From the North Country

犬を飼うってどういうこと? 2005年03月04日(金)

  昨日まりちゃんとらむちゃんが帰っていった。
まりちゃんの懐で大人しく抱かれるようになったらむちゃんを見ていると、ペットと住めないマンションに暮らしていて、すぐに手離さなければならないことが解っていながららむちゃんを購入し、やはり1ヶ月ほどで手離した元飼主の哀れさと無責任さを考えた。

哀れさはすぐに立ち消えた。
犬が好きで『今、目の前にいるこの子と暮らしたい』という衝動が純粋なものであったとしても、すぐに飼えなくなる現実と手離した悲しさは自分の心の痛みで賄えるし、時の経過がそれを忘れさせてもくれるだろう。
しかし、手離された犬の方は命がかかっているのだ。

私はドッグフードは勿論ペットショップやアイフルのコマーシャルもなかった小学生の頃、近くの材木小屋に秘密基地を作り、捨て犬や放浪中の犬の面倒を見ていた。
その数は一時14匹にもなったが、給食を残して持ち帰ったり、セミやザリガリを捕って犬たちに与えたし、内地の冬は藁を敷いてあげれば小屋の中で暖かく過ごせた。
子供ながらも真剣で必死だったのだ。
自分でマンションを借りれるような年齢と分別それにお金を持った大人が、衝動を満たすための無分別な遊びではないはずだ。
元飼主に『大変さや辛いことがあったとしても、みんなひっくるめて犬が好き』の気持ちがあれば、引っ越せば済むことだったろう。

「こんなにいい子を何故手離したのだろう!」
元飼主にそう思わせるような犬にらむちゃんを育ててやる!

さて先日、この話題と時を同じくしてパピヨンの兆(きざし)ちゃんがカフェにやって来た。
「この犬はもういりません。処分してください。」
区役所の窓口に連れてきて、引取りを求める飼主。
偶然、隣でそれを聞いてしまったMさんは矢も楯もたまらずその子をさらうように引き取ってきたというのだ。
その時は2歳に満たない落ち着きのないパピヨンで、元飼主は病気療養中の医者で以前飼っていたパグが亡くなった寂しさからペットショップで購入したらしいが、様々な事情があって手離すというのだった。
『飼主の責任において殺す』らしかった。

長くなったので、もう難しい話は止めよう。

数年前の資料で恐縮だが、その年に
札幌市で殺処分された犬は約3000頭
北海道全体では約14000頭
酔ってしまって調べるのが面倒なので、不確かな淡い記憶をちょっと付け加えると、そのうちの約3分の2(だったかな?)がペットショップから持ち込まれた犬だそうだ。
 

らむちゃん 2005年03月02日(水)

  知り合いのHPを覗いてみると、頑張っている人もいるが、皆この時期は忙しいのか更新が遅れているようだ。
私は別に忙しいわけではなく、HP開設1年も持たずただへこたれているだけ。それと春が近いのかひたすら眠い。

「わ〜っ!」
夕食後うたた寝していた私の頭にネズミが駆け上ってくるような感触に驚き目を覚ました。
Kの娘まりちゃんが友人に頼まれ引き取ったらむちゃんだ。
まる4ヶ月を過ぎたチワワのオスで、こそドロ顔のやんちゃ小僧で、一昨日からまりちゃんと我が家にいる。

らむの育児に疲れ、ちょっと骨休めにやってきたようだが、「何で急におりこうになるの?」と、らむの変化に気を良くし今夜もご在宅である。
仮に孫を連れて来られたとしたら私には何もできないが、犬ならばやれることはたくさんあるし、Kも久々の愛娘との暮らしに満足そうだ。

しかし、このらむちゃんはゼンマイ仕掛けのおもちゃのように駈け回り、乳歯全盛の威力を奈何なく発揮するので気が休まらない。
「大人しくなったんだって、これでも」とK。
「抱っこした時にじっとしているなんて考えられない」とまりちゃん。
そういえば一昨日は思考することなく反射・反応だけで動き回っていたし、懐で
もがいていた。

私が意識的に行ったのは、もがくらむを懐で優しくも完全に動きを制し、さらにその事に不安や反発を示す動作を封じ込め、力を抜いてもじっとしているようになるまで5分ほどかけたのと、あとは魔法の力『掻くこと』を絶えず行っただけである。

『自分の意志や力だけではどうにもならないこと』を体験させ同時に『快と安心』を感じさせることが犬と暮らす基本の一つだろう。
 

叱られにやって来る犬 2005年02月28日(月)

