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その夜、夕張の炭鉱でHさんが振り下ろしたツルハシの先には不発のダイナマイトがあった。 吹き飛ばされた彼は、自分の首、腕、足が付いていることを確かめたのち、薄れゆく意識の中で二人の幼子のことを思っていたという。 次に意識を取り戻したのは救急車の中だったが、聞こえてきた言葉が彼の生命力に火をつけた。 「こんな時間に嫌だね。どうせ助からんだろうに」
彼は一命を取り留めた。 顎は砕かれ両眼とも失明していたが、ともかく彼は生きていた。そして良い担当医に恵まれた。 「Hさん、あんたこれから社会で生きていくなら、体中に刺さったこの炭を削ぎ落とさんきゃならん。真っ黒ではどうもならんだろ」と言って、毎日のようにワイヤーブラシで体中を擦ったという。この苦痛がHさんを失明の悲しみに留まらせることを許さなかった。 普通なら失明をそう簡単に受け入れることはできないが、彼には妻と幼子がいた。そして彼の戦いが始まった。
入院中に彼は点字の読み書きをマスターし、鍼灸師の資格をとるため函館に移り住んだ。通所のため盲導犬を持つことになり、そこで私と知り合った。5年間の勉強の後、彼は読み書きに不自由することなく、身の回りのことは何でも自分でこなし、函館の町を盲導犬と自由に歩き、立派な治療院を構え、釣りや競馬の趣味を楽しみ、周りの人からは「先生のお蔭で体が治った」と尊敬されている。
見る(映る)と言う機能は確かに目で行われている。しかし、真に見る(認識する)のは脳である。未開の民族に携帯電話を見せてもそれが何であるかわからないが、Hさんは触るだけでそれが携帯であるとわかり、自在に使いこなすことができる。キャベツの千切りなど、普通の主婦なら子供と話しながらできてしまうのだ。脳が覚えているのである。悲しむことはない、日本海に沈む夕日だって鮮明に頭に描くことができるし、自分の奥さんだって美しかったあの頃のままで想像できるのだ。
Hさんと酒を酌み交わした時、「なあ、長崎さん。今の俺の人生はあのツルハシのおかげだったかも知れない。どうもならん悪だった俺が、今、治療する喜びを感じ、先生と感謝されている。二人の子供も立派に育った。盲導犬ルナも助けてくれた。」しみじみ彼は言った。
彼は努力をしたが運も良かった。 そんな社会福祉じゃダメなんだ。「何で自分だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ」と悶々とする人たちは札幌市だけで年間100人はいる。その方たちの明日のためにシステムをしっかりしなければならないと思う。
それにしても、未だ釣りに出かけてHさんに勝ったことはない。それどころか、「あんた、なんぼ言ってもコツが分からんのか」まるで、「だから目明きはどうもならん」と言われているようでこっぱずかしいのである。
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