From the North Country

したたかさ 2006年03月31日(金)

  まずはお知らせから。
1.明日4月1日から3日までトリマーのノンちゃんが研修のためカフェの美容室はお休みとなります。
2.4月19日(水)カフェは臨時休業し翌日の定休日と併せ連休とさせていただきます。
3.4月のパスタは“カフェオリジナル・エビとムール貝の和風パスタ・ミョウガ添え”という思いつきのネーミングをKが口にしとりましたのでお楽しみに。(個人的には味が調うのは8日頃かと思っています)
今日試食しましたが、食べ終わった途端にお腹がすいてしまうのが驚きでした。

さて、今日からお泊まりのパピヨン/キャンディは普段からカフェに来たときには他犬に吠えかかり、噛みつかんばかりの勇ましさがある。
いつも経験することだが、このようなわんこは飼主から引き離すことで途端に大人しくなり、後ろ盾をなくした不安で自信をなくすのか、それとも守るべき主人が離れたことで吠えかかるという仕事から解放されるのか、とにかく引き離すだけで大人しくなるものだ。

実際には引き離した後にちょちょっと制御が必要なのだが、やはりキャンディもとてもいい子になり、その容貌に似つかわしい愛らしさを私たちに感じさせてくれるようになった。

それにしても小型犬の変わり身の速さは立派である。
飼主がいる時には別れ際まで『あなたがいなければ私は生きていけません』と切々と訴えるのに、姿が消えてしばらくすると、すぐに次の頼れる存在を見つけて『よろぴく』とばかりに擦り寄ってくる。
処世術に長け、甘え方を知り、情に訴えることでそれまでの地位を築いてきた確信を持っているようである。

その情にほだされて手厚く接していても、お迎えに飼主が現れると『じゃぁね』の一言もなく、元の姿に立ち返る場面を幾度となく見てきている。
恐らく、犬というのは我々が想像する以上にしたたかで地位保全に長けた生き物だと思うし、一方で、やはり犬というのは飼主をどう見ているかでその行動パターンが決められる単純な生き物のようにも思える。

そして実際は、“犬相手”ぐらいにしか接することのできなかった飼主の犬はいわゆる“犬”になり、犬を自分と重ね合わせて接したときに犬の脳は解発され次のステップに進めるのだと思う。
別の言い方をすれば『カワユイ!』とだけ感じるうちは前者であり、『なんてことすんの!』と叱りつける自分を責めながらも毅然と主張を展開しうまくフォローもできたら、それ以上の暮らしが待っているということである。
とりわけ、か弱く愛らしく見える小型犬の飼主には難しい対処法であるといえる。
だが、犬のしたたかさは犬種やその大きさに関係なく実在することも知っておこう。
 

シーズー 2006年03月29日(水)

  シーズーは暮らしやすい犬種の代表だと思う。

こう書くと様々な誤解を招くかもしれないけど、普通に家庭犬として暮らす分には、例えば高齢者や溺愛しかできない方が飼っても失敗/ハズレの確率が低く、楽しめる犬種だということだ。

キャバリアキングチャールズスパニエルも扱いやすさでは有力候補に挙げることができるが、こちらはやや高い感受性と依存心があって、飼主べったりになると柔な犬になってしまいがちだ。
それに比べシーズーは大型犬のような大らかさが頼もしく、ゴールデンのような頑固さが楽しめ、ラブのような寛大さに救われ、トイプードルのようにしつこく抱っこをせがむこともなく、まるでルームメイトのようにお互いがそれぞれ別の会社に勤め、生きる目標や人生感も違うのだけれど、同居のメリットを共有しあえる犬種といえる。

ただ、やはり相手は犬なので勝手に食事をしたり外出ができるわけでもないから、自分の要求を満たすために七色の声色を使って人を動かすことがあり、これが面白い時もあればウザイこともある。
基本的には個人主義で都合に合わせて人間を利用している。
ただ、その姿・形・風貌や大きさが身勝手で独立心が強く生意気な行動の角を丸め、愛嬌という別の心象を我々に与えるから、まあ、高徳の種なのかもしれない。

毎週カフェを訪ねてくれるN夫妻のアトムとルパンを見ると私の目尻は下がりっぱなしだ。
そういえば一般的にオスのほうが飼いづらいといわれるが、そうでない犬種の代表格でもあろう。

