い冬の足音が聞こえ始めた晩秋の札幌で、二日休んだのに今夜のテーマが見つからない、これも私の晩秋である。
 

職場放棄 2006年10月18日(水)

  「女をいつまでも働かせるなぁ!」
「休ませろぉ!」
「団結するじょ、オー!」
そんなKのひとりシュプレヒコールがあがって以来、水曜日はKの休日となり、翌日の定休日とあわせて連休になっている。

今朝からお出かけの雰囲気を漂わせていたKだったが、我が家の愛犬アモは朝食を終えると、いつものように1階のカフェに忙しそうに出勤していった。
一体何が忙しいのか私たちにもよく分からないけど、アモはいつも「よし、今日も頑張るじょー」と張り切って出勤していく。

スタッフがやって来て開店前の掃除を始めると、ストーブの前に寝そべっているアモは、掃除機をかけるとき・モップをかけるときに「アモちゃん、ちょっとごめん」と声は優しいが明らかに邪魔者扱いされている。

すると今日は何を思ったのか、私がいた事務室に入ってきてチラッと私を振り返った後、廊下を抜けて2階に上がっていった。
しばらく降りてこないので様子を見に行くと、Kが入った洗面所のドアの前に伏せていて、その目で「ボク今日は休ませてもらうことにします。母さんにお供します」と語っているではないか。

そんなわけでアモは初めて職場放棄をし、その切ない眼力でKを引き込んでいそいそと出かけていった。

アモのいないカフェはちょっとした空間の広がりはあったし、来客時のお出迎えがないから静かにも感じられたが、平日でヒマなカフェで私は時間を持て余してしまった。

夕方、ニコニコと戻ってきたアモに私はちょっと嫉妬し、「アモ!病院行くぞ!」と声をかけ、一ヶ月遅れの混合ワクチンを腰の辺りにブスッと打ってきてもらった。
 

裏話 2006年10月17日(火)

  他人には見られたくない場面というのは誰しも抱えているが、私とKにとってそのひとつが我が家の愛犬アモとの散歩のシーンじゃなかろうかと思っている。

この欄を読んでおられる方や、カフェに来られてアモをご覧になった方には信じられないだろうし、私たちにとっても恥ずかしい話ではあるが、今夜はその正体を少し明かそう。

カフェではおりこうさんに振舞っているあのアモも散歩となると本性丸出しで、とても自慢できる姿ではない。

1.散歩に出た時だけはマーキングの帝王(Kはマーキング王子と呼ぶ)となって、その数たるやシーズーのゴンタには到底及ばないが相当なものである。
私たちがいるからよそ様の玄関先などにはさせないが、空き地や草むらに引っかけまくって、しかも最後までしっかり出している。
早い時期に去勢してもマーキング意識が残った犬の典型だろう。
弁護することがあるとすれば、状況をわきまえてるということで、例えば建物の中は勿論、札幌の駅前通りを歩いたとしてもそんなことはしない。

2.臭い嗅ぎは大好きで「野良犬みたいな動きをするな!みっともない」と私たちを呆れかえらせる。
ただし、拾い食いをすることは絶対ない。

3.他犬を見かけた時や外飼いの犬がいる場所では毛を逆立て息を荒立てて、自らの不安を覆い隠すように虚勢を張っている。その姿たるや『コモドドラゴン』とKは呼び、『お前はイグアナか』と私は嘆く。

以上はアモの稟性(もって生まれた資質)で、つまり、ただ、犬として普通に育てていればいつもそれが前面に出るということでもある。

『盲導犬の訓練をやってた人間がそんなことも治せないのか!』とお叱りとヒンシュクを浴びせられるかもしれないが、大手術を2回もやって長く辛い制限を与え続け、今ようやく自分のやりたいように動き回るアモの姿に私たちは喜びを感じているのだろうと思う。
アモも「やっぱりそうだったんだね。僕のためだったんだね。もうどこも痛くないし不自由なく走れるよ」と言ってくれているようなのだ。

教えたいことはまだあるが既にたくさんのことを教えてもある。
実際、以前のように引っ張ることはないし、紐無し脚側歩行も命令口調で言えばできるし、ノーリードで誰にも迷惑をかけることなくマーキングや臭い取りもさせずに歩こうと思えばできる。

でも、私はアモにいわゆる訓練はしない。
どんな状況下でも冷静に判断し指示された作業を喜びとして行う必要性が我が家にはないからだ。
勿論『訓練とは、教えられたことをすべて忘れたとしてもなお残るもの』という側面があると私は考えているから、その点については家庭犬のアモにも保護者としてそのうち教えていくつもりだ。

