From the North Country

大学病院 2006年04月10日(月)

  今日は、先月7日に左後肢前十字靭帯断裂による損傷を補完するためTPLO方式による手術を受けたアモ君の1ヶ月検診に行ってきた。

診察室に入ってこれまでの経過を話し、助手と思われる先生から今日行う診察内容の説明を受けた後、アモのリードを学生に渡して部屋を出た。
途端にガラン!という音がしたので振り返ると「父ちゃん!助けて!」とばかりにアモが鼻と前足でドアを開けて逃げ出そうとしていた。
待合室では笑いが起きて場が和んだ。

奥の部屋で何が起きているのか私には大体想像がつくけれど、やはり大学病院の診察状況はオープンにした方がよいと思う。
大学であるから最先端の治療が受けられる可能性がある反面、そのための研究や学生の研修に自分たちの犬が利用されていることは百も承知している。

飼主の姿が見えることで却って犬の興奮が高まることもあるだろう。
診察の時間よりも一人一人の学生に触診させたり講義する時間がかかってもいるだろう。
採血の基礎的実習では血管確保がうまくいかず、何度も何度も針を刺し直したり、時には犬が暴れて注射針がひん曲がってしまうことも知っている。
犬の取り扱いにおいて飼主からやんややんやと言われ、余計な業務が増える可能性も高い。

実験動物での研修は専門家の監視の下で行えばよいと思っているが、それでもステップアップした一般外来での診察はあくまでオープンにし学生を育てた方が私は良いと思う。
うまくいかない学生が上達していく過程を見せて欲しいし、その凄さや大変さも実感できるだろう。例えば飼主に犬を保定させれば飼主も学生も犬も進歩するかもしれない。
何より学生たちは実践の中での集中力が高められ修得すべき項目も見え、適性を早期に評価できて将来の進路を決めるのにも役立つだろう。
場合によってはそのようなプレッシャーがなければ開業獣医師を目指した人間が方向転換を迫られるかもしれないがそれも社会である。

辛口なことを書いてしまったが、これらはすべて自分に向けて発信しているつもりでもいる。
3年目というのは甘えに流されやすい時期でもあるから…。

「一日20分位の散歩をしてもいいですよ。順調に回復してますから。」
先生の言葉に思わず笑みがこぼれた。
自分の中では一緒に暮らすアモの状態は把握しいても、やはり先生のお墨付きはありがたいものである。
そんな風に飼主は思っているのだから、頑張れ学生諸君!
将来の先生を目指して!
 

余の辞書には… 2006年04月09日(日)

  毎日が氷点下の冬が過ぎたというのに、プラス3度の初春のほうが寒く感じるのは何故だろう?
ストーブの設定温度もついつい高めになってしまう。
椰子の木でも植えればガーデンは常夏の島のように白く輝いて見えるのに、実際カフェから出てみるとすぐに震え上がってしまう今日一日だった。

カフェを訪ねてくれる犬たちが初来店の頃から比べれば変化し、「ここは安全な社交場だから、礼節を守って楽しく過ごそう」と意識して振舞っているのに気づかされることがある。
初めて大学のキャンパスに立ったときに私もそんな風に感じたのを今でも覚えている。
中学や高校のように番長グループがいるわけでもなく、おせっかいな先生が目を光らせているわけでもない。
学校にいるのに自分自身で時間の過ごし方を決めることができるのが不思議でとても新鮮だった。
恐らくあの時に初めて自由というものを実感し、『この雰囲気は守り伝えていかなければならない』と思い、自らが変化していったように記憶している。
それが何事も吸収する若さであり経験を積み重ねるスタートでもあった。

転じてお泊まり犬のゴン太はというと、10歳になるシーズーだ。
若い犬たちがカフェでどんどん変化していくというのに、この爺さんだけはいたってマイペースである。
既に積み重ねられた経験と人生訓があるものだから、その範疇から逸脱するような変化とか文明だとか科学の進歩は一切受け入れない、というか反応しないように出来上がっている。

彼の辞書によると
1.『散歩』とは、自らの生活領域における侵入者のチェックであり、その形跡に対する上書きである。
2.『他犬』とは、スタートレックに見られるような宇宙の得体の知れぬ生物であり、秘かなチェックは必要であるが決して心許さず、又、争いごとを起こしたり巻き込まれることなきよう注意しなければならない存在。
3.『ゴン太おいで!』とは、決して油断できぬ言葉であり、相手の下心がはっきり見える瞬間である。その命令を無視することこそ自らの存在と威厳を保つ要素となる。
4.『食事』とは、これぞ飼主を自らが操る儀式と捉え、美味しいものを出されたときには一生懸命に食べ、ドライフードだけの時には渋々食べよ。変化は必ず訪れる。
5.『権利』とは、自らの愛らしさを最大限に活用し、相手に隙ができた時にこそ容赦なくとことん突っ込んで既得のものにする知恵。