カフェの周辺を散歩しているとたくさんのシーズーを見かけ、どの子もいい子といえるわけではないけれど、あの小さな身体から『自分ひとりでも生きてやる!』という逞しさを感じさせて微笑ましい。
 

嵐の夜のお泊まり犬 2006年03月28日(火)

  せっかく犬たちが思いっきり遊べるようなコンディションになったのに、夜のガーデンは昨年秋以来の水没状態となってしまった。
明日も低気圧の通過で道内は大荒れの予報となっているから、週末までガーデンのご利用はお勧めできない。
あーあ、またしばらくは休業状態だ。

雨が降るとお泊まり犬の管理が大変で、特に夜の最後のトイレタイムの時は時間がかかってしまう。
雨の中でもへっちゃらでおしっことウンチをしてくれるラブラドールのメイちゃんには感謝したくなるが、ジャバジャバと水没した場所を駆け回って、挙句にはそのど真ん中で腰を下げてしまって唖然とさせられる。
おまけにお泊まり前のお別れ会でご馳走をたくさん貰ったのかどうか分からないけど、お預かりした時からウンチが緩くそれが水と混ざり合って、わや。
それでも濡れた身体を拭くまで5分程度で終わるから助かるといえば助かる。

問題は「こんなコンディションでオシッコなんかできません!」とノタマウ上品なワンちゃんたちである(いや決してメイちゃんが下品というわけではありませんし、敢えて言えば奔放で豪放磊落なだけです)。
今夜からお泊まりのトイプードルのルパンは、雨のガーデンに出すと座り込んでしまった。
確かにこんな条件の中ですっきりオシッコなんかできないと同情した私は「もういいんじゃない」と珍しく諦めの言葉を口にした。
これまでなら「そうだよね、こんな雨の中じゃできないよね」とすぐに同調したKだったが、今夜は私が2階に上がっている間に手際よくルパンに別のシチュエーションを与えていた。
「トリミング室のペットシーツでオシッコ一杯したよ」
その言葉に「おぬし、やるな」と私は頼もしく思った。
忘れかけていたことだが、多くの小型犬には室内で排尿便ができる特技があるのだった。

同じ小型犬のMダックス/チップの様子がおかしい。
回遊魚のようにじっとしていることが苦痛で、一人遊びを日がな楽しんでいたのだが、夜のトイレではほとんど動こうとしないのである。
何とか排尿はさせたものの観察してみると、どうやら日中遊びすぎて後肢を痛めたか椎間板ヘルニアの症状のようである。
本人は尾を振っているけど、明日は要注意で必要ならば診察してもらわなければならないだろう。

夜半を過ぎて外はゴーゴーと風雨が強まっている。
お泊まり犬は私の周りで眠りに落ちているが、明日もまた新たな対処を求められることになりそうだ。
 

だっこ・ちょうだい 2006年03月26日(日)

  生後5ヶ月になるMダックスのきくちゃんが面白い。

怖いもの知らずでカフェの犬たちにちょっかいをかけるものだから、犬嫌いのわんこに近づいたときなど管理する私も冷や汗をかく場面もある。
それでも犬たちはきくちゃんがまだ幼いということが分かっているので、我慢したり逃げ出したり軽く威嚇する程度で耐えていてくれる。
きくちゃんに恐怖体験させることなく、社会化や礼儀をわきまえさせるにはうってつけの状況である。

そんな配慮で身を守られていることすら知らないきくちゃんは、ガーデンでも奔放に走り回って飼主のOさんを手こずらしているようだ。
「Oさん随分頑張って走り回ってるね」
「あれってきくちゃんと遊んでるつもりかな?」
先々週だったかカフェのお客さんが窓越しにガーデンの二人を見て話していた。
10分ほどしてカフェに戻ったOさんは
「やっと捕まえた」と息を荒げていたものだ。

今日のガーデンでも元気に走り回るきくちゃんにOさんはたじたじの様子。
どれほどの知能を持っているのか試したくて私も遊びに参加してみた。
犬と暮らすのに絶対必要な『マテ』を遊びの中で教えてみようとチャレンジしたのだが、驚くことに既にその訓練は始められていて、きくちゃんもおおむね理解していたのだった。
三度ほど訓練して、より強化しておいたが、ちゃんと教えられていることに脱帽した。
「誰が教えてるんですか?」と尋ねると
「娘はやらないから女房でしょう」とOさん。

