From the North Country

総合学習で来店する子供たちに 2005年10月26日(水)

  カフェの近くにある中学校の生徒たち数人が明日の定休日にカフェを訪ねることになっている。
総合学習の一環として盲導犬について学びたいのだという。
担任の先生から依頼の電話があったときは、直接協会を訪ねるよう話したが都合があわなかったようだ。

子供たちに盲導犬のことを話し、使用者の体験談やパピーウォーキングのことを知ってもらうということは、将来に対する“種蒔き”である。
それは、いずれ協会への寄付に反映されるだろうし、パピーウォーカーの拡大や優秀な盲導犬歩行指導員の育成にも繋がるかもしれない。
何より視覚障害者と盲導犬の社会参加に対する理解に大きな影響を及ぼすと期待してのことである。

山に木を植えるような遠大なプロジェクトのように思えるが、私のように25年も盲導犬に携わっていると、木が育つより早く結果が出ることも知っている。
10歳のときに盲導犬の授業を受けた子供はすでに35歳を過ぎているのだから。

「私の姉は盲導犬を使用していたんですよ」
お泊まりの相談で今日初めてカフェを訪ねられた女性が唐突に話された。
「ずうっと昔。協会ができて間もない頃です」
何故か私にはピンときた。
「Sさんですか?」
その女性は驚いたように「そうです」と答えられた。

Sさんは北海道に盲導犬協会ができて間もない昭和40年代の終わり頃盲導犬を取得された。
妹さんの話によると「姉はとても明るくなり行動的になりました」ということだった。
しかし、交差点を横断している時、彼女の横断を待っていた車の後ろから追い越しをかけてきたタクシーにはねられてしまった。
幸い大きな怪我にはならなかったが、彼女のショックは大きく以後盲導犬と歩くことはなかった。
その後彼女の盲導犬は帯広の点字図書館で働く男性の元で働いた。

私が現役の頃、“盲導犬に関する事故”について調査したことがあり、彼女の事故についても調べていたから今日の話にピンときたのだろう。

思えばいろんな経験と知識を私は未だに持っている。
明日カフェを訪ねてくる子供たちには短い時間であろうが多くのことを伝えてあげよう。
 

暖かでのどかな秋に 2005年10月24日(月)

  10月の札幌は暖かな日が続いた。
1週間ほど前からカフェでは暖房を入れることが多くなっているが、エアコン暖房で十分間に合っている。
灯油高騰のおり大助かりだ。
おまけに今日はお昼過ぎまで暖房不要の暖かさで、ガーデンにいるだけで幸せな気持ちになれた。

そんな暖かさに誘われたのか、いつもなら車で来店されるNさんとSさんがゴールデン・Mダックス3頭それにチワワを伴い歩いてカフェに向かわれたようだ。
ところが車で走る道路ではなく公園や住宅街の生活道路を散歩しながら歩いているうち道に迷ってしまったらしい。
『のろしを上げよ』との連絡がカフェに入り大笑いしていると、しばらくしてぞろぞろとやって来られた。

知人からしばらく預かっているというNさんのゴールデンは、前回来店のとき他犬の接近に対してガウガウと威嚇的な態度をとり、3回ほど私のパンチを食らっていた。
「ようやく歩きやすくなったんですよ」とNさんは話され、ガーデンでの様子を見ていても他犬に対して表情が温和になっていたのに驚いた。
前回パンチを見舞ったとき私の右手の指の付け根がみるみる腫れ上がった。
「へぇ、そこまで思いっきりぶん殴るんだ?」とケロッと言われたが、そんなことしてたら私の手はもちません。当たり所が悪かっただけのことであるのでお間違いなく。

のどかでゆったりとした時間をしばらく過ごされたあと、お二人は帰り支度を始めた。
「あっ!?財布忘れた!」
あまりの天気の良さにお散歩気分で家を出たNさんとSさんは二人とも財布を持ってこなかった。
カフェは再び大笑いとなり、「車で自宅まで送りますよ」という私の申し出を振り切って、二人と5頭はニコニコしながら暖かな外へと消えていった。

チワワとダックスそれにゴールデンの歩幅の違いに二人の人間が混ざり合って歩く姿にKと私は思わず顔を見合わせ
「大丈夫かぁ?」と笑った。

明日は10度も気温が下がるという。
最後かもしれない今年の暖かな秋の一日だった。
 

手の打ちようは必ずある 2005年10月23日(日)

