From the North Country

再びの訃報 2010年04月26日(月)

  いい顔してましたよ、チェス君。

最後のお見舞いのつもりでバナナを携えて訪ねたY宅。
呼び鈴を押しても返答はなく、電話をしても留守電になってしまった。
仕方なく車を出して角を曲がるとYさんの車が戻ってきた。

後部ドアを開けると、まだ暖かいチェス/ハスキーが穏やかな顔をして横たわっていた。
赤く目を腫らしたYご夫妻だったが、本当なら先月の27日に愛犬の突然の死を迎えていたはずだったのが1ヶ月の介護を全うし、死を受け入れる準備が整った末の現実に直面したご夫妻は立派な姿を示してくれた。
お見舞いのバナナがお供えになってしまったのが切ない。

あんなに安全で安心できるハスキーを私は知らない。
暖かで柔らかなチェスの身体を撫ぜながら『おまえは本当に純真なわんこだったな』と私は祈りを捧げた。

色こそ違えどチェスにそっくりな縫いぐるみをYさんから頂いた。
明日からカフェのどこかに置いて時々ニコッと思い出したいと思う。

先週もサリー/ゴールデンが逝ってしまった。

カフェが開業して7年を迎えているのだから仕方のない葬送である。

君達を忘れない。

私の人生において、逝ってしまった犬たちがあまりにも多いからいつもというわけにはいかないけれど、飼い主との会話をする都度、君達が蘇り具体的な思い出が蘇る。
飼い主の想いはどれほどであるかは推し量るしかない。

ただただ冥福をお祈りし、実のところいろんな場面で出会っている過去の犬たちとの喜びをこれからも密かに大切にしていきたい。

君達を忘れない。
 

訃報 2010年04月21日(水)

  先ほど連絡があり13時過ぎにYご夫妻の愛犬サリーちゃん(ゴールデン)が永眠したとのことです。
昨年から病気療養中でしたが、静かな最期を迎えたようです。
ご夫婦で看取られたことがせめてもの慰めであり、サリーにとってもなによりだったと思います。

Y夫妻には心からのお悔やみを申し上げますとともにサリーちゃんの冥福をカフェスタッフそして仲間たちみんながお祈りしております。
 

想像してみよう 2010年04月12日(月)

  ベリーグッドな天気。
最新情報に写っているレオンベルガー/ジェニーは、まるで雪上に立っているように見えるが、違いますぞ。
完璧なコンディションのガーデンである。
4ヶ月ぶりに雪のない世界が戻ってきた。

この時期、どういうわけだか浮き浮きするんだよなぁ。
今日から10月中旬までの半年間に愛犬と共に体験するであろういろんなことを頭に思い浮かべるだけで…

ドライブ・ペンションなんかでのお泊り・キャンプ…
ただのお出かけだって楽しいし、野菜・果物・海産物の直売所を巡って食べ歩くのもいい。

とりわけわくわくするのはキャンプかなぁ。
我が家のはちょっと変わっているけど…

朝はできれば近くのホテルの朝食を予約し、昼は地元の食堂で地域の味を発見し、夕暮れ時に温泉に浸かり、その後の夕食はやっぱ現地の新鮮な食材を焼いて食べるキャンプがいい。(ニンニクたっぷりの餃子やすき焼きなんかもするけど)

それ以外の時間は、陽光の中で我が家の愛犬アモが嬉々として駆け回り、それに付き合いながらもKは寝そべって本を読み、白鳥と戯れ、私はスケッチしたり釣りをしたり今年は安物だけどちょっとは頑丈そうなビニールボートを買って沖にも出てみたい。
もちろん夕暮れ前には3人で長い散歩に出かける。

今日、カフェ仲間が持参した2010年版のアウトドアのカタログを見て、語り合っただけでそんなこと想像をし、酔いが回った夜にはすでに1回目のキャンプを体験した気分になっている。

