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実は一ヶ月以上ヨガ教室に通っていない。 いろんな事情があるけど、最大の理由は『万障繰り合わせてヨガ教室に通わなければならないほど体調が悪くない』ということに集約される。 つまり、『のど元過ぎれば熱さを薄れ』外食したり旅行に出たり飲んだくれたりと、ヨガの先生には恩知らずなことをしてしまっているのだ。 そろそろ顔を出しておかないと、快く教えてくれなくなるかもしれないと、左肩の痛みを感じながら考えている自分が人間ぽくって笑える。
そもそもヨガというのは無理をせず頑張らず無我で臨むよう先生は仰っていたではないか。 ヨガは漢字で“結”と書くらしい。 身体と精神を結び、呼吸と動きを結びつけるようなことも言われていた。
やめたやめた、どんな言い訳をしても「無理はせずとも継続せよ」という教えを守っていないのは明らかで、屁理屈で誤魔化せそうにもない。 今週は顔を出すぞ! と宣言した途端、『ヨガに行くのはいいんだけれど、カフェが終わってから教室が終わるまでの時間禁酒してなきゃなんないのが辛いんだよな』 悪魔のささやきが聞こえてきた。
話は変わるが、“ニワトリが先か卵が先か”という論争に決着がついた?らしい。 言われてみればもっともなことで、答えは“卵”ということだ。 動物は生まれた後に進化などの大きな変化をすることはなく、卵子や卵のうちに突然変異などによって変わってしまうものである。
相応しい例えではないけれど、チェルノブイリの放射能やサリドマイドの薬害で汚染された人間は人間として死ぬが、以後生まれてくる子供には何が起きるか分からない恐ろしさと怒りと悲惨さがある。 自然の営みと人災の違いはあれども、変化を受けるのは卵なリ精子の中の遺伝子だから、ニワトリも先祖の生物から分化しその始まりが“卵が先”という結論には納得できる。
では問題。 人は身体や心が病んだからヨガを創造したのか、それとも健康な精神がそれを導き出したのだろうか?
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