  手の打ちようがないですね、今年のロッテ。
若い力とがむしゃらさを感じさせてくれます。

今日も“困った犬”の飼主からの相談が続いた。
『手の打ちようがないですね』という言葉が喉元まで出掛かるが、飼主の気持ちを考えるとそうも簡単にギブアップするわけにはいかない。
いろんな飼主からいろんな相談を受けて私が言葉を詰まらせるのは、矯正不可能と感じるからではなく“自分がその犬とこれから暮らすわけではないから”という現実を直視しているからである。
つまり、私がその犬と暮らすならたとえ大きな問題を抱えていても、多くの場合良き伴侶となるように育て上げることができるだろうが、対象となる犬には飼主がいてそこでの待遇や環境がある。
私に出来ることだからといってそのことをそのまま飼主に行わせることに無理があるのを知っているから言葉に詰まるのだ。

相談に対し、正論のみを教えることにどんな意味があろう?
飼主がやれる範疇でのアドバイスこそが適切なのだと思う。
ただし、ここで言う範疇というのは、飼主に今まで通りの無理のない接し方という意味ではなく、どこまで今までの生活と接し方を変える覚悟と能力があるかということであり、犬を変えたいなら自分にそれだけの覚悟があるかということも問わなければならないと思っている。
犬だけ訓練して自分たちは過去もこれからも変わらずというのは虫が良すぎる話だ。

これまで何度もこの欄に登場したわんこは2年前まで手に負えない荒くれ者で、人前には安心して出せない犬だった。
しかしその犬の飼主は本気で学び、惜しみない愛情を注ぎ金銭的な負担も負い、自らの生活も変え、その意気込みが私をも本気にさせた。
その結果が今年の夏に形となった。

夢の世界でしか考えることのなかったペンションを利用しての“愛犬との旅”が現実となったばかりか、観光客で込み合う峠では『右手にソフトクリーム、左手には足元で伏せた愛犬のリード』を持っていたという後日談の姿を想像するだけで私はわくわくし、うれしさのあまりきっと“涙でしょっぱかったであろうソフトクリーム”をイメージした。

初めて来店された方の速射砲のような愛犬相談に閉口することが多いのは、犬も知らず飼主とその環境も知らないからであり、もっとスローな付き合い方が私の肌にあっているからである。
逆説的にみれば飼主が私から変化を求められたとしても、それに対応でき、且つ愛犬の稟性に大きな問題がない場合にのみ即応できるのかもしれない。

ところで、タイガースよ、今年の若くて勢いのあるロッテに対抗するにはどうすればよいのか?
若くて勢いがあると思っていたタイガースだったが、ロッテはそれ以上に若くはつらつとしていた。
明後日の甲子園でベテラン下柳が『押さば引け、引かば押せ』の老獪さを見せ、打線と守備が地味な展開を継続できるかが問われることになった。
手の打ちようは必ず見えてくるものだ。
あたふたせず『織り込み済み』、今流の言葉で言えば『想定の範囲内』と受け止め、修正すべきは修正することで新たな展開が期待される。

愛犬のアドバイスならもっと詳しくできるが、タイガースの飼主の一人である私は、ただ君たちを応援している!
 

爺放談 2005年10月21日(金)

  テレビ好きの私にとって最近の番組編成は「つまらん!」と嘆くばかりである。
どこもかしこも“くだらない”バラエティ全盛の時代に入り選択の余地もないほどだ。
当然視聴者のニーズに沿うよう編成しているのだろうから、くだらないと感じている私が少数派だということは重々承知しているつもりだが、あんな番組を毎夜毎夜国民に見せ付けていることに不思議さと、世の中の出来事に鈍感になるように導こうとする意図を感じることもある。

最近のニュースで、世界遺産に登録された知床で馬鹿騒ぎの取材かロケか分からないようなことをやっていた連中が、一般市民から注意を受け逆切れしたことの顛末が報道されていたが、図に乗るのもいい加減にしろと言いたくなる。

『芸能人があなたの家に泊まります!』?
アホたん!芸能人だからといって誰もが喜んでちやほやするはずないだろ。

『どこか虫の居所でも悪いのだろうか』私は頭を振ったあと深呼吸した。
虫といえば、今日お泊り犬の散歩をしている時やけに雪虫や小さな虫が多かった。
“ケヤキフシアブラムシ”という名前の虫らしいが、夏の暑さで大量発生しているとのことだ。

明日からは雨の予報ですでに外では雨音が聞こえ始めている。
残念ながらカフェは静かな週末となりそうだが、私には日本シリーズという楽しみが待っているからテレビに釘付けになるには好都合。