私が酔い潰れてなければこの倍以上列挙できる自信があるが、今夜のところはこの辺で勘弁してやろう。

ところで、夏でもズボン下を履いてる年配者が多いが、プラス3度になった春を寒く感じる私もゴン太の域に近づき、自分なりの辞書を持っているのかも知れない。
 

集中的睡眠と満腹感 2006年04月08日(土)

  カフェの閉店後、お腹がすいて震えを感じた私はアモ君とゴン太の散歩を後回しにして近所のラーメン屋にKと走った。
メニューを見てあれもこれも食べたくなったが、「とりあえずは」とトンカツ定食(ご飯少な目・味噌汁抜き)と醤油ラーメンを頼んだ。
その時はペロッといけそうだったのに、やはりこの年になると食べ切ることはできなかった。
ラーメン4杯や寿司10人前、大ジョッキ12杯をやっつけていた若い頃と空腹感は同じなのだが、今ではすぐに満腹になってしまう。
「少し食べてくれない?」とKに頼んだが、彼女もまた特製ラーメンの具の多さにたじろいでいた。

目ではいろいろ食べてみたいのに、一品だけで満腹になってしまうから、これからの時代はお子様メニューならぬシニアメニューという『ちょっとずつ』の品が増えてくれれば有難い。

そんなことに無縁なアモ君は、ちょっと遅れた夕食にも不平不満を言わず与えられた食事をきれいに片付け、さっさとKのベッドで寝ている。
アモやゴン太にしてみれば、朝から夜遅くまで起こされているから、食事は勿論楽しみではあるけれど、少々の満腹感の後の睡魔に支配される時間がとても心地よいものになっているのだろう。

そこでアドバイス。
もしお宅のワンちゃんが落ち着きがなく、せめて夕方以降は静かにさせておきたいなら、日中寝かさないように例えばカフェの看板犬のような生活をさせてみればいいかも。
キャンプの時なんか数日続くと死んだように寝てしまう経験もおありだろうが、わざわざキャンプでなくとも、とにかく自宅や移動中の車でそうしてれば、夜にはぐっすり眠るし、家族の誰かが動いても普段なら飛び起きるような犬が睡魔に襲われて薄目で見るだけになるかもしれず、その積み重ねが落ち着きを犬に持たせるようにもなるだろう。

人間の方が先に疲れてしまう確率の方が高いとは思うけれど…
 

ソニアの子ジュリアが白くなる!? 2006年04月07日(金)

  連日の積雪で結果的に今年の春は遅いものとなった。
なごり雪の上で我が家の愛犬アモはごろんごろんと背中を擦り付けて行く冬を惜しみ、術後の回復期で散歩に制約を受けている憂さも同時に晴らしているようだ。

ストレスを感じているのは今日で2回目のレッスンとなったラブラドールのジュリアも同じだ。
テレビなどで紹介されている“白くなった黒ラブ”ソニアの娘で、日頃から私が指摘している多頭飼い(とりわけ母娘関係)の落とし穴にはまっているように思われるワンちゃんだ。

一緒にいる母親ソニアはと言えば、愛娘ジュリアの自立を望んでいるようで私がジュリアをレッスンに連れ出そうとしても知らん顔を決め込んでいる。
しかし、その目には「あんたがいっつも私を頼ってるからそうなるんだよ。いい機会だからちゃんと勉強しておいで。でもできるだけいい子にして無事に帰って来るんだよ!」との想いが見える。

一方ジュリアの方は「かぁちゃーん!何とかならないのぉ!」とドアを出るまでは依存的に振舞っているが、一歩外に出ると「30分辛抱すればいいだもん。この人の声なんか無視してればいいんだ」とばかりに急に聴覚障害者を装っている。

ところが実際歩き始めると、いつもはソニア母さんや飼主に守られているから感じなかった外の恐怖が襲ってくる。
木の枝から落ちる雪の音に飛び上がり、ゴミステーションで揺れるゴミ袋には猜疑的に尻込みする。
他犬に吠えられれば対抗するような声を出しているけど、身体は反対方向に飛び跳ねていつでも逃げる体勢をとっている。

