From the North Country

今を生きる 2006年10月16日(月)

  社会的な合意というか世論形成といえばいいのか、そんな大切な事柄が、多くのメディアによってあからさまに誘導されるようになって久しい。

これらのニュースを黙って見て、聞いて、読んでいると「そりゃそうだ!」と納得させられるし、時に同情したり時に怒りを感じさせられたりするように報道が進められていく。
コメンテーターの意見もそれに彩を添えて「メディアの主張の通りにこの国を運営すればいいのに」などと本気で思ってしまうことがある。

ごめんなさい。
この欄に相応しくないテーマなのだけれど、今夜は少し書かせていただきたい。

この国は言論が保障された自由の国であるはずで、これから書くことは私自身に活を与えるためであり、自分の考えを整理し老化防止に資するためそしてある出来事からであることを予め申し添えておく。

『そうだよなぁ。でも何かすっきりしないし引っ掛かる』
ワイドショーやニュースを見ながらそんな風に感じることがないだろうか?
今夜は、私が感じるそのひとつである“学校教育とメディア”について考えてみたい。

例えば“いじめによる自殺”という最近のニュースをテーマにタブー(書いたことで千本の矢が飛んでくる)を選んでみた。

マスコミ:
「教育長!あなたがもっと早くいじめについて認識していれば、こんな事件は起こらなかったんじゃないですか?」
「なぜ答えられないんですか、課長!逃げるんですか!責任を感じないんですか!」
マスコミの追求は手厳しい。

私の頭の中:
「教育長や課長がそんな○○学校の誰々さんのいじめを把握してるはずないだろう。彼らはシステム作りと維持管理の責任者だぞ。勿論最終責任はあるけど、個別の具体的なことを聞いても答えられるはずはないじゃん」
「校長先生だって○○ちゃんは素直で明るい子でした。って答えてるけど、そんなの校長が把握してるなんて普通あり得ないの知ってるでしょ?あなた日本の義務教育の現場を体験してきてるんでしょ?」

マスコミ:
「あなた方が○○ちゃんを死なせたんじゃないですか?それでも教育者ですか?答えなさいよ!」

私の頭の中:
「究極のいじめだね。記者自らが当事者でないのをいいことに、あたかも遺族と国民を代表するような気になって、本質の一部に触れただけでかわし、何としてもリンチする人間を選び出して幕の引きどころを探しているのだ。そしてたまたま赴任したばかりの有能な人間すら排除しているかもしれない。」

ご遺族に対してはお悔やみの気持ちと、更なるタブー(一万本の矢)に触れなければならないのが辛い。

私の頭の中:
1.いじめられ死を選んだ子供の気持ちはどんなに張り裂けんばかりであったろう!
2.そんな状況に気づかぬ親などいるはずはないし、思春期などを理解しながらみんなで育ててきたはずである。
3.私たちは日本の義務教育社会を体験してきたから、自分の子供には「いろんな先生がいるんだよ。先生だってアホたんはアホたんだし、いじめてる子はひょっとしてあなたに気があるんじゃない?それでもひどかったら父さん母さんが守ってやるから…そうそう私が小学校の頃はね…」そんな会話があってしかるべきだと思っている。要するに学校に子育てのすべてなど任せてはいなかったのだ。
4.動物としてのヒトの中からいじめを根絶するなんてあり得ないことだと思う。
ただしヒトは理性と知性を有しているから、人間として法を作り秩序を保つようになった。
親が子供を普通に育て、そこで不法に人権の蹂躙(じゅうりん)があるならば法で裁く社会を作ってきたはずである。

なのに自殺した子の親の主張(つまり庶民)の視点ばかりに立ち、次元を超えた客観性(もしあるならば)を総合的(言い過ぎだが生物の淘汰にも及ぶ)に汲みしないのは将来に禍根を残すことになるだろうと、わが子を育てた経験から主張しよう。

つまりは、子供同士でのいじめは存在してこそノーマルであり、度を過ぎたものは法で裁かれるのが社会なのだということを広く理解させる義務とその範疇を適正にすることが教育者のひとつの仕事なのだろうと思う。

