From the North Country

脳のトレーニング 2006年04月26日(水)

  脳のトレーニングが流行っている。
一昨日の夕食どころか昨日来店された方すら記憶に残っていない私にも効果はあるのだろうか?

私の母は痴呆が進み、電話をしても自分の息子を認知できなくなっていた。
しかし、デイケアサービスを受けるようになって劇的に変化し、昨日の夕食は答えられなくても私のことは当たり前のように分かるようになっている。
自宅で日々同じパターンが続いていたことが認知症を加速させ、デイケアという変化が一時的にせよ脳を活性化させ痴呆の進行を遅らせているのだろう。

人の脳細胞は生まれたその日から毎日およそ10万個が死滅しているらしいが、元々100数十億個あるというからどんなに長生きしても足りなくなることはない。
むしろ、活性が失われて萎縮することが問題であるようだ。
カフェのようにいろんな犬が出入りしてると、日々変化があって私の脳も活性化されてもいいはずなのにそれがない。
多分、いろんな犬の出入りすらも“当たり前の日常”と脳はくくってしまっているのかもしれない。

若い頃、年老いた人を見て「この人だからこうなってるんじゃなくて、年をとるというのがそうさせているんだろうなあ。自分は気をつけよう。」と思ったものだ。
腰や膝が痛い痛いという
信号の見方が分からずに道路を横断する
職場の改革を訴えてもはぐらかしたり頑固になる
過去の話になると饒舌になる

しかしほとんどが今の自分である。
「やっぱ年には敵わんな」と受け入れるのは簡単なのだろうが、考えてみれば母親は私よりも30才は上だ。
老けるにはチト早すぎるから、トレーニングしてみようかと思っている。

「記憶がないのは単にアルコールがきれてたからじゃないの?」
確かに一理あると瞬間的に感じたが、そんな常連の溜め口に惑わされず、今夜からベッドに入ったら今日一日の流れを思い出してから眠りにつこうと努力しよう。
 

早期社会化 2006年04月25日(火)

  今日は生後5ヶ月にまで成長した秋田犬ももちゃんの日中預かりがあった。

“カフェに秋田犬”といえば緊張を余儀なくされる場面であるが、ももちゃんはやんちゃで荒っぽい性格が幸い?して、飼主が困り果て生後3ヶ月頃にカフェに駆け込んできたから、今では結構いい子になっている。

昨日紹介したAコッカーのリオや過去に紹介した柴犬の海斗クンと共に、盲導犬のパピーウォーキングプログラムに近い対応をしているから、今の人間社会のような少年犯罪を引き起こす可能性は低いはずだ。

しかし今日はその元凶暴犬柴犬海斗クンもカフェにいて、秋田犬VS柴犬の気骨と気高かさでは定評のある日本犬対決の構図が出来上がった。
スワ!血みどろの決闘があるのか!

生後10ヶ月の柴犬は生後5ヶ月といえども自分の倍近くある秋田犬にかなり引き気味である。
そんなことすら配慮せぬ若き秋田犬は体当たりで遊ぼう!とやってくる。
凶暴だった昔の自分を呼び覚ました柴犬が悲鳴に近い声で威嚇すると、既に制御されることを経験している秋田犬は「あれ?ダメなんですか?」とようやく先輩犬に敬意を払うようになった。
それを感じた柴犬は「なんだ、おまえ結構話が分かるじゃんか。いい子にしてたら危害は加えないよ。」と徐々に受け入れるようになったが、言葉とは裏腹にその腰は明らかに引き気味だったのを私は見逃さなかった。
ともあれ、『争いの前に敵を知る』という日本犬の英知が働いて、川中島を挟んだ上杉謙信と武田信玄はお互いを認め合ったようだ。

どちらかといえば武将であり禅僧でもある謙信のように『第一義』を重んじて、無用な争いごとは嫌いな犬たちであり、自制が求められる体験も積んでいるから、二人のやり取りを見ていた私はとても楽しかった。
このまま大人になっていつまでも飼主の記憶に残る一生を送って欲しいが、まだ難しい年齢すら過ぎてはいないからこれからも見守る必要があるだろう。

柴犬海斗・秋田犬もも・ラブラドールさくら・Mダックスきく、といった元気な若武者の集まりを見てみたいし、小型犬ではチワワの貫太郎とテンそれにJラッセルのRENとの出会いも楽しみである。

