From the North Country

何があっても人生は終わるんじゃない、変わるんだよ! 2012年05月11日(金)

  「私の友達なんです。どうか手助けをお願いします。」
そんな電話を以前カフェに通われ本州へ引っ越された方からいただいて、どれほどの時間/年月が経過しただろう?

話せば長くなるが、つまりは、五体満足で元気に働いていた女性が追突事故に遭い、下半身と上肢の一部が不随となって車椅子生活となった。
子供を二人抱えていたのにその女性は将来を悲観し死ぬことばかり考えていた。
せめて以後の生活の最低保証が受けられるはずの保険だったろうに、ドロドロとした保険会社の言い分がまかり通って最悪の判断しかなされなかった。

裁判を継続すれば展開があったはずなのに、精神的に疲れていた彼女はそれを放棄し落ち込み投げやりになってしまっていた。

そんな彼女が勇気をもってカフェに来店し、馴染のお客様と触れ合ううちに“こと”は急展開していった。

すなわちつい先日の9日、彼女のもとに介助犬がやってきた。

で、『よろしく!介助犬ファーガス(黒ラブ)です。』

新米だし、まだ若い(人も犬も)からくれぐれもよろしくお願いいたします。
何があっても面白そうだと私は思っている。

複雑なことはいっぱいあるけど、ともあれ庭先に花が咲いた。
庭先の花は可愛いし大事に育てなきゃね。
みんなよろしくね。
 

酔っぱらってこそ憂うこともある 2012年05月07日(月)

  東日本大震災とその後の原発による大人災からほぼ1年と2カ月が経とうとしている。

原発に関しての私の見解は明快だ。
1.人間がやることだし自然界も相手だから必ず事故は起こる。
2.人間社会では過去にも様々な悲惨で甚大な事故があり、被害者と遺族の苦悩は計り知れずいつも心が締め付けられる。
3.だが、火災や爆発は消し止めることができるし、竜巻で街が潰されても再建の希望を失うことはない。また津波で国土が流されても必ず復興できる土壌が残されていると誰しも信じることができる。
4.しかるに放射能に対しては消すことはできず、手の着けようがない現実が横たわっている。
5.よって、火事を消すがごとく技術と科学をまとってから原子力を活用すべきであり、それがない現代ではアンタッチャブルな毒りんごである。

さて、現実を直視してみよう。
第1原発の事故があり『それでもこの国の産業・経済ひいては国を守るために原発は絶対必要なんです』と、国や経済界・当該自治体・恩恵を受けた住民は声高に叫び、それに加えて純粋に『この国の発展に寄与してきた』と自負する原子力科学者や技術者の声が聞こえてきている。

それぞれに言い分があり、私たちにはこれまでの生活水準の維持と向上か、電力減少による『豊かな文化的生活からの撤退』と『経済的困窮』の踏絵が提示されている。

『それでもこの国の産業・経済ひいては国を守るために原発は絶対必要なんです』という役所・電力会社・経済界の『国と国民を憂う』真剣な訴えに心動かされそうになり、『本当にそうなんですか』とよろめきそうになる。

『じゃ、発送電を分離し電力の自由化を受け入れ、限定的に原発を再稼働し、将来的に原発をなくす方向を模索してください。』という案を出すと
『それは受け入れられない』とおっしゃる。
そこにドロドロした一面があるのだ。
『原発が必要なのは国家国民のためと仰っいましたよね。でも実は会社のためなんじゃないのですか?』という不信感である。

30数年前に過去の生活を捨て、原発の恩恵を受け、それでも精一杯の生活してこられた地元地域の皆さんには言葉を失う。
今の生活を失い、再び変化を強要され、しかも困窮を突きつけられる選択なのだから誰がイエスと言えよう?
『でもそんな寒村はこの国にはいくらでもあり、それぞれが安全な国を支えているのですよ』と安全地帯にいる私には言える資格などない。

福島第1のメルトダウンは東北の事故ではなく日本の事故であり、私たちは地元の方々におこがましくも共有すべき事案である。

原発地域への“危険手当”ともいえる手厚い金銭補助が長い歴史ある港町を変化させ漁業を変えてきた。
電力消費地域の都会では“電力不足”という強迫で料金への加算を受け入れていた。
だが実際は、国家のためにと起業していた会社は、私企業の営利を守ることに窮々とし、本分からそれ始めてしまっているように思う。
巧みに庶民を“つなぎ”のように練りこむ手法が悔しくてならない。