理念が曖昧となり、不正を不正と叫ぶだけで視聴率を稼ぎ、本質的な部分を踏み外しているメディアに警鐘を投げかける方法はないものだろうか?
彼らには我々の選挙権が及ばないし、もはやすごい力を持っているのが怖い。

今夜、こんなことを書けたのには訳がある。

カフェの設立時からトリミング部門に携わってくれたノンちゃんが、12日に亡くなったとご両親が今日報告に訪ねてくれたのである。
呆然と立ちつくした私たちは、今、何と言えばいいのだろう?
お見舞いに行って、てっきり快方に向かっていると思っていた私には、声も出ない動揺がある。

人の命なんてわかりゃしない!
ノンちゃんはまだ34歳だったんだぞ。
カフェの設計のときから、備品の購入まで全部ノンちゃんに任せてたんだぞ。

今を精一杯生き、自分に正直であり続けるしかないではないか!
 

帰っておいで 2006年10月15日(日)

  ムツゴロウ動物王国の運営会社が破綻するとのニュースに少なからずショックを受けている。

以下、動物王国のホームページより

『報道の通り、王国の運営会社であった「グローカル二十一」は経営破綻によりサマーランドより退却致しましたが、私たちスタッフならびに動物たちは畑正憲のかかげる「命の大切さ」を多くの方にお伝えするべく、この地において、活動を続けて行く所存です。
東京サマーランド様をはじめ多くの方々より暖かい励ましの言葉を頂きました事をこの場にてお礼申し上げます。
今後もスタッフ、動物たち共に力をあわせ、頑張ってまいりますので一層のご声援を宜しくお願いいたします。』

今夜この欄で動物王国が東京へ移転したことについて“後出しジャンケン”のような評論をするつもりは全く無い。
ただただ石川さん一家を心配し、「そんな所で頑張らないで動物たちと一緒に北海道へ帰っておいで」と伝えたいだけである。

スポンサーも東京ならいくらでもつくだろうし、再建だって可能かもしれない。
でも「そんな所で頑張らないで、また北海道でのんびりやろうよ。報道が正しければ負債だって8億程度じゃん。そんなもんどうにでもなるよ。」

私の大好きな詩を紹介して今夜を締めくくろう。

安足間 (注、あんたろま、旭川市の北、愛別町の地区名)
          百田宗治 作(『どこかで春が』の童謡の作詞者)
安足間へ来いという
縁側から正面に
大雪山の雪が見えるという
石狩の上流があふれて
倒れた泥やなぎの
根をあらっているのを見にこいという
山女を食いにこいという
寺もある
郵便局もある
薪にも不自由はさせぬという
埋もれに来よという
死にこよという
 

高齢化社会 2006年10月14日(土)

  日付が変わってしんとした秋の夜長。
読書でもしていれば様になろうけど、老眼が進んでから新聞を読むのも難儀になっている。
いずれ眼鏡が無いと生活にも支障をきたすだろうから、買い求める時期が迫っているのかもしれない。

それをさっさと実行しない理由に思いを巡らせてみた。

最大の理由として、見えづらい状況を甘受し、過去に私が携わった視覚障害リハビリテーションのひとつであるロービジョン(低視力)について検証している感があるように思う。

車椅子に乗って僅かな段差や急な斜面を移動する『車椅子体験』、おなかに錘を巻く『妊婦体験』、肘や膝に錘を装着し視力・聴覚低下をもたらす器具を使った『高齢者体験』などによって、障害や態様による社会的弱者が抱えている困難の一部を体験した方もおられるだろう。

眼鏡やルーペなど光学的補助具で矯正不可能な視力の低下や、白内障・脳腫瘍などによる視野障害など、視覚障害者の凡そ9割を占めるロービジョン(何らかの見え方がある人々)の指導を行ってきた私が、加齢によってその障害の一部を感じる入り口に立たされている。

ロービジョンを体験することができるシミュレーションキット(模擬体験眼鏡)というのがあるのだが、「あなたはそれを外せば普通に見えるようになるのでしょう!」と嫌味を言う人を想定して講演活動をしていたのを思い出す。