飼い主が愛犬との暮らしをイメージするスタイルとは関係なく、生まれ持った性格というものが犬にもあり、そこら辺のギャップでつまづく方が結構多いと思う。

私とKはみっともないアモの現在の行動をできるだけ人に迷惑をかけないようにし、アモは奔放に楽しんでいる。
根底にはお互いいつでもいい子に見せかけることができるという合意ができているからだ。

ただ、そこに人間の子供と同等な権利と個性を認めていると思われたなら大違いである。
子供たちは親元を離れ自活する別人格の人間であるのに対し、アモは私たちと一生暮らしを共にする伴侶である。
犬格は知っておくし最大限のわがままを許すけど、我が家のライフスタイルからはみ出させることはない。

でも今夜みたいな散歩はやっぱり誰にも見られたくない。
『幻滅!』『信じらんない!あれがアモ?あれが訓練士?』
どこにも表と裏はあるのですぞ。
 

今を生きる 2006年10月16日(月)

  社会的な合意というか世論形成といえばいいのか、そんな大切な事柄が、多くのメディアによってあからさまに誘導されるようになって久しい。

これらのニュースを黙って見て、聞いて、読んでいると「そりゃそうだ!」と納得させられるし、時に同情したり時に怒りを感じさせられたりするように報道が進められていく。
コメンテーターの意見もそれに彩を添えて「メディアの主張の通りにこの国を運営すればいいのに」などと本気で思ってしまうことがある。

ごめんなさい。
この欄に相応しくないテーマなのだけれど、今夜は少し書かせていただきたい。

この国は言論が保障された自由の国であるはずで、これから書くことは私自身に活を与えるためであり、自分の考えを整理し老化防止に資するためそしてある出来事からであることを予め申し添えておく。

『そうだよなぁ。でも何かすっきりしないし引っ掛かる』
ワイドショーやニュースを見ながらそんな風に感じることがないだろうか?
今夜は、私が感じるそのひとつである“学校教育とメディア”について考えてみたい。

例えば“いじめによる自殺”という最近のニュースをテーマにタブー(書いたことで千本の矢が飛んでくる)を選んでみた。

マスコミ:
「教育長!あなたがもっと早くいじめについて認識していれば、こんな事件は起こらなかったんじゃないですか?」
「なぜ答えられないんですか、課長!逃げるんですか!責任を感じないんですか!」
マスコミの追求は手厳しい。

私の頭の中:
「教育長や課長がそんな○○学校の誰々さんのいじめを把握してるはずないだろう。彼らはシステム作りと維持管理の責任者だぞ。勿論最終責任はあるけど、個別の具体的なことを聞いても答えられるはずはないじゃん」
「校長先生だって○○ちゃんは素直で明るい子でした。って答えてるけど、そんなの校長が把握してるなんて普通あり得ないの知ってるでしょ?あなた日本の義務教育の現場を体験してきてるんでしょ?」

マスコミ:
「あなた方が○○ちゃんを死なせたんじゃないですか?それでも教育者ですか?答えなさいよ!」

私の頭の中:
「究極のいじめだね。記者自らが当事者でないのをいいことに、あたかも遺族と国民を代表するような気になって、本質の一部に触れただけでかわし、何としてもリンチする人間を選び出して幕の引きどころを探しているのだ。そしてたまたま赴任したばかりの有能な人間すら排除しているかもしれない。」

ご遺族に対してはお悔やみの気持ちと、更なるタブー(一万本の矢)に触れなければならないのが辛い。

私の頭の中:
1.いじめられ死を選んだ子供の気持ちはどんなに張り裂けんばかりであったろう!
2.そんな状況に気づかぬ親などいるはずはないし、思春期などを理解しながらみんなで育ててきたはずである。
3.私たちは日本の義務教育社会を体験してきたから、自分の子供には「いろんな先生がいるんだよ。先生だってアホたんはアホたんだし、いじめてる子はひょっとしてあなたに気があるんじゃない?それでもひどかったら父さん母さんが守ってやるから…そうそう私が小学校の頃はね…」そんな会話があってしかるべきだと思っている。要するに学校に子育てのすべてなど任せてはいなかったのだ。
4.動物としてのヒトの中からいじめを根絶するなんてあり得ないことだと思う。
ただしヒトは理性と知性を有しているから、人間として法を作り秩序を保つようになった。
親が子供を普通に育て、そこで不法に人権の蹂躙(じゅうりん)があるならば法で裁く社会を作ってきたはずである。

なのに自殺した子の親の主張(つまり庶民)の視点ばかりに立ち、次元を超えた客観性(もしあるならば)を総合的(言い過ぎだが生物の淘汰にも及ぶ)に汲みしないのは将来に禍根を残すことになるだろうと、わが子を育てた経験から主張しよう。