  「町内会でお金を払っているんですか?」
「そんな話は聞きませんが…」
「大物議員でも住んでいるんですか?」
「さあ、どうなんでしょうか」
4日も続けてカフェの前を綺麗過ぎるほどに除排雪してくれているものだから、来店された方々が次々に羨望の声を上げられる。
確かに他の地域を見ると、道幅は狭く雪が山積みされていると言うのに。だんだん申し訳なくなってきた。
引っ越してきた昨年はこんなに綺麗にはしてくれなかったから、きっと何かの間違いだと私は思っている。

『間違い』と言えばカフェでもそれはジェニーとベルナに起こっている。
例えばガーデンでヘマをやらかした犬を叱らなければならない時、
例えば今夜のお泊り犬の無作法を叱らなければならない時に私が「コラーッ!」と叫べば、この二頭がすかさず私の前に頭を垂れてやってきて
「どうか、ひとつ」だとか
「まあまあ、そう熱くならず」だとか
「へへぇ、アッシに何か落ち度でも?」と、あたかもこの世の中の悪いことはすべて自分が関わっているかのような、すまなさと取り成しの態度を見せるのだ。

若いうちにこのような態度を示す犬は、年を重ねるとそれなりに成長し、そのうちに私が怒鳴ると
「おや、まあ、またあの子は叱られてる。なんで同じヘマばっかりするんだろうねぇ。」という顔をしたり
「バカだねぇ、そんなことして何が面白いっていうの?」と眠そうに頭をもたげてみたり
「それ以上の事したら怒られるに決まってるでしょ!あたしゃ知りませんよ」と、さりげなく立ち去るような、何とも素敵な犬になっていくはずである。

今夜のジェニーは、すき焼きを囲む私たちの間を駆け回るチワワに業を煮やした私が怒声を浴びせる度に、寝室から眠そうに出てきては
「父ちゃん、まあまあまあまあ」と顔中を舐めまわし、また寝室に戻って寝ている。
『とんでもない犬』とのレッテルを貼られ、下から這い上がってきた犬の中では、素敵な犬候補の最も身近な存在になっている。
 

訓練って何だろう? 2005年02月27日(日)

  賑やかな日曜日だった。
開店と同時にやって来てくれたのは千歳の黒ラブクン。
先週この欄で紹介した手を焼くワンコという話だったがリードをつけて歩いてみると、感性豊かなとてもいい子だった。
去勢されたオス犬に対してマウントするのが泣き所であるが、全く憎めない。
結構手荒な対処法を試してみたが、本人自身去勢されているにも関わらずどうにもならない血が沸き起こるようだ。
まあ、そのうちいい子になる予備軍だ。

決まりきった訓練を行うことが暮らしやすい犬に繋がることではないことに気付いて欲しい。
CD1とかXとかの家庭犬訓練があるようだが、未だ物品持来とか伏臥なんて言葉を使っているのはクサイ。
持来なんかわざわざ教えなくても、そんなことに興味のない犬の方が暮らしやすいし、「フセイ!」なんて叫ばなくても「ちょっとまって」と言えば適当にその辺で転がってるわんこの方が、まったりしていて気持ちよい。
競技会に興味がある方はそれで良いのだけれど、家庭犬のしつけを優先している方は、『ねばならぬ」を排除して『こうあってほしい」を優先したほうが私はいいと思うのだが…

そのうえで、とことん教える。

ただし、「これができないとパスしない」ではなく「私の生活スタイルでは、こうしてくれないと困るの!」との思いを抱いていればいいのだと思う。

そんなカフェのスタイルに共感された飼主と犬たちがたくさんやってきてくれた。
・肝心なところでコントロールが効かない
・カフェが近づくと車の中でワンワン吠える
・飼主のコントロールが甘い
私には不満な面もたくさんあるが、確実に飼主の方の意識が変化し、大局的に愛犬と接するようになっていることが嬉しい。
それ以上に様々な関わり方で成功されている飼主を見るととても勉強になり、私の犬に対するツールボックスの中身を増やしてくれてありがたい。

お泊り犬のノースが引き取られていった。
『困ったクン』との代名詞を着せられていたワンちゃんなのに我が家ではとてもいい子だった。
オスワリができるわけでも持来ができるわけでもない。
でも、「シーシー」と言えばシッコをしてくれるし、ちゃぶ台のものに手を出せばぶっ飛ばして、それがいけないことを学んでくれた。
他犬と遊ぶのが苦手なのに、一緒にお泊りしたチワワとはそのうち遊んでくれた。

聞こえのいい訓練に依存しないで、自分が望むことを明確に愛犬に伝える方法から先ず学ぼう。
私もそれを訓練と呼んでいるのがちょっと寂しい。
 

今夜は日記 2005年02月26日(土)

