From the North Country

ドッグ乱とは言わせないために 2010年06月02日(水)

  日付けが変わった頃に一旦酔いが冷め、再びちびりとやりながら書き始めている。

ドッグランが『ドッグ乱』と揶揄される最も大きな理由は、@無知でありAKYでありBモンスターである飼い主がいるからである。と夕べ書き、
(飼い主が)どんな意識を持って犬と暮らすかは多様であり自由であるが、そのための制限があることを知らない飼い主があまりにも多すぎる。と書いた。

今夜、その先をできれば最後まで書ければいいと思いながらキーを叩いている。

@無知である、ということ。
・経緯はどうあれ、ドッグランで先に遊んでいた犬のグループがいたとしたら、後から入った犬は興味と警戒の対象となり、その振る舞いによっては噛み殺されることがある。
・とりわけ、悲鳴を上げパニックに陥ったような振る舞いをした犬は、周囲の犬を興奮させて巻き込み、よりひどい目に遭う。
・去勢をしていないオス犬は礼儀正しく遊べるはずはなく、一時的にそのように見えても時間の問題でトラブルは必ず起こる。
・『犬の物欲』が大喧嘩に発展する大きな要素であり、ボール投げが主なきっかけとなる。

『最初はトラぶるかも知れないけど、力関係がはっきりすれば犬たちはちゃんと秩序を回復する』などと平気で言い放つ飼い主が多い。
冗談じゃない。
私達は野生の王国のようなイヌ社会を楽しみたいのではない。
どんなに小さくても、どんなに弱くても、それぞれの犬には彼らを愛する飼い主がいる。
私達は愛犬と共に、平穏に人間社会で暮らしたいのであり、相手がある場合イヌとしての振る舞いをしないよう日頃から育てしつけているのである。

AKYな飼い主
・他犬にまとわりつき匂いを嗅ぐ犬。『大丈夫ですよ。うちの子は喧嘩したりしませんから』という飼い主。
相手の犬が怯えているのか、それとも噛む犬か、なんて考えもせず、自分の犬のことしか見ていない。
・『だめよ、だめよ、嫌がってるでしょ』と口では言いながら、フレキシブルリードを伸ばして相手の犬へ接近させる飼い主。
・親しくもない犬にマウントする愛犬を見て『楽しそうね』とにこにこする飼い主。

奔放に暮らすのも悪くないが、相手がある時には『おもんばかる』という根本が抜け落ちてしまうと化け物にしか見えない。

Bモンスター

これ以上、正直に書くとカフェに新たなお客様が寄り付かなくなってしまう。(もう充分にそんなことを書いている?気分を害さず訪ねてくださいね)

ともあれ、ドッグランには『みんなが楽しく遊べる場所があればいいね』との思いが詰まっている。

ドッグランをドッグ乱にしないためには、
1.ちゃんとしたしつけをする
2.マナーについて再度考えてみる
3.去勢してない犬や、問題が予想される場合は貸切にして利用する

そして何より、イヌ社会ではなく飼い主と犬の社会であることを一度深く考えてみるのがいい。
カフェに来るとそれが分かりますよ。

“イヌ社会”では後から来た犬を取り囲み、場合によっては噛み殺すことがあるけど、“犬社会”では先に遊んでいた犬の飼い主が愛犬を一旦リードで繋ぎ、後から不安そうに入ってきた犬と冷静にゆっくり知り合いになる時間を作る配慮をします。
小さな配慮だけど大きな一歩なのですよ。
 

ドッグ乱の続き 2010年06月01日(火)

  ドッグランが『ドッグ乱』と揶揄される最も大きな理由は、@無知でありAKYでありBモンスターである飼い主がいるからである。
モンスター流に言い換えれば『ちゃんとした啓発もせず、犬文化が定着もしていないのに、同じ空間に集まる場所を作った側に責任がある』ということになる。