日本海に沈む夕日
燃えるような紅葉
頭を垂れる黄金色の稲穂
人はいつでも安上がりに幸せになれるものだ。
過去の体験による映像を様々に加工しながら空想と現実の間を行き来できるのである。

見る・体験するって大切なことだと思う。
ランタンの灯りの下で逝ってしまった愛犬や仲間とも普通に出会い会話できるなんて想像したらたまらないね。
夢見心地って秋の夜長だけじゃないようだ。
 

若鶏の半身揚げ 2010年04月08日(木)

  12日前に『今夜が峠で仮に超えても数日』という告知を聞き、『あの世で会おう』と惜別の言葉を贈ったはずのハスキー/チェスが昨日カフェにやって来た。
どれほどみんな嬉しかったことか!

実はあの翌日カフェの閉店後に、私達は何も食べないというチェスに秘策を携えて見舞っていた。

若鶏の半身揚げ。
私の膝・腰を維持するために通っている(旧名)里塚温泉の名物でKの好物の一品である。
訳あって鶏肉を食べない私なのだが、Kによると『本来の味をひきだし、あっさりしてとても美味』との評だし、その香りは確かにいいものだった。

私達が訪ねた際のチェスは伏せたまま表情をこわばらせていた。
何日も食べてないのに一切れの半身揚げにも目を背けた。
その姿は死を迎える準備を整えつつある動物のようだった。
Kが身体をさすり、何やら語り始めてしばらくするとチェスは仕方無さそうに一口食べ、自らの具合をチェックするように間を置いた。

ところが、もう一切れ与えると今度は美味しそうに食べ、ついには立ち上がって私のところにやって来て『もっと食わせろ』とせがむようになった。

今度は私達が間を置き、具合が悪くならないか、嘔吐する気配はないか、を確かめるようになった。

普通なら決して良いことではないと思うし、健康な愛犬の飼い主にはマネをして欲しくないのだが、今生の別れとなるはずだったチェスとY夫妻にはこれが効いたようだ。

チェスに生気が蘇り、Y夫妻は“犬に与えて良い物・良くない物”という枠から解放され、チェスが食べる物を次々と発見するようになった。
「焼き芋の皮を喜んで食べるんですから」とか
「ケン○ッキーはスパイシー過ぎるから、中のほうのほんのちょっとだけしかダメですね」などなど…

幼犬用の高カロリーフードにトッピングしながら食事管理をした結果、一時は末期時にありがちなタール状の便だったチェスのウンチは良好な状態に戻ったという。

先週、私達が再び若鶏の半身揚げを差し入れた時、チェスの表情はちょっとやつれてはいたが明るかった。
「天気もいいんだし、外に出たがっているようだから散歩しなさい。」と、また危険で変なアドバイスをした。

I獣医からY夫妻に告知されたチェスの状況は深刻なものである。
だからこそ最後をどう過ごすのか、と考える時間があって欲しいと私は思う。

これはこれまでに数多くの盲導犬関係の犬たちを看取ってきた私なりの結論である。

A.具合が悪い→入院・手術→死んだ
B.高齢あるいは相当悪いのに手術→犬は寝たきり・人は看護→死んだ(あるいは一時的に回復した後に死んでしまい記憶に残るのは看護のこと)
この二つが最も悔いの残る結果であると私は思う。

Aにおいては突然のことであり、自分のミスや病気の症状を事前に見つけられなかった不注意それに手術の危険性を把握していなかったことを嘆き、Bでは、自ら覚悟を決められず他者に依存した挙句、最後に至るまでの時間を有意義に過ごせなかったという後悔が付きまとうのだ。

きっと大切な話をしているのに2時を過ぎて酔いがぐるぐる回りながら書いている。

ええっと、なんだっけ?
そうそう、チェスが手術してたら仮に退院できても回復に時間がかかり寝たきりが続き、食も進まず今日という日があったか分からない。
先ず絶対に昨日カフェに来てガーデンの匂いをチェックする姿は見られなかったはずだ。
だが、手術していたら生命体として何日か長生きできる可能性もあるはずである。