現在の私は、お店に入ってもメニューの字が読めないから、店員に尋ねてしまう。
商品の値札が読めないから、新聞の折り込みチラシに大文字で書かれた品物を買う傾向がある。
サプリメントや薬の量は説明書の文字が小さすぎて読めないからこれまでの経験に基づくカンで決める。
色合いが同じようなシンプルデザインだと見分けがつきにくい。

そして最も辛いと感じるのは、他人から見ると勿論障害者ではないから「なに、この人?ちょっとおかしいんじゃない?」との視線である。

若者からみれば熟年の行動の中に違和感を感じることが多々あるだろう。
私たちが若かった頃には、信号のある交差点の渡り方も分からない老人を不憫に思ったりしたものだ。

だが、『今時の若者』に私は期待を寄せたいと思う。
これからの世の中は、そんな爺さん婆さんがゴロゴロうろつく時代であるからだ。
我々の時代には違和感があったとしても彼らにとっては「フツウ」の時代になっていくのだろうと思う。

ひょっとしたら昔の映画『ソイレントグリーン』のように、老人が食料にされるかもしれないけれど、それはまたよしである。

いずれにせよ、コーヒーと灰皿の見分けがつかず、タバコの灰をコーヒーの中にいれた時、私は眼鏡を買いに走ることだろう。
 

まことに無責任なススメ 2006年10月13日(金)

  冬の北海道ではビールを凍らせないために冷蔵庫があるように、北富良野のドッグカフェではドッグランがあるのを明確にするために柵が設けられている。
つまり、辺り一面が広大な草原だから、どこを駆け回ってもよさそうなものなのに、『とりあえずここがランです』と区切ってあるのが面白い。

きっと呼んでも戻ってこない犬たちのために必要なのだろう、と妙に納得してしまった。

実践するには不安な方が多いだろうし、リスクが無い訳でもないから無責任な話になってしまうが、『呼び戻し』について久しぶりに書いてみよう。

例えば、無人島に愛犬と二人残された時、あなたを放置して何処かへいなくなってしまう家庭犬はまずいないと私は思っている。
駆け出して姿が見えなくなってしまうことはあるだろうし、走り疲れてふと我に返った犬が帰り道も分からず迷子になる可能性がないとはいえない。

しかし、どちらも主人の居所を伝えるような情報さえ与えれば、そのうち戻ってくるだろうし、主人と離れ不安になった経験で以後は主人の姿をチラッチラッと目で追うようになるだろうと思う。

愛犬が仔犬であったり、とりわけ野性味の強い犬でなければ少々身勝手な犬であっても、走り去ろうとする犬とは違う方向に歩き出し、且つそのことを(大声を出すとか)何らかの手段で伝えることができれば、慌てて犬は戻ってきて、「こいつは目を離すとどこへ行くかわからないから注意しなきゃ」となるものである。

さらに、その段階に至った犬が油断した隙に、主人が物陰に隠れるような遊びを取り入れることと一緒にいること自体が楽しい若しくは意義ある時間であるなら、少なくとも、群れとしての秩序が整った移動ができるようになるはずである。

主人と愛犬との愛着なり信頼関係によっては、この段階でそこそこの『呼び戻し』は可能になっているが、勿論絶対的ではない。
犬が強く気を引かれるような出来事(例えば食べ物であったり他犬との出会い)があれば、犬は衝動に駆られた行動をとってしまうだろうから。

『呼び戻し』を教えきれるかどうかは、主人としての適性を身につけた人間が、数ある方法の中から選択的手法で愛着と信頼関係を決して壊すことなく『訓練』することが不可欠である。(ご主人以外には無関心な犬もいるから『私の愛犬は呼べばすぐ来て離れることはない』と安心している飼い主の場合は、その犬を様々な場所で一人にしても平穏にしているかを問うて、OKであれば問題ない)