つまりは、子供同士でのいじめは存在してこそノーマルであり、度を過ぎたものは法で裁かれるのが社会なのだということを広く理解させる義務とその範疇を適正にすることが教育者のひとつの仕事なのだろうと思う。

理念が曖昧となり、不正を不正と叫ぶだけで視聴率を稼ぎ、本質的な部分を踏み外しているメディアに警鐘を投げかける方法はないものだろうか?
彼らには我々の選挙権が及ばないし、もはやすごい力を持っているのが怖い。

今夜、こんなことを書けたのには訳がある。

カフェの設立時からトリミング部門に携わってくれたノンちゃんが、12日に亡くなったとご両親が今日報告に訪ねてくれたのである。
呆然と立ちつくした私たちは、今、何と言えばいいのだろう?
お見舞いに行って、てっきり快方に向かっていると思っていた私には、声も出ない動揺がある。

人の命なんてわかりゃしない!
ノンちゃんはまだ34歳だったんだぞ。
カフェの設計のときから、備品の購入まで全部ノンちゃんに任せてたんだぞ。

今を精一杯生き、自分に正直であり続けるしかないではないか!
 

帰っておいで 2006年10月15日(日)

  ムツゴロウ動物王国の運営会社が破綻するとのニュースに少なからずショックを受けている。

以下、動物王国のホームページより

『報道の通り、王国の運営会社であった「グローカル二十一」は経営破綻によりサマーランドより退却致しましたが、私たちスタッフならびに動物たちは畑正憲のかかげる「命の大切さ」を多くの方にお伝えするべく、この地において、活動を続けて行く所存です。
東京サマーランド様をはじめ多くの方々より暖かい励ましの言葉を頂きました事をこの場にてお礼申し上げます。
今後もスタッフ、動物たち共に力をあわせ、頑張ってまいりますので一層のご声援を宜しくお願いいたします。』

今夜この欄で動物王国が東京へ移転したことについて“後出しジャンケン”のような評論をするつもりは全く無い。
ただただ石川さん一家を心配し、「そんな所で頑張らないで動物たちと一緒に北海道へ帰っておいで」と伝えたいだけである。

スポンサーも東京ならいくらでもつくだろうし、再建だって可能かもしれない。
でも「そんな所で頑張らないで、また北海道でのんびりやろうよ。報道が正しければ負債だって8億程度じゃん。そんなもんどうにでもなるよ。」

私の大好きな詩を紹介して今夜を締めくくろう。

安足間 (注、あんたろま、旭川市の北、愛別町の地区名)
          百田宗治 作(『どこかで春が』の童謡の作詞者)
安足間へ来いという
縁側から正面に
大雪山の雪が見えるという
石狩の上流があふれて
倒れた泥やなぎの
根をあらっているのを見にこいという
山女を食いにこいという
寺もある
郵便局もある
薪にも不自由はさせぬという
埋もれに来よという
死にこよという
 

高齢化社会 2006年10月14日(土)

  日付が変わってしんとした秋の夜長。
読書でもしていれば様になろうけど、老眼が進んでから新聞を読むのも難儀になっている。
いずれ眼鏡が無いと生活にも支障をきたすだろうから、買い求める時期が迫っているのかもしれない。

それをさっさと実行しない理由に思いを巡らせてみた。

最大の理由として、見えづらい状況を甘受し、過去に私が携わった視覚障害リハビリテーションのひとつであるロービジョン(低視力)について検証している感があるように思う。

車椅子に乗って僅かな段差や急な斜面を移動する『車椅子体験』、おなかに錘を巻く『妊婦体験』、肘や膝に錘を装着し視力・聴覚低下をもたらす器具を使った『高齢者体験』などによって、障害や態様による社会的弱者が抱えている困難の一部を体験した方もおられるだろう。

眼鏡やルーペなど光学的補助具で矯正不可能な視力の低下や、白内障・脳腫瘍などによる視野障害など、視覚障害者の凡そ9割を占めるロービジョン(何らかの見え方がある人々)の指導を行ってきた私が、加齢によってその障害の一部を感じる入り口に立たされている。

ロービジョンを体験することができるシミュレーションキット(模擬体験眼鏡)というのがあるのだが、「あなたはそれを外せば普通に見えるようになるのでしょう!」と嫌味を言う人を想定して講演活動をしていたのを思い出す。

現在の私は、お店に入ってもメニューの字が読めないから、店員に尋ねてしまう。
商品の値札が読めないから、新聞の折り込みチラシに大文字で書かれた品物を買う傾向がある。
サプリメントや薬の量は説明書の文字が小さすぎて読めないからこれまでの経験に基づくカンで決める。
色合いが同じようなシンプルデザインだと見分けがつきにくい。