結局は経験を積んで自立するか私を頼る他はないのだけれど、まだ2回目のレッスンだから決めかねている状態だ。
おまけに30分辛抱すればジュリアは母さんの元へ戻れるわけだから私にも大変さはある。
まあ、長く付き合っていけそうなので焦らずやっていこうと思う。

百獣の王ライオンは我が子を谷底に突き落として自立を促すというが、ジュリアにそんなことをすると一晩で白くなってしまいそうだし、そうなると私は悪の権化として紹介され、せっかくのソニアの美談の続編がとんでもない方向に向かって困るではないか!
そんなことを考えたら私の頭が白くなってしまいそうで怖い!なんちゃって。
 

札幌ドームのコンサドーレに駆けつけた 2006年04月06日(木)

  札幌の学校の春休みは今日で終わり、お泊まり犬もいなくなった。
久しぶりに定休日前の自由な時間がとれた私は、カフェの閉店後、赤と黒のコンサドーレポロシャツの上からダウンコートを羽織って、応援グッズを袋に入れていそいそと札幌ドームへ向かった。
途中で盲導犬協会の同僚だったDさんと合流し、ベストビューの席で童心に返って応援を繰り広げた。

ありがとう!ありがとうございます!
我がコンサドーレはザスパ草津を相手に3−0で見事勝利を収めました。
阪神タイガースも日本ハムファイターズもみんな今夜は勝ちました。
こんな幸せな夜はありません。
本当にありがとうございました!

夜中の1時前に帰宅した私が、まともにこの欄を書けるはずもない。
ドームの芝はすばらしい!
それ以上に90分間闘い抜いて選手たちに拍手である!

PKを外したフッキも次の点をしっかり稼いでくれたからひとまずは良しとしよう。
何よりピッチとスタンドが一体となって連動する姿に感動を覚えた。

今夜は解放され充実感を味わうことができ、それで十分に満足である。
野暮な話は抜きにして、余韻を今は楽しみたい。
 

物分りが良すぎる飼主になっていませんか? 2006年04月04日(火)

  「だってゴールデンウィークの頃だって寒いじゃん。
その1ヶ月前の今頃なら雪があっても昔通じゃんか。」
私は今にもブチ切れそうな苛立ちをそう言い含めて耐えている。

Mダックスのののちゃんが急遽昨日からお泊まリだ。
前回のお泊まりの時はとても穏やかだったのに、今回の来店時は吠えながらの入店となって私を驚かせた。
「実は大型犬に襲われてしまって、それ以来こんな調子なんです」と飼主は言い訳されていた。

同じような相談を受けることが度々ある。
「うちの子は○○の犬種が嫌いです」とか「あれ以来他犬を見ると吠えるようになりました」などというもっともらしい話である。

確かに、ある事件がきっかけになって我が子の反応がそのようになることは私も知っている。
だからといって飼主までもが、それを安易に受け入れるのはどうかと思う。
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)は確実に存在する問題だということも知っている。
だけど周囲の過剰反応が『本来なら自身で立ち直れるケースもあるのに、一種の病気と押し付けることで立ち直れなくしたリ、病気として受け入れるよう押し付けている』ことがないか検証すべきでもある。

人を含めた生き物は誰しも何度も心を傷つけられた経験を持っている。
安易な表現でお叱りを受けるだろうが、戦場あるはい敗戦後というような場所と時代に強烈な体験をした者は、『自分だけではなく圧倒的に多数の人間が同じ体験をした』という結果において罪悪感や実体験を薄めることができるかも知れない。
平和な時代に希少な『恐怖体験や残虐経験』を経験した者はよリ強い衝撃を受けることも理解できる。

つまりは時代や状況に関係なく、PTSDを深刻に受けているかどうかが問題なのであって、他人が勝手に柔な診断を下して本人を病気に仕立てるべきではないと思う。

話を元に戻せば、『愛犬の現状の問題点に安易に理由付けを行い、物分りのよい飼い主に成り下がってしまうのはどうかと思う』ということである。

何でも病気や他に起因する結果であると結びつけて安心し、自らば心優しい存在であろうとする風潮こ流されると、年取ったときに後悔しますよ。
越えるべき壁はそれぞれだろうが、壁は等しく存在するものでそれは愛犬との生活にもあるものだと思う。

