From the North Country

もも逝く 2010年06月15日(火)

  「突然のことで受け入れられないし、まだ気持ちの整理がつかないので“少しの間”皆さんには知らせないで下さい」

実は11日の早朝、洞爺湖でのキャンプ中にMさんから電話があり「昨日(10日(木))もも(ラブラドール)が死んじゃった」と悲しみの報告を受けていた。

ももは15歳という高齢ではあったが、老化以外の健康上の問題はなく、『老犬介護』の準備と覚悟をM夫妻は整える途上だった。
だからこそ私も元気なももを前に「ひょいと見ると大往生してた、なんていいね」と茶化したり、今後ももに起き得ることについてのアドバイスをしたりしていた。

そんな始まりの時期だったものだから、いくら15歳とは言えどもM夫妻のショックは大きかったのだろう。
「我が家の歴史をももはずっと見てきたんだよねぇ」との言葉が重い。
愛犬スーを亡くした時のKと私もまさに同様の悲しみを味わったから心情を察することができる。

でもね、Mさんの言った“少しの間”をこれ以上伸ばすことは苦しい。
今日もカフェでももの話しが出ていました。
聞こえないふりをしたり話題を変えること、何より黙っているのが息苦しいです。
だからMさん、ごめんなさい。
今夜報告します。

スタッフやMさんと懇意にされておられる皆さんに話せないことが辛かった日々だったが、どうかご拝察の上お許し下さい。

ももの冥福とMさんへの温かい言葉をお願いいたします。
 

日本補助犬協会が国家公安委員会の指定を受けた 2010年06月12日(土)

  予定通りウッドデッキを塗りなおし、乾くまでの2日間洞爺湖キャンプを楽しんできた。

陽射しはそこそこで強くはなく、ほぼ無風の暑くもない最高のコンディションだった。
9歳になったアモを心配していたが、キャンプとなるとアドレナリン全開のアモは例年と変わらない喜びを爆裂させていた。

『無理が利くのも今年が最後かもしれないね』
Kと私はアモの限界も視野に入れながら、存分に遊ばせた。
満足できる時が流れ、いつも通り心地よい余韻にまどろみながら帰宅した。
アモは後肢を引きずっていたが『楽しかった、また今度行くぞ』といい顔をしている。

札幌は洞爺湖とは違う夏の暑さに襲われたようで、カフェの植物がたった1日半でへこたれてしまっていた。
とにかく水を与え回復を願った。

そんな夜、嬉しい電話がかかってきた。
「長崎さん!やりました!日本で10番目の盲導犬訓練施設として国家公安委員会の指定を受けました!」
日本補助犬協会施設長のPさんの声は上ずっていた。

私が現役の頃から懇意にし、盲導犬の訓練について意見交換をしていた女性達で、当時関東の大きな施設に属していた彼女達だったが、様々な経緯があって独自の道を進みだしたのが9年前だった。

以来、地道な努力を積み重ね、施設を整備しながら僅かながらも盲導犬・聴導犬・介助犬を育成してきた。

ノウハウも経験も豊かな訓練士がいながら、しかし公安委員会の指定がなかなか受けられず、訓練した盲導犬は指定を受けた他協会で“盲導犬としての認定を受ける”という屈辱をこれまで味わってきた。

諸外国にあるようないい加減な盲導犬訓練施設が日本にはびこらないように、過去において我々は厳格な基準を国家公安委員会に求めてきたのだが、彼女達は見事にその基準をクリアし、日本で10番目の訓練施設として指定を得たのである。

電話口で訓練士のSが感慨深げに言った。
『9年かかりました。最初に9年もかかると分かっていたらきっと頑張れなかったでしょう』との言葉が印象深かった。
くしくもアモの年齢と同じである。
おめでとう!これまでよく頑張った。
一息入れたらこれからの本番に向けてしっかり踏み出して欲しい。
 

わくわくする季節がやって来た 2010年06月07日(月)

  札幌テレビ塔とほぼ同じ標高にあるというカフェ周辺では、ようやく春爛漫の峠を越えたあたりの季節感がある。
チューリップはそろそろ終わり、ライラックが今頃満開を迎えている。
枝豆が発芽し、トマトに黄色い花が咲き始めた。
珍しくエゾハルゼミがけたたましく鳴き、イタヤカエデの花弁の周囲では例年ならたまにしか見ない虫が大量発生している。

本当に久しぶりに続く穏やかな天気のおかげで、なんだか春と初夏が乱舞しているかのようだ。

ここ数年は、6月であっても猛暑になったりしていたのに、今年は晴れた日でも20数度と控え目で、夜は肌寒い。
本来の気候に戻ったことを安堵すべきなのに、警戒してしまうのは何故だろう?