カフェの入店は『感性症から守る』という医学的な建前から生後4ヶ月以降となっているが、『暮らしやすい犬に育てる』ため早期社会化を前提としている私の立場では、多少のリスクを犯してでも生後3ヶ月頃から関わりを持ったほうが良いと考えている。

理屈はいろいろ並べられるが、『だって可愛いじゃん!』というのが本音でもある。
 

愛犬との暮らしはそんなに大変ですか 2006年04月24日(月)

  スッキリしない天気が続き、今日は一日しとしと雨。
私も暇な時間をもてあまして、閉店前からアモ君と散歩を楽しんできた。

庭先に繋がれて吠えてくるわんこがアモは大好きで、数メートル手前から身体中の毛を逆立て、ワンワン!と相手が吠えてくると『してやったり』の表情で満足そうに通り過ぎていく。
猫がたむろする家の前ではその緊張はさらに高まり、ノーリードの猫たちがどんな行動に出るのか、まるで映画のクライマックスを楽しむかのように期待に胸を膨らませている。

ところが今日は雨。
外に繋がれた犬たちは小屋の中に避難して、アモがそばを通っても気配に気づけば吠えなければならないから、寝たふりを決め込んでいる。
するとアモはその場で立ち止まってわざと荒い息を立てて相手に気づかせようとする。

「今日はつまらんね」
そんな顔をしてアモは散歩を続け、誰もいない公園付近で放してやるとやっと他力本願の気分から解放され自分の遊びを始めるようになった。

難しい犬のレッスンがあり、つい熱が入って顔を赤くしながら飼主に説明を続けた今日だった。
飼主を責めるつもりはなかったが、問題児になった経緯を分析し正当な対応を話していると、飼主は涙を浮かべていた。
悲しいだろう悔しいだろうと思う。
悪意を持って愛犬と接したことは一度もないはずだから…

しかし、冷たい言い方になるかもしれないけれど、私にしてみれば問題児に育ったことは不運ではなく必然であるように思えた。
そして飼主の不幸は彼女が話してくれた言葉の端々から“現代の訓練士の軟弱さ”と“か弱い犬を育てる人は寛大で鷹揚で優しく接しなければ非人間”という風潮から生まれたものであると感じる。

訓練士よ目覚めなさい!
ウケのいい綺麗事を並べたてて取り返しのつかない過去に言及し、今の犬と飼主の状況を受け入れないで訓練したところでそれは何の解決にも結びつかないのですよ。
例え相談された問題があなたの方法で解決できたとしても、本当にその犬の根本的問題を解決したと自信を持って言えますか?
商売の道具にして、次の問題が起きたらそれに対処することは簡単でしょう。
それで心が痛まないのですか?

今日の飼主の相談を聞いて、現代の訓練士はそこまで有能なのになんと無力なのかと思った。
理論を学んでも心と現実を受け入れなければ真実を見抜いたうえでの訓練やアドバイスはできないというこの分野ではごく当たり前の感性を自ら磨いて欲しい。

アモ君との散歩で今日のつっかえは発散できた。
こんな生活をいろんな人に分け与え共有する人と同じ時間を過ごしたいと渇望する。
 

リオの成長と犬育て 2006年04月23日(日)

  暖かな午前中は予報に反して厚い雲に覆われ、晴れ間が出てきた午後はこれまた予報に反して強風が吹き、結局中途半端な春の日曜だったが、ガーデンテーブルをセットし平均台とハードルも整えてカフェは本番突入モードである。

生後2ヶ月過ぎからカフェに通っているアメリカンコッカーのリオも10ヶ月になったようだ。
Aコッカーは活発で楽しい犬種だが、傾向として他人や他犬場合によっては飼主にすら威嚇的になる子が多い。
だから早期社会化をすすめるため本来生後4ヶ月以上でないと受け入れないカフェに受け入れてリオの成長を見守っている。

今日は初めてのトリミングも兼ねて遊びに来てくれたが、その陽気さたるやはち切れんばかりで、もう少し用心深く育てるようアドバイスしておけばよかったと後悔するほどだ。
先住犬のラブラドール/モルもすばらしい犬だから、飼主の育て方というか素質がいいのだろう。
トイレのしつけ・Stop it!(止めなさい)もいい線いってる。
まだ単独での歩行を見ておらず、恐らくその面での心配があるだろうが先ずは順調だ。