北海道では無人島のように愛犬を放牧?できそうな箇所は探せば幾らでもあるから『運を天に任せて』賭けに出ることも可能だろう。
ただし絶対してはいけないことがあり、それはドッグランなどでよく見かける光景でもある。
愛犬のリードを放した途端、「○○ちゃん、おいで!」との声かけである。

訓練もされてないフリーになったばかりの犬は走り回るか、臭いを嗅ぎまわるものであり、最も指示や命令を拒否する瞬間である。
そんな状況下で『呼び戻し』の訓練ができてない犬に、声をかけるのは『以後私の命令はすべて無視して、思いっきり好き勝手にしなさい!』と宣言しているようなものだ。

最悪なのが『マテっ!オスワリ!オスワリ!」』と叫びながら犬を追いかけて捕まえようとする飼い主で、「それなら最初から放すな!度胸を据えてろ!」と叫びたくなる。

誤解を避けるために付加するが、上記は無人島のように他の存在がない状況を想定しているのであって、『じゃ、今度ドッグランで練習してみよう』などと考えないこと。
それと未去勢のオス犬とシーズン中のメス犬は想定外でありまするぞ。
 

Oさん 2006年10月11日(水)

  激しい雷雨で始まり、激しい雷雨で締めくくった今日の札幌だったが、私の生活時間帯は影響を受けず、朝のトイレも、カフェの営業も、夕方の散歩も、夜のトイレも爽やかな状況だったのは助かった。
トイレというのは勿論私のではなく、我が家の愛犬アモのであり、その点、外での排泄習慣が少ない小型犬の飼い主や犬を飼ったことがない方の誤解を受けやすいので念のため書き添えておこう。

昨夜に続いて今夜も個人的なたわ言を。

北海道日本ハムファイターズのリーグ優勝に王手がかかり、その中継はテレビ観戦することができた。
なんとお気の毒なことに昨夜の中日優勝決定試合は地元名古屋ですら放映されていなかったというから、暴動が起きてもおかしくないはずなのに、札幌ではそんなニュースは見なかったから中部地方の人間はそれを受け入れたのだろうか。

『もし阪神の逆転優勝があってその試合が放映されなかったら、絶対に日本中で暴動が起きただろうに…』
そんな棄てゼリフで今年のシーズン敗退の溜飲を下げよう。(ただし落合監督の涙の理由はとてもよく理解できた)

ところで、日ハムの試合は夜9時前には打ち切られ、サッカー日本代表の対インド戦に切り替わってしまった。
けれど、野球はソフトバンクのおかげでインターネット中継をそのまま最後まで観戦できたし、テレビでサッカーを同時進行で観ることもできたのは幸いだった。
しかも、餃子とシュウマイを肴に焼酎をあおりながら。(ビールでもよかったかもしれないけど…)

どちらのチームも快勝で酒の回りも良く今夜はご機嫌だ。

そんな“オヤジ三昧”の夜を過ごしていたら、北海道を単身赴任で渡り歩いているOさんからメールが届いた。

Oさんは昨年交通事故で愛犬のMダックスしじみを亡くし、現在は同じくMダックスのきくちゃんを自宅の家族に託している飼い主で、週末には帰宅するカフェの常連オヤジだ。

秋も深まり、現場から赴任先の自室に戻って、ひとり寂しい夕食を摂り、焼酎をあおる情緒的な生活を何年もずーっと続け、普段は山登りを趣味にして、酔いが回るとパソコンを立ち上げ、壁紙になっている今は亡きしじみの姿に涙して、悪酔いすると私にメールを送り、毎日2回は奥さんに電話するという、ごくありふれたふざけた憎めない素敵なオヤジである。

そのオヤジがここ数日連続して私にメールを送ってくる。
送信時間は夜遅くで、おそらく酔いつぶれた頃なのだろう。

「しじみの事が今でも忘れられないから、ペットロスの特集を『北の国から』で組め」とか、「現場の監査に来た関西弁人間とやりあって、犬の方が付き合いやすく愛しい」などと訳の分からぬ初老男の悲哀を訴えるような文面になっている。

明日の定休日は富良野に行って来ようと思う。
駅前の現場にひょっこりOさんを訪ねてみようと思う。
 

いじけてみた 2006年10月10日(火)