余計な心配はさておき、穏やかな今を楽しもう。
毎日何回も枝豆横丁を覗き込んで成長を観察しながら美味しいビールが飲める日を思い浮かべ、トマトの苗が強風に倒されずカフェのサラダに添えられる日を待ち望み、ガーデンのフェンス沿いのビオラは『外見よりも、より長く咲かせる』ことだけに目標を絞り、駐車場の花壇はKの思い通りになるよう協力しよう。

定休日にお泊り犬がいなくて晴れていれば、ガーデンのウッドデッキを塗りなおし、乾くまでの時間を家族3人でキャンプに出かけられたらいい。

去年せっかく買ったオーディオがあるのだから、ゆっくり音楽を聴きたいし、お気に入りのレコードはCDにダビングする計画もあった。
ソプラノサックスもそろそろ息を通さないとせっかくいい感じになっていた“C”の音が出なくなってしまう。
そうだ!今度のキャンプに持って行くのもいい。
どうせ誰もいない空間だから恥を気にせず存分に吹ける。

暖かいっていいな。
遠慮していたことや思い留めていたことが解け出すようにやりたくなってしまうしできるような気になる。
 

『ドッグ乱』にひとまずピリオド 2010年06月05日(土)

  『ドッグ乱』をキーワードにして何回か書いてきた。
読み返して『思いを伝えきれたか?』と自らに問うてみると答えはノーであった。

・主張に怒りが含まれているから反発が生まれるに決まってる
・具体的そうでも結局のところ良く分からないから信用できない
・好きな犬と暮らしているだけのことなのに私の指摘は仰々しい
・犬との暮らしの多様性を認めながら、固定観念による主張を繰り返しているのがウザイ

読み返すだけでそう感じる自分がいる。

だが一方で、『共感よりも反感に備える』そんな自分のエネルギーを感じてそちらの方へ突き動かされていることに驚きと喜びがある。

弁が立つ人間ではないし、主張すれば反感を買うような表現になってしまう欠点があるけど、これまでと現在においてつきあっている犬たちとその家族の姿が私に勇気を与えてくれている。

テーマがあれば元気なうちはまたコメントしたい。
 

ドッグ乱とは言わせないために 2010年06月02日(水)

  日付けが変わった頃に一旦酔いが冷め、再びちびりとやりながら書き始めている。

ドッグランが『ドッグ乱』と揶揄される最も大きな理由は、@無知でありAKYでありBモンスターである飼い主がいるからである。と夕べ書き、
(飼い主が)どんな意識を持って犬と暮らすかは多様であり自由であるが、そのための制限があることを知らない飼い主があまりにも多すぎる。と書いた。

今夜、その先をできれば最後まで書ければいいと思いながらキーを叩いている。

@無知である、ということ。
・経緯はどうあれ、ドッグランで先に遊んでいた犬のグループがいたとしたら、後から入った犬は興味と警戒の対象となり、その振る舞いによっては噛み殺されることがある。
・とりわけ、悲鳴を上げパニックに陥ったような振る舞いをした犬は、周囲の犬を興奮させて巻き込み、よりひどい目に遭う。
・去勢をしていないオス犬は礼儀正しく遊べるはずはなく、一時的にそのように見えても時間の問題でトラブルは必ず起こる。
・『犬の物欲』が大喧嘩に発展する大きな要素であり、ボール投げが主なきっかけとなる。

『最初はトラぶるかも知れないけど、力関係がはっきりすれば犬たちはちゃんと秩序を回復する』などと平気で言い放つ飼い主が多い。
冗談じゃない。
私達は野生の王国のようなイヌ社会を楽しみたいのではない。
どんなに小さくても、どんなに弱くても、それぞれの犬には彼らを愛する飼い主がいる。
私達は愛犬と共に、平穏に人間社会で暮らしたいのであり、相手がある場合イヌとしての振る舞いをしないよう日頃から育てしつけているのである。