犬育てで“様々な”問題を抱えてから相談に訪れる飼主が多いけど、抽象的な“様々”ではなく予想される具体的問題を知識として持ち、専門家のアドバイスを受けて育てれば未然に防げることがたくさんある。
それを知らずに可愛がるだけで育てれば困難や妥協があるのは目に見えている。

早期社会化(生後3週齢頃から16週齢頃までに人や動物に安全に慣れさせること)と社会経験(1歳までに社会における様々な体験を安心できる状況で行うこと)や、家庭や社会のルールを厳格に問答無用で適用し、心から愛せば、犬はうまく育つものなのだ。

最近、メールや電話でアドバイスを求める方が多いが、既に子育て時期を終わってからの相談がほとんどで、その場合具体的なアドバイスは犬と飼主を見ないとできないことを付け加えておこう。
ネット社会ではあるけれど真剣に育てたいなら足しげく学び舎に通い・学ぶことが必要なのは昔も今も変わらないと思う。
 

久しぶりの小旅行 2006年04月21日(金)

  連休を利用して3人で小旅行を楽しんできた。
我が家の愛犬アモにとっては私たちと初めての長距離ドライブである。

ニセコヒラフに一泊し翌朝の散歩でアモの足の状態とノーリードでの反応を確かめた。
担当医からは20分の散歩は許されているが、走ることは禁止されているし、初めての環境の中でノーリードの制御をどう受け入れるか知っておく必要があった。
羊蹄山の半分は雲に覆われていたが、鳥のさえずりと美味しい空気の中、私たちは何の問題もなく歩くことができた。

長万部でかなやのカニ弁当を買って、カフェ常連のAさんが犬たちと暮らすために森町の別荘地に建てたカラマツに囲まれた家の前でその弁当を食べ、函館に入って五稜郭公園をのんびり散歩した。

湯の川温泉の某ホテルは盲導犬協会に勤務していた頃何度か盲導犬と宿泊していたが、今回はプライベートであり、しかも私は退職しアモはキャリアチェンジとなったただのペットである。
泊めてもらえるか心配だったが
「実はホテルにも本音と建前がございまして…。訓練ということでお泊まりをお受けいたしましょう」
私を覚えていてくれた支配人が機転を利かせてくれた。

Kと私は湯の川の熱めの温泉を楽しみ、無口になって御膳と毛がにを1パイずつたいらげ、アモはその間部屋でおとなしく待っていた。
犬がいても私たちは何処でも普通に暮らせるし、そのように彼らをしつけているが、だから愛犬も一緒に何処にでも行くことができ、いつもと違ったご馳走を食べることもできる。

翌朝、「さすがですね」と次回の割引券を渡しながら感心する支配人にお礼を言ってホテルを後にし、ホテルの朝食を食べたにも拘らず朝市でカニとイクラとウニがのったどんぶりを私は食し、Kはホッキのバター焼きを美味しいといって食べた。
レンガ造りが続く金森倉庫を散策し、運よく中にも入れてもらえた。
西部地区の高台にあって、港と市内が一望できるクリフサイドというカフェにアモも一緒に入り、さらにケーキセットを食べながらふと目をやると、壁にはゴムボートに乗ってニセコの川下りをするピレニアンの額が飾ってあった。
よく見ると、私のカフェの顧客であるK夫妻と愛犬のプリンの写真で、そこからまたオーナーとの会話が弾んだ。

函館を後にし、アモが暮らしていた日本海側の瀬棚へ向かった。
途中から激しく振り出した雨に、私は無念の思いでカレイとホッケ釣りを断念せざるを得なかった。
釣りの道具は万全の準備を整えていたが、天候が悪く瀬棚での約束の時間が迫っていたのだ。

アモの飼主だった亡き先生のお母さんから、生きたままの大きなホタテをたくさん頂き、再びニセコに戻ってオーストラリア人が働く洒落た小屋でピザとアンチョビのグラタンを食し、ヒラフ亭の温泉で疲れを取った。

明けて今朝、私たちの好物でありカフェの人気商品でもあるニセコルヒエルのジェラートを仕入れて、開店ぎりぎりの時間に帰宅した。
定休日の前に臨時休業を1日とっただけで、3泊4日の旅をすることができた。

