|
誰もが主人公になる『自分史』というのがある。
文字として書き上げたものでなくとも、現実に存在し歩んできた道は誰にも確かに存在するはずだ。 もし、死ぬ前に人生のひとコマひとコマを積み上げてきた過去をダイジェストででも見ることができればそれは最後の贈り物として最高(人によっては最低)のものになるだろう。 楽しい思い出や悲しい出来事、ひょっとしたら自分では気づいていない視線や、知らないうちに他人に影響を与えてその人の行動を変えてしまった事だってあるかもしれない。 第三者的に映しだされた映像にはそのようなことまでも描かれているし、隅っこには貝殻が映っていることもあれば、遠くの土手を犬が駆けていることだってあるだろう。
このように脳には生まれた時点で死の瞬間に対応するプログラムが内蔵されているという説がある。
無信教で映画好きな私からすれば『それも面白そう』と思うのは不道徳だろうか。
何故こんなことを書いたかといえば、酔ってしまったのが最大理由で、次に続くのが最近の卑劣な犯罪と宗教が主因の世界の紛争殺人に異議があるからだ。
議論を展開すれば、この時間にはいつも酔っ払いである人間に分がないのは分かっているからそれは回避するけれど、せめて創造主の神がいるなら、殺人を犯す人間に、殺した相手が死ぬ瞬間に脳裏に流れる『これまでの映像』を共有するプログラムを組むべきであったと抗議したい。 目を背けることなく『正当だった』とどう正当化できるのかを問うてみたい。 また、宗教が、その名の下に殺しあうなど犬も食わない愚劣で尊厳のないまやかしの道具とされていることに、それぞれの崇められる使者が嘆いているだろうと同情するしかない。
サービス業を営む中で、政治と宗教の話はタブーとされている。 「なあに、のめり込んじゃいない。今感じたことを書いたまでだ」 救いを求めたいのはこちとらの方である。
「ふぅーん、それでその先は?」 Kが私に尋ねた。 『この先をまだ書けというのか!』 酩酊寸前の私は「つづく」と答えるしかなかったが、この話はこれでおしまい。
|
|
|