  ご存知のように私は阪神タイガースのファンで、自身の記憶に残っているリーグ優勝シーンは1964年以降の4回である。

つまり人生のほとんどは他球団の胴上げを見てきたことになるのだが、その悔しさと羨ましさがクセになりかける頃、我がタイガースは優勝してくれるからもう病み付きになってしまうのだ。

だから今夜のように中日ドラゴンズが優勝する瞬間を目にするのも、いつの日かまたきっと必ず訪れるであろうタイガース優勝の感激を増加させるために必要なプロセスだったはずである。

しかるに今夜、中日の優勝を知ったのはテレビの画面上部に速報で表示された僅か一行のテロップであったのが残念でならない。
庶民のテレビではもうプロ野球の優勝決定試合ですら見ることができないのである。

酒を飲んでは身体に悪いととがめられ、タバコを吸えば迷惑だと締め出され、優勝の瞬間に流れる独特の想いを感じることからもはじき出されてしまった。

「いいもん、もういいもん。意地になって大酒を喰らい、部屋の向こうが見えなくなるほどタバコを吸ってやる。そして、アングラになってタイガースファンであり続け、いつも不満を持ち、他人を不愉快にさせるのを生き甲斐にして、最期にバーンとやって暗〜い人生を送ってやる…」
「おまえ、どこかの国の北の人間か?」
「でひぇ!だか?」

今夜の一人芝居はこれでおしまい。
 

眞知子を偲ぶ会 2006年10月09日(月)

  道東やオホーツク海側で観測史上初の降雨量や瞬間最大風速を記録し大変な週末になってしまった。
週末から知床に友人と出かけたJクンのYさんは無事だろうか?

昨日は8月に亡くなった眞知子を偲ぶ会があって、午後からカフェを留守にしたが、雨女の異名をとった眞知子らしく、思いっきりの雨を降らせてくれたおかげで私とKは誰もお客が来ないカフェと我が家の愛犬アモをスタッフMに任せ心置きなく出かけることができた。

偲ぶ会には盲導犬ユーザーや協会関係者、眞知子を「年下の姉」と頼っていた作家の井上こみちさんと「北海道の母」と慕っていたその息子さん、教育関係に熱心な眞知子だったからその世話を受けた子供たちかと思いきや「おまえは札付きのワルだったよな!」と笑いながら互いをけなしあう元校長先生たち、それに音楽仲間は北海道盲導犬ユーザーの会のために“安全地帯”の玉置浩二さんが作曲してくれた『ひかり』を演奏してくれたが、この曲ができたのも眞知子のつながりがあったからで、つまりはいろんな人間が集まってくれた。

私はといえば最新情報にKが載せちまったようにソプラノサックスで『コーカサスの風景』という曲のワンフレーズを演奏してきた。
今年の春、急に懐かしくなって安物の楽器を買った私が「昔どうしてもうまく演奏できなかったコーカサスの風景を吹きたくなったんだよな」と話したら「そのスコア(楽譜)家にあるんじゃないかな」と眞知子と娘たちが探して持ってきてくれたのだ。
眞知子にも彼女の夫で昨年の11月から未だに意識不明の好弘にも練習の成果を聞かせていなかったことが気にかかっていた私は、花束の代わりに演奏してきたのである。
リズム感は相変わらずよくなかったが、いい曲想と音色を届けることができたと思っている。

ともあれ、笑いあり感動あり涙ありの眞知子が喜びそうな楽しい偲ぶ会と二次会だった。

明けて今日、カフェは晴天に恵まれ鬱憤を晴らすような賑わいをみせた。
午前午後とうまく分散され助かったし、そのほとんどがレトリーバーだったのには驚かされ、夕方には秋田から盲導犬エイミスを伴ったSさんと札幌のSさん、それに若手盲導犬指導員のK君も訪ねてくれた。