夕方の散歩ではアモとのノーリードにさらに磨きがかかって楽しかった。(断っておくが、他人や他犬に影響を及ぼす状況でフリーにすることはない)

距離では600キロ以上であるが、半年振りの小さな旅だった。
 

何故・どうして? 2006年04月17日(月)

  4月19日(水)カフェは臨時休業し、翌20日(木)の定休日と併せ連休とさせていただきます。

札幌は安定した天気が続かず、今日も夕方には雪が降っていて、北国の春はやはり5月中旬以降からが本番と考えた方がよさそうだ。

「4月も半ばだというのにどうして雪が降るの?なんでこんなに寒いの?」
人はついつい「何故?どうして?」を問うけれど、一歩進めて「如何にして」を考えるとより真髄が見えてくるそうだ。
気象予報士ではないから詳しくは知らないけど、雪を降らせるには海水が蒸発しなければならないし、空気中の水分が凍らなければならない。それを「何故?どうして?」と問うより、「どのような」メカニズムが働くかを解き明かした方が説明がしやすい。
「何故?どうして?」から始まって、地球の異常気象やエルニーニョに疑問を感じることは大切だが、それがCO2なのか海洋汚染なのか森林伐採なのかあるいはまだ特定できない事柄との複合汚染なのか、「如何にして」地球環境が破壊されているかを世界の科学者たちは研究している。

一方、私はというと
「何でうちの犬は自転車に吠えかかるんでしょう?」
「どうして拾い食いをするんでしょう?」
「なんで・どうして他犬を追い回して齧るんでしょう?」
と相談を持ちかける飼主の方に
「何故?どうして?なんて考えるのは後に回して、今すぐそれを断固止めさせなさい!」と叫んでいる。

「シェルティなんかはくるくる回ったり、自転車や自動車に吠えかかる傾向が高いのですよ」と説明して納得されても解決にはならないし、「犬は鼻がいいし、口で物を確認するし、何より頭を下げればすぐ地面に口が届くから拾い食いも楽しみの一つになっているのでしょう」といって毒物を食べたり、骨が刺さってしまっては笑い話にもならない。
ましてや追い回されて恐怖に陥る相手がいるのに「どうして噛むんでしょう」などと悠長なことを言ってる飼主には噛み付いてやりたい気持ちになる。

人を含めた生き物に対し、「何故・どうして」ばかりを優先して、物分りのよい人間になろうとしても手遅れになることが多い。
生き物としての野生的直感や決断を人は失いかけているように思う。

私も科学的つまり医学的(これは私は弱い)・行動学的・心理学的に犬の行動を学んできたが、人と同様に犬の行動や情動のすべてに完全な解明などできることはない。
ただし、かなりの確率で犬に『学習』つまり『経験による行動の変容』例えば『問題行動の解決』を導くことはできる。
しかしそれ以上に『私流の犬育て』によって、ひとつひとつの問題解決ではなく、先に示した『自転車への吠え』や『拾い食い』『くだらぬ威嚇』は初めから生じないか知らぬうちに消失していることだろう。

その『私流』を文字にできるかが私の最大の課題である。
と、安易にまとめないと酔った頭では収拾がつかなくなる。
おやすみなさい。
 

調教と子育て 2006年04月14日(金)

  まるでガーデンの地面がお菓子で作られているのかと錯覚するような光景だった。

ラブラドールの仔犬のさくらをガーデンで放すや否や、地面に敷き詰められているゼオライトをバクバクと食べはじめて、それはそれは異物摂取というような生っちょろいものではなく早食い競争の感があった。
叱られて悲鳴を上げても次の瞬間にはまた食い漁るというイタチごっこでラブっ子さくら恐るべしである。

ゼオライトは珪酸や天然アルミニュウムを含有しているから下痢止めの吸着作用に使われるアドソルビン(だったかな?)に近いのかもしれない。
昔、協会の犬たちの下痢止めとして自前で応急薬を調合していたが、確かアドソルビンとタンナルビン(タンニン酸アルブミン)それにラクトミン(乳酸菌の一種)をある割合で作ると、通常の下痢に対しては劇的に効果を挙げていた。