Oさんが教えているのではないことは明らかだった。
何故なら、走り回るきくちゃん相手に「マテ!マテ!」と命令を聞くはずもない状況下で叫んでいたから。

マテの意味を教えるには遊びの延長が最適な場面である。
相手が自由に逃れられる状態ではなく、人がしゃがんだ姿勢で両手で大きな輪を描き、その中にワンちゃんがいるようにして「マテ」と声をかけ、まるで積み木遊びで積み木が倒れないように優しくマテの姿勢を保持させて、数秒でもできたら「よし!」と言って解放し大喜びするのがこの訓練の始まりで、これを繰り返しながら徐々にハードルを高くしていくのがコツである。
小さい頃から教えていると将来がとても楽になり、呼び戻しの訓練にも応用できるし、何より様々な場面で犬の命を守ることもできる。

Oさんは『命令すればいずれきくちゃんが言うことを聞くようになる』と勘違いしてガーデンで追い掛け回し、奥さんは自宅でまるで子育ての頃のようにじっくり言葉の意味を手取り足取り教えているのだろうと想像した。

我々日本人は生まれながらに日本語を理解していたわけではなく、何度も物と言葉の結びつきを提示されて覚えてきたはずである。
「だっこ、ちょうだい」
私の子供が抱っこをせがむときに発した言葉は今でも忘れることはできないし、生き物が言葉を覚えていく過程としてとてもよい教訓となっている。
 

豪華メニュー/ご飯に味噌汁 2006年03月25日(土)

  今日から春休み、甲子園では北海道の高校が2校出場、パ・リーグ日本ハムが札幌ドームで開幕、給料日直後の週末…。カフェにとっては悪条件が重なってのんびりした営業日となった。
朝方までに降った雪は午前中には融け、ガーデンのコンディションに大きな影響はなかった。

久しぶりに我が家の愛犬アモの体重を量ってみた。
36.8キロで当初からみれば4キロ減量したものの、1ヶ月前から変わっていない。
ナチュラルバランスのダイエット用ドライフード160グラム弱・4種類の缶詰をローテーションで大さじ2杯・食パンがあれば1/6枚・すなぎもジャーキー1個それに低脂肪牛乳を少々かけて与えているが、どうやらこの量が現体重を維持するカロリーを賄っているようだ。

手術後まだ一度も散歩に連れ出さず、カフェの看板犬としての運動だけだから消費カロリーは以前より格段に少なくなっている。
それに加えて『大好きな散歩に連れていけないことへの代償の気持ち』がさじ加減に手心を加えてしまっているものだから体重が落ちなくなったのだろう。

幸いにも「術後しばらくは今の体重を維持してください」という先生の指導には従ったことになる。

こうしてアモの食事を書き出してみると、知らず知らずのうちに副食が固定してしまっていることに気づく。
私の経験と考えからして、たとえ身体によいものであっても同じものをいつも与え続けることは長期的に見れば身体にはよくないと思っている。
副食にはできれば季節の魚や野菜も混ぜてあげよう。
ひょっとしたらたまには“ご飯に味噌汁”“玉子かけご飯にいりこ”というのもいいかもしれない。
アモはご馳走と思って大喜びするだろう。

グルメになったり偏食することのない犬種だから、お腹が驚かない程度にちょっとだけ変化をつけて、しばらく続く安静生活に楽しみも付け加えてあげたいと親心が頭をもたげてきた。
 

集合住宅での警戒による留守番吠え 2006年03月24日(金)

  今日の晴れ間と気温が先日来の雪を融かし、表面を乾燥させてようやくガーデンが使えるようになった。
明後日の雨しだいでどう変わるか分からないが、とりあえず明日土曜日の日中は晴天予報だから十分使えそうだ。

「マンション暮らしの柴犬2歳ですが、留守中に階段や通路を歩く人の足音や声に反応して吠えてしまい、苦情が出ています。何とかならないでしょうか」
定休日の昨日、そんな電話が入った。
頭は休み中だし特効薬などないからため息交じりの曖昧な返事しかできなかった。

