From the North Country

馴化もあるし訓練もある 2005年12月18日(日)

  豪雪地域の方には不謹慎だと叱られるかもしれないが、ガーデンに雪は少ししか降らなかったので雪山を今日も作ることが出来なかった。
気温はPM11時現在でマイナス9度弱だから寒さは十分冬らしくなっているのだから、今年の札幌は十勝地方のような内陸性の気候になっているのかもしれない。

さて、先日カフェの事務所というか穴倉みたいな倉庫にある私のデスクでパソコンをいじっている時、隣りのトリミング室から聞こえてくるトリマーのノンちゃんの声に考えさせられることがあった。
トリミングの相手はMダックスだったが、少しでも嫌なことをされると今にも噛み付きそうな猛烈な威嚇を繰り返していた。
それに対してノンちゃんは「はいはい、じっとしてて」とか「危ない!動いたら怪我するよ」と諌めるように穏やかな言葉をかけていた。
考えさせられたのはその結果についてである。

『ガウガウ!』という噛み付きに至る声が出たなら私はノンちゃんを守るべくすぐに飛び出す準備をしていたが、結果はそのままトリミング完了となった。

「結構嫌がってましたね。でも後半はだいぶ良くなりましたよ」
ノンちゃんはそう飼主に説明して愛犬を手渡した。
訓練士でもあり経営者でもある私は「それもありかな」と考えたのだ。

ノンちゃんの手法は最近流行の叱らない訓練士が用いる、いわゆる馴化である。
例えば、トリミングに限っていえば“身体を拘束されるのが嫌い”な犬に反抗心があったとしても、それなりに穏やかに付き合うことで『大したことではない』という意識を芽生えさせ、次第に『気持ちいいじゃん』という方向に向けさせていることである。
そしてこれを地道に繰り返し体験させることで、反抗していた犬は柔順になり、長い時間をかけることで結果的にその他のことに対してもおりこうさんなワンちゃんになるという考え方である。

これに対して私のような訓練士は別の考えを持っている。
1.犬種や血統あるいは個体によっては命を駆けても自己を主張する犬もいるから、まずはそれを見極め、そのような犬であるなら前記の方法を支持してうまく付き合う方法と社会に対する注意点を教えるか処分することを勧めるだろう。
2.前記の方法では特定の店でのトリミングにおいて扱いやすくなるのであり、実は“いい気になって”あるいは“社会性の欠如”が起因して“人に対する反抗や攻撃性”が表れている犬に対しての根本解決にはなっておらず、長い時間をかけて叱らない訓練をしたつもりが実は犬の老化によって大人しくなっただけのことで、共に暮らした時間の大半は反抗的で攻撃的だったという結果は多い。
3.だから訓練士は“飼主からのひとつひとつの問題ごと”に耳を傾けながらも目を奪われることなく、事の本質を見抜き、訓練しアドバイスすることが求められているのだと思う。

今夜はここで泥酔なので明日にでも読み返して続きが書ければいいなあ。
 

どなたか奇跡の起こし方を知りませんか? 2005年12月17日(土)

  ちょうど一ヶ月前の今朝、納品先の通路で倒れたYさんの意識は未だ戻らないようだ。
ベッドにいるYさんはすやすやと眠り、時に大きなため息をつくこともある。
耳に付けられたイヤホーンからは大好きな音楽が流れている。

「身体中にいっぱい管付けられて生かされるなんて真っ平だ」と元気な時に言っていたYさんだが、ついているのは流動食と点滴用の管程度だし、自発呼吸もしており、本人にその気があったかどうかは別にしてニコチンもアルコールも体内からすっかり浄化されてしまったものだから健康状態は良好で不平不満は言ってられないはずだ。

「冷たい身体じゃなく温かい身体のパパがいてくれるほうがずっといい」
倒れてから数日後の家族の言葉が優しく前向きで今も忘れられない。
医学的にどうなのかは知らないが、そばにいると「ああ、よく寝た」と大あくびをして起き上がりそうな感じがするし、実際、寝ている時と起きている時があり、起きている時には目を明けて辺りを見ているようだ。

