From the North Country

温麺 2005年12月03日(土)

  気温は一気に下がり恐らくここ里塚緑ヶ丘では真冬日だったのではないかと思う。
昨夜から今朝にかけて薄く降った雪は解けることもなく日中のうちに気化していった。

「ひゃー、寒い!北区はもっとマシだったですよぉ」
プー助の母さんはガーデンでそう叫びながら愛犬たちの遊びに付き合っていたが、温泉気分が抜けきらない私は外で犬たちと遊ぶゆとりなどなく、カフェでぬくぬくと見守っていた。

さて、そんな寒さの中Kが考えた今月のパスタはなんと温麺だった。
「今月のパスタに温麺なんてあり?」
「いいの!うどんや素麺だって広い意味でパスタ」
そう言いくるめられて試食したがこれが旨かった。
とてもシンプルなのだが素揚げのレンコンが香ばしく、毎日が二日酔いの身体にはとても優しく感じられた。

そもそもこの温麺は毎日のようにカフェを訪ねてくださるKさんのために作ったものだそうな。
以前に胃の手術をされて重たいものが喉を通らないKさんのリクエストもあり、いわゆる裏メニューとして家庭料理を出したのがきっかけだった。

ここ数日は秋田の稲庭うどんを使用しているので是非お試しあれ。

冬メニューとしてもう一つ追加されたのが“ぜんざい”だ。
カフェのケーキを作ってくれている甘党のスタッフMが突然持ってきてあっという間に定番になってしまった。
こちらも時間をかけた手作りの一品。

2年前、カフェを開店した際に私がメニューに口出しすると「あれもこれも作らせるな!この年になってがむしゃらに働かせるな!」と集中砲火を浴びたものだが、今では「勝手にメニューを変えるな!メニュー表を作り変えるのも面倒なんだぞ!」と私のほうが叫んでいる。

寒いガーデンから戻ったプー助の母さんが上着を脱いで温麺を食べ始めていた。
その顔から汗が出始めたのを私は見逃さなかった。
冬はあったかいものがいいですね。
 

我が子へ 2005年12月02日(金)

  あっという間の休暇だった。
生活のことさえ気にしなければ3年でもこのまま休みを楽しんでいられたのに…と思いつつ現実を知っているからちゃんと帰宅し今日から働き出した。

団塊の世代の多くは、休みになるとどうしてよいか分からず長期連休が続くと理由をつけては会社に出かける傾向があり、そんな親を見て育ったいわゆる団塊ジュニアは、働くことに意欲を見せず消費活動に消極的で、どういうわけかコミュニケーション能力が低くただ食べていければいいと思っているとの調査を読んだ。
1億総中流階級のあの時代と対比して“下流階級志向”というらしい。

『夢は掴み取れ!』『努力こそ成功の父(母?)である』
何もなかった時代だからこそ人々は頑張り、結果を実感することができた。
同時に、田舎の学校の先生が「貧しいことは恥ずかしいことではない」と生徒に説いたが『ウソだ!先生は本当の貧乏を知らないからそんなことが言えるのだ!』と子供心に反発したと盲導犬協会の先輩だったIさんが教えてくれた。
先生が言いたかったのは耐える心と潤いの先にある真の人生論・幸福論であり、Iさんが受け取ったのは現実の辛さ恥ずかしさだったのだろう。

何も今夜は教訓めいた話をしたいのではなく、多くの人というものはあたかも自分で考え行動しているように見えるが実は社会や親の影響を受け、あるいは観察しその結果として様々な制約を受けつつ限られた選択肢の中で動いているに過ぎず、ましてやペットブームの中で育てられる犬たちの過去と現在それに将来は飼主や家庭を中心とした環境の影響を受けても何らおかしくはないということにちょっと飛躍して欲しかっただけのことである。

いずれ巣立っていく子供と一緒に暮らし続ける愛犬。
どちらにもキチッと伝えておくことがあるはずなのだろうが、昭和元禄の世界に育てられた我が身に置き換えるとついつい言い出せず甘くなってしまう。
心を鬼にして突き放す獅子王の本能を軽んじるべきではないのだろう。

ともあれ、私とKは帰宅し今日からカフェの営業を始めた。
社会的制約もあっただろうが、それぞれの親の教えに影響された自らの意思で行ったことであり、伝えようとするのでなく私たちがその世界で楽しんでいることを子供たちに見せてあげたいと思う。
 