日中仕事で留守にする人が、警戒心の強い柴犬をマンションで飼うこと自体がそもそも冒険だったように思う。
また、柴犬に限らず集合住宅で犬と暮らす場合、“吠え声が問題になりやすい”という将来の問題を見据えた上で育てることが必要である。

1)この対策には最初の犬種選びが大切なのだが、どういうわけかチワワやMダックス・Mシュナウザーなど警戒心で吠えやすい犬種が人気なものだから対応が難しい。
2)ならば、仔犬のうちから人に対して友好的になるような場面を多く与え、外出を増やして社会性を養っているかと言えばそうではなく、もっぱら座敷犬として世間知らずで内弁慶になるよう育てている。
3)せめて室内で係留されたり、ケージ(ゲージは誤りですぞ)に入って過ごすことが生活の一部になるよう意識して育てているかといえば、こちらもできていない。「繋ぐと吠えるんです」などとわけの分からない理由を持ち出す。
飼主がいる時に繋がれて吠える犬を制御できないなら、留守中どうして吠えるのを止めさせることができよう。
理由はどうあれ「吠えてはいけないのだ」ということを真剣に教え、血統的に吠える犬であってもせめて「奔放に力いっぱい吠えるのだけは許しませんぞ」という決着はどこかでつけておくべきだろう。

そのうえでやむを得ず対症療法的な手段を模索するならいくつかのアドバイスもできよう。
1)帰宅後から就寝までは犬をあまり寝かせず、翌朝出勤前の1時間は長い散歩に連れ出し犬を疲れさせる。
2)窓の外が見えない場所に犬を係留して、快適な寝床・トイレ・飲み水・壊れないおもちゃや骨などを与え、その他の物はリードの長さ以内から排除する。
3)外の音がある程度消されるくらいの音量でラジオなどをかけておく。タイマーをうまく使ってオン・オフが繰り返されれば最初はオンの度に吠えるかもしれないが次第に慣れてくる。
4)インターホンのスイッチは切っておく。
5)吠え声に反応して動くおもちゃを普段から見せておき、吠えてそれが動けば叱られるという経験を積ませておく。

どれもこれもありきたりで消極的な方法である。
警戒心での吠えだから完全に止めさせることはできないけど、せめて「吠えるのは悪いことだ」と普段から自覚させ、遠慮深く申し訳なさそうに1声2声吠える程度に抑えるようにできればしめたものである。

いろんな訓練士がいろんなアイデア(仕掛けによる天罰方式とかネット画像を見て対処するなど)を持っているはずなのでネットなどで調べてみるのもよいと思う。
ただ、外の物音を警戒の対象としないよう楽しいことと結びつければ…などと悠長なことをやっているうちに、マンションを退去するか犬を手放す羽目になるかもしれない。
本当は問題が起こってから対処するのではなく、将来の問題を見越してきちんとしたしつけと飼育を行うことが大切だという基本に行き着く。
 

ありがとう世界一。王ジャパン 2006年03月21日(火)

  今日のドッグカフェはさながらスポーツカフェに変身し、飼主は犬たちに「勝手に遊んでいろ!」状態。
吹き荒れる強風と雪の中でしばらくは遊んでいた犬たちも「中に入れてよ!」と、ついには猛抗議をして入れてもらったものの、いつもと違う雰囲気と人間たちの熱気にたじたじだった。

“春のガーデン開き”を宣言しようとした矢先に、2日間の冬の嵐に襲われ、この冬最高の吹き溜まりは一夜で80センチにも達した。
除雪機ガロアラシ号は唸りを上げながら、重たい雪とガーデンに投入したばかりのゼオライトの一部を吹き飛ばし私をがっかりさせていた。
それまでにも日本代表がアメリカにサヨナラ負けを喫したり、韓国に連敗するなど、鉛色の空のように重苦しい気分が心の中を包み込んでしまった。

イチロー選手は韓国に敗れた夜、体を失くすほどに飲み潰れたというが、私はあの日以来酒がまずくなり量も格段に減ってしまった。
酔いが回らないと必然的にこの欄を書く気にはならないからお休みが続いたというのがいい訳である。