  今冬の大雪で札幌市の除雪費が底をつき補正予算が組まれることになっている。
昨日、カフェ周辺で大規模な除排雪作業が行われ、とても綺麗になったと喜んでいたら、今朝またグレーダーで道路の氷が削られ、周辺の住宅では車庫から車が全く出ることができない氷の山が築かれた。
カフェには配慮をしてくれたのか、駐車場に続く斜路の前は綺麗に氷を片付けてくれていた。
夕方になってようやくこの厄介ものの排除が行われ、警備員が先導していたので話し掛けてみた。
「随分綺麗にするんだね」
「ご迷惑をおかけしています。明日もう一度道路の氷を削り取って、道路脇に積み上げられた雪も排雪しますから、もっと綺麗になりますよ」

市内中心部に近いところでは頻繁に除排雪が行われているのに対し、郊外のこの地域では一冬に1回だけだから、気を使って徹底的な作業をしてくれているのだろうか?
予算が足りないのだから、昨日の作業だけで我々は満足していたのに…

この欄には相応しくない話が続いてしまい恐縮。
今日のわんこ達も簡単に紹介しておこう。

以前紹介したウンチまみれになるMダックスのシェリーちゃんは毎週ご家族でカフェに来られており、この問題は一発解消!犬が怖かった奥さんも大型犬を触れるようになって大喜びである。
スーが亡くなった夜にお泊りだったMダックスのノース君は今夜のお泊り。「後からHPを読みました。大変な時にお預りいただいてありがとうございました。」飼主の方のこの言葉はとても嬉しかった。ノース君は手のかからない癒し系のわんこだから今夜も私たちにマイナスイオンを供給してくれている。
プラスイオンを振りまいているのは、初めてのお泊り犬チワワのララちゃん。まだ5ヶ月だし、社会経験も少ないうえに陽気な子だから、目が離せない。
長いお付き合いになっている同じくチワワのリッキー君は、他犬に吠え立てることはなくなっているが、未だに殻を破れずあと一歩が踏み出せない。こんなわんこもいていいと思うのだが、最近できるだけちょっかいをかけて、心をほぐそうと努力している。

ゴールデンのJクンは閉店後1時間たっても迎えが来ない。Yさんは私たちが止めるのも聞かず、10数キロ先の自宅を目指し歩いて帰った。無事途中でお迎えがあることを祈っていると8時頃に帰宅したとの連絡があった。果たしてこれはお迎えがあったのか、それとも歩き通したのだろうか?
今日も楽しい一日だった。
 

「なぜ?」を問う 2005年02月25日(金)

  一昨日の水曜日も一日雪が降り続いたが定休日の昨日は安息日として除雪は一切行わず、晴天の今朝、真っ青な空に白煙を上げるようにぶっ飛ばした。
一冬に一度の市で行う大掛かりな排雪作業と一致し、30センチ以上の圧雪となっていた道路は、グレーダーで削られカフェ周辺には広い道路が復活した。

愚痴になってしまうが、この広い道路も数日で再び狭くなってしまうところに、市民の意識の低さというか民衆のしたたかさを感じる。
庭の雪を排雪で広くなった道路の端に積み上げてしまうのである。

さてさて、ここ数日、柴犬のリキ君は30分程歩いてカフェに通ってくれている。
初めてのときは訓練士さんと一緒だったが、その後はお母さんと二人で来られている。
日本犬にみられる取っ付き難さと、へらへらするのを潔しとしない気高さがカフェに馴染むのに時間がかかっているし、様々な誤解を招くこともあるが、お母さんの几帳面ともいえる配慮のおかげで徐々に仲間入りを果たしている。

リキには他犬に対する好奇心があるけれど、他犬から好奇の目で見られることは気に入らない。
そのため、ガウガウという声を出すことがあり、そこら辺りをきちんと制御してルールを身に付けさせることが今の課題であろう。
幸いにも、忍耐強く第一段階の私の制御を受け入れてくれている。
いずれ次のステップに進むことがあれば、恐らく私に対しても反抗的な態度を示すだろうが、さらにそれに対する制御をリキがどう受け入れるかが近い将来の課題となる。

カフェに来られる方の犬たちへの接し方を見ていると、性善的で楽観的な方が多く私はヒヤヒヤさせられることがある。
例えば、見知らぬ犬に平然と自分の犬を近づけること。
どんな相手かわからない中でボール投げをすること。
これらは思わぬトラブルの元になるのだが、いずれはそのような状況を与えることも必要である。
だから最近では余程でないと注意をしないようにしているが、その分、気を使うことも多くなっている。

その配慮を繰り返しているうちに、飼主の方が気付いてくれることもあるから、またそれも楽しい。
盲導犬の訓練士を養成していた時、『なぜ?と問うことを常に忘れるな』と教えてきた。
なぜ、今、言葉をかけたのか?
なぜ、今、言葉をかけなかったのか?
なぜ、今、息を止めたのか?
なぜ、今、笑顔を見せ、今、真顔なのか?