さて、チャンネルをまわして「つまらん」と嘆き、選択の余地もないことを冒頭から愚痴ってしまったが、その時間帯のテレビを消すという方法があった。
夜の番組がつまらないとこの欄を早い時間に書き上げることができるし酒もタバコも減る利点があった。
最近のテレビのつまらなさに早くから気づいていたKはベッドで横になってスカパーで映画を楽しみ、同じベッドにはお泊り犬のロン・ジュリが長々となって眠っていた。
 

最低限の清潔が基本 2005年10月19日(水)

  寝たきりになった老犬をうまく介護する必須条件のひとつに『常に清潔に保つ』というのがある。
これが人にも当てはまるのかどうかは介護経験と知識がないから分からないが、少なくとも犬の場合は必須だと思う。
介護ということ自体が肉体的にも精神的にも大変な作業であり、一人の力だけではどうにもならない時がある。
人に頼んだり複数の人が関わることを考えたなら、清潔を心がけているだけで介護する側の印象は変わってしまうものだ。
最初に『汚い・臭い』と感じたなら、人はどうしても引き気味になる傾向が高くなってしまうから、清潔に保つことが介護者・被介護者にとって望ましい結果を得る条件と言ってもあながち大げさではない。

ただ、今夜は老犬介護の話をしようと思ったのではなく、お泊り犬のピチピチ元気なキャバリア君の話である。
先日来、繁殖予定のないオス犬の去勢のことを書いているが、この子にとっても切実な問題となっているのだ。

他犬のまたぐらに首を突っ込む・オシッコ痕跡を執拗に嗅ぎまわるから垂れた耳にその汚れがこびりついてしまう・起きている時に考えることの殆どの時間が性的なこと、などと紹介してきた。

しかし、お泊まりが4日目を迎えた今夜も、この愛らしい顔をし、人に対して性格のいいキャバリア君を私は抱っこはおろか飛びつかれることさえ拒否してしまうのだ。
その最大の理由は、“汚い”のである。

朝一番のトイレに連れ出すと、いわゆる“朝立ち”した彼のペニスから放出されるオシッコは、高く上げた片足の角度にもよるが、彼のお腹を濡らし、次に胸と両足の後ろを濡らし、さらにのどを濡らし、まるで口元から水を吐き出すように放水されている。
この時点で誰しも触るのさえひいてしまうだろう。
さらに彼にとって分が悪いのは、出勤してきたトリマーのノンちゃんに毎朝その“汚れ”を洗ってもらうのだが、その際あろうことか射精してしまうというのである。

彼の何処に非があるというのだ?
元々繁殖用の種オスならカフェで預かることはない。
私たちが非常識で冷酷なのだろうか?
いずれにしてもすべてを人に委ねている彼は“避けられる存在”とまではいかないけれど少なくとも気軽に抱っこできる存在にはなっていないのだ。

私の隣で本当に愛らしく丸くなって寝ている彼の背中を撫ぜながら、単に愛玩犬として家族の一員として暮らしているはずの彼の重いハンディを感じてしまう。
 

ドッグラン 2005年10月18日(火)

  愛犬をリードから解き放し自由に走らせることは、犬だけでなく飼主にとっても喜びだ。
犬の表情がぱっと明るくなるし、しばらく自由に匂いをかいだり駆け回ったかと思うと、今度は『何か楽しいことしませんか』とばかりに飼主を促すように駆け寄ってくる。
絆を深めたり呼び戻しやマテの訓練にも最適な状況である。
もし、気の合う仲間でも加われば人も犬もリラックスした中で充実した贅沢と感じる時間を過ごすこともできるだろう。

ドッグランを利用する方々はそんな思いを胸に出かけられるのだろうと思う。

しかしながら現実のドッグランでは、無作法な犬に追い回されたり、ボールの取り合いで大喧嘩を始めたり、性欲の対象にされたりと“まともな犬”が所期の目的を達成して満足度を得る確率はそう高くない。

追い回すほうの犬の飼主は他犬や弱い犬の飼主に対する配慮が低くなる傾向がある。
喧嘩っ早い犬と分かっていながらドッグランなどに連れて行く不届き千万な飼主は論外としても、悪気は一切なく『遊ぼうよ!』と陽気だががさつで非常識な犬の飼主は相手のこと思い計り必要ならしばらくリードに係留する配慮が求められるだろう。