我が家の愛犬アモには前十字靭帯断裂による手術を受けさせたが、あの時のアモは4歳であり、術後の未来があった。
まもなく9歳を迎えるアモがいつの日か生と死に直面した時、私達は冷静に判断するだろう。

どうもがいても、愛犬は犬である。
普通なら先に逝くし、若くして対応できない病もあろう。
それをどう認識しどのような決断を飼い主が下すかは多様であろうが、我がカフェにはそれを支える仲間がいる。
結論ではなく支えあう言葉がこれからも交差することだろうが、私とKは『チェスを散歩に連れ出しなさい』とはっきり言う。
その先で倒れたなら仕方がない。
時間が経てばお互いが納得できる結果だと思う。
 

一足先に春を迎えたガーデンと下界の放置便 2010年04月05日(月)

  いつもの散歩コースにある大きな公園は、黒いほこりまみれの残雪と雪解け水による巨大な貯水池と化していた。
見渡せば何処の空き地も同じような状態である。

で、我らがガーデン。
何処よりも綺麗に仕上がってますぞ。
ゼオライトを投入したので晴れた時にはその白さで眩しいくらいだし、冬の間に溜まった犬たちの抜け毛はカラスが巣作りの為にせっせと運んでくれている。

“暮らしやすい家庭犬”に育てたいと心から思っている飼い主の皆さんなら、たとえ今の愛犬に問題があったとしても共に解決してゆく環境がそこそこ整っております。
ご活用下さい。

さて、雪解け時期といえば“放置便”が目立ち、この欄でも散々苦言と怒りを過去にぶちまけてきたところである。
お困りの地域もあることだろう。
だが、カフェがある里塚緑ヶ丘周辺の放置便は着実に減り続けていて、そのことに少なからずカフェが貢献したと思っている。

お泊り犬と散歩をする時、便をしたら袋に手を通して拾い上げる。
その姿を誰かが見ていてマネをし『これはいい!』と続けてくれる。
それが広まり、これまでに放置したり片手にスコップを持って路端に投げ捨てる人が減るようになった。
殆どの人が便の始末をするようになると、放置する飼い主はそれまでの“無頓着”から、うしろめたさを感じるようになる。
ふと気づくと、過去にはたくさんあった放置便だったのが、『これは自分の犬の便』と識別するようになり、『他の飼い主はどうしているのか』を意識し、“袋で処理”する方法を知るようになるのだ。

今では当たり前の光景だが、実はこれは『コロンブスの卵』なのである。
1970年初頭の頃は盲導犬ですら、リードを放して『シーシーベンベンしてこい!』と犬を放して草むらで勝手に排泄をさせていた時代だ。

日本で初めての盲導犬を訓練した塩屋賢一さんから、お茶屋さんだったか豆屋さんだったか忘れたが、『商品をつかむ時に袋に手を通す姿を見て、盲導犬の便の処理方法を思いついた』と伺ったことがある。
些細なことだがそれが盲導犬を社会に認知させるひとつの要素になったと私は思っている。

『放置便』という言葉には飼い主の意識が反映されている。
便の処理を日常的にきちんと行っている飼い主の愛犬は、自分の排泄物を処理する飼い主を引っ張ることなく黙って観察している。

犬にだってわかる作法を行わない飼い主は、きっと“いい飼い主”ではない。
 

犬における本流の動物行動心理学が台頭することを望む 2010年04月03日(土)

  ガーデン状況は本日北側半分が使用可能となり、明日(日曜)の午後にはほぼ全面が春を迎えられると思っている。
多少の不安があるとすれば、土中の凍結がどの程度残っているかということで、それによっては完全回復とまでいかない場合がある。
月曜と火曜が雨の予報なので来週末からが万全であろうと控え目に宣言しておこう。