偶然にも元盲導犬候補犬が集まり、なかでも適性検査でキャリアチェンジとなった犬の現在の飼い主とそのパピーウォーカーが、まるで待ち合わせでもしたかのように同時に来られるなど、眞知子が鼻をピクピクさせて魔法をかけているとしか思えないような再会もあった。

ひとつの区切りがつき、明日からまたそれぞれの人生を刻んでいけということなのだろう。
 

盗み食い 2006年10月07日(土)

  おとといまで半袖姿が3日続いたことに驚いていたら、一転して今日から初ストーブとなって仰天だ。
寒い寒い。
夜になって悪寒が走った私はストーブで暖まった部屋で、さらに冬用のセーターを着込んで焼酎をあおってもなお寒くて仕方がない。

気温は10度程度はあるだろうし、Kは寒くないと言ってるから
身体適応能力の低下・不意打ちを食らった感
残念だけどそんな言葉がぴったりの完敗である。

完敗といえば、信じていた自分の愛犬に裏切られ?“完敗”したジャックラッセルテリア(JRT)の飼い主さんが、今日みたいな雨の日にもカフェのことを忘れずに通ってくださった。

子供のために買っておいた『3個入り手ごね生ハンバーグ』を、まんまと食われてしまいショックとたまねぎ中毒の心配で大変な思いをされたようだ。
マンマをまんまと食ったのだからJRTの方に分がありそうだけど、そんなことが言えるのも今日も元気な当事者を伴ってきてくれたからこそ、である。

大胆で悪質な盗み食いとか、たまたまちゃぶ台に置いてあった食料を食べられるというのは多くの飼い主が経験していることだと思うが、
「食べられちゃった。今更叱っても仕方ないよね。犬を飼ってるのに、気をつけなかった私が悪かったんだ」という飼い主と
「えぇー?何てことすんだ!まだまだしつけが足りんぞ!」
と感じる飼い主とでは将来大きな差が出てくるだろう。

今回のように中毒を起こす可能性があるものを食べられたり、竹串ごと焼き鳥を飲み込んだり、骨付きフライドチキンやとうきびを丸ごと食べられると、一時的に緊張し動物病院に駆け込む事態もあるはずなのに、結果的に重大事にならなかったら『喉元過ぎれば何とやら』で、再び油断したり大目にみたりする傾向がある。

普段、台所で調理中に床に落としたものを愛犬が食べるのを大目に見たり、中にはそれを喜びとしてわざと少し落とす人もいるだろう。
過去にたまねぎを食べた犬はごまんといるし、そのほとんどはその後も元気に暮らしている。(その昔、ごはんにねぎ入り味噌汁なんて当たり前だったから)
確かに全体からみれば致死の確立は低いし、最近のニュースにある飲酒運転者の供述のように「自分は大丈夫だと思った」と思う気持ちがふとよぎるのかもしれない。

いかんイカン、例えが微妙な問題に触れてしまったから、これ以上書くには酔った今はよくない。
そういえば、寒気がひいてきたようだ。

ちなみにJRTの飼い主は彼女の名誉のために名前は伏せてあるが、詳しい盗み食いの経緯を知りたい方は、パソコンで『うらんちゃんねる』を検索していただきたい。(伏せてないじゃん!)

明日のこの欄は所用でお休みとなります。
 

大本営発表 2006年10月06日(金)

  せっかくの3連休も札幌は大荒れ予報となり、気温もぐんと下がってしまうらしい。
すばらしい気候に恵まれ続けていたから、『ま、これも仕方ないか』と観念している。

昨日の定休日には家族でモエレ沼公園に出かけ、調子に乗ってモエレ山にまで登り、360度の石狩平野を展望してきた。
アモの右後肢に異変を感じたのは、さらにその後のことだったが、アモは平然としていた。
その様子に私たちは救われた思いで、以後無理をさせず帰宅し、しばらく休んでいた消炎鎮痛剤を当面続けることにした。

一夜明けた今日も、アモの歩様は完全ではないけれど跛行はなく、あくまで歩様にぎこちなさが感じられる程度だ。

それよりも心配なのはKと私の足腰のほうである。
昨日登山したからといって今日痛み始める年齢ではないことを自覚し
「痛み始めるとしたら明日からだ!」
という人生の経験則に基づいて、つまりは今夜アモに留守番をお願いして二人で“里塚の湯”に出かけてきた。

大本営発表!