ちょっと叱られて我に返ったののちゃんは、すっかりおりこうさんになって引き取られていった。
 

寝不足の成果を願う 2006年04月02日(日)

  ガーデンも全開かと思えば、また夕方から雪が積もリ始めた。
いつもながら春の訪れは相手の高ぶりを見透かしたようにもったいぶっている。

夕べは明け方の3時半まで眠りに落ちることはできなかった。
初めてお泊まりのジャックラッセル岳(ガク)君の鼻鳴らしが15分おきに続いたからである。
私の対応はいつものように”注意””警告””処罰”の順であった。
トイレも済ませた、健康状態に異常はない、飲み水はいつでも飲める、寝床も快適に整えてありそれ以外の不満は我慢してもらうしかない状態であったにも関わらず、時を見計らって鼻憤らしを続けたのである。

言葉に強弱をつけた”注意”に反応して途端に静かになるが、それは数分しか続かない。
ベッドから起きて首筋をつかみ、威圧的な叱責を与えると15分ほど静かになったが、やはり結果は同じことであった。
改めて生理的な欲求や体調を確認したが、どうやらそういう問題ではないらしく、意図的な自己主張であると断定し、努めて冷静な声で「ノー」と言った後に鉄拳を振るった。

朝、私が目覚めても岳はグーグー寝ていたが、今日の反応は別犬のように素直になっていた。
勿論、私はフォローも忘れなかったけれど、言葉に反応し折り合いをつけようという態度が随所に見られた。

賢いわんこだと思う。
自分の生活環境をより快適にするためにぎリぎりの主張を展開し、その限界を見極めると中身を充実させる努力も行う。
今日のところは“注意"だけで反応よく振舞ってくれたし満更でもなさそうだったが、恐らく、しばらくして落ち着いてきたら再び攻勢をかける作戦であろう。

幸いにも1泊だけのお泊まりだったのでその本音は分からないが、私だって百戦錬磨である。
次回を楽しみにしておるぞ!
 

エイプリル 2006年04月01日(土)

  「去勢手術したのにらむちやん(チワワ)の睾丸がまた降りてきたんだって。どうすればいいの?」とKが真顔で尋ねてきた。
「そんな馬鹿なことがあるもんか。ありえない。きっと勃起したオチンチンの付け根の瘤を勘違いしてるんだ」
私が戸惑いながら答えると「エイプリルフール」と一言言ってKはきびすを返して行った。

「やられた!」と私は悔しがった。
朝食の時までは『きっと何か言ってくるに違いない』と心構えをしていたのに、昼過ぎになってしかも営業中のガーデンで言われたものだからすっかり担がれてしまった。
それにしても余裕がなく生真面目一方の自分が恥ずかしい。せめて
「あら、そう、それはよかった!それで、今度は何色だった?」とでも返せるセンスが欲かった。

ユーモアのセンスというのは日頃から鍛錬しておかないと身につかないもので、ある種知性の裏返しでもあるそうだ。
だからといって軽々に口にすると駄酒落になりおやじギャグになって誰も寄リ付かなくなるし、それを案じて酒落のひとつも言えない様では視野が狭くなってしまう。

盲導犬の国際会議準備委員会でイギリスの退役軍人だった議長が参加者に自己紹介を求めた際、我々目本人の順番がきたときに「in English(英語で)」と皮肉交じりに付け加えた途端、会場に笑いが起きた。
ブラックユーモアにもならない差別的・発言に、すかさずフランス代表がフランス語で異議を唱えてくれた体験を私は持っているが、それ以降たとえ片言の英語であっても外国人と話すことに恥ずかしさを感じなくなった。
この準備委員会以降『国際盲導犬学校連盟の会議における公用語は英語とする』という条文が付け加えられることになったが…。

ユーモアも機知に富んだウィットも窮地に陥った時に発せられるようになったら一人前である。
停電が起きた時、私の知っている視覚障害者の多くは「なんと目明きは不自由だのぉ」と泰然としているから私は落ち着きを失わなくて済んだし、ガーデンの整備に躍起なって白いゼオライトを投入し続けた挙句、大雪で落胆している私に百年後、ここには古代遺跡があったという考古学者が現れるかも知れないね」とKは笑わせてくれる。

誰しも特性というのがあるから思うようにはいかないが、毎日が4月1日と思って遊び言葉を使える鍛錬をしてみようとチト思った。
 

したたかさ 2006年03月31日(金)