さて、先日の定休日に過去に録画したビデオを見た。

一軒家の庭にいる犬と道路を隔てたマンションに暮らす犬とのトラブルをどう解決したかを問うクイズ場面だった。

マンションから出てきた犬を庭にいる犬が何度も襲うので、相談を受けた訓練士が動物行動心理学を用いて解決したのだが、『どのようにしたのでしょうか?』と問われていた。

映像では、訓練士が何日か庭の犬の行動を観察して、一発で解決したといい、勿論私もまもなく笑い飛ばせる答えにたどり着いた。

で、番組でのその答えは、マンションの入り口にあるゴミ箱に、庭の犬が放尿していたのを見た訓練士は、それが庭の犬のテリトリーの象徴であることを察知し、そのゴミ箱を道路の反対側つまり庭の犬側の歩道に移動したのである。

『それ以降庭の犬はマンションの犬を襲わなくなりました』と司会者。
『ほー!』と感嘆する出演者。

私の意見を述べよう。

この解答に対して『ほー!』っと同調された方は要注意ですぞ!

その理由は
“動物行動心理学”という本来とても大切で深く研究し応用されなければならない学問を、安っぽく利用したイヌの訓練士や似非研究者に騙され、妙に納得している日本社会が厳として存在していることを嘆くからだ。

上記の考え方が、野生動物、例えばニホンザルやエゾシカの被害に苦しむ地域において応用されるならひとまず『よし』とするが、人間社会で暮らす犬に対してもっともらしく評価されるなら私は我慢ならない。

だって、問題のマンションの犬は襲われなくなったかもしれないが、移動したゴミ箱が置かれた庭の犬側の歩道を歩く犬がこれから襲われることになるじゃないですか!

その場合、きっとこのインチキ訓練士はゴミ箱を道路向かいの別のマンションの入り口に移動して問題解決し、延々と報酬を得続けるだろう。

まるで日本の官僚政治みたい。
“苦情の声が大きかったひとつの問題は解決した”かもしれないが、“根本解決には至らない”というのは結構似てるでしょ。

私ならテリトリーを主張する大きな要素であるオス犬に去勢を行って、内から込み上げてくる本能的な要素を取り除いた上で
『てめぇー、人間社会でこれからも生きていきてぇーなら、二度とこんなことをするんじゃねぇーぞ!』と、ぶちカマスことだろう。

今流行の愛犬雑誌に書かれている、『動物行動心理学に基づいた』という表現や、中途半端な知識の獣医師が行うもっともらしい行動療法にはこんな落とし穴があることを知っておこう。

そもそも自ら努力をせず安易な方法で解決したがる人間がいるからこのような商売をはびこらせているのだ。

犬を飼うということは魂と魂のぶつかりあいであり、だからこそ生きることの原点を知り、愛犬と心から繋がった人間は離れられず、しかも悲しい限界を体験し、決断を促された後に最後に立会い、そして満たされ成長するのである。
 

正直なガーデン情報 2010年03月30日(火)

  今日の午前中まで快適に使用できたガーデンだったが、残念ながらそこまで。
雪解けが進み、午後からのコンディションは悪化の一途であった。
明日31日は水曜日で、普段はそれなりに賑やかなご来店を頂いておりますが、正直、明日のご来店はおやめになったほうがよろしいかと思う。
とりわけ外で遊びたがるわんこは、本人は楽しいだろうけれど飼い主が悲しむことになると予想される。

でも、まあ、カフェは営業するので『よろしく』って書くのもなんかなあ…。
覚悟を決めた飼い主様のご来店を心よりお待ちしております。(駐車場は乾いているのでそちらで愛犬の排泄は可能です)

で、心に決めたことがある。
来年の雪解け時期はカフェは臨時休業する。
1週間くらい。いや、もっとかも。
そして南に渡り、桜前線に沿って北上しながら帰ってくる。
いい考えだ。
来年に夢が持てるなんて素晴らしいことだ!
実現できたらもっといいなあ。

今月のパスタは勿論、温麺も明日までということお伝えして今日はおしまい。
 

贈る言葉 2010年03月27日(土)