そして最も辛いと感じるのは、他人から見ると勿論障害者ではないから「なに、この人?ちょっとおかしいんじゃない?」との視線である。

若者からみれば熟年の行動の中に違和感を感じることが多々あるだろう。
私たちが若かった頃には、信号のある交差点の渡り方も分からない老人を不憫に思ったりしたものだ。

だが、『今時の若者』に私は期待を寄せたいと思う。
これからの世の中は、そんな爺さん婆さんがゴロゴロうろつく時代であるからだ。
我々の時代には違和感があったとしても彼らにとっては「フツウ」の時代になっていくのだろうと思う。

ひょっとしたら昔の映画『ソイレントグリーン』のように、老人が食料にされるかもしれないけれど、それはまたよしである。

いずれにせよ、コーヒーと灰皿の見分けがつかず、タバコの灰をコーヒーの中にいれた時、私は眼鏡を買いに走ることだろう。
 

まことに無責任なススメ 2006年10月13日(金)

  冬の北海道ではビールを凍らせないために冷蔵庫があるように、北富良野のドッグカフェではドッグランがあるのを明確にするために柵が設けられている。
つまり、辺り一面が広大な草原だから、どこを駆け回ってもよさそうなものなのに、『とりあえずここがランです』と区切ってあるのが面白い。

きっと呼んでも戻ってこない犬たちのために必要なのだろう、と妙に納得してしまった。

実践するには不安な方が多いだろうし、リスクが無い訳でもないから無責任な話になってしまうが、『呼び戻し』について久しぶりに書いてみよう。

例えば、無人島に愛犬と二人残された時、あなたを放置して何処かへいなくなってしまう家庭犬はまずいないと私は思っている。
駆け出して姿が見えなくなってしまうことはあるだろうし、走り疲れてふと我に返った犬が帰り道も分からず迷子になる可能性がないとはいえない。

しかし、どちらも主人の居所を伝えるような情報さえ与えれば、そのうち戻ってくるだろうし、主人と離れ不安になった経験で以後は主人の姿をチラッチラッと目で追うようになるだろうと思う。

愛犬が仔犬であったり、とりわけ野性味の強い犬でなければ少々身勝手な犬であっても、走り去ろうとする犬とは違う方向に歩き出し、且つそのことを(大声を出すとか)何らかの手段で伝えることができれば、慌てて犬は戻ってきて、「こいつは目を離すとどこへ行くかわからないから注意しなきゃ」となるものである。

さらに、その段階に至った犬が油断した隙に、主人が物陰に隠れるような遊びを取り入れることと一緒にいること自体が楽しい若しくは意義ある時間であるなら、少なくとも、群れとしての秩序が整った移動ができるようになるはずである。

主人と愛犬との愛着なり信頼関係によっては、この段階でそこそこの『呼び戻し』は可能になっているが、勿論絶対的ではない。
犬が強く気を引かれるような出来事(例えば食べ物であったり他犬との出会い)があれば、犬は衝動に駆られた行動をとってしまうだろうから。

『呼び戻し』を教えきれるかどうかは、主人としての適性を身につけた人間が、数ある方法の中から選択的手法で愛着と信頼関係を決して壊すことなく『訓練』することが不可欠である。(ご主人以外には無関心な犬もいるから『私の愛犬は呼べばすぐ来て離れることはない』と安心している飼い主の場合は、その犬を様々な場所で一人にしても平穏にしているかを問うて、OKであれば問題ない)

北海道では無人島のように愛犬を放牧?できそうな箇所は探せば幾らでもあるから『運を天に任せて』賭けに出ることも可能だろう。
ただし絶対してはいけないことがあり、それはドッグランなどでよく見かける光景でもある。
愛犬のリードを放した途端、「○○ちゃん、おいで!」との声かけである。

訓練もされてないフリーになったばかりの犬は走り回るか、臭いを嗅ぎまわるものであり、最も指示や命令を拒否する瞬間である。
そんな状況下で『呼び戻し』の訓練ができてない犬に、声をかけるのは『以後私の命令はすべて無視して、思いっきり好き勝手にしなさい!』と宣言しているようなものだ。

最悪なのが『マテっ!オスワリ!オスワリ!」』と叫びながら犬を追いかけて捕まえようとする飼い主で、「それなら最初から放すな!度胸を据えてろ!」と叫びたくなる。

誤解を避けるために付加するが、上記は無人島のように他の存在がない状況を想定しているのであって、『じゃ、今度ドッグランで練習してみよう』などと考えないこと。
それと未去勢のオス犬とシーズン中のメス犬は想定外でありまするぞ。
 


- Web Diary ver 1.26 -