このような病状で、これまで幾度となく奇跡が起こったニュースを私たちは目にしているが、Yさんの家族はもっと前向きに捉えることで邪念を跳ね返そうとしており、その言葉に共感しつつ時に胸が痛む。
「20年間植物状態だった人が意識を取り戻したってニュースがあるでしょ?あれは20年も経ってるからニュースになるのであって、もっと短い期間で回復している人はニュースにならないほどたくさんいるということなんだ」

私が協会を辞めて1年半風来坊をしていたことを羨ましがっていたYさんだから、この際負けじと人生の休息を楽しんでいるのかもしれないが『もう1ヶ月経ちましたよ。外は雪ですよ』と耳元で囁いてみたくなる。
たくさんの人の熱い思いが集まれば奇跡が起きるというわけではないから、Yさん家族の愛情にちょっとだけぶら下がりながら私は私なりに折々の機会を通じてYさんを想い・忘れよう。
奇跡はそんな繰り返しの中で起きるかもしれないから…
 

札幌の喫茶店文化 2005年12月16日(金)

  大雪が日本列島を襲っている。
北海道も例外ではないのだが、ここ札幌だけはある程度まとまった雪は一度しかなく、その雪も今ではほとんど昇華して路面は乾燥またはアイスバーンとなっている。

ただこんなことを書けるのは今夜までらしい。
明日の午後からいよいよ札幌にも大雪が降ると気象予報士は声高に注意を呼びかけている。
この冬、何度も聞いた注意報だが今度は当たるそうだ。
心して備えたいが、書き入れ時の土日が吹雪というのは何とも痛ましい(北海道弁でもったいないの意)限りである。

出来ては消えるドッグカフェ。そんな構図が札幌でも続いている。
もともと喫茶店というのが札幌ではさほど利用されるサービス業ではない。
宮越屋というコーヒーショップがレトロでゆったりした倉庫作りの店内イメージを強調して成長しており、私もお気に入りで何度も利用しているが、関西のように時にファミレス、時にコンビニ、時にホテルのロビー、時に隣りのおばちゃん家という感覚で気軽にカフェを使うという文化は札幌にはない。

基本料金(コーヒーの値段)が高いからか、はたまた利用が少ないから高くなるのかの問題ではないように思う。
突き詰めればそこに行き着くのだろうが、私はそれだけではない文化の違いを感じる。

関西では「おはよう、おばちゃん」というサテンか、我関せずのパブリックな喫茶店が主流だと思うが、そこには何よりも雰囲気を重視する気風はない。
一方、札幌では「おはよう、おばちゃん」を心がける店もあり利用する客もいるが、絶対人口が少ないから客足は伸びず苦戦しており、パブリックなカフェに対しては気品と雰囲気を重視し、滅多に利用するわけでもないのにとっておきのカフェを知っておこうという飾り心があるように思う。

さて、ドッグカフェなるものに札幌の人々は何を求めているのか?
元来喫茶店を利用する文化のない風土に根付くのは難しいことであり、カフェだけを主体に営業するから消えてなくなるのであり、顧客のニーズを知り自らが提示できる付加価値をアピールすれば札幌でドッグカフェは生き残れるだろうと思う。

「冗談じゃない!そんな面倒臭いことできるか。」
盲導犬の訓練から転進し、出来る範囲でこの事業に協力する理解者を広め、家庭犬のアドバイスに尽力している私の言葉に出せない本音であり、関西のカフェ文化ならば批判され叩きのめされているかもしれない今のカフェを里塚緑ヶ丘で営み、勝手なカラーを打ち出してなお支持して下さる方もいるのが札幌(北海道)であることを感謝している。

このことに関しては関西の方から反論もありそうだが、何よりも文脈が通じているのか酔った私には検証不能だ。
要は、喫茶店が根付いていない札幌でもドッグカフェがあり、週末が吹雪でも「頑張るぞ、おお!」と言いたかっただけだ。
 