  まずはお知らせから。
1.明日4月1日から3日までトリマーのノンちゃんが研修のためカフェの美容室はお休みとなります。
2.4月19日(水)カフェは臨時休業し翌日の定休日と併せ連休とさせていただきます。
3.4月のパスタは“カフェオリジナル・エビとムール貝の和風パスタ・ミョウガ添え”という思いつきのネーミングをKが口にしとりましたのでお楽しみに。(個人的には味が調うのは8日頃かと思っています)
今日試食しましたが、食べ終わった途端にお腹がすいてしまうのが驚きでした。

さて、今日からお泊まりのパピヨン/キャンディは普段からカフェに来たときには他犬に吠えかかり、噛みつかんばかりの勇ましさがある。
いつも経験することだが、このようなわんこは飼主から引き離すことで途端に大人しくなり、後ろ盾をなくした不安で自信をなくすのか、それとも守るべき主人が離れたことで吠えかかるという仕事から解放されるのか、とにかく引き離すだけで大人しくなるものだ。

実際には引き離した後にちょちょっと制御が必要なのだが、やはりキャンディもとてもいい子になり、その容貌に似つかわしい愛らしさを私たちに感じさせてくれるようになった。

それにしても小型犬の変わり身の速さは立派である。
飼主がいる時には別れ際まで『あなたがいなければ私は生きていけません』と切々と訴えるのに、姿が消えてしばらくすると、すぐに次の頼れる存在を見つけて『よろぴく』とばかりに擦り寄ってくる。
処世術に長け、甘え方を知り、情に訴えることでそれまでの地位を築いてきた確信を持っているようである。

その情にほだされて手厚く接していても、お迎えに飼主が現れると『じゃぁね』の一言もなく、元の姿に立ち返る場面を幾度となく見てきている。
恐らく、犬というのは我々が想像する以上にしたたかで地位保全に長けた生き物だと思うし、一方で、やはり犬というのは飼主をどう見ているかでその行動パターンが決められる単純な生き物のようにも思える。

そして実際は、“犬相手”ぐらいにしか接することのできなかった飼主の犬はいわゆる“犬”になり、犬を自分と重ね合わせて接したときに犬の脳は解発され次のステップに進めるのだと思う。
別の言い方をすれば『カワユイ!』とだけ感じるうちは前者であり、『なんてことすんの!』と叱りつける自分を責めながらも毅然と主張を展開しうまくフォローもできたら、それ以上の暮らしが待っているということである。
とりわけ、か弱く愛らしく見える小型犬の飼主には難しい対処法であるといえる。
だが、犬のしたたかさは犬種やその大きさに関係なく実在することも知っておこう。
 

シーズー 2006年03月29日(水)

  シーズーは暮らしやすい犬種の代表だと思う。

こう書くと様々な誤解を招くかもしれないけど、普通に家庭犬として暮らす分には、例えば高齢者や溺愛しかできない方が飼っても失敗/ハズレの確率が低く、楽しめる犬種だということだ。

キャバリアキングチャールズスパニエルも扱いやすさでは有力候補に挙げることができるが、こちらはやや高い感受性と依存心があって、飼主べったりになると柔な犬になってしまいがちだ。
それに比べシーズーは大型犬のような大らかさが頼もしく、ゴールデンのような頑固さが楽しめ、ラブのような寛大さに救われ、トイプードルのようにしつこく抱っこをせがむこともなく、まるでルームメイトのようにお互いがそれぞれ別の会社に勤め、生きる目標や人生感も違うのだけれど、同居のメリットを共有しあえる犬種といえる。

ただ、やはり相手は犬なので勝手に食事をしたり外出ができるわけでもないから、自分の要求を満たすために七色の声色を使って人を動かすことがあり、これが面白い時もあればウザイこともある。
基本的には個人主義で都合に合わせて人間を利用している。
ただ、その姿・形・風貌や大きさが身勝手で独立心が強く生意気な行動の角を丸め、愛嬌という別の心象を我々に与えるから、まあ、高徳の種なのかもしれない。

毎週カフェを訪ねてくれるN夫妻のアトムとルパンを見ると私の目尻は下がりっぱなしだ。
そういえば一般的にオスのほうが飼いづらいといわれるが、そうでない犬種の代表格でもあろう。

カフェの周辺を散歩しているとたくさんのシーズーを見かけ、どの子もいい子といえるわけではないけれど、あの小さな身体から『自分ひとりでも生きてやる!』という逞しさを感じさせて微笑ましい。
 


- Web Diary ver 1.26 -