もし他犬に慣らそうとの優しい親心で、公園デビューの感覚でドッグランを利用しようとお考えなら、余程信頼のおける管理された場所か、ベテラン訓練士を同行させるか、慣れた仲間と貸切にするかを選んだほうが良い。
安易に闇雲にドッグランで愛犬を遊ばせるということは、どこかの国の無法地帯にノー天気な日本人を送り出し旅をさせるようなものである。
ドッグランを利用するなら、飼主にそこの治安状況を瞬時に判断する能力と緊急避難の心得を身につけておく必要がある。
「失敗しちゃった」では済まされない心(時には肉体)の傷が根強く愛犬に残ることを飼主は知るべきである。

愛犬をノーリードにしコントロールできることは真のヒューマンドッグライフを楽しむ上で絶対的に必要であると思う。
その練習場所のひとつとしてドッグランも挙げることができなくはない。
ただ『ドッグラン』=『楽しい場所』ではなく『非常に危険を伴い、配慮とマナーも要求されるから周囲の状況を絶えず観察し、対処法を身に付け、それでいて楽しむ余裕を持つことができる眼と心を飼主は培い、愛犬に対してマテと呼び戻しの実践を修練する場所であり、これらがうまく進めば楽しい仲間との出会いがある場所』と考えたほうがよい。
まさにカフェのガーデンがそれである。
 

甘かった希望的観測 2005年10月17日(月)

  読みの半分は甘かったようだ。

昨日からお泊まりで、『楽しく暮らせそうだ』と感じていたボーダーが誤算だった。
夜の排便に出すとすんなりオシッコをしたし、夕方にはウンチもしていたので「お休み」と声をかけて電気を消した。
すぐに私は痛みを感じ、炎症を起こしている背中と手の甲にタイガーバームを塗るのを忘れたことに気づいて再び電気をつけたとたん驚愕した。
ボーダーはベッドの周りに大量のウンチをしていた。しかも軟便。
普通、フーンとかクゥーンとか言うだろう。
一切が無言かつ物音一つない中で粛々と行われていたのだ。

翌朝目が覚めるとやはりウンチに加え嘔吐物があった。
何やら紐状の布切れのように見えたが、カフェの物ではなく自宅かどこかで食べていたものだろう。
朝から予期せぬ大掃除となり、お泊まりを受ける側の苦労をしみじみ感じた。
しかし、辛いのはボーダーも同じで、異物を食べていたためかお泊まりによる精神的な緊張かは分からないが肉体的に辛いのは彼女であろう。

カフェに来てまもなくの排便もゆるかったし、フードが体質に合っていないことも考えられたので、カフェで販売している上質のフードを与え様子を見ることにした。
以後、今日の排便はまだない。
夜には時間をかけてしっかりウンチをさせておこう。

相棒のキャバリア君は予想通り、他犬のまたぐらに頭を突っ込みヒンシュクをかっていた。

まだ初日を終えたばかりのお泊まり生活だから、これからに期待をしている。
両方のわんこ共に痩せ過ぎの体型をしており、体質なのか精神的なものかあるいはフードが体にあっていないのか調べる必要もある。
お返しする時には良好便で体調の良い状態であるよう心を配りたいと思っている。
 

またいつもの持論 2005年10月16日(日)

  眩しいほどの満月が夜空に輝いている。
その美しさにホッとため息を出すと今日一日のひどい疲れから解放される気分だ。

カフェには一度しか来店したことのないボーダーコリーとキャバリアのお泊まりが今日から始まった。
外ではトイレができないと伺っていたボーダーは、ガーデンでオシッコもウンチもしてくれた。こんな大きな体をして室内のペットシーツでされてはたまらないから本当に助かった。
性格はいいようだから楽しく暮らせそうだ。

相棒のキャバリアのほうが犬種特性を考えると暮らしやすいと考えていたが、やはり玉付きわんこは犬種に限らず暮らすうえで厄介なことが多い。
ガーデンでは犬同士の遊びではなく、オスとしてお気に入りの犬を物色しているし、オチンチンの周りは果たせぬ夢の空しい形跡で黄色く汚れがこびりついてしまっている。
ガーデンに出るということは、刑務所暮らしが長い男を合コンに参加させるようなもので、「冷静に」と言っても余程の人格者でない限りできっこない。

繁殖予定のないオス犬を去勢もせず暮らせる飼主の残酷さに対して『わが身に置き換えよ』と言いたい。
そして、ふと、自然界の交尾を許されない弱いオスたちのことを考えた。
きっと彼らは戦わずして無条件降伏したわけではあるまい。
必死で交尾相手を探し、本能に従ってライバルと戦い、敗退したはずである。