さて、国内最後の原発が北海道で止まった。
『さよなら原発』と祝したいところだが、現実がこれから始まる。

1.バブル崩壊の債権問題で見せしめにされ破たんした北海道拓殖銀行
2.食中毒によって企業破たんさせられた雪印は北海道の名門企業だった。同じような事件を起こした全国区赤福餅や不二家は潰されなかった
3.自治体破たんも数ある中から北海道の夕張市が見せしめにあった

国内原発停止の中、次は橋下市長率いる大阪で関西電力は大停電させたいところだろうが、それでは影響が大きすぎるはずだからまずは再び北海道で“試し打ち”をするかもしれない。

受けて立つ心構えだけはしておこう。
想定外は庶民の常識なのだから。
 

わんこもOKのお店がいい 2012年05月04日(金)

  降る時は降るもんですね。
『今日が定休日でよかった』なんて喜んでいたら、明日も明後日も明々後日も予報は雨マークに変わってがっかり。
せっかく駐車場の一本桜が咲いたのに、晴れ間の輝きを見ることなく散りそうで気の毒だ。
今年のGW後半は重苦しい気配が漂っている。

昨日は平岡公園・高速道路のパーキング・小樽での食事と散策を一緒に楽しんだアモだったが、今朝は外の雨を見て表情が冴えない。
「どっか連れてって行くとこないかなあ」と、私たちも曇りがちになる。

で、ふとKとの会話で盛り上がったのが
『私たちいろんなドッグカフェに行ったけど、本当に行きたいのは実はドッグカフェじゃなくて、わんこもOKという普通のお店の方だよね』という結論だった。

まとめてみると
1.わんこと一緒に入れるお店が欲しい
2.別に他犬と触れ合いたいわけではなく、美味しい飲食がしたいだけ
3.一般的にドッグカフェは“ドッグカフェ”というのが売りであって、出来合いのそれなり以下の飲食物しか提供しないし、何より臭いしうるさい
4.したがって我らのニーズはドッグカフェにあるのではなく、我らが欲する料理を愛犬同伴で食することができるお店である
ということだった。

そういう意味において我がカフェはいずれ“ドッグカフェ”というヘッドを返上し“わんこもOK”というスタイルに変貌する可能性を確認した。

悩まされるのが
1.わんこ育ての相談とレッスン
2.そのわんこと飼い主に修練の場を与え、その後の喜びと環境を共有し共に分かち合えるという目的をどうするかである。

本来両者は共存するべきであり、そのための想いを込めてドッグカフェを開店した経緯がある。

そして今思う。
わんこもOKの店は、飼い主に対し積極的にルールとマナーを求めて欲しい。
ドッグカフェはそんなお店に負けない料理と快適空間を競って欲しい。

『あそこはドッグカフェだけど美味しいっていう評判だよ。臭くもうるさくもないらしいから一度食べに行きたいね』

降り続く雨の中、そんなことをちょっと考えてみた。
 

釣りっていいな。 2012年04月28日(土)

  5月3日と4日は祝日ですが、定休日(木・金)に当たりますのでカフェはお休みさせていただきます。

さて、GW直前の昨日の定休日は好天に恵まれた。
「ごめん、釣りに行ってくる」

釣行は天候に左右されるし休日の込み合った時期に出掛けるのは嫌なので、私は突然言い出すことが多いのだが、そんな時でもKはいつも快く送り出してくれることに感謝している。
天気がいいのだから釣れない時間でもリラックスできるし、釣れ始めたら気分は最高に気持ちいい。

ホッケとカレイが程よく釣れた昨日は、リラックスと充実感を春の日差しを浴びながら満喫できた。
釣果だけが目的なら時合いは夜から明け方だったろうし、日中には足元に群れるホッケの浮き釣りをすれば相当の数をあげることができたはずだが、敢えてのんびりとする手法を選びそれでも満足してきた。

この時期に多いいわゆるローソクボッケと言われる20センチほどの小型のホッケは釣らず、30数センチ以上に狙いを定め、さらに春だからカレイも標的とした。しかも日中の投げ釣りという条件で…

釣れなくてもいいから試したい方法があといくつかあり楽しみは尽きない。
GWが終わった頃、今度は予め天気を調べ準備をしたうえで『釣りに行く』とKに予定を伝えられたらいいなと思っている。
その仕掛け作りを考えただけで楽しくなってしまった今夜だ。
 

犬じゃない!あなたのことを一緒に考えましょう 2012年04月23日(月)

