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今日午前の晴天でガーデンの北と西側が乾き始めたのでゼオライト380キロを投入した。 春が近づいたようでちょっとうれしくなり、雪もなく硬く綺麗になったその上を何度も歩き回った。
午後になって同じ場所を歩いた私は沈み込むように足を取られた。 実は乾いたと思われたのは表面だけで、午後になって凍土が解け始め土中がぬかるんでいたのだ。
毎年繰り返される春のガーデンの光景である。
『四季というのは、わんこのレッスンに似通った経路を辿るんだな』と、ふと思った。
『困ってるんです』との相談を受ける冬の時代があり、じっくり雪を融かすレッスンが始まる。 そのうちお利口になったように見える時期があるのだが、そこで満足してレッスンを受けなくなる飼い主がいる。 だが実はそれは表面が乾いたように見えただけで、凍土が解け始める時期でもある。
『本格的なレッスンはこれから』という意味合いを持つのだが、飼い主は以前よりよくなった現状にそれでいいと思って通わなくなってしまう。 そしてぬかるみに…
だが、私はそれでいいと思っている。
(以下泥酔状態)
犬のしつけや医療などほとんどの問題が改善に向かう範疇なのに仰々しく捉えられて、“ちゃんと最後まで対処しないのは飼い主・訓練者・獣医師としての資質に欠ける”という観念の方が先行してしまっているように思える。
それなりの方向性や治療薬を示すだけで改善し、後は自己治癒力でなんとかなるはずなのに、一部のそうでないケースをすべてに当てはめて対処しようという風潮に嫌気がさす。
過剰な当事者意識、クレーム対応、結果と経過を知りたがる探究心が結果的にどうでもよい処置にまで走り、飼い主の油断や責任を鈍化させてしまっているように思う。
犬との暮らしは内面的に緻密であり、外面的にもっと大雑把であってよい。(ちゃんと育てて楽しく暮らせても、生き物であるから病気になり老いて死ぬ) 犬と暮らすということを四季に例えるなら、始まりは冬であり最後は秋であると私は思う。 そして、四季は巡るが愛犬との暮らしは1回限りの春夏秋冬でもある。 だから心に残り、自分の人生に寄り添う大切なものなのだ。
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