そもそもドッグランという発想が生まれた経緯を想像してみよう。

・飼い犬が増える中、放し飼いの犬が人を噛んだりすることがあった。
・リードをつけた犬でも吠え掛かったり、排泄物を放置する飼い主が後を絶たず、公園などでは『犬の散歩禁止』という看板が多くなった。
・それでも愛犬家は特別な場所を見つけ、早朝や夕方遅くなど、他人に迷惑をかけない工夫をしながら集まり『もっと自由に気楽に遊べる空間があればいいよね』と語り合った。
・『でも、しつけができていない犬やマナーの悪い飼い主もいるから誰でもっていうのはどうかな?』
・『何言ってるの!私達が中心になって専門家の指導を受けて、ちゃんとしたドッグランを作って実践すれば、そこから飼い主の意識も変わり、日本にもちゃんとした犬文化が出来上がるかもしれないじゃない!』
・『凄い!しつけがちゃんとできて飼い主のマナーもいい犬が街を歩いて、何処へでも入れて、犬同士が出会ってもさりげなく挨拶する社会なんて夢みたい!』

まさにそんな人々の発想からドッグランは始まった。

ただ、多くの制度が、最初は『人々の理想』からの発想だったのに、法的・科学的・現実的な問題に直面するに従い、当初の情熱がかき消されていく。

ドッグランもその道筋にはまった。

・入場できるのは“狂犬病注射済・蓄犬登録・ワクチン接種”といった形式にこだわるようになる。
・トラブルは『飼い主同士で解決を』となっても、結局はボランティアで活動していた人は責任を追求され『夢見ていたこととは違う現実』に愕然とする。

さて、私なりの考えを述べよう。

犬の飼い方に対する意識の多様性があること認めるべきであり、飼い主にはそのスタンスをはっきりする義務がある。
たとえば
・室内家庭犬
・子供をとりたい
・ショードッグ
・使役犬
・アジリティー
・外飼いの番犬

どんな意識を持って犬と暮らすかは多様であり自由である。
だが、そのための制限があることを知らない飼い主があまりにも多すぎるのだ。

もし明日以降酔いが冷めたら冒頭の
@無知であり
AKYであり
Bモンスターである
ことに対する悲しみを書いてみたい。
 

まずは管理者と社会が杓子定規というかいい加減 2010年05月30日(日)

  ワールドカップを前にした今夜のイングランド代表との親善試合。
『ナイスゲーム!』と叫びたいところだが、善戦しても負けるのは今夜が最後ぞよ。
本番ではどうか今夜のようなゲームはものにしてくれ!
心からの健闘を祈り、ひたすら応援する。

で、『ドッグランはドッグ乱?』のテーマに戻ろう。

愛犬同伴となれば、最近は何処でも『狂犬病の注射済票とワクチン接種証明書』の提示が求められることが多い。
既にこの時点で“犬を知らない人間が”“お役所的な対応”で保身に走っている姿が伺われる。

狂犬病の予防接種は法律で義務付けられており、それは蓄犬登録に結びつくし、狂犬病ウィルスの防疫において重要な役割があるので管理体制を今後も維持すべきであると私は思っている。

だが、狂犬病以外のワクチン接種には義務付けはなく、極端な表現をすれば愛犬家として『これとこれは予防の為に当然接種しておかないとヤバイよね』という範疇のものである。
例えばジステンパーとかパルボが代表例であろう。

で、どういうことかというと、狂犬病は“犬から犬へ”“犬から人へ”感染し、発病してしまえば治療法がない病気ということに対し、いわゆる『ワクチン接種』という範疇の類は犬同士の伝染病であるということ。

つまり『狂犬病ワクチン注射済票』は日本社会にとって重要な意味を成し、不特定多数の犬が集まる場所において確認することの意義があるにしても、混合ワクチンにおいては、『過去のどこかで接種してますよね?もし接種していなければあなたの愛犬が危険にさらされるかもしれませんよ』というスタンスの違いがあるということだ。

杓子定規に混合ワクチン接種証明書の提示を必ず求めるようなお店や施設は???と思う。

私なら『当然、何度か接種してますよね。もし接種していないなら、ここにいる犬たちではなくあなたの愛犬が危険にさらされるのですよ。』と言うだろう。
実際のところ混合ワクチン未接種と思われる犬の来店はないが、『ワクチン接種は危険を含むので我が家の愛犬は毎年接種するようなことはしていません』という考えには大賛成である。

だってあなた、毎年何らかの追加ワクチン接種を受けていますか?
なんで犬だけ必要なの?
 