どんなに弱い犬にでもそれぞれを愛する飼主がいる。
その飼主がペット社会の中で血みどろの決戦を望んでいるとは到底思えないのに、去勢に関して無関心でいられるのは私には信じ難いことである。
せめて、『今度こそ勝つぞ!』と次のチャンスが得られるようなワンワンワールドの世界で一緒に暮らし、一般ペット社会とはあまり関わらぬことが肝要である。
 

問答 2005年10月15日(土)

  「うちの犬って○○○なんだよねぇ」という話をよく聞くし、光景を目にすることもある。
例えば帽子を被った人を見ると吠えてしまうとか、ボール遊びしているうちにラッコのような遊び方になるとか、服を着せると石のように動かなくなる等、ひょっとしたらすべての飼主が形態は異なるにせよそのような話題を抱えているとも言えるだろう。

ただ、犬がラッコのようにボールと遊んでいたからといって「何とかならないでしょうか?」と相談に訪れる方はいないけれど、吠えてしまうとか雷の音にパニックを起こすという相談は受けることがある。

つまり対人的な不快とか日常生活を平穏に送れない場合には問題行動と認識されているようだ。
犬にしてみればある種の刺激に正直に反応しているだけでそこに善悪があるとは思っていないはずなのだが。

飼主こそが将来の犬との暮らしを見据えた上で、良いこと・悪いこと・求めること・不快なことをしっかり認識して愛犬と付き合うことが寛容と思う。
少なくともワンワンと吠える犬に「おお、よーしよーし。どうした?大丈夫大丈夫」という接し方が未来を暗くすることを知っておかなければならない。

吠える理由はどうあれ、『わめき吠える』状況を即座に静止できる術を身に付けるべきだろう。
そのうえで『うちの子はこういう状況で吠える傾向がある』ことを学び、次に対処する経験とするのが利巧といえる。

問題行動の傾向を知り、その兆候と思えるものはさりげなく排除する育て方はネガティブともいえるが、そこを押さえた上でポジティブに接することが犬育ての原点のように思えて仕方がない。
人は自らが経験しなくても学べる生き物だと思うのだが、愛犬育てにも当てはまるのだろうか?

『宇宙飛行士になるための訓練』という言葉に違和感はないだろうが『宇宙飛行士になるための調教』という言い方はおかしいと感じるだろう。
私は犬たちに対して“調教”という言葉を使うことはない。
その違いがどこにあるか皆さんにも考えていただきたい。
酔いに任せたわけの分からないことを書いていたら深いテーマになってしまった。
 

この休日 2005年10月14日(金)

  定山渓ダム(札幌湖)に少し早めの紅葉を見に行った。
美しさをめでる前に眼前の景色の記憶から頭をよぎったのが「ああ、去年スーと来た所だよね。ここを歩いて、あそこで遊んだんだ」という予期せぬ当惑だった。
日常の生活からはスーと別れた悲しみは殆ど消え、思い出となった小さな出来事に心揺らすことすら楽しみに感じていたはずであった。
それが気晴らしに出かけたドライブ先で突如としてタイムスリップしてしまったのだから二人とも少なからず驚き嬉しくなった。

その後、里塚温泉でのくつろいだ半日を過ごしていると世間は狭く、WHホワイトテリアのミントちゃんの飼主ご家族とバッタリのハプニングもあったが、数週間ぶりの休日を年齢にふさわしい時間の流れで楽しませてもらった。

仕事再開となった今日は、雨天との予報が災いしたのかカフェは曇天にも拘らずのんびりしていた。
緊張したのは先日紹介した生後3ヵ月半の柴犬のレッスンを行った時くらいで、指先を噛まれたものの皮手袋が出血を防いでくれた。
「先日予防注射をしてきました」
「それで?暴れませんでしたか?」
「ええ、大丈夫でした」
この柴犬、カフェでも普通に触れるし外見はいい子に振舞えるのである。
しかし、私は飼主の手や腕に生々しい傷跡があることを見逃してはいない。
その場はうまくやり過ごせたとしても生活し続けるうえでの実情を理解し飼主の訴えに共感してしまう。

ともあれ、今日は休み明けの仕事始めで無理はしないしお泊まり犬もおらず、夜には本当に久しぶりになってしまったヨガの講座を受講し心身ともにリフレッシュできた。
明日から頑張れる体勢は整っているはずだ。
いつものことであるが、我ながらうまい時間の費やし方をしていると思う。
 


- Web Diary ver 1.26 -