アモの健康と幸せはKと私の健康あってのものであるからして、私とKが温泉に行って健康を回復する努力を行うことは、これすなわちアモの幸せのために行う努力であり、このことはすべての臣民の理解を得られるところであろう。

10月からリニューアルした“里塚の湯”の新メニューには、経営努力によっていい物もあればあからさまにマイナスのメニューもあったが、努力し変化している姿勢はうかがい知ることが出来るものであった。

私としては『温泉ヨガ』なる独自のコツは習得したので、近いうちにカフェの常連男性に声をかけて、観楓会か忘年会になるのか分からないけど『健康長崎塾』を“里塚の湯”で開催したくなってきている。
勿論、メインとなるのは飲み会であるが、そう簡単に飼い主の女性に悟られてはまずいので、まず必要なのは『大義名分』であろうから『健康長崎塾』なる会は妥当なところと言えよう。

やりませんか?同輩諸氏?
まずは数人から…
 

除雪機ガロアラシ号秘話 2006年10月04日(水)

  昨日今日と夕方の散歩時ですら半袖姿がちょうどの札幌だった。
今年も去年のような遅い雪になるのだろうか。
昨年は12月10日にある程度まとまった雪があったものの、その雪も一旦消えてしまい、本格的なドカ雪はクリスマスの夜だったと『北の国から』を読み返して知った。

雪といえば活躍するのが我が家の除雪機ガロアラシ号で、この除雪機は私の友人であるガロ社長が、事故で亡くなる3日前にカフェに届けてくれた思い出であり形見でもある。

「うちの除雪機を使っていただき、ありがとうございます」
今日の昼頃、作業着姿でカフェにドッグフードを買いに来られた黒柴宗一郎の父さんが、まだ車庫にしまってあるガロアラシ号について私に伝えた一言がきっかけで、私は胸が一杯になってしまった。

宗一郎の飼い主であるTさんは、カフェから車で数分のところにあるホンダに勤務されていて、除雪機をそのまま取引価格で私にプレゼントしてくれたガロ社長とは船外機などを扱う取引先だったというのだ。

「気さくな方でした。実はその除雪機を社長の元に届けたのは私なんですよ。可愛がっていただき、あの事故があった朝も、私は社長の会社に向かっていました。そして救急車に運ばれる姿も…」

この出会いは決して偶然ではあり得ない。

「社長が亡くなって、除雪機のアフターケアを行うために販売先を知る必要がありました。しかし資料が見つかりませんでした。そんな時長崎さんのホームページを見て『ひとつメッケ!』って喜んだんです」

なんとTさんは私のホームページを見ていたというではないか!
Tさんの愛犬黒柴宗一郎は先日カフェにお泊りし、私は室内でマーキングを繰り返す未去勢のSという表現で『別物』という扱いをし、性格はとてもいいのに陰睾丸の宗一郎を去勢しない飼い主を戒めるようなことを書いていたのである。

「宗一郎君、今週の金曜日に去勢するんだって。」
スタッフMが彼女の娘が勤務する動物病院からの情報を伝えてくれたのは先週のことである。
「長崎さんに言われたから…」というのがきっかけになったようである。

この繋がりをどう理解しろと言えよう!
犬好きで照れ屋だった社長が、遠まわしなやり方で結び付けているとしか思えないではないか!

自分の愛犬に、ホンダで勤めている人間が“宗一郎”と名付けている意味を私は充分に理解しているつもりである。
本田宗一郎というモノづくりに一生を捧げた人間を直接は知らないけれど、彼がガロ社長と酒を飲む機会があったならば意気投合していたと思う。

そしてホンダの遺志を継ぐ青年とカフェに小さな接点が除雪機を通して見つかり、生前の人の姿が今日思い起こされた。
「偶然ですね」
そうかもしれないけど、私たちにはそうではないように思える。
 


- Web Diary ver 1.26 -