ドッグランはドッグ乱? 2010年05月28日(金)

  先日の朝のテレビ番組で、そんな表現で『ドッグランでのトラブル増加』の問題を取り上げていた。

問題とされていたのは
1.犬同士の血肉のトラブル
2.『そのうち決着がつけば落ち着くだろう』とでも考えているのか、飼い主は本を読んだり携帯をいじって知らん振り。
3.『うちの子に怪我をさせた』と、当り屋まがいに金銭を要求する悪徳人間。

『おいおい、本当かぁ?』と疑いたくなるものばかりである。

全国各地でじんわりと増えているドッグラン。

良心的な愛犬家にとっては待ち望んでいたシステムだろう。
あちこちの公園や広場から犬が排除されつつあるなかで、ドッグランはオアシスのような存在でもある。

だが私は、以前からこの欄でも書いているように真の愛犬家なら『安易にドッグランに行ってはならない。』という主張をしている。

日本人の“飼い犬”に対する意識を変えない限り、“あそこ”はとても危険で有害な空間であるからだ。

そんな小さな叫びを長年繰り返してきたが、何時だったか私は全面降伏の白旗を掲げた。
身の毛もよだつ生体販売を行うペットショップは、もはや経済のシステムに組み込まれているし、行政も獣医も取り込まれてしまって変える事ができないような社会になっているからだ。

以後、私たちはカフェで仲間たちと安全で安心できる小さな社会を形成し、時折気に入ってくださった仲間が加わりながら、人と犬との最高品質の暮らしを享受している。

だが、私は諦めたわけではないし発信を捨ててもいない。

明日から数回に分けて、愛犬との暮らし方のスタンダードを、『ドッグラン』をキーワードにして書いてみようと思う。
 

見て学ぼうーマニュアル化の負の部分ー 2010年05月25日(火)

  私の年代が働き盛りの頃に、上から叩かれ下からつつかれながら奮闘したひとつの仕事がある。
それが“マニュアル化・システム化・組織化”であり、多くの企業が年功序列から能力主義へと舵を切り始めていた時代である。

自らは『見て覚えろ、身体で覚えろ、自分で考えろ』で育った世代であり、後にその苦労が生かされているのを感じていたのに、『マニュアル化によって無駄な時間を省き、実務に使える人間をより早く養成せよ。もっとコストと効率という経済観念を持て!』との指令が下り、新人からは『マニュアルはないのですか?遅れてますね。じゃぁ、私は何をすればいいのですか?』…そんな時代であった。

『パソコン』というにはあまりにも面倒で、『ベーシック』という割にはそれなりに学ばなければなければならないコンピューターが出始めた中で、文書作成に特化した“ワードプロセッサー”が誕生した時代でもあった。

今思えばおもちゃのようなパソコンに奮闘し、大枚をはたいてワープロを買い求め、自分の知識をマニュアル化しながら『これでいいのだろうか?』と迷いながらキーボードを叩いていたのである。

『今だって同じようなことをしているじゃないか』と思われるかもしれないが、当時と今では全くの別物なのだ。
変わらないのは左右一本ずつの指でキーを叩き、今ではそれがとても速いスピードになっていることくらいである。

20年以上が過ぎ、今の若者がマニュアルでなく実践によって吸収した技術に喜びとやりがいを感じていることをある本を通じて知った。
企業はまだ青色吐息の時代であるが、いずれ過去の年功序列の意義を認め、ちょっと変化させた制度へと舵を切ることになるだろう。