2年前の出会い 2005年11月28日(月)

  カフェの営業は今週の金曜日(12月2日)からとなります。
お待ちいたしております。

11月も終わりだというのに雪が全くない。
今日は快晴に恵まれ気温は低かったものの陽射しは暖かだった。
日中お預かりとなったラブラドールのバービーは2年前カフェをオープンする前に訓練していたワンちゃんだ。
まだ子供で引張りが強く社会性に欠けていた。
犬たちが集う公園でたまたまめぐり合い訓練依頼を受けて行っていたが、訓練も終盤に差し掛かった頃、見知らぬ他犬がいる中での“呼び戻し”をテーマに掲げた。
そこで出かけたのが札幌の愛犬家では有名なグリーンドーム。

一般の家庭犬が多く、ノーリードで遊ばせている場面を何度か通りすがりに見たことがあった。
誘惑を伴う訓練の場所としては絶好で順調に訓練も進んでいた。
何度かバービーと飼主のMさんを連れて通ううち、少し離れたところでいつも訓練を受けている大型犬がおり、何気なく見ていたが1週経っても2週経ってもその犬に進歩の跡が見られないのが気になっていた。
小型トラックの荷台から下ろされた犬はただただ逃げるように走っているように私には見えた。

そのうち飼主の方と話す機会があって、私はその犬の反応を見るべく簡単な命令を与えると明らかな人間不信を示す眼の色があった。
大型犬の飼主はバービーの飼主Mさんといろいろ話しをされていたが、結局私はその犬の訓練を依頼されるようになった。

その大型犬こそが現在カフェの常連で、看板犬代わりを務めてくれているレオンベルガーのジェニーであり、バービーとの出会いがなければジェニーとの出会いもなかったと思われる。

昨日からお泊まりのジェニーと今日日中預かりのバービーが久しぶりに再会し、ふたりが戯れる姿を見て2年前のことをふと思い出した。

カフェは12月1日に開店2周年を迎え、営業日となる金曜から3年目に入ります。
この2年間本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願い申し上げます。
 

小型犬だって冬を楽しもう! 2005年11月26日(土)

  まずはお知らせから。
カフェは29日火曜日から12月1日まで3連休となり12月2日金曜日からの営業となります。

寒くなると昨年もそうだったが小型犬の姿がめっきり少なくなる。
コタツならぬ暖かな室内で丸くなっているのだろうか。
身体が寒さに慣れるまで、つまり根雪になり気温が0度近くでも晴れた日には暖かく感じれるようになるまでこの傾向は続くようだ。
一方、中・大型犬は暑さから解放され、疲れ知らずで駆け回っても大して水分補給もしないでいる。

そんな中、小型のお泊まり犬シェルティー2頭がいつまでもガーデンで遊んでいる姿が微笑ましい。
どちらも他犬に対して奥手なわんこで、接近されると引いてしまうが相手が後ろを見せると匂いをかぎにいくタイプだ。
同犬種であるというのはお互い分かるようで、すぐに気の置けない関係になって遊び始める。
しかし、体当たりはおろか相手の身体に接触することすらなく、適度の距離を置いて駆け回りシェルティー独特の前足のステップを使って挑発や意思表示を行っている。

シェルティーの特徴としてくるくる回ったり車や自転車に強く反応するというのがあるが、この二人にもその傾向があり見ていて楽しいけど、散歩の時には問題行動となるからいくら特性といっても矯正しなければならないだろう。
まあ、身体も小さく抑えきれない力ではないから私自身はさほど気にはしていないが、飼主にとっては問題視する向きも多いようだ。

さて、寒くなると小型犬の姿が減るのは、彼ら外に出たがらないのではなく、小さい頃から『家の子は寒がり』だとそのように思い込んで育ててきた飼主の影響が強いのをご存知だろうか?
確かに寒いよりは暖かいほうをとりわけ小型犬は好むようだが、遊びの楽しさを知っている犬にとっては寒さも雪もまた楽しいことであり、そんな経験をしている小型犬は冬を大いに楽しんでいる。

犬が震えると『寒がってる』と誤解する飼主は相当多い。
寒いよりも、慣れない気温・慣れない雪・何より経験不足からくる緊張と不安で身震いしている場合がほとんどなのだ。
“寒がっている”ということを一時的にでも頭から切り離し、人が楽しむ姿を犬たちに見せてあげれば、『あぁ、これは異常な状況ではなくここでも楽しめるんだ!』と彼らは受け入れるようになるだろう。

