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ケイのパピーウォーカーは羊が丘の農業試験場に勤務されていたSさんだった。謙虚で知的で穏やかで笑顔が絶えないご夫婦であり、すべての生き物を包み込むような優しさを備えておられた。生活の中心にケイがいて、溢れんばかりの愛情をケイに注いで下さった。協会に勤めて3年ほどでまだ十分な経験もなかった私はSさんとケイを担当しながらスーパーバイザーとしての知識と経験を身に付けていったようなものである。育てられたのはケイだけではなく私自身も同じである。
絞りたての牛乳をこぼさないように自宅まで咥えて運び、ご褒美としてそれを飲んでいたケイ。試験場の丘や野原を自由に駆け回りながら、多くの同僚の方にも可愛がられていた。ラブラドールとしては長毛の優しい手触りの犬だった。 あっという間の1年が過ぎ、さらに1年が過ぎてケイは盲導犬となりHさんとめぐり合うことになる。
「先生、私ね、結婚してから今までずぅっとお父さんのお世話になって生きてきたでしょ。何処へ行くにも手を引いてくれたし、何も出来なくても文句一つ言われなかった。そのお父さんが病気になってケイちゃんが来てくれた。だから私毎日病院に行って、今日はケイちゃんと何処そこへ行けた、今日はケイちゃんとこんなことしたって報告してるの。そしたらお父さん退院して家に帰るのが楽しみだって喜んでくれるの」。 パピーウォーカーSさんから受け継いだ愛情はケイを通じてHさんに届いていた。
道北の冬は時に激しい猛吹雪を呼ぶ。外出先から戻る頃、雪はHさんが通い慣れた道を閉ざしていた。何処に足を踏み入れても膝まで雪に埋もれてしまったという。 どれほど彷徨ったか分からないがHさんは「ケイちゃん、お家帰るよ、ドア探してよ」と言い続けた。ケイがぴたりと止まったのは、やはり深い雪の中だった。既に腰の辺りまで埋まっており「もうダメか」とHさんは思ったらしいが、手を出した先に何かがあり、それが自宅の玄関であることが分かった時からHさんはケイを絶対的に信じることにしたと教えてくれた。
それから12年、老犬となり協会に戻ったケイはパピーウォーカーのSさん夫婦が見守る中、静かに息を引き取った。 『瞳(め)となりて支えてくれたるケイ号の形残れる手のひらのうち』Hさんの短歌である。長年ケイと歩くうちにしっかり握り締めたハーネスが自分の手のひらの形を作っただけでなく、ケイと共に歩んだ様々な思い出を刻んでいるという惜別と感謝を込めた歌である。 しかし私にはケイの死を告げた時、静かに聞いてくれたHさんが受話器を置いた後ひとり号泣し、己が人生を振り返りながら「目が見えず、支えてくれた主人にも先立たれ、その私をさらに支えてくれたケイが何故私より先立たねばならないのか!」という慟哭の末に、静かに悟りを開いた天使の歌声のように聞こえるのである。
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