書きながら考えた。
こんな社会構造に少し遅れながらも『同様なことがペット業界を通じて私達を誘導してきたなあ』って。
まるで家庭菜園でミニトマトを育てるがごときマニュアルで犬育てを簡便に伝えて繁盛するショップがあれば、それを援護するかのような雑誌や獣医師がいて、おかしな理論で科学したふりしている。

一方で、『どこか違う』『何か違う』
そう感じているかどうかは別にして、生身の人間が真摯に愛犬と向かい合う姿を私は期待を込めてカフェで応援している。
 

衰えの始まりを記しておく 2010年05月22日(土)

  4月に9歳を迎えてから我が家の愛犬アモに衰えを感じ始めている。
普段の動きでは変わりないのだが、いつもの散歩コースの最後の方でそれが感じられるのだ。

自宅近くまで来た時の“心もち遅い歩き”が二日続いたことから私は気に留めるようになった。
ある場所でチラッチラっとアディショナルコースである12丁目側に視線を送るものだから、『まだ帰りたくない。もっと歩こうよ』という意思表示だと思い、延長コースをとることが増えている。

だが、やはりどこか違う。

アモ自身もそれを感じていると思う。
『気持ちは前向きなのに、後半に疲れが出る。』
『ちょっと気分を変えれば以前のように最後まで爽快な散歩ができるはず。』
アモの脳はそんな指令を出しているのだろう。

犬の年齢を人間に置き換えた肉体年齢についてはいろいろあるが
1歳までの1年は人間でいえば18年
2歳まではプラス6年
3歳以降はプラス4年
なんていうのが一般的だ。
でも最近の寿命の延びを勘案すると中・大型犬において3歳以降はプラス5年か6年というのが妥当な換算ではなかろうかと私は思う。

ラブ/ゴールデンクラスが12歳まで生きれば人間男子なら74歳、女子なら84歳。
15歳のラブラドールもたまにいるから『89or102歳の誕生日おめでとう』なんて、実情にあってるし仮に死んでしまっても幾分なりとも慰めの言葉になる。

で、アモに当てはめると59歳or66歳!
あいつそんなにオヤジか?

でもまあ、肉体年齢がそんなにいってるのだったら現状を受け入れられるし、気持ちはいつも前向きで若く見えるっていうのがいい。
これは愛犬と暮らす人間の力になるじゃないですか。

老体同士いたわりあいながら、アモの前向きな気力を見習わせていただこう。
 

オオジシギを見かけた3日間 2010年05月18日(火)

  ジュージーギャージャーーージュジュジュジュギシギシーーー
昨日までの3日間、夕方の散歩の時に聞こえる声と羽音は大空高く、まるで戦闘機みたいな飛行を繰り返す鳥から放たれる音響であった。

最後にギシギシって聞こえたので反射的に私はシギの仲間か?と直感した。

見上げると、初日は1羽で水平飛行から急降下を繰り返していたので『空中の昆虫でも捕獲しているのか?』と思っていた。
二日目に2羽が飛行している姿を見て、『これはオスがメスに求愛しているな』と感じ、三日目の2羽の飛行を見てメロメロになった一羽と自信に満ち溢れたもう一羽の雄姿を感じた。

『北海道野鳥図鑑』で調べようと毎日思っていたのに帰宅するたび忘れてしまい、最終日にようやくチェックした。
迷わず探した“シギ”の項目には“水辺の鳥”が並び、ここは水辺がない地域なので『私の直感が外れた』と落胆しかけた時に見つけたのが“オオジシギ”
原野や草地でも過ごし激しいディスプレイフライトの羽音から『雷シギ』の異名をとる、とありその姿や急降下した時に見えた長い嘴から間違いなかった。

「無料お散歩チェックは予約が必要でしょうか?」
そんな電話の翌日にやって来たのが、1歳のハスキーだった。
「とにかくハイパーで大変なんです」
相談どおり、カフェに入ってきたハスキーはアドレナリン全開状態で、オオジシギの急降下を思わせるディスプレイウォーキングをしていた。