Mダックスのプー助とライムが昨日、見事で美しい身体の飾り毛をカフェの美容室でバッサリとカットした。
「ニセコに連れて行ったら、もう雪の中を大はしゃぎ!すぐにピンポン玉くらいの雪球が全身にできるんですよね。邪魔だから綺麗にカットしてください」
雪の楽しさを経験しているわんこたちは冬の喜びがあることも知っており、その後ストーブの前でうたた寝する快適さも知っている。

北海道の1年の半分を室内で暮らす犬と、外へ出て様々な経験を積む犬とでは、飼主とのコミュニケーションや繋がりにおいて大きな差が出てくると思う。
慣れない犬には服を着せ、自分の足で外を歩くことから始めよう。
楽しい雰囲気作りがポイントとなる。
 

その名は海斗クン 2005年11月25日(金)

  本欄の10月5日に紹介した生後3ヵ月半だった柴犬のその後を書いておこう。

飼主を血まみれにし、たかが3ヵ月半と侮った私もその被害にあい、ちょっと制御すれば動物虐待をアナウンスするような大音響の悲鳴を上げていた海斗クンは以後週に1〜2回カフェに通うようになった。

レッスンはこれまで5回ほど行っただろうか。
初めのうち私は両手に皮手袋をはめ、噛まれてもいいように装備を整えていた。
実際、海斗クンは唸り、噛み付こうとし、触るだけで悲鳴を上げ続けていた。
誤解して通報されないように私は人家が少なく交通量が多いコースを選んでレッスンを開始することにした。

海斗クンのような問題を抱えたわんこの場合、飼主には経済的負担を強いて申し訳ないが最初の数回はただ歩くだけのいわゆる“スペンドタイム”(俗にトイレに出すという意味もあるが)となり、私は犬を観察・評価し、犬は私を観察する時間に当てられるが、それでも彼は緊張し猜疑心に満ち溢れ悲鳴を上げることがあった。

カフェに来てもレッスンは行わず、ガーデンなどで他犬や人を観察させる時間を持たせたりした結果、3回目のレッスンの頃から海斗クンに変化が現れ始めた。
私に敬意と愛着を示しレッスンに出かけるのを喜ぶようになってきたのだ。
私の手にはまだ最初の時の傷が残っていたので心情的に打ち解けるまではいかなかったが、ペースには持ち込めるようになった。

あれから1ヵ月半が経った今日、2週間ぶりに海斗クンがやってきた。
「ずいぶん時間が空きましたね」という私に
「去勢手術をして抜糸も終わりました」と飼主さん。
生後5ヶ月だから一般的には去勢はちと早すぎるのだが、既に足を大きく上げてのマーキングや他犬意識が強くなっていたので、海斗クンの性格や今後の暮らしやすさを考えて一刻も早い去勢を私は勧めていた。
獣医としてのスタンスではなく、暮らしやすい犬を育てる飼主の立場を理解しておられる先生も早期の去勢を勧めてくれるようになっていた。

久しぶりの再会に海斗クンは私の胸に飛び込んできてくれた。
まだ乳歯が残っているので甘噛みに付き合っていると痛いのだが、身体の様々な部位を刺激しても嫌な顔一つせず信頼を寄せてくれるのが分かる。
そんな今日はこれまでにない刺激的なレッスンを行ったが反応は別人のようによくなった。

攻撃的な犬のレッスンを私はできるだけ避けるようにしている。
気力や知力・感性・体力に膨大なエネルギーが要求されるからだ。
10月5日のこの欄にもうんざりした表現があからさまに書かれてあるのはそのためだ。
にもかかわらずレッスンを行うようになったのは、3ヵ月半という時期に凶暴振りを示していた犬を放置しておくことの罪悪感と飼主の方の人柄と根気であろうと思う。
私も犬と同じ一つの生き物だ。
たやすく訓練される。

海斗クンの試練はまだまだ続く
近いうちに厳しく叱る場面が必ず訪れるだろうが、その時に逆切れを起こすこともあろう。
ここが腕の見せ所なのだが、その時に私のエネルギーが満タンであるかが再び問われることになる。

こうやって頂き物の泡盛や焼酎・古酒を浴びているときは気力充実なのになぁ。
レッスン前に一杯やらせてくれたらうまくいきそうな気がする!
 