いっそのこと、さくらの来店は下痢をした時のみ受け入れ、ガーデンにはタンナルビンとビオフェルミンでも撒いておこうかと思ってしまう。

冗談はさておき、ラブの異物摂取にだけは注意が必要である。
野球ボールを4個も胃袋に収めていたつわものもいるし、釣り針やビニール袋・焼き鳥串など普通に考えられる。
雪解けが進む今の季節は腐敗した異物や毒虫を口にして、下痢や顔がお岩さんのように腫れ上がる食中りが頻繁に見られるようになる。

春は躍動の季節である。
生きとし生けるものが本能的な行動を起こし、若い犬たちは朝食前に黄色い胃液を戻しやすくなるし、小型犬のオスを安易な飼いかたをしていて、あたかもトイレのしつけができていると思い込んでいる飼主は、マーキングを始める我が子に唖然とすることもでてくるだろう。

犬を家族の一員ではなくハムスターやウサギのようにイヌとして飼っている人間にこのようなことが起こってしまう。
犬のしつけを『調教』と口にする人間は(種としての)イヌと暮らしていて私の対象外であり、『子育て』と考える人は溺愛に走らないよう注意して我が子を育てるべきだと勝手な解釈をしている。

ガーデンのゼオライトがいくら安全と思えてもドッグフードのように食べようとするさくらを私は放置できない。
彼女の命と健康を守るために、毅然とした対応をしているが、それを止めさせる姿は動物虐待にしか映らないかも知れない。

『調教』とは食べないように反射を条件付けることであり、『子育て』とは食べないように教えるだけでなく、共に暮らす規範と道徳を教える行為なのだろうと思う。
私は犬がそれを理解できる動物だと思っている。
 

夢に酔うこともある 2006年04月12日(水)

  これもある、あれもある便利な世の中と言われている。

今流に言えば様々なコンテンツが用意されているらしいから、「どんなものがあるの?」と問うと、逆に「何がしたいの?」と問い返されてドキッとするが、めげずに「何があるの?」と問い返すと結局はたいした中味は玉手箱の中に無いことを知らされる。

お金を持たなくても買い物はできるが、結局は引き落とされる現実を表に出さないものだから借金地獄に陥る若者を含めた人間を作っている。
着メロ着うた2000曲など生活の真髄でもなんでもなく、どうでもいいこと。
指紋や音声・網膜認証が出来ようとも、根本となるパソコンや携帯は使用者の意思とは別に、とんでもない社会問題を引き起こしており、これらを利用する問題はさらに拡大していくだろう。

「何が欲しいの?」と人に問われたら、それは自分だけでなく万人が同時に可能となる前提だろうし、しかも健康で幸せな人生を願う思いは共通であろうからそれ以外となると
1.自分がたとえ曖昧にイメージしたものであっても、すぐさま絵画や彫刻・歌詞やメロディー・言葉や文字に表せるもの
2.何処でもドア
3.翻訳こんにゃく
こんなところが先ず頭に浮かぶ。

同様に「何が絶対欲しくない?」と問われたら
1.相手の本心がわかる能力
2.動物と会話できる能力
3.正確な死期および永遠の命
と私なら答えるだろう。

久しぶりに里塚温泉へ出かけ、いい加減酔った状態で書いたものだからおかしなことになっているかもしれない。
将来のお金を含めた打算・生死・継続的力以外で、人生の中で魔法の杖を3回使えるとすればあなたなら何に使いますか?
子供のことで既に使い果たした人にはワンモアチャンスをあげましょう。

今夜はちょっと夢の世界を飛んでみたくなった。
 

大学病院 2006年04月10日(月)

  今日は、先月7日に左後肢前十字靭帯断裂による損傷を補完するためTPLO方式による手術を受けたアモ君の1ヶ月検診に行ってきた。

診察室に入ってこれまでの経過を話し、助手と思われる先生から今日行う診察内容の説明を受けた後、アモのリードを学生に渡して部屋を出た。
途端にガラン!という音がしたので振り返ると「父ちゃん!助けて!」とばかりにアモが鼻と前足でドアを開けて逃げ出そうとしていた。
待合室では笑いが起きて場が和んだ。

奥の部屋で何が起きているのか私には大体想像がつくけれど、やはり大学病院の診察状況はオープンにした方がよいと思う。
大学であるから最先端の治療が受けられる可能性がある反面、そのための研究や学生の研修に自分たちの犬が利用されていることは百も承知している。