而して今日のWBCでの世界一獲得は、溜まりに溜まった鬱憤を晴らし、閉店後に直行した里塚温泉での癒し効果と相まって、さらに風呂上りのビールを大広間の大型テレビで繰り返し流される映像を肴に飲み干すと、全身から負の魂が揮発し、代わりに充足感が身体を包み込んでくれるような心地よさを感じた。
政治の分野では世界(特にアジアや列強国)に対して主張するにも配慮が必要で、結果的に軟弱な外交状況が続く中、遠慮なく選手たちが戦いそして勝ったことが素直に嬉しい。

『ヤバイヤバイ、気をつけないと優越感と愛国心で簡単に扇動される小市民に成り下がってしまう』との思いがかすめたが、スポーツや科学の中での戦いには大いに熱狂・一喜一憂し、時に鬱積し時に溜飲を下げつつ誤審には寛大であっても偽審には敢然と異議を唱える小市民であり続けたい。
ありがとう!王ジャパン!
 

年輪・少年時代から 2006年03月18日(土)

  確か36年前の今日が中学校の卒業式だったように記憶している。
その数ヶ月前、自分の人生を左右することになる決断をいとも簡単に行っていたことを思い出し、『あの頃とちっとも変わってないな。もう一度あの頃に戻れたとしても同じ道を選んだろうな』と苦笑いしてしまう。

その決断とは言わずもがなの進学高校の選択であり、私は将来のことなど考えず、担任と親の反対を押し切りあの時の生きがいだった吹奏楽を選んで高校を決めたのだ。

以後も進路を決めるにあたって私が重視したのは、あるかどうかも分からない将来ではなく、今を賭けることができる物事に対してであったように思う。

しかし、今を賭けたいと思ったことに対しては努力は惜しまなかった。
札幌(現北海道)盲導犬協会で働くと決めた時も、採用もされていないのに、親には「就職が決まった」と嘘をついてひとり旅立ち、親からもらった10万円を手に札幌で一人暮らしを始めていた。
2ヵ月後、「息子さんはおられますか?面接することにしました」と協会から親元に連絡が入ったときの両親の戸惑いは如何ほどだったろうかと今になれば分かる気がする。

自分ひとりで生きてきたような顔をして飼主に対してもそのように振る舞う犬がおり、その言い分を認めることはないにしても、我が子の進路選択には偉そうなことは言えない前歴を持っているのが恥ずかしい。
子供たちの前途に幸多かれと祈るばかりである。

時は流れ様々な変遷を遂げてきた私が今夜ソプラノサックスを手にして“コーカサスの風景”を奏で、あの分岐点だった頃を思い出している。
好きでもなかった音楽にひょんなことから足を踏み入れて人生が動き始め、数十年を経てまたその時代を楽しんでいる。

年輪を重ねるとはそういうことかも知れないとふと思った。
 

一歩ずつ春のガーデン 2006年03月17日(金)

  春の陽気に誘われてガーデンの整備を定休日の昨日から始めた。
ドッグフードの配送で毎月汗を流してくれる松岡満(マツオカマン)というローカルな運送業者のドライバーとはすっかり顔なじみで、一生懸命な仕事ぶりに感謝している。
その運転手のトラックがカフェ前に駐車しているのを、外出中の私がたまたま通りかかったときに見つけた。

届けてくれたのは800キロのゼオライトでガーデンの泥沼をカバーする素材であるが、カフェへの坂道を一人で運ぶには重労働である。
急いでUターンした私は運び上げるのを手伝いながら、ふと喜びを感じていた。

あれほど自分の身体に自信を無くしていた私の足腰が動いてくれるのである。
去年の今頃は、痛い痛いと怖がって、尻込みしていた私であるが、Kが勧めてくれたヨガと体質改善の教室に通ったおかげで、私の身体は結構使える状態になったようだ。
 
そして今日、600キロのゼオライトを投入してガーデンの外見はそこそこ出来上がった。
ただ、見てくれは立派でも、実際は殆どが泥沼の土に白いゼオライトのカバーがあるだけのまやかしという現実には変わりはない。
大切なことは、改善しようとした私たちの意志と努力であリ、案の定今日の営業時間中に荒れてしまったガーデンを優しく見つめ、明日はまた今日よリもよい状態にしようと思う気持ちであると勝手に納得している。

もう泥沼状態のガーデンではない。
決してきれいなドッグガーデンともいえないけれど、まるで犬育てのように、この時期にしてはそこそこ30%の状態まで育てることができた。

