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「澄み切った湖ですね」 朝のガーデンを眺めたKが感動したように言った。 見ると、白い砂浜に沖縄を思わせるような透明な水辺が誕生していた。 ガーデンの水はけが悪いのはこれまでもご案内の通りだが、当初のような泥沼ではなく清流の佇(たたず)みのような美しさを見せてくれていることを今は喜びとしたい。
だが、そんな奇麗言に溺れることなく私は排水作業を朝から1時間をかけて行った。 その作業の中で、人が手をかけると水が濁る光景を眺めながら、ふと、犬の訓練に当てはめて自分を責めかけてしまった私は思わず頭を振った。
確かに水は眺めていると美しく、手をかければ濁ってしまうかもしれない。 けれど、犬を清流のように考えてしまうと私達の生活は濁流に飲み込まれてしまうに違いないだろう。 ここはやはり治水事業が必要な分野であるのだ。
水という自然の流れを上辺だけで愛する人は、去勢や避妊それにしつけやマナーに消極的で、そのくせ様々な犬に関する問題を抱えて暮らしておられる。 逆に犬に対してきちんとした“治水事業”を行うべきだと考えている人々は、暮らしやすい犬たちがいるだけではなく、ダムや山林における治水事業に反対している傾向がある、と書いたら批判と喝采を浴びるだろうか。
水は生命の根源であり、法則や摂理に素直に反応しているのに対し、犬は人がどう考えようとも彼らなりの本能があり、学習の結果による行動を起こす生命体であることを認識し、だからこそ理論ではなく魂と魂のぶつかり合いが優位性を示すことを知っておかねばならないと思う。
今夜もスポーツクラブでヨガをやってきた挙句、その反動ともいえる焼酎の一気飲みの後にこの欄を書いている私の意思がうまく伝わっているのだろうかと心配になってしまうし、自分の意志がどこにあるのかすら分からなくなってしまう。 こんな日は早く寝た方がよい。
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