  このところ新しいワンちゃんとの出会いが続いている。

お友達からのご紹介だったり、月刊誌O-tonやじゃらん別冊をご覧になった方、あるはこの欄をネットで知って…という方々が多く感謝しております。

正直に告白すれば、すべては無料の媒体であり、これらをうまく活用することで地味に宣伝しているというわけだ。
基本的に我がカフェでは有料広告は行っていない。
だって、小さなカフェだからこれだけでも十分なのです。

例えば月火限定の“無料お散歩チェック”を目的に、それぞれの日に3組のご来店があったとしよう。
それで私の体力は限界になってしまう。
体力というより気力、いや“気の力”が吸い取られてしまうと表現した方が正しいように感じる。

だって、相談に来られる方にはたくさんの悩みがあり現実があり、相棒のわんこにも相当なエネルギーがある。
その話を伺い、わんこと歩き、評価を説明し今後に向けてのことを真剣に話すと何かが吸い取られていく感覚があるのだ。

1.吠えてどうしようもないというわんこ。
凶暴なのかという不安もあったが、歩いてみたら気のいいわんこだった。
だがシープドッグ。
その犬種の気質が働いての吠えであり異常行動ではなかった。
『吠えさせるか、吠えるのを拒否するのか』という飼い主の意識と人間力の欠如の典型である。
つまり訓練されるのは犬ではなく飼い主であるということを、飼い主の心を傷つけることなく説明するのが難しい事例であった。

2.16か月齢のわんこ。
『何か影がありそうだな』と心の準備をしていたら、思い切って告白してくださった飼い主。
『1か月前に我が家に引き取ったわんこです。それまで山の中でケージに入れられて暮らしていたようです』
歩いてみると、とんでもない状況である。

『このままイヌという形で天寿を全うさせた方がいいのかな』と思った。つまり、人間に寄り添う感性を発達させた犬ではなく、野性としてのイヌのまま生涯を“飼育”した方がいいのかと…

だが飼い主さんは仰った。
「室内で一緒に平穏に暮らせるようになるでしょうか?」と。

私は無料お散歩チェックの距離を伸ばし、様々な刺激をそのわんこに与え、時に抱きしめ、じっと冷静になれる時間を与えた。
『今まで生きてきたこの子の16か月と同じだけの時間をかけての育て直しが必要でしょう。そのくらいの気持ちで取り組む覚悟があれば…』と私は応じた。

同じような課題を抱えた7か月齢のわんこを、10日ほどでリハビリしているが、飼い主にはやはり長い目で見ていただきたい。

シーザーミランのいう『犬にはリハビリを。飼い主には訓練を』という言葉が再び新鮮に聞こえ私の中へ入ってきた。
 

夢見る春だ 2012年04月20日(金)

  狂犬病予防接種の時期なのに急に春が来たものだから…

『接種後は安静に』という時間がモッタイナクて今回の定休日も病院行きを先送りにし、アモと春を楽しんできた。

昨日は半日長沼を満喫し、今日はタイヤ交換をしてもらってる間に公園でボール遊びに興じ、その後長い散歩をしていると「アモちゃーん!」と開店前のレストラン/パデリーナの窓からイタリア人ママのナナさんが手を振ってくれた。

さらに平岡公園を1時間ほど散策し、カフェに戻って冬タイヤを下してから恵庭の道の駅に車を止め、漁川沿いの遊歩道と一般道を2時間ほど歩き回った。

11歳になったアモだが『どこまでも付き合うぜ!』と勇ましい。

道の駅に戻り“えびすかぼちゃのソフトクリーム”を二人で分け合い、心地よい疲れを感じながらカフェに戻った。
私がKの愛車のタイヤ交換をしている間、アモは心地よく疲れた体を癒していたに違いない。

次は私とKが身体を癒す番であり、定休日最後の時間は里塚温泉でシメとなった。

昨日の長沼はよかった。
運河にたむろするハクチョウ、中空を飛行するアオサギ、水芭蕉・座禅草・福寿草…
長沼のカフェからの眺望は最高で、右から小樽の○○崎(ど忘れ)・手稲の連峰・手前に藻岩山・焼山・無意根・恵庭岳・風不死(たぶん間違い)そして左端には苫小牧を過ぎた辺りで樽前山の見事に緩やかな傾斜があった。

山並みを見て、どの角度からでもその名前が分かるようになりたいと夢を抱いた。
そこに行ってみたいと思った。
雑草ではなく野鳥で括るのでもない生き物たちの名前と生態をもっと知りたいと思った。
美しさと感動を感じるために、まずは地元での名前を知りたいとこれまで以上に強く思った。
すべては個人で感動し社会に遺すためである。