  「チェス君でーす」
駐車場に入った車を見てスタッフがそう言う。

いつも通りハスキーのチェスに限らず、お客様を迎える時のカフェの光景だった。

しかし、入店してきたのはYご夫妻だけ。
???
『どうしたの』って声をかけようと奥さんの顔を見ると、取り繕った笑顔の中に真っ赤な眼があった。
「今夜が峠だそうです」
気持ちを整理するかように話し始めた奥さんのそばに、やはり精一杯の作り笑顔のご主人がおられた。

『何の話か?』と戸惑ったのも一瞬のことで、私とKはチェスにとんでもない事態が襲っていることを悟り、気丈にも状況を語りだした奥さんの話をしばらくは上の空で聞いて呆然とし、すぐに我に返って気持ちを落ち着かせながら話の続きを伺った。

信じられないけど、こないだまでいつも通り元気だったチェスが末期の肝臓ガンに倒れ、さらに複雑な要素も絡んで、今、死に際を迎えているというのだ。

2〜3年前から肝臓の数値にちょっとした異常があったのだが『様子を見ましょう』と繰り返す主治医。
ちょっと不安だったのか「知り合いの獣医さんを紹介してください」とYさんから頼まれた私はI先生を紹介したばかりだった。

そのI先生から『今夜が峠でしょう。最後はご自宅で一緒に過ごされることをお望みですよね?必要なことはやっておきますから』という趣旨の話を伺ったという。

私はY夫妻が友人であること、そしてI先生を紹介したことを誇りに思う。
愛犬がそんな状態なのに、手術でも何でも望む飼い主がいれば、無駄あるいはQOLにおいて疑問を呈する手術を勧める獣医もいる中で、いずれ必ず訪れるであろう愛犬の死をしっかり飼い主の望みどおり迎える/迎えさせる関係ができたことを。

Yさん。
辛いでしょうけど、いつものように愛犬と積み重ねる楽しい時間と彼の最後をしっかり看取ってください。
チェス。
君の事は忘れないよ。

医者の言う『余命』はそれ以上の時間を含んでいることが多い。
一時この世ではお別れはするかも知れないけれど、お互いそれなりにいい人生だったよな、チェス。
 

アリの一穴 2010年03月23日(火)

  例えば盲導犬ユーザー100人が集まった会議があったとしよう。
すると盲導犬は主人の足元で寝てしまうか、リードの長さの範囲内でぼーっとしているのが普通であり、会場内を勝手にうろつき、気に入ったわんこと遊び始める犬などまずいない。

多くの人はその理由を『ちゃんと訓練された盲導犬だから』と思うだろうが、それは違う。
視覚障害者であるユーザーがそれを許さないからだ。

『自分達が何処へでも出かけられるのは、盲導犬をきちんと管理しているから』であり、『そうしなければ排除される不安』と『それが自分だけの問題ではなく、他のユーザーにも及び』『そうなれば自分達の生活が大変なことになる』ということを考えているからである。

土日のカフェでは盲導犬と同じレトリーバー密度がとても濃い。
彼らは一般の顧客達が驚くほどに静かだし、楽しい遊び方の中にもちゃんとしたわきまえを示すから『このお店のわんこたちはみんなお利口さんね』と対外的には素晴らしい広告塔にもなっている。

だけど彼らは盲導犬とは違い、飼い主から離れ、自由にカフェ内とガーデンを行き来し、お気に入りのわんこと遊んでいる。

それは犬としての使命が違うから、何処にも問題はない。

だが、当然ながら何もせずにそうなったわけではなく、飼い主の意思に応じた私の働きかけが、時に犬たちをコントロールし、飼い主としての接し方の方向性を誘導し、飼い主自身がちょっと変化し行動していることを知っておかねばならない。
そして、それを受け入れて下さった方が顧客としてカフェを支えておられるのだ。

犬を飼うということはその犬に対しては勿論、社会に対しても責任を負うということである。
ありがたいことに我々が盲導犬ユーザーのような深刻さを普段感じる必要性はないけれど、だからと言っていい加減な愛犬との暮らしが許されているわけでもない。