例によってちょこちょこっと私と歩き、歩行チェックと制御反応を確かめてカフェに戻った頃には、恋が成就したオオジシギのように落ちつき静かになっていた。

札幌では温暖な日が数日続き、桜が散り始め梅が満開を迎えている。
 

託されたテナーサックス 2010年05月15日(土)

  12日付の朝日で気になる記事を見つけた。

3年前に財政破綻し再建途上にある夕張で、市内3中学校を統合した夕張中学校が今年開校した。
東京23区より広い市域にただ1校の中学としてスタートしたのである。
カフェからは車で1時間ほどの距離だ。

そこの生徒達が『吹奏楽をやりたい!』と10数人集まったのに『楽器が全然足りない』と訴えていた。
当然夕張市に頼ることはできない、という。

中学に入ったらテニスラケットを握るはずだった私はひょんなことから入学式の日にアルトサックスを抱えさせられた。
以後10年間ひたすら吹奏楽にのめり込んだ過去が私にはある。

話が展開し過ぎて恐縮だが、4年前に死んだ眞知子(我が家の愛犬アモのパピーウォーカーでもあった友人)から私はテナーサックスを託されていた。
眞知子の旦那Y(女系家族の中で愛されたほんと優しい男。私の酒飲み仲間)はその前年に倒れ、今なお意識がないまま眠り続けているのだが、託されたテナーサックスは彼の愛器であった。

「長崎さんに吹いてもらったら絶対喜ぶよ」
眞知子からそう言われて託された楽器である。
だが、私の寝室に置いたものの、奏でるのは年に1〜2回しかなかった。

新聞を読んだ夜、私は久しぶりにテナーサックスに息を通した。
音程は完璧だったが低音のCがうまく出ない。
タンポ(重要な一部品)のチェックをしたが問題は無さそうで、そのまま吹き続けると問題は解決され、終いにはその音色がとても気に入ってしまった。

『吹き続けてこそ、この音が出る』
『このテナーサックスに再び命が宿るチャンスが来たのだ』と私は感じた。

中学生だから初めてサックスに出会うはずだ。
ろくな音も出せないに違いない。
雑な扱いをしてリード(音を出すための吹き口の竹の一種)を割ってしまうことだろう。

『40年以上前に私がやったあの頃と同じことを、この楽器と格闘する生徒が現れるかもしれない』
そう考えたら、私はニカーッとした顔になり、眞知子から託されたこのテナーは夕張中学校へ届けるべきだと心に決めた。

「すっごい!ピッカピカに光ってますね。ありがとうございます。で、これは貸して?それともいただけるんですか?」と興奮気味の先生。

差し上げますよ。存分に使ってくださいね。

夢みたいなことをひとつ言わせていただければ、意識のないまま今も眠り続けているYが、このテナーサックスの音色を聞いていつの日か目覚めてくれる奇跡が起きること、かな。
 

怠け者 2010年05月08日(土)

  この欄の更新が滞っている理由は二つ。

ひとつは春眠。
とにかくよく寝る。
いくら寝てもまだ眠る。
そのうち永遠に眠れるのだから、残された時間を少しでも多く起きてた方がいいはずなのに寝てしまう。

今日、駐車場のエゾヤマザクラが一輪開花し、カフェにも遅い春が来た。
若い犬たちは黄色い胃液を吐きながら躍動しているのに、その自然の摂理に反比例するように私は寝る。

この時期の犬たちの胃液嘔吐は『毎日同じパターンで食事を与えることが、よい飼い主の努めだと思っていたら大間違いですぞ!』という警鐘である。
年がら年中同じ食べ物を同じ量だけ与える『統計的管理飼育』を念頭においている業者や獣医のアドバイスに従うより、時にはバラつきがあっても平均して体調を整えてあげる食事を提供するのがよいのだ。

つまりこの季節は旨いものをいつもより多く食わせる時期なのだ。

ただ、旨い酒をいつもと同じように飲んでいる私が『春眠』と言い訳をして眠り続け、実は酒に弱くなっている事実(つまりは老化)を隠そうとしているケースもあるので、愛犬の年齢によってはそこら辺りを意識した管理が飼い主には求められる。