何故マウンティングはダメなのか 2005年11月22日(火)

  「いつも一緒に遊んでいる犬たちで、お互いマウンティングをしながらも楽しそうにしています。どこがいけないのでしょうか?」
そんな質問を受けた。

はじめに断っておかなければならないことがある。
愛犬との暮らし方は多様であり、飼主の性格や考え方も千差万別、同様なことが犬たちにも言える、ということだ。
だからそれぞれの生活の中で問題がなければ、どのような愛犬との暮らし方をしようとも勝手でありユニークであり微笑ましいものである。
例えば多頭飼いの中でマウンティングがあるとか、馴染みの犬たちとの集まりの中でそのようなことがあって、犬も飼主もそれを受け入れているような場合は『いいんじゃないですか、お好きにどうぞ』だ。

問題となるのは“社会との関わり”の中においてであり、全く悪気なくマウンティングを常習としている犬が、ドッグランやカフェ・ペットと泊まれる宿などでお気に入りの犬を見つけ、マウントしたらどういうことが考えられるだろうか?
・相手の犬が嫌がる
・恐怖を感じる
・怒り出しあるいは突然攻撃行動も起こす
・飼主が不快感を示す
などは普通に見られることである。

マウントする犬がどんなに性格がよかろうと悪気がなかろうと、そんなことは相手には関係のないことであり、相手のことを考えずにアクションを起こしていることに問題があり、それが分かっていながら見過ごそうとしている飼主に重大なマナー違反というか非常識さがあるのだ。

去勢していないオス犬のマウントを大目に見ようとするのはもってのほかである。
繁殖やショーを含めた多様な飼い方があるから去勢が絶対必要なことでは勿論ない。
だが、繁殖犬としての眼で他犬を見る犬の飼主は限定した中での社会と関わるべきであり、どこでもOKという考えは諦めたほうがよい。
例えばそのような犬とペンションなどに泊まればマーキングや他犬意識に基づく行動が多く見られ憮然とされるだろう。

去勢している犬はどうか?
そのうちの何割かは去勢していない犬と同様の行動が見られるかもしれない。
しかし、絶対的に違う点が少なくとも二つある。
ひとつは眼の色でありもう一つは、思い切った矯正ができるということだ。
つまり本気度の違いであり、去勢されていない犬に異性を意識するなといっても内からこみ上げてくる欲求を抑えるのは酷だが、去勢されていれば毅然と対処できるということだ。

マウンティングとは相手がいないとできない行為であり、それを不特定多数の中で行うことは不快感やトラブルのもとになり、場合によっては相手の身も心も傷つくことになるストーキング以上の実害をもたらしかねないから止めさせたほうがよい。

とはいえ、仔犬だってマウンティングをしている他愛のない行為でもある。
目くじらを立てるつもりはないが、その先を考えなかったり相手に無配慮な行為は慎むべきであろうし、まるで人の子供をみるように『犬だから』と思っていると手痛いしっぺ返しを受け不愉快になりますよ。
 

アフターファイブ 2005年11月20日(日)

  さっきまでクッションで寝ていたお泊まり犬チビ(チワワ)の姿が見えない。
そおっと立ち上がってKの部屋を覗いてみると、ベッドで本を読んでるうちに眠ってしまったらしい彼女の隣りに潜り込んでいた。
叱ればKが起きるだろうからそのままにしておいた。

しばらくして携帯にメールが入った。
『チビめんこいよ』
自分が起き上がればチビも起きてしまい、めんこい姿を私に見せることができないと思ったKからのメールだった。
『さっき覗いたよ』と返信すると
『なんだバレとったか』

1階のカフェで寝ていたレオンベルガーのジェニーが様子を伺いに上がってきてKの部屋に入っていった。
いつものように鼻先でKの頭を突ついてからかおうとした途端、毛布の中に潜んでいたチビがウツボのごとくニュッと飛び出しガウガウやったものだから、驚いたジェニーは慌てて部屋から出て行った。

その騒ぎを聞きつけたラブラドールのウィンピーが居間を駆け出しKの部屋に入っていった。
チビの存在にすぐに気づき距離を置いてうろうろしながらも『お、お前、いいなぁ。そこってベッドだろう。そんなとこで寝ていいのかよぉ!』と羨ましそうな眼で訴えていた。