雪道のユーザーと盲導犬を守ろう! 2005年12月14日(水)

  雪国で暮らす盲導犬ユーザー(使用者)にとっては緊張が走り、自分と盲導犬だけで安全を確保しながら歩くのが難しい季節になった。
大きく分けてその理由は三点ある。

1.晴眼者(目が見える我々)ですら足元を気にし、なるべく滑りそうもない場所を選びながら恐る恐る足を運んでいるのに、視覚障害者にとっての転倒は突然の出来事となって現れる。
見るということは触るという感覚をも含んでおり、「あ、ここは滑りそうだ」と事前に予想できるのとできないのでは心構えや準備つまり歩き方がずいぶん違うものである。

氷上でも絶対滑らず、誤って犬の足を踏んづけても怪我を負わせない靴があると助かるのだが…

2.歩道があればそこを歩けるが、冬になるとその歩道に雪を積み上げるため車道を歩かなければならないところが多い。
だが、車道の両端はすり鉢状になっていて歩きづらく、結果的に中央寄りを歩くこともあり、車に接触するのではないかとの恐怖が頭を常によぎっている。

冬道ではユーザーに蛍光色など目立つ色の服を着て歩くよう指導したり、盲導犬のハーネス(胴輪)にも反射プレートを装着しているが、結局はドライバーの安全意識・マナー・配慮によって我々と同じように視覚障害者の安全は守られることになる。

3.雪は視覚障害者にとって確認の足掛かりとなる歩車道の境にある段差や視覚障害者用ブロック(商品名:点字ブロック)を消し、積み上げられた雪壁によって音響情報が遮断され、降り続く雪は車のエンジン音を吸収して安全確認がしづらくなってしまう。

この他にも、夏道では気にならなかった樹木の枝が、積雪で路面が高くなると頭の近くをよぎったり、ロードヒーティングをしてある玄関先だけ大きな段差ができてビックリすることもある。

いずれにせよ、これらの緊張を持ちつつ通勤や散歩で歩いているユーザーと盲導犬を見た時には、ドライバーとしてあるいは通行人として、その場で感じた配慮の仕方を素直に実行していただきたいと願う。

最後に、この危険な雪道はユーザーと盲導犬のより確かな絆を深める役割を果たしていることも付け加えておこう。
・滑りそうになった時、ユーザーは反射的にハーネスを握り締める。そんな場面が増える度に盲導犬は四肢を踏ん張り、バランスを整えようとする主人を補助するようになるのだが、それを感じたときの頼もしさと愛しさを想像できるだろうか?
・万が一転んだときや樹木の枝にぶつかった時、人はそのショックで理性的な部分を一時的に失い、「なんてことをするんだ!」と怒り、悔しくなり、悲しくなるものだが、まさにその理性を超えた動物的な感情表現が犬との絆を深める原点にもなっていることに気づいている一般愛犬家は少ない。
 

無駄になった2枚の年賀状から… 2005年12月13日(火)

  年賀状早出しキャンペーンというのがあり、カフェが暇なものだからとりあえず個人用の年賀状をパソコンで印刷した。

それが郵政公社の謀略であることに気づくまでそう時間はかからなかった。
何故なら12月に入って毎日のように届く“喪中欠礼”があることを公社は知っていながらこのようなキャンペーンを張り、葉書を無駄に使わせただけでなく、遺族に対して失礼な行為を善良な市民にさせようとしているのである。
やはり年賀状は年の瀬か正月休みにのんびりしたためるのがいいのだろうが、公社は「後出しじゃぁん!」なるコマーシャルでさらに策謀を深めているのが悔しい。

だが、まあ商売というのはそんなものなのだろう。
コマーシャルを見ると、放っておけばすぐにでも歯槽膿漏になって歯が抜け落ちる気分になるし、禿頭やシワだらけの顔になる気分を味わい、普通の油で料理することが毒を盛るようなイメージを持ってしまう。