AKYな飼い主
・他犬にまとわりつき匂いを嗅ぐ犬。『大丈夫ですよ。うちの子は喧嘩したりしませんから』という飼い主。
相手の犬が怯えているのか、それとも噛む犬か、なんて考えもせず、自分の犬のことしか見ていない。
・『だめよ、だめよ、嫌がってるでしょ』と口では言いながら、フレキシブルリードを伸ばして相手の犬へ接近させる飼い主。
・親しくもない犬にマウントする愛犬を見て『楽しそうね』とにこにこする飼い主。

奔放に暮らすのも悪くないが、相手がある時には『おもんばかる』という根本が抜け落ちてしまうと化け物にしか見えない。

Bモンスター

これ以上、正直に書くとカフェに新たなお客様が寄り付かなくなってしまう。(もう充分にそんなことを書いている?気分を害さず訪ねてくださいね)

ともあれ、ドッグランには『みんなが楽しく遊べる場所があればいいね』との思いが詰まっている。

ドッグランをドッグ乱にしないためには、
1.ちゃんとしたしつけをする
2.マナーについて再度考えてみる
3.去勢してない犬や、問題が予想される場合は貸切にして利用する

そして何より、イヌ社会ではなく飼い主と犬の社会であることを一度深く考えてみるのがいい。
カフェに来るとそれが分かりますよ。

“イヌ社会”では後から来た犬を取り囲み、場合によっては噛み殺すことがあるけど、“犬社会”では先に遊んでいた犬の飼い主が愛犬を一旦リードで繋ぎ、後から不安そうに入ってきた犬と冷静にゆっくり知り合いになる時間を作る配慮をします。
小さな配慮だけど大きな一歩なのですよ。
 

ドッグ乱の続き 2010年06月01日(火)

  ドッグランが『ドッグ乱』と揶揄される最も大きな理由は、@無知でありAKYでありBモンスターである飼い主がいるからである。
モンスター流に言い換えれば『ちゃんとした啓発もせず、犬文化が定着もしていないのに、同じ空間に集まる場所を作った側に責任がある』ということになる。

そもそもドッグランという発想が生まれた経緯を想像してみよう。

・飼い犬が増える中、放し飼いの犬が人を噛んだりすることがあった。
・リードをつけた犬でも吠え掛かったり、排泄物を放置する飼い主が後を絶たず、公園などでは『犬の散歩禁止』という看板が多くなった。
・それでも愛犬家は特別な場所を見つけ、早朝や夕方遅くなど、他人に迷惑をかけない工夫をしながら集まり『もっと自由に気楽に遊べる空間があればいいよね』と語り合った。
・『でも、しつけができていない犬やマナーの悪い飼い主もいるから誰でもっていうのはどうかな?』
・『何言ってるの!私達が中心になって専門家の指導を受けて、ちゃんとしたドッグランを作って実践すれば、そこから飼い主の意識も変わり、日本にもちゃんとした犬文化が出来上がるかもしれないじゃない!』
・『凄い!しつけがちゃんとできて飼い主のマナーもいい犬が街を歩いて、何処へでも入れて、犬同士が出会ってもさりげなく挨拶する社会なんて夢みたい!』

まさにそんな人々の発想からドッグランは始まった。

ただ、多くの制度が、最初は『人々の理想』からの発想だったのに、法的・科学的・現実的な問題に直面するに従い、当初の情熱がかき消されていく。

ドッグランもその道筋にはまった。

・入場できるのは“狂犬病注射済・蓄犬登録・ワクチン接種”といった形式にこだわるようになる。
・トラブルは『飼い主同士で解決を』となっても、結局はボランティアで活動していた人は責任を追求され『夢見ていたこととは違う現実』に愕然とする。

さて、私なりの考えを述べよう。

犬の飼い方に対する意識の多様性があること認めるべきであり、飼い主にはそのスタンスをはっきりする義務がある。
たとえば
・室内家庭犬
・子供をとりたい
・ショードッグ
・使役犬
・アジリティー
・外飼いの番犬