予防接種は定休日以外にしよう。
休みの時間はやっぱ、昨日今日みたいに使いたい。
 

アモ11歳 2012年04月18日(水)

  今日、我が家の愛犬アモが11歳の誕生日を迎えた。

数多くのレトリーバーを見てきた私の目には、外見上は年よりもやや若く見え、機能的には『まあ、それなりかな』と映っている。

ともあれ元気で今日を迎えられたことに感謝。

さて今夜は、いつ何時アモに何があってもいいようにこれまでのプロフィールをまとめておこうと思う。

1.2001年4月18日生まれ
2.父シェル(ラブ)×母スウィート(ゴールデン)
3.同胎犬8頭。アモ・アスター・アクセル・アトレーユ(以上オス)アスカ・アラン・アミー・アリエス(以上メス)
4.盲導犬候補生として生まれ、Y家で1年間パピーウォーキングを受けるも、吠える性質のためリジェクト(優しく言い換えればキャリアチェンジ)となる。当時盲導犬協会での担当は私だった。

5.海の街、(当時の)瀬棚町の名士N家(私の友人)に入籍し、犬生において至福の時を過ごすも、寵愛を受けた末体重は43キロにもなり、それでもボール投げによる回収を得意としていた。
6.2005年11月N氏が急逝し、しばらく我が家で預かることになった。
7.我が家の愛犬スーが死んでから1年余り、次のわんこを飼う予定はなかったが、こんな流れの中でKはアモを引き取ってもいいと言い出した。
8.2006年1月12日。我が家にアモがやってきたが、カフェのソファーには飛び乗るわ、インターフォンに反応して吠えながら階段を駆け下りるわ、車に乗れば『ハーハー』と息遣いが荒くなり大変な思いをした。
9.おまけに2か月後、太った体でボールを追い回した過去のツケが回ったのか、普段の散歩途中に3月には左後肢・7月には右後肢の前十字靭帯を断裂し手術を繰り返した。
10.でもその3か月後には現在と同じ素晴らしい看板犬アモに育て上げていたように思う。

11.そして現在、体重はしばらく測ってないが33〜34キロ辺りか、ひょっとしたらこのところの溺愛もあってちょっと増えているかもしれない。
12.老犬に多く見られるイボやしこりなどの所見はなく、食欲旺盛・快便で顔色や被毛にも問題はない。
13.どこへ行くにも一緒で迷惑をかけないわんこの基礎を築いたつもりである・

たぶん健康で幸せに暮らしていると思っている。

2階で暮らすアモだからつまずきや転落が最大の危機である。
車の乗り降りの負担もあろう。
それぞれに配慮し、不注意による突然の死や障害を防ぎたいと思っている。

大災害の時でも人に寄り添い、人の迷惑にならないようなわんこに育てたつもりでいる。

階段には滑り止めと色のコントラストをつけた。
でもアモの老い・病・それと死は必ずいずれ訪れる。
普通なら私よりも速いはずと勝手に思っている。

そんときゃ・・・

長く、そしてたくさんのわんこと暮らし続けた私の経験と美学(死生観)がある。
すべては織り込み済み。想定外も織り込み済み。
お互い残された時間が迫ってきているけど、今日を生きようぜ。

けど、あんまり想定外の長生きはするなよ。
ほどほどでないと僕だってついていけないからね。
 

『イヌは考えない』なんてことは絶対ない。少なくともカフェの犬は考えている。 2012年04月15日(日)

  このところメディアへの露出が続いたせいか初めてご来店されるお客様がおられる。
『うちの子も仲間に入れて!』という自信たっぷりな飼い主よりも、それぞれに小さな問題を抱えておられる方がほとんどであることをうれしく思う。

『ご覧のように吠えるんです。何とかなりませんか?』とか『ちゃんと育てたくて…』という問題意識を持ち、今後のことに目を向けられているから私もついついお手伝いしたくなる。
だって、『犬なんだから吠えて当然でしょ』とか『ここは(いわゆる)ドッグカフェでしょ』なんて、まるで無法地帯のように利用されるのは真っ平御免のカフェですから…

勇ましく吠えたてるわんこに対し、ちょっと抱きあげて『ダメでしょ』と制するも吠え続けるわんこを尻目に食事を続ける飼い主さんは、わんこの騒音に慣れ過ぎてしまい他人がどんな迷惑を受けているかにまで考えが及ばなくなってしまっているようだ。
人間の幼児教育と犬育てを混同してしまっているようでどこかおかしい。