オイルショックの時のようにコマーシャルをせずともデマでトイレットペーパーが売り切れになれば大儲けもできるだろうから、人の不安感を煽る商法や、自社のキャパを正しく公開することもなく『できれば元旦に届いてくれたほうが礼を失しなくてすむ』という日本人の儀礼心につけ込み、自分たちが楽できる早出しキャンペーンを打ったりもする。

しかし、タバコにだって“喫煙は、あなたにとって肺がんの原因のひとつになります”と明記されているのだから、早出しキャンペーンにも『早出しは葉書を無駄にし、交換手数料を必要とすることもあれば、喪中の相手に不快感を与えることもあります”というテロップを流すべきではないか!

そういえば最近のコマーシャル。
あの悪名高き“サラ金”が消費者金融と名前を買え、同じ手口でぼろ儲けした金で『無知な人を破滅させる』悪循環をもたらすコマーシャルを堂々と流し続けているし、健康な人間の不安を駆り立て、言葉巧みに矢継ぎ早に新保険を宣伝している会社もある。
借金は人にその理由を説明できる場合にのみするものであり、保険については昔ムツゴロウさんが書いたことを思い出したが、3年以内に死ぬか重い病気になると感じたときに入るものであるらしい。

さて、カフェの空想コマーシャルを二通り。
1.私だってママと一緒にカフェしたい!
もっと違った私を見て欲しい!
ちゃんといい子にしてるから…
2.飼い犬に手を噛まれそうになったことはありませんか?
こんなはずじゃなかったと後悔しかけていませんか?
ほうっておくと大変なことになりますよ…
あなたの傍に“ドッグカフェナガサキ”

悪酔いしてきたようで自発退去します。
 

老人と犬 2005年12月12日(月)

  単発で思わせぶりな雪の降り方で我々をイラつかせておいて、ドカッとやる魂胆なのだろうか?
防寒服も靴も手袋も除雪機の準備もできている。
いつでも来い!驚きはしないぞ!
とにかく雪が降らない今年の札幌である。

北海道の人は年を取ると一戸建ての自宅からマンションに移るか、雪の少ない地域へ引っ越したがるという。
それほど除雪排泄作業や雪上を歩くことが大儀になるらしい。
また戸建ての気楽さが孤独感につながり、共同住宅の雑然とした集合に安心感を覚えるようだ。
報じられるニュースを見るとマンションが安心ともいえないように思うが、そもそも転倒防止のため控えがちになる冬の外出がもたらす隔世感から解放され誰かがそばにいてくれる安堵を感じるのは理解できる。
年をとるということはそういうことでもあるのかもしれない。

ただ、現在のじいちゃんばあちゃんの多くは“犬を飼う”という面において外飼いが当たり前の最後の世代であり、老人予備軍の団塊の世代あたりから室内飼いに違和感を覚えなくなる世代と言えなくはないだろうか?
そして、この世代は犬の子育てを既に経験しており、仔犬時代の愛らしさを忘れられないにも拘らず、室内でしつけるというその過程の苦労をも体験しており、成犬でおりこうさんな他人の犬を見て『ああ、こんな犬なら一緒に暮らしたい』と思う人も多いはずだ。

すなわち、これからの時代は若い人たちは子供のためにも仔犬から犬を育てるかもしれないが、高齢者はその寂しさを紛らわせるため室内で犬を飼い、しかもその犬は子育ての煩雑さを端折り性格もよく大人であり、そこそこのしつけのできたお気に入りのわんこを選ぶような時代になるかもしれないということだ。

これまでペットショップで阻害され処分対象になった年齢の行き過ぎた犬や、愛犬学校などでそれなりに訓練された犬が注目を集めるようになるだろう。
これが良いとか悪いとかの判断を今するつもりはない。

人が年をとるということ。
厳しい冬を生きるということ。
日本人が犬と暮らすという文化。
それぞれがどう結びついて、どのような選択をし、その結果がどう現れるのかを見てみたい気がする。
 

安らかに、しじみ 2005年12月10日(土)