すると今度は居間からトイプードルのテディの吠え声が聞こえ始めた。
『ねぇねぇ、そっちで何が起こってるのさ?僕を釈放して見せてくれ!』
もう5日目とはいえ初めてのお泊まりでもあり、まだ十分に信用されていないテディは係留中の身。

昨日買ったばかりの毛布で寝ていたチビはしばらくすると暑くなったのだろうか、それとも自分の威厳を鼓舞するためか、ベッドから降りて犬たちがいる場所をうろうろ巡回している。
「オシッコ行くよ」
そう言ってKがチビを連れて行った。

「こらっ!チビ! マテって言ってるでしょ!足も拭かないで!」
階段をもこもこと駆け上がるチビの後ろでKが叫び、2階で捕獲されたチビは『デヘッ!』と耳を後ろに引いて従順を装い、我が家の夜は更けていった。
 

飼主には内緒です 2005年11月19日(土)

  「家ではドッグフードだけしか与えていません。混ぜ物(副食)は無しです。量は38グラムに限りなく近い37グラムです」
そういわれてお預かりしているトイプードル君に昨日少しだけお肉を入れてしまった。
同じくお泊まり犬のゴンタが大きな眼で『ちょっとだけでかまいませんのでドライフードにお肉でも混ぜていただければ美味しく頂けるのですが…』と訴えるので、焼肉にし細かくきざんだのだが、少し余ってしまいついトイプー君にも出来心で混ぜてしまった。

人というのは弱いものである。
一度禁断の世界へ足を踏み入れるとなかなか抜け出せなくなってしまい、相手がある場合巧みにその弱みにつけ込まれてしまう。

そもそもいくら良質とはいえドライフードだけでは見た目に美味しくなさそうだし、来る日も来る日も同じものじゃ身体にいいものもいずれアレルギー反応が出て受け付けられないものに変わってもおかしくない…などと犬に代わって弁明を始めようとする始末だ。

グルメ犬にする私でもないし、人が食べてる時にお裾分けを与えるような愚かさもない。
ウンチの状態や体型・体質も観察しているつもりでもある。
でも一緒に暮らしていると健康に配慮した上で、ちょっとバリエーションをつけてあげたくなってしまう。

それなのに預かった日のウンチよりも今のほうが量が少ないのは何故だろうと思う。
きっとおやつなどの間食の違いではなかろうか?
カフェでは間食を定期的に与えることはない。
食事で様々な配慮をしているわけだから、間食はその日の運動量や突き詰めれば気まぐれで与えることがある程度だ。
実はそのことが犬たちの期待度を高め、指示を聞き分けおりこうさんに振る舞おうとすることに役立っている。
そしてお利口になればなるほどカフェではノーリードを許されたり、ソファに上がることを黙認されたりと待遇が変化し、まずいことをすればひとつ前の待遇に戻されてしまう。

依頼主の指示に従うことが私たちの仕事なのに、いけない事をした言い訳を書いてしまった。
でも、しつけのできていない犬をフリーにすることはできないし、いい子になった犬にそれなりの待遇を与えずにはおられないのが“私たちのカフェに愛犬を預けるということ”だと理解していただければありがたい。
それがダメなら『断固ドライフードだけですよ!』と念を押していただければ短期間なら可能だと思う。
今回のトイプードルの飼主は私にそれだけの強い念を押さなかったと私は勝手に解釈してしまった。
ここだけの話ですぞ。
 

ひたすら生還を待つ! 2005年11月18日(金)

  昨日突如意識不明に陥った友がいる。

8歳も年上だから彼が私を友と思ってくれているかは分からないが長い付き合いの中で私にとってはかけがいのない友だ。
経営者であり一番働く社員だ。

納品のため訪ねた受注先で誰に気づかれることもなく倒れた。
どれくらいの時間が経っていたかは分からないが、そこの社員に発見されたときには既に心肺は停止しており救急車の中での蘇生もできなかった。

連絡を受けた妻は着の身着のままタクシーに飛び乗ったが財布は勿論小銭すらもっていなかった。
事情を知った新雪交通の運転手は「手持ちがなければ困るだろう」と5千円を握らせてくれたという。

搬送された病院で彼の一命は取り留めたが今日になっても意識は戻っていない。
「容態は安定しています」という医師の説明に「安定なんかして欲しくない!早く起きて!」と彼の妻は心で叫んでいた。
「もう少し眠らせていてもいいけど、いつまでも起きないようだったら頭からビールをぶっ掛けてやれ!」
私はそういうのが精一杯だった。