そんな無頓着な飼い主と、『ごめんなさい』という顔の飼い主さんを見分けることから私の仕事は始まるからそれなりに緊張する。

それにしてもカフェのわんこ達は素晴らしいと今日改めて感じる瞬間があった。

初めて来店の吠えるわんこ。
抱きかかえる飼い主。
『ごめんなさい。うちのわんこ何とかなりませんか』という飼い主さんの表情をヤマ勘で感じ取った私は、リードを受け取りカフェのわんこ達の前に連れ出した。

吠えるわんこを軽く制御するとそのわんこは吠えるのをやめ、カフェのわんこ達が優しいエネルギーを送り続けるのを感じ始めてくれた。
すると、穏やかになっていく初来店のわんこの姿を見た。

『やっぱりな』と感じた。
私のやり方の基本はきっと間違っていない。
何十年も犬と関わり、それでも迷い続けていることこそが私の真骨頂である。

今日はうまくいった。
あの犬にはこう対処したらこうなった。
この犬にはどう対処しよう?

日々繰り返される難問に『もうちょっと向き合おうかな』とモチベーションを高めた今日だった。
 

ガーデン開き 2012年04月13日(金)

  ご不自由とご迷惑をおかけしましたが、明日14日(土)からカフェのガーデンは全開です!

曇天だった今日の夕方、明日からの晴天を見越してゼオライト500キロ程度をガーデンに投入した。
おそらく地下10数センチ以下はまだ凍土だから明日も完璧ではないだろうが、わんこたちが遊ぶには充分な環境を提供できると自負しております。

カフェの厨房の第一線から引退したKは冬の間スープ作りに腐心していたが、今夜はスムージーとシェイクの中間あたりの作品作りに励んでいる。
イチゴをふんだんに使った“生スムーシェイク?”を試食/試飲させてもらったが、2作品目はすこぶる美味かった。

明日から数日は提供できるらしい。
原材料は市販価格にしたら700円は下らないのに、手間賃抜きのワンコインで販売するとKは言い張っている。
いわゆる市場調査とガーデン開きのお祝いを兼ねたつもりなのだろう。
忌憚なきご感想をお聞かせください。

ともあれここに宣言いたします。
明日からのガーデンは春のガーデンであります。
 

泥酔者の戯言でも真意を読み取れることがあるのではないかと思いアップしてみた 2012年04月10日(火)

  今日午前の晴天でガーデンの北と西側が乾き始めたのでゼオライト380キロを投入した。
春が近づいたようでちょっとうれしくなり、雪もなく硬く綺麗になったその上を何度も歩き回った。

午後になって同じ場所を歩いた私は沈み込むように足を取られた。
実は乾いたと思われたのは表面だけで、午後になって凍土が解け始め土中がぬかるんでいたのだ。

毎年繰り返される春のガーデンの光景である。

『四季というのは、わんこのレッスンに似通った経路を辿るんだな』と、ふと思った。

『困ってるんです』との相談を受ける冬の時代があり、じっくり雪を融かすレッスンが始まる。
そのうちお利口になったように見える時期があるのだが、そこで満足してレッスンを受けなくなる飼い主がいる。
だが実はそれは表面が乾いたように見えただけで、凍土が解け始める時期でもある。

『本格的なレッスンはこれから』という意味合いを持つのだが、飼い主は以前よりよくなった現状にそれでいいと思って通わなくなってしまう。
そしてぬかるみに…

だが、私はそれでいいと思っている。

(以下泥酔状態)

犬のしつけや医療などほとんどの問題が改善に向かう範疇なのに仰々しく捉えられて、“ちゃんと最後まで対処しないのは飼い主・訓練者・獣医師としての資質に欠ける”という観念の方が先行してしまっているように思える。

それなりの方向性や治療薬を示すだけで改善し、後は自己治癒力でなんとかなるはずなのに、一部のそうでないケースをすべてに当てはめて対処しようという風潮に嫌気がさす。

過剰な当事者意識、クレーム対応、結果と経過を知りたがる探究心が結果的にどうでもよい処置にまで走り、飼い主の油断や責任を鈍化させてしまっているように思う。

犬との暮らしは内面的に緻密であり、外面的にもっと大雑把であってよい。(ちゃんと育てて楽しく暮らせても、生き物であるから病気になり老いて死ぬ)
犬と暮らすということを四季に例えるなら、始まりは冬であり最後は秋であると私は思う。
そして、四季は巡るが愛犬との暮らしは1回限りの春夏秋冬でもある。
だから心に残り、自分の人生に寄り添う大切なものなのだ。
 


- Web Diary ver 1.26 -