  悲しい知らせが今朝届いた。

カフェの常連であるMダックスのしじみが昨夜亡くなった。
交通事故で…

カフェから歩いて数分のところにしじみの家があり、飼主のOさん夫妻は娘さんの愛犬であるしじみをたいそう可愛がっておられた。
いつも奥さんが楽しそうに散歩をしておられたし、道内を単身赴任で駆け回るご主人も週末になれば帰宅し、ほぼ毎週しじみとカフェを訪ねてくれていた。

2年前、まだカフェの基礎工事が行われている頃、毎日のように見かけるしじみの愛らしさに引かれて声をかけたことがある。
その頃の私は大型犬ばかりに目が行き、小型犬にはあまり興味を持っていなかったが、顔の正中線で見事に白と濃いグレーに分かれ、誰にでも愛想のよいしじみに出会って『こんなわんこがカフェに来てくれるようになるといいな』と密かに思ったものだ。

その願いが叶って常連となってくれたしじみは、開店当初不特定多数の犬のトラブル防止に気疲れしていた私に一服の清涼剤のような役割を果たしてくれた。
“親善大使”
つまり誰とでもうまく遊べるしじみがやってくると、私はホッとしてガーデンを任せることができていた。
実際のところ、他犬に対して不安を感じていた犬がしじみと出会うことで楽しくなって遊ぶことを覚えたり、荒っぽい遊びが好きな犬に対しても適当に付き合いながら相手を満足させてくれたりもした。

「いつかしじみの子供が欲しい」というOさんの想いで去勢はしていなかったが、未去勢であることの問題点はしじみに限ってはほとんどなかった。
何度か交配の話がまとまりかけたが、調べるうちにしじみには繁殖に相応しくない血が流れているということが分かり、先月去勢をしたばかりであった。

玄関のドアを開けたとき、その時どんな喜びがあったのか分からないが、しじみは飛び出し、数メートル先の道路に一気に駆けて行ったらしい。
即死だったようだ…。
連絡を受けて私とKはお悔やみに出掛けた。
外傷らしい傷は無く、しじみは娘さんに添い寝されて横たわっていた。
短い手を触ると温かく柔らかに曲がった。
はばかることなく涙するご主人を見て、しじみに対する想いを改めて感じとりかける言葉も無かった。
3歳と2ヶ月を目前にしていた。
不治の病なら看病するうちに幾分の受容もできていたかもしれないが、突然の事故死であるから悲しみは一層深く、ひょっとしたら自らの行為を責めることがあるかもしれない。

でもOさん。
しじみの人生は短かったけど輝いてましたよ。
犬助けも人助けもしてくれたし家族助けだってしてくれたはずです。
“犬のおまわりさん”と書かれた黄色いスカーフをして町内を巡回もしてくれてました。
いつまでも思い出に残るわんちゃんと暮らせて幸せでしたね。
私たちも忘れることはありません。

明日しじみと共にカフェを訪ねてくれるそうですね。
今夜から降り続く雪で、この冬初めて真っ白くなった思い出のガーデンを用意して待っています。
 

「あ、この人は本気だな」と思いたい 2005年12月09日(金)

  最近この欄に犬たちのことを書く機会が少なくなっている。
理由は二つ。
カフェに通ってくれているワンちゃんたちの振る舞いがとてもよくなり、取り立てて私がしつけやマナーについて捲くし立てる気持ちにならないことと、問題を抱えた新人犬の飼主が「HPを見て来ました」と仰ることに不安を感じ始めたためである。

ご存知のように私はこれまで歯に衣着せぬ発言を繰り返してきた。
○○新聞とか、う〇ちなどのような書き方をせず、朝日新聞・うんちというように書いてきた。
個人のページを書いているのだし、別に公序良俗に反してるわけでも反社会的なことを扇動しているわけでもないし、規制を受けるメディアでもないから放送禁止用語なぞに気を使うこともないと考えているからだ。
とりわけ自分の信念に基づくことには、批判を恐れることなく書いてきた。