どんな意識を持って犬と暮らすかは多様であり自由である。
だが、そのための制限があることを知らない飼い主があまりにも多すぎるのだ。

もし明日以降酔いが冷めたら冒頭の
@無知であり
AKYであり
Bモンスターである
ことに対する悲しみを書いてみたい。
 

まずは管理者と社会が杓子定規というかいい加減 2010年05月30日(日)

  ワールドカップを前にした今夜のイングランド代表との親善試合。
『ナイスゲーム!』と叫びたいところだが、善戦しても負けるのは今夜が最後ぞよ。
本番ではどうか今夜のようなゲームはものにしてくれ!
心からの健闘を祈り、ひたすら応援する。

で、『ドッグランはドッグ乱?』のテーマに戻ろう。

愛犬同伴となれば、最近は何処でも『狂犬病の注射済票とワクチン接種証明書』の提示が求められることが多い。
既にこの時点で“犬を知らない人間が”“お役所的な対応”で保身に走っている姿が伺われる。

狂犬病の予防接種は法律で義務付けられており、それは蓄犬登録に結びつくし、狂犬病ウィルスの防疫において重要な役割があるので管理体制を今後も維持すべきであると私は思っている。

だが、狂犬病以外のワクチン接種には義務付けはなく、極端な表現をすれば愛犬家として『これとこれは予防の為に当然接種しておかないとヤバイよね』という範疇のものである。
例えばジステンパーとかパルボが代表例であろう。

で、どういうことかというと、狂犬病は“犬から犬へ”“犬から人へ”感染し、発病してしまえば治療法がない病気ということに対し、いわゆる『ワクチン接種』という範疇の類は犬同士の伝染病であるということ。

つまり『狂犬病ワクチン注射済票』は日本社会にとって重要な意味を成し、不特定多数の犬が集まる場所において確認することの意義があるにしても、混合ワクチンにおいては、『過去のどこかで接種してますよね?もし接種していなければあなたの愛犬が危険にさらされるかもしれませんよ』というスタンスの違いがあるということだ。

杓子定規に混合ワクチン接種証明書の提示を必ず求めるようなお店や施設は???と思う。

私なら『当然、何度か接種してますよね。もし接種していないなら、ここにいる犬たちではなくあなたの愛犬が危険にさらされるのですよ。』と言うだろう。
実際のところ混合ワクチン未接種と思われる犬の来店はないが、『ワクチン接種は危険を含むので我が家の愛犬は毎年接種するようなことはしていません』という考えには大賛成である。

だってあなた、毎年何らかの追加ワクチン接種を受けていますか?
なんで犬だけ必要なの?
 

ドッグランはドッグ乱? 2010年05月28日(金)

  先日の朝のテレビ番組で、そんな表現で『ドッグランでのトラブル増加』の問題を取り上げていた。

問題とされていたのは
1.犬同士の血肉のトラブル
2.『そのうち決着がつけば落ち着くだろう』とでも考えているのか、飼い主は本を読んだり携帯をいじって知らん振り。
3.『うちの子に怪我をさせた』と、当り屋まがいに金銭を要求する悪徳人間。

『おいおい、本当かぁ?』と疑いたくなるものばかりである。

全国各地でじんわりと増えているドッグラン。

良心的な愛犬家にとっては待ち望んでいたシステムだろう。
あちこちの公園や広場から犬が排除されつつあるなかで、ドッグランはオアシスのような存在でもある。

だが私は、以前からこの欄でも書いているように真の愛犬家なら『安易にドッグランに行ってはならない。』という主張をしている。

日本人の“飼い犬”に対する意識を変えない限り、“あそこ”はとても危険で有害な空間であるからだ。

そんな小さな叫びを長年繰り返してきたが、何時だったか私は全面降伏の白旗を掲げた。
身の毛もよだつ生体販売を行うペットショップは、もはや経済のシステムに組み込まれているし、行政も獣医も取り込まれてしまって変える事ができないような社会になっているからだ。

以後、私たちはカフェで仲間たちと安全で安心できる小さな社会を形成し、時折気に入ってくださった仲間が加わりながら、人と犬との最高品質の暮らしを享受している。

だが、私は諦めたわけではないし発信を捨ててもいない。

明日から数回に分けて、愛犬との暮らし方のスタンダードを、『ドッグラン』をキーワードにして書いてみようと思う。
 

見て学ぼうーマニュアル化の負の部分ー 2010年05月25日(火)