盲導犬ユーザーは自分の足元にいるべき犬が仮に離れるようなことがあれば、そこからお互いの関係が崩れ、自分だけじゃなく他のユーザーにとんでもない迷惑を及ぼす可能性があることを考えている。

あなたが多くの中途視覚障害者と同じように『なぜ自分が見えなくなったのか!』と嘆き、その壁を乗り越え盲導犬と暮らした時に、その真の意味が分かると思う。

で、今は健常者でいられるあなた。
愛犬と暮らしながら、『これを見逃せば、ガタガタと生活が音を立てて崩れていく』とポイントになるような懸念はお持ちですか?

私は持っていますよ。

だからちゃんと育ててますし、そうすればそれはそれは素晴らしい生活があることを知っていますから。
まあ、盲導犬ユーザーの感動には到底及ばないですけどね。
 

決め込むという危険性とつまらなさもある 2010年03月22日(月)

  わんこのフードについて飼い主が関心を寄せる時代になっている。
大変結構なことだと思う。

人間の食材を作る過程で生じる産業廃棄物を原料とし、そこに犬に必要な栄養素を添加して作り出されたのがドッグフード。
合理的だし無駄を省くという“エコ思想”にも合致するし、なにより犬の飼育がとてもし易くなり、それなりの評価に値するものである。
だが、良くない物質を含んでいたり、嗜好性や保存性を高めるために様々な怪しげな添加物を含んだ商品が並び消費されるようになった。

結果、同じドッグフードを食べさせられ続け、繁殖を繰り返された子孫に様々な病気や障害が報告されるようになり、ある種の病気においては“犬種特性”などといった言葉に置き換えられてしまっているのが現状だ。

さらに、それを改善させるためのフードが同じメーカーから、しかも動物病院などで販売されていることに“?”との疑念を私はずっと抱いている。

まあ、ここまでは以前から指摘していることだから近頃の愛犬家がフードにこだわりを示すことを歓迎していたのであるが、逆に最近は過剰反応を示す飼い主が増えていることに懸念を抱いてもいる。

例えば、『あのフードを使い始めてから毛の艶が良くなった』とか『同じ量を与えてもダイエットできた』などという話がフツウにまかり通っているということである。

『え?どこがおかしいの』と思われた方は要注意だ。

私が言いたいのは、当たり前の食べ物を与えた結果、毛づやが良くなったり、健康状態が良くなったのならそれでいいけど、ひょっとしたらそれはつまり飼い主の希望に沿うためにフードメーカーが添加物を工夫したことを知らずに喜んでいるだけで、結局は昔のまま“将来的な弊害”を考えず、“踊らされる飼い主”を演じているに過ぎないということで、さらに弱い犬たちを生み出すことに加担しているということだ。

犬は生き物だから、胃腸が弱い子もいれば規格外にデブなわんこもいるのが正常な社会である。
それが『このフードを食べたら良くなった』なんていうのはある面において恐ろしいことである。

それを言い換えれば、自分が労力を費やさずとも良い犬に育てるという安易な方法を見つけたがる飼い主に似ている。

最近は手作り食を実践している方も多い。
こちらも夢中になってしまうと危うさを含んでいると思う。
『前犬がそうだったから』とか、『あの犬がうまくいってるから』なんて範疇で考えず、『この犬に関しては』との視点で捉えて欲しいし、それ以上を求めるなら徹底的に犬の遺伝と栄養学を学ぶのがいい。

カフェのドッグフードは症状を改善する目的で販売しているのではなく、人間が食べる食材で余計な物質を安易に添加していない素朴なフードを置いているだけである。
カフェのフードは遺伝的な弊害をもたらすことがない当たり前の食材が使われていると信じているが、それでも私はフードのローテーションと季節の食材のトッピングを愛犬アモには行っている。
だって、どんなに優れた食べ物でも毎日同じじゃさしもの犬だって変化の方を選ぶでしょ。

こだわり続けるだけがベストじゃない。
清濁併せ持つと本質が見えてくることもある。
 


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