根底には『遠くの見知らぬ誰かが読んでくれているかもしれない』との期待と『カフェを訪ねる人のほとんどは知らないこと』という身勝手な思い込みがあった。
でも、HPを開設して1年半以上になり、あまりにも身近な方や「HPを読んで来ました」という方が現れると『その方たちに不都合なことは書けない』と身体が躊躇しているように感じ始めたような気がしないでもない。

『こんなとこでコソコソ書くぐらいなら本人にはっきり言えよ!』
そんな批判が聞こえてきそうだ。

実はこれまでのところを本人に見せたとしても、私に後ろめたいことはないし、批判を受けることはないのではないかと思っている。
なぜか?
これまた私の勝手な思い込みで、“信頼関係”だと言っていい。

今日も愛犬の相談に訪れた方がおられた。
その内容はここに書きたい事柄であったが、私の指摘に対する相談者の反応がどこか一致しないように感じられ書けなかった。
信頼関係を築くのには時間がかかるのが普通だが、私はどちらかといえば直感的に一方的に近づくタイプだと思う。
「あ、この人は本気だな」と私に感じさせる力の存在を感じることがあるがあれは何なのだろう?。

自分自身が他人に何かを相談する時は「この人は信頼できる人だろうか?」と疑い、最初から委ねることはしないから、私自身は私にとっていい客ではないと言える。

「あんなこと書いて大丈夫なの?」と心配してくれた方に
「別に失うものはありませんから」と見栄を張った私の現在のスタンスが問われているようだ。

Aさんがこだわる焼酎“大自然”を今夜買ってきて飲んでますが、これって頭の回転がおかしくなりません?
 

息子へ 2005年12月07日(水)

  今日は長男Rの26歳の誕生日。
2歳の頃から私はRを釣りに連れて行ったものだから、今でもきっと釣りが大好きだと思う。

カレイ釣りの仕掛けを投入し、アタリを待っている私がふと振り向くと
「父たん、これ食べれるかい?」
そう言いながらも幼い彼は既に餌のイソメを口にしていたことがあった。
「バッパイ!出せ、出せ!食べれるのは魚だ!」
慌てた私がイソメを吐き出させたが、今度は釣り上げたカレイを仕掛けからはずす前にかぶりついてしまった時には唖然としたものだ。

少し成長して一人で釣りができるようになるとそれはそれは力強い戦力になった。
それまで市販の仕掛けだけで釣りをしていた私はボウズ(釣果ゼロ)の時もあったのだが、Rを連れて行くようになってそれがなくなった。
彼はしばらく釣れないとみるや、落とし釣りやら穴釣りという工夫を始め、時にびっくりするような大物を釣り上げた。
負けてなるものかと私も仕掛けに工夫を凝らし、“恐怖の10本針”なるものを作って、カレイにホッケそれにタコまで同時に釣り上げて見せた。

が、あの頃は盲導犬の仕事が忙しく、いつ休めて釣りに行けるか分からない状況で、子供に妙な期待を持たせて裏切るのが怖く、前夜になって「明日出掛けるぞ!」ということが多かった。
Rにとっては、まさにいつ釣れるかもしれない釣りと同じで、いつ釣りに行けるかを期待して心理学的には間欠強化の効果が働き、一層釣りが好きになってしまったことだろうと申し訳なく思う。

勉強よりも遊びを優先していた私は、学校を休ませてでも釣りやキャンプに連れて行った。
無責任な親のそのツケが後に彼に回り、学業では相当苦労させてしまったし、貯蓄もできず“ちょうどの暮らし”で家計に余裕はなかった。
高校生のとき彼は新聞配達を始め、大雪の明るさしかない朝でもきっちり仕事を果たし続けたのだが、この頃ポーチのドアに一枚の絵が張られていたのを今でも忘れることはない。
朝日をバックに新聞を配達するRの姿が描かれ『おにいちゃんガンバレ!』との文字が入っていた。
妹と弟の想いがそこに描かれていたのだ。