  私の年代が働き盛りの頃に、上から叩かれ下からつつかれながら奮闘したひとつの仕事がある。
それが“マニュアル化・システム化・組織化”であり、多くの企業が年功序列から能力主義へと舵を切り始めていた時代である。

自らは『見て覚えろ、身体で覚えろ、自分で考えろ』で育った世代であり、後にその苦労が生かされているのを感じていたのに、『マニュアル化によって無駄な時間を省き、実務に使える人間をより早く養成せよ。もっとコストと効率という経済観念を持て!』との指令が下り、新人からは『マニュアルはないのですか?遅れてますね。じゃぁ、私は何をすればいいのですか?』…そんな時代であった。

『パソコン』というにはあまりにも面倒で、『ベーシック』という割にはそれなりに学ばなければなければならないコンピューターが出始めた中で、文書作成に特化した“ワードプロセッサー”が誕生した時代でもあった。

今思えばおもちゃのようなパソコンに奮闘し、大枚をはたいてワープロを買い求め、自分の知識をマニュアル化しながら『これでいいのだろうか?』と迷いながらキーボードを叩いていたのである。

『今だって同じようなことをしているじゃないか』と思われるかもしれないが、当時と今では全くの別物なのだ。
変わらないのは左右一本ずつの指でキーを叩き、今ではそれがとても速いスピードになっていることくらいである。

20年以上が過ぎ、今の若者がマニュアルでなく実践によって吸収した技術に喜びとやりがいを感じていることをある本を通じて知った。
企業はまだ青色吐息の時代であるが、いずれ過去の年功序列の意義を認め、ちょっと変化させた制度へと舵を切ることになるだろう。

書きながら考えた。
こんな社会構造に少し遅れながらも『同様なことがペット業界を通じて私達を誘導してきたなあ』って。
まるで家庭菜園でミニトマトを育てるがごときマニュアルで犬育てを簡便に伝えて繁盛するショップがあれば、それを援護するかのような雑誌や獣医師がいて、おかしな理論で科学したふりしている。

一方で、『どこか違う』『何か違う』
そう感じているかどうかは別にして、生身の人間が真摯に愛犬と向かい合う姿を私は期待を込めてカフェで応援している。
 

衰えの始まりを記しておく 2010年05月22日(土)

  4月に9歳を迎えてから我が家の愛犬アモに衰えを感じ始めている。
普段の動きでは変わりないのだが、いつもの散歩コースの最後の方でそれが感じられるのだ。

自宅近くまで来た時の“心もち遅い歩き”が二日続いたことから私は気に留めるようになった。
ある場所でチラッチラっとアディショナルコースである12丁目側に視線を送るものだから、『まだ帰りたくない。もっと歩こうよ』という意思表示だと思い、延長コースをとることが増えている。

だが、やはりどこか違う。

アモ自身もそれを感じていると思う。
『気持ちは前向きなのに、後半に疲れが出る。』
『ちょっと気分を変えれば以前のように最後まで爽快な散歩ができるはず。』
アモの脳はそんな指令を出しているのだろう。

犬の年齢を人間に置き換えた肉体年齢についてはいろいろあるが
1歳までの1年は人間でいえば18年
2歳まではプラス6年
3歳以降はプラス4年
なんていうのが一般的だ。
でも最近の寿命の延びを勘案すると中・大型犬において3歳以降はプラス5年か6年というのが妥当な換算ではなかろうかと私は思う。

ラブ/ゴールデンクラスが12歳まで生きれば人間男子なら74歳、女子なら84歳。
15歳のラブラドールもたまにいるから『89or102歳の誕生日おめでとう』なんて、実情にあってるし仮に死んでしまっても幾分なりとも慰めの言葉になる。

で、アモに当てはめると59歳or66歳!
あいつそんなにオヤジか?

でもまあ、肉体年齢がそんなにいってるのだったら現状を受け入れられるし、気持ちはいつも前向きで若く見えるっていうのがいい。
これは愛犬と暮らす人間の力になるじゃないですか。

老体同士いたわりあいながら、アモの前向きな気力を見習わせていただこう。
 


- Web Diary ver 1.26 -