残念ながら、明後日の日曜日は結構な量の雨予報。
せっかくうまく育てても、犬をダメにするのと同じようにガーデンをダメにするのも簡単である。

『雨降って地固まる』
ガーデン育てと犬育てが共通するなら私は決して諦めはしないが、心配なのは私の気力と体力ではなく、なけなしの支出を迫られる懐具合ではないかと気を揉んでいる。
 

警鐘 2006年03月14日(火)

  「部位が膝だから一週間での抜糸はどうかな?きっと術後の経過を見るのが最大目的で、何本か抜糸して残りはまた数日後ってなことになるんじゃない?」

そんな話をしながら大学病院にいくと、予約時間を45分過ぎてようやく診察室に呼ばれ、「今日は検査なしで抜糸だけです」と、リードを持つ手もおぼつかない学生がアモを連れて行った。

担当教授の診察日ではないから詳しい経過の説明がないのは仕方ないにしても、抜糸するのにさらに20分以上待たされたのには少々うんざリした。
ただ、開業医ではないから臨床実習や最新の研究として適切な指導の下、有効に活用してもらっているなら喜んで納得しよう。

あリがたいことにすべて抜糸されていた。
退院後のアモは一言注意すればエリザベスカラーなしでも術部を舐めることはなかったし、若い上に安静状態をある程度保たせて回復を図ったのも良かったのだろうか。

カフェに戻り、今度は私の仕事が評価される時間である。
ご利用される方々すべてに満足を与えることはできないから、それぞれに評価はまちまちだろう。
『組織の中の一人とは違って開店準備から接客・空調・仕入れ・渉外・メンテナンス・経理等々ほとんどを行わなければならない』などと言い訳には事欠かない材料を持ち合わせているが、今日の夕方は2年前カフェをオープンした頃のように、ゆったリとした時間の中で“愛犬のしつけ方”について二組の飼主にお話をすることができ、初心を思い起こしていた。

相談者に対してお答えするということは、私の知識(日々更新)や経験(日々更新)から導き出される事柄を話すことなのだが、そのことで私の頭の中はさらに 整理され、もしその場に犬がいれば正に臨床の現場として実証あるいは修正することも可能なのである。

因みに今日の相談は、室内でもストーカーのように飼主にまとわリつき、姿が見えなくなると吠えたりケージに入れても同様になる犬と、車内で吠えまくる犬の相談だった。

物腰が柔らかく『犬は褒めてしつけましょう』とか言う最近流行の訓練士や、獣医資格を持ち、時に薬物を併用しながらの行動療法に盲従する魔術師は、とにかく時間をかけるし相談された問題行動が解決したように見せかけること長けている。
時間をかけられたのでは、マンションから苦情が出て退去を迫られている飼主には手放すか薬物使用しか方法はないように強迫しているのと同じであるにもかかわらず。

恐らく相談者の数パーセントの犬はそれでも解決が図られるし、数十パーセントの犬も”その問題行動に限って”解決したことになるであろう。
しかし、”解決された犬”を含めた相当数(曖昧だが80いや90%以上)の飼主が今後、別の問題を自覚するようになるはずだ。(例えば引っ張り・他犬への吠え・飛びつき・自傷行為・トイレの失敗・マーキング・逆切れ…枚挙にいとまはないし何が起きても不思議ではない。
ハァーハァーと車酔いをしている犬を叱っても治るはずはないし、『食事の前にダラダラよだれをこぼすな!』とぼやいても仕方がないことだから、医療を併用することも妥協することも必要である。
また、犬と暮らす適性に欠けている人が犬と暮らしている場合も多いから、誤魔化しの対処の仕方が必要なこともあろう。
だが、せめて後者の人々には犬と暮らし始めて、自分が・世界が・生き方が変わったと自覚できるチャンスを正直に与えるべきであると思う。
“犬を育て犬と育つ"
つまり、犬を育てていたつもりが実は自分が育てられていた、という誰にでも味わえる現在にも存在する数少ないアドベンチャーに真正面から立ち向かうことを示すのも、私たち犬を知るプロフェッショナルの務めであると思う。
ケースバイケースのテーマであるが、傾向として“自ら手をかけず、深部に踏み込まず、綺麗ごとで包み込む"風潮とそれに加担するまことしやかなシステムがあることに警鐘を打ち鳴らしたい。
 


- Web Diary ver 1.26 -