彼は朝日新聞の奨学生となって東京の専門学校に通い、住居と食費それに小遣いを新聞配達で調達し、卒業後も東京で仕事を続けながら暮らしている。

長男だったから厳しいしつけや身勝手な教育をしてしまっただろう。
だけど急性アルコール中毒で救急病院から連絡があったときは本当に心配したんだぞ。
よくぞ今日の誕生日を迎えてくれた。
ありがとう、そして元気で。
 

犬の訓練は臨床心理学 2005年12月06日(火)

  寒い日が続き身体に悪寒が走る際どい状況を、かろうじて焼酎の内燃が支えてくれている。

午前中の陽射しがあるうちにとゴールデンのカノンがレッスンにやって来た。
もう5〜6回目のレッスンになるだろうか。
引っ張りと興奮を抑えて欲しいというのが主訴だったが、初回の歩行で私は問題は他にもあることを感じ取り、時間がかかることを飼主に伝えた。

その前に予め説明を加えておかなければならないが、犬の訓練を依頼する場合、訓練所に数ヶ月預けて犬そのものに行動を学ばせる方法と、犬とともに飼主も学ぶ方法がある。
前者の方法では帰宅後2週間で訓練という魔法が消え、元の木阿弥になるという傾向があるのを最近の多くの飼主は知っているようだ。
だから預託訓練がダメというのではなく、結局はいい加減で犬(あるいは訓練士)任せの飼主では訓練の成果も激減し効果が見込めないということである。

私の方法は1,2回犬と単独で歩きアセスメントする、つまり犬の稟性と問題の所在を確かめることから始め、例えば引っ張りに問題があれば、その犬に相応しい方法をツールボックス(私のこれまでの経験と知識・技術を収めた箱)から取り出して、まず自分がその犬と歩きやすくなるように繰り返し、そのうえでその方法を飼主に伝え、一緒に歩きながら人も犬も楽に歩けるようにもっていくやり方である。

だが、多くの場合そう単純にはいかない。
なぜならアセスメントの段階で社会経験の不足による社会性の欠如や、しつけること=犬に可愛そうなことをしているという誤った観念が犬を相当いい気にしてしまっているという問題にぶつかるからである。
例えば歩行訓練に入ったとしても、見るもの聞くものに興味を示してしまう犬もいれば、それらに不安を示して冷静でいられない犬もいる。
つまりそれら社会をこれまで身近に繰り返し繰り返し経験してなかったか、どこかで恐怖体験をしたかが考えられ、その場合には訓練と同時に社会勉強が課題に挙げられる。
また、しつけることに自信がなかったり可哀想という観念を持っている飼主に制御を教えるのはとても難しいことにもなる。
だから、『とても困っています。このままでは家庭が崩壊し愛する犬を死なせなければならないかも知れず、それだけは何とかしたいのです』というような切実感を抱いている方は割りと教えやすいといえる。

ゴールデンのカノンは公園にある動物のオブジェに恐怖を示し、周囲の物や音を基本的に猜疑し、だからこそにこやかに声をかけてくれる人に安堵し解放されたように狂喜し、一方で指示的・威圧的な言い回しに敏感で、それらを無視することで精神の安定を保つというような処世術をもっていた。

だから歩行訓練は引っ張り防止よりも社会見学と体験学習が主体となり、物事に目を背けることなく良心的に受け入れることをめざし、しつけられることは叱られることではないことを示唆し、図に載せては顔を背けるのではなくしっかり人の目を見ることの安心を与え、チョーク(ショック)や身体を触られることが体罰ではなく共にいることの確認であることなどを分からせようとしている。

たぶん訓練というのは臨床心理学なのだろうが、その前に飼主は決して犬育てではなく子育てとして、わが子が無法者にならず世間様から後ろ指を指されず、家庭内暴力も振るわず、それでいて奔放で自由な気風を保ち、父親は乗り越えるのが難しい壁として存在感を持っていなければならない。

酔いと共に話の方向性が掴めなくなってきたので今夜はこれでお開き。
 


- Web Diary ver 1.26 -