“春眠”が次へのステップの眠りだとしたら、差し詰め今の私の眠りは“惰眠”ということだろうか。
幸いにもひどく飲みすぎた翌朝、吐く胃液は今のところどす黒くはなく、時折血が混じっているものの綺麗な黄色をしている。

二つ目の理由は
ああ、今夜はやめとこ。
あんなに寝たのにまた眠くなってきた。
 

『来い!出せ!』っていう叫びより自然な振る舞いができるように 2010年05月01日(土)

  春の到来が遅かった北海道も今日の午後遅くになってからようやくそれらしくなってきた。

レトリーバーみたいに活動的なカフェの常連さんは待ち焦がれたキャンプに出かけており、今日のカフェではのんびりとした時間が流れた。

そんな午後、生後半年になったばかりのテンテン(サモエド×オーシー)と飼い主の家族が遊んでいる。
投げてもらったロープを咥えてテンテンは上機嫌なのだが、よく見ると飼い主のそばまで行ってはUターンする動きばかりで、ちっとも身体を擦り付けたりしていない。
つまり『捕まえるつもりだろうがそうはいかないぞ!』とテンテンは経験上のアピールをしている。

遊びの中で“決め事”を教えるチャンスなのに見逃してしまっているのが残念。
『どうせ呼んでも捕まらないし、咥えたものを盗られまいと逃げ回るだけ』
『人が追いかけ犬が逃げ回ること、それこそが犬の遊び』っておかしな転化をしてしまっている飼い主はかなり多い。

『いつでも呼び戻せて咥えたものを取り出せる』という関係なら“他愛もない遊び”であるが、もし『そうじゃない』としたら“ひどくまずい行為”と言わなければならない。
なぜなら『おまえには敵わないよ』と飼い主が宣言し、尚且つその意識を犬に対して強化しているからである。

小さなことだけど“根源を成す標本”みたいな生活習慣であり、愛犬との関係におけるバロメーターとも言える。

じゃぁロープを投げて犬が咥えた途端『来い!出せ!』って躍起になって教え込もうとするのがいいかと言えば、そっちの光景を見ているほうが気の毒になってしまう。
『来い!出せ!って叫びながら犬を追い回す飼い主の姿を見ると、最初から投げるなよな』って思ってしまうからだ。

『ニワトリが先か卵が先か』みたいな発想でいえば『犬は生来咥えたものを盗られまいとする』けど、本来『呼んだら来る』ものである。
だけど、どうでもいい時に呼ばれたり、呼ばれた時に行った意義を感じない結果が積み重なって“行かない”という行動が形成されるのだ。
勿論、訓練を行う人間は『おまえの意見を聞いているのではなく呼ばれたら来い』を教えることはできるが、犬の意識というのはそういう経験において形成されたものだ。

愛犬の様子をちゃんと見たうえで『おいで』って言う。『ええ?なになに?』と注目する愛犬に“呼ばれた意義”がちゃんと伝わる結果を残す。
咥えたものは『それはダメ!』と一喝するか『いいねぇ』と喜びを共有するふりをする。

愛犬が咥えてもよい物を持ってきたら、最初は捕まえることも取り出すこともせず、ニコニコするか身体をタッチする程度に留めておくと、咥えたままの愛犬と遊べるようになるのが普通だ。

自然な振る舞いが身についた犬は『ちょっとちょうだい』って言えば咥えたものを出すし、その後にポンと放り投げてさらに咥えさせたままにしておけば以後の執着と主従ゲーム感も薄れていく。

そんな基本的な育て方をして素直に育てから『お前の事情はともかく呼ばれた時はすぐに来い。』という段階へと発展していけるのである。

難しいことだろうが私にしてみれば当たり前のこと。
要は、犬のことをとやかく言う前に自分のスタンスを見つめ直すことのほうが大切だし簡単なことなのだ。

はてさてキャンプに出かけた犬たちと飼い主はどんなエピソードを持ち帰ってくれることだろうか?
 


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