言葉の通じぬ犬たちに理解されやすいアクションを繰り返すことで言葉が解る犬にするためである。

ロジェ・マルタン・デュガールの著『チボー家の人々』の中で、オジギソウがお辞儀をする理由や鉄が錆びることを引き合いに出し「なぜ?と問うことを止め、如何にして?」を考える場面があったが、私はやはり『なぜ?』を追求している。

極端な話になるが、例えば『無駄吠えをする』
『なぜ?』を考えれば環境と犬を見て対処するのに対し、
『如何にして?』を考えれば声帯除去に繋がるだろう。

話題が支離滅裂になっているのは酔っているからだが、読み返してみると妙に繋がっているような気もする。
 

根くらべ 2005年02月22日(火)

  明日もまだ雪が続くとの予報。
大雪ならばいよいよ雪を飛ばす場所が無くなってくる。駐車場周辺はこれまでの雪が雪庇となってせり出し、下から飛ばした雪が跳ね返されてくるようになっている。
ガーデン外側の雪もついにフェンスの高さを超えてしまった。

お泊り犬チワワのチビちゃんは「そんな寒い外でのトイレは嫌です!」とガーデンでの排泄を拒み、室内トイレで済ませようと意地を張っている。
100%きちんと室内トイレですれば私も文句はないのだが、たまにとんでもない所で放尿しようとするから、結局管理することにした。

夕方6時の散歩途中に排尿し、帰宅後夕食を与えると、その後室内でしばらく走り回り水を飲んでいた。
チビちゃんの排尿サイクルから考えると8時半頃にはオシッコをしたくなるはずなのでガーデンに出してみた。
雪が降り始めており、案の定チビちゃんは固まって動こうとはしない。
秋の段階でチビちゃんは「シーシー」の言葉を理解していたはずなのに、雪が降ってからこのような状態になり、そのうち意固地になって動こうとせず、こちらが根負けするのを見透かしたような態度をとり始めていた。

セーター1枚の私だったがアルコールが燃焼していたので意地の張り合いに付き合うことにした。
30分後、チビちゃんの背中には雪が積もり、じっとしていることもできなくなるとブルブルっと雪を払い、やがて辺りを動き始めついにオシッコをした。
すかさず私は拍手をして室内に入れた。
トイレトレーニングの場合は用を足したらすぐに中に入れるのがコツである。

「シーシー、シーシー」同じ言葉を繰り返した私の口の周りはこわばり、すっかり酔いも覚めてしまったがまずは一本勝利した。
さて飲み直すぞ。
もし、酔いつぶれてなかったら寝る前の最後のトイレにも勝利するぞ。それでまた酔いが覚めてしまったら…
 

友人がくれた額縁 2005年02月21日(月)

  友人のガロ社長が事故で亡くなってから14ヶ月が過ぎ、ようやく最近になって思い出しても人前では涙しなくなった。
ペットロスがあたかも特別な感情のように考えられているが、愛すべき人を亡くしたのと同じ感情を抱くことは、亡き社長にとっても私にとって何も特別なことではなかった。

だから愛犬を亡くしてまだ2ヶ月しか経っていないKが、今夜この欄に書いてくれたことに私は何の不自然さを感じることはない。

(以下K)
昨日、スタッフで20年来の友達のMが、帰りがけに渡してくれた可愛らしい押し花をあしらったスーの写真入りの額縁。
「お店に一枚もスーの写真がないから。」と彼女。
一枚もないのは私がすべて自分の部屋に持っていってしまったから。
「なぜ飾らないの?」と聞かれて「まだ、思い出になってないから。」と答えたはずなのに、優しい彼女はわざわざ友人に頼んで作ってもらったらしい。
その気持ちに水を注すように、「死んだみたい。遺影みたい。」とぼそぼそ言う私。
スーは確かに死んでしまって、もういなくて、写真の中にしかいないのを分かっているけど、でも認めたくなくてスーの姿は私の部屋の中とパソコンの壁紙にだけしか置きたくないと思ってしまう。