私たちの世代の身体は戦後の様々な化学汚染で満たされている。
長寿社会というのは汚染される前に育った戦前の人々の現在の寿命であり、たとえ植物状態になっても簡単には死なせてくれない医療の発達が支えていることも考えなくてはいけない。
誰か問題提起する先生が書いていたが、身の回りを見て戦後生まれの寿命は40数歳であることは否定できるものではないと改めて思う。

来年還暦を迎える友の死を容認しているのでは決してない。
それは彼を取り巻くすべての人間の思うところであり、私たちは彼が生還してから“元気にしているときにどう生きればいいと思ったか?”を根掘り葉掘り聞き出したいと思っている。

彼には絶対生還して欲しい。
家族が時間にとらわれることなく看病でき、彼が戻ったときに会社が存続していなければ申し訳ないと友人たちは奔走している。
私にできることは彼の愛犬ウィンピーを預かる事くらいだ。
ICUにウィンピーを連れて行って彼の頭を掻きむしさせれば悲鳴を上げて飛び起きるような気がしてならない。
何か他にできることはないだろうか?
彼を知る皆が今そう考えている。
 

団塊の世代へ 2005年11月15日(火)

  札幌における11月の太陽は昼時であっても危ういほど南に傾き申し訳なさそうな陽光をみせているが、凛として冷たく冴え渡る今夜の月は、おぼろであるにもかかわらず天高くガーデンを神秘的に照らしている。

2007年問題というのがある。
これまで戦後社会を支えてきたいわゆる団塊の世代が定年を迎え、国内企業のなかで熟練・匠の技術を持った人々が一線から離れてしまうことに関わる憂いである。

“一人の人間がいなくなったから困るような組織であってはならない”というのが経営の鉄則であり“俺がいるから組織は機能している”と思えるのが働くものの誇りである。
そして現実は経営する側も働く側も、例えばそれぞれの個人に突発的な死があったとしても組織が必要とされていれば徐々に形態を変えつつではあろうが継続するもので、本人が思っていたほど己の存在と絶対性というのははかないものであると気づく。

組織が小さければ小さいほど細部にわたる経営上の人間関係は深まり、理解ある経営者に恵まれれば勤労意欲が使命感に昇華することもある。

個人事業を営むものが政治的宗教的思想的な発言を慎まなければ経営に深刻な影響を与えることぐらいは承知したうえでちょっと書いてみようと思う。

流れ伝え聞くニュースのなかで「ん?」と素直に受け入れられない事柄がないだろうか?
「ふぅん」と思いながらもどこか引っかかることがないだろうか?

MファンドやIT関連のニュースが多い。
停滞した経済を打開し既得権益にしがみつく亡者の足元を揺るがすような行動には庶民として『してやったり』と胸のすく思いもありちょっとした可能性を感じることもあるが、ヒトとして肉体的な労働やプロジェクトX的な苦悩の果てに勝ち得た結果ではなく、頭脳と法の網をかいくぐって得る巨万の富による力の行使には素直に受け入れられない不快感を感じるのは私だけだろうか。

昔、T商事による不法な商取引の結果、会長が無残な刺殺を受ける事件があったが、若きIT関連の人々をニュースで見るたび懸念される。

鉄道に関わる運転士が運転席に我が子を入れて4分間運転したことが通報されて懲戒解雇。
運転席からの風景を撮影していた運転手もしかり。
これらは私にとってJRの脱線事故による過剰反応と思われて仕方がない。

このことに異論(正論)がありそれらに反論できないことがたくさんあるのだが、それでも人として心に引っかかる部分があるのは何故だろうか?

理屈や言葉では分かっていても、すぐには受け入れられず引っかかる部分を現代人は分析し大切に自分なりに考えて欲しいと思う。

そして、まさにそのことを若き日に感じ、行動に移してきたのが団塊の世代の人々ではなかっただろうか?
あなた方はその後の人生の中で快適さと引き換えに当時の魂を売り渡してはいませんか?
団塊の世代の人々よ、引退したからといって今流の個人・快楽主義に走ることなかれ!
余裕という力を持ってあの頃感じた人間回帰を訴えて欲しいと願う。

北国の冬にも満月は清々と真上で輝いていることを今夜は伝えたい。
 


- Web Diary ver 1.26 -