飼主の姿が見えることで却って犬の興奮が高まることもあるだろう。
診察の時間よりも一人一人の学生に触診させたり講義する時間がかかってもいるだろう。
採血の基礎的実習では血管確保がうまくいかず、何度も何度も針を刺し直したり、時には犬が暴れて注射針がひん曲がってしまうことも知っている。
犬の取り扱いにおいて飼主からやんややんやと言われ、余計な業務が増える可能性も高い。

実験動物での研修は専門家の監視の下で行えばよいと思っているが、それでもステップアップした一般外来での診察はあくまでオープンにし学生を育てた方が私は良いと思う。
うまくいかない学生が上達していく過程を見せて欲しいし、その凄さや大変さも実感できるだろう。例えば飼主に犬を保定させれば飼主も学生も犬も進歩するかもしれない。
何より学生たちは実践の中での集中力が高められ修得すべき項目も見え、適性を早期に評価できて将来の進路を決めるのにも役立つだろう。
場合によってはそのようなプレッシャーがなければ開業獣医師を目指した人間が方向転換を迫られるかもしれないがそれも社会である。

辛口なことを書いてしまったが、これらはすべて自分に向けて発信しているつもりでもいる。
3年目というのは甘えに流されやすい時期でもあるから…。

「一日20分位の散歩をしてもいいですよ。順調に回復してますから。」
先生の言葉に思わず笑みがこぼれた。
自分の中では一緒に暮らすアモの状態は把握しいても、やはり先生のお墨付きはありがたいものである。
そんな風に飼主は思っているのだから、頑張れ学生諸君!
将来の先生を目指して!
 

余の辞書には… 2006年04月09日(日)

  毎日が氷点下の冬が過ぎたというのに、プラス3度の初春のほうが寒く感じるのは何故だろう?
ストーブの設定温度もついつい高めになってしまう。
椰子の木でも植えればガーデンは常夏の島のように白く輝いて見えるのに、実際カフェから出てみるとすぐに震え上がってしまう今日一日だった。

カフェを訪ねてくれる犬たちが初来店の頃から比べれば変化し、「ここは安全な社交場だから、礼節を守って楽しく過ごそう」と意識して振舞っているのに気づかされることがある。
初めて大学のキャンパスに立ったときに私もそんな風に感じたのを今でも覚えている。
中学や高校のように番長グループがいるわけでもなく、おせっかいな先生が目を光らせているわけでもない。
学校にいるのに自分自身で時間の過ごし方を決めることができるのが不思議でとても新鮮だった。
恐らくあの時に初めて自由というものを実感し、『この雰囲気は守り伝えていかなければならない』と思い、自らが変化していったように記憶している。
それが何事も吸収する若さであり経験を積み重ねるスタートでもあった。

転じてお泊まり犬のゴン太はというと、10歳になるシーズーだ。
若い犬たちがカフェでどんどん変化していくというのに、この爺さんだけはいたってマイペースである。
既に積み重ねられた経験と人生訓があるものだから、その範疇から逸脱するような変化とか文明だとか科学の進歩は一切受け入れない、というか反応しないように出来上がっている。

彼の辞書によると
1.『散歩』とは、自らの生活領域における侵入者のチェックであり、その形跡に対する上書きである。
2.『他犬』とは、スタートレックに見られるような宇宙の得体の知れぬ生物であり、秘かなチェックは必要であるが決して心許さず、又、争いごとを起こしたり巻き込まれることなきよう注意しなければならない存在。
3.『ゴン太おいで!』とは、決して油断できぬ言葉であり、相手の下心がはっきり見える瞬間である。その命令を無視することこそ自らの存在と威厳を保つ要素となる。
4.『食事』とは、これぞ飼主を自らが操る儀式と捉え、美味しいものを出されたときには一生懸命に食べ、ドライフードだけの時には渋々食べよ。変化は必ず訪れる。
5.『権利』とは、自らの愛らしさを最大限に活用し、相手に隙ができた時にこそ容赦なくとことん突っ込んで既得のものにする知恵。

私が酔い潰れてなければこの倍以上列挙できる自信があるが、今夜のところはこの辺で勘弁してやろう。

ところで、夏でもズボン下を履いてる年配者が多いが、プラス3度になった春を寒く感じる私もゴン太の域に近づき、自分なりの辞書を持っているのかも知れない。
 


- Web Diary ver 1.26 -