私の親友は29歳で二人の子供と夫を残して逝ってしまった。
学生時代同じクラブで寝食を共にしたかけがえのない人だった。
今も6月の快晴の日には彼女を送った日の『馬鹿っ晴れ』の青空を思い出してひどくつらくなる。こんな日に青空なんて馬鹿みたいという思いが毎年こみ上げる。

彼女の代わりが私の生涯の中に多分いないように、スーの代わりもいない・・・と思う。

ごめんなさい。
周りの方たちの暖かい気持ちには本当に感謝しています。
可愛らしい写真を飾れる日までもう少し時間をください。
 

こんな日の午前のお客様 2005年02月20日(日)

  Kの言うとおり「ごめんなさい」の札を用意して臨時休業にしておくべきだった。
ガーデンや駐車場など場所によっては50センチ近い重い雪がドカーンと積もっていた。
路上駐車の車が移動の途中で埋まり、その手助けも含めて除雪作業に5時間を要した。
同じ場所を2回ガロアラシ号で除雪しないと飛ばしきれない量だった。

ふと気が付いてカフェを見ると、3組の常連さんと犬無しで来られたお二人の方がガーデンの除雪が終わるのを待っておられた。
シベリアンハスキーのチェス君は実にゆっくりとしたテンポではあるが、見知らぬ人にも強い不安は抱かなくなっており、その何倍ものスピードで他犬との遊びを身に付けてきた。
残り2頭はいつものジェニーとゴールデンのトム君で昨夕からお泊りである。
お泊りといっても商売のペットホテルではなく、『置き去りにされた』という表現のほうが適切だ。
「ねぇ、犬がいないと寂しいでしょう?」
「いや…別に…」
「そんな。遠慮しなくていいからトム君置いてってあげる」
強引だったが、除雪が必要な今朝早くに起こされたのは結果的に良かった。

犬無しのお二人は、黒ラブの飼育相談だった。
しっかりとした考えを持っておられるがために、ハイパーでまだ訓練途中でもあり制御できないワンちゃんをカフェに連れてくるのを躊躇されていた。
訓練という視点から見れば、ドッグランやカフェという環境はせっかくの訓練を台無しにしかねないほど、誘惑が多くコントロールが難しい所である。
だから活用法としては二通りあると思っている。
ひとつは訓練の最終段階における見極めであり、ふたつは何度も通って経験を積み重ね良い方向に向かうよう学びの場とすることだ。
勿論、最初から犬に問題がなければ愛犬とのんびりくつろげる憩いの場でもあるが。

「遠慮されずにこの次はワンちゃんを連れてきてください」私はそう話し、カフェでの制限を付け加えると笑っておられた。
「攻撃性の強い犬はダメです。それと制御できるできないの問題ではなく、飼主が気にとめず迷惑行為を放任し、こちらが注意するか制御しようとすると『うちの子になんてことを!』と怒り出すような方も願い下げです」

たとえ今、問題があろうとも、愛犬との暮らしをより良いものにしたいと本気で考えておられる方には、こちらも本気で対応させていただくのが私たちのカフェだ。
 

本日のショートレッスンから 2005年02月19日(土)

  先週というのか今週というのか分からないが、とにかく先日の日曜日にこの欄でも紹介したMダックスのシェリーちゃん一家が、ショートレッスンにやってきてくれた。
ちょっと留守をした間にウンチまみれになって嫌がらせをしたり、来客の間吠えつづける問題を抱えたワンちゃんで、奥さんも犬が苦手な方だった。

先日の私のアドバイスは、トイレ・ベッド・飲み水の間を自由に行き来できる範囲でリードで繋留するということだった。
勿論細かいことは他にも話したが、基本はそれだった。
この1週間それを実践したという飼主の方は明るい笑顔で
「とても楽になりました。失敗もなくなったし時間があるときはフリーにして遊んでいます」と報告してくれた。
「あと数ヶ月はそのようにし、フリーにした時にしっかりしつけて、本当に信頼してフリーにできる時期を見極めてください」と私は話し、歩きのレッスンをご主人と共に行った。

驚きは他にもあった。
前回の来店時に犬を怖がっていた奥さんが、カフェで大きなゴールデンの頭を撫でることができたとレッスンから戻った時に話してくれた。
親が変化を決断し、犬が変化を受け入れ始めている。
恐らくそれはこの夫婦の障害を持つ子供にも少なからず良い影響を与えてくれるだろう。

この欄を書き終えてガーデンに出るとぶったまげた!
明日の日曜日、カフェがオープンできるか不安を感じるほどの大雪となっている。
「ごめんなさい」っていう札を玄関にぶら下げて休みにしたら?
Kは相変わらず呑気なことを言っている。
 


- Web Diary ver 1.26 -