From the North Country

今度のスタッフもM。おまけにその愛犬もM。 2010年01月30日(土)

  東の空から昇った今夕の満月を見たでしょ。
『でっけぇー!!』
アモと散歩しながらそんな言葉を何度も口にしていた。

“ブルームーン(蒼い月)”って言うんだっけ?
1ヶ月の間に2回も満月があってその2度目のやつ。
今月今夜のこの月がそれだったんですね。
それにしても見事な満月だった。

さて、今日のカフェはというとお陰様で大変賑わっておりました。
紹介が遅くなってしまったが、まりちゃんが退職後のカフェスタッフとして、元々カフェの常連だった黒柴/蜜柑のMさんが働いてくださっている。

「こんなカフェでもいいんですか」との私の言葉に
「とんでもない!こんな私でも…」と、すぐに話がまとまった。

カフェのスタッフには開業以来“M”のイニシャルが多いのだが、今回のMさんの名前は香織。
開業時からのおなじみスタッフMの名前は香で、トリマーのさおちゃんの名は沙織。
つまり今回のスタッフMの名前はふたりの名前を併せた香織で…
単なる偶然だろうがちょっと可笑しい…

どうぞよろしくお引き立てくださいませ。(指名制度はございませんが)

そのM香織は働きづめだった今日の夕方、賑やかで笑い声が沸き起こるカフェのお客様の声を厨房で聞きながら「いいなぁ…」とつぶやいたらしい。
わかる、わかる。
ほんの数週間前まであなたはあの輪の中におられたのだから。

だが、「月火はヒマなんだから」とK。
「そうだそうだ、たまには働け!」と私が言えば、厨房内でも大笑いとなった。

Mさんの愛犬/蜜柑はとまどいながらも無難に看板犬を務めていてくれている。
いろいろ苦難はあるだろうけど頑張ってもらいたい。

ともあれ、カフェを支えていただいてくれていることに心から感謝している。

満月が月に2回もあるなんて滅多に無いことだから。
 

○○式犬のしつけ方というDVDを見てしまった 2010年01月27日(水)

  とってもおヒマな昨日今日。
一生懸命働いているのはトリマーのさおちゃんだけで、今年のカフェも月火対策を考えなきゃならないようだ。
とは言っても無料お散歩チェックは継続しているし、有料ではあるがゆっくりご相談を受ける曜日を確保していることは方向性としては間違っていない。

「何これ?」
カフェの本棚に置かれていたDVDを見つけ、Kとスタッフがヒマの徒然に再生して見始めたようだ。
しばらくして「ちょっと来て」と事務室にいた私に声がかかったので一緒に映像を見ると、怪しげなおじさんが『よーしよしよし、よーしよしよし、よーしよしよし・・・・・・・・・・』
延々と戸惑う表情をした犬を撫ぜまわしている。

なんで撫ぜまわしているのかと巻き戻して(DVDでも巻き戻す?)みれば、興奮した犬に強烈なリードショックを行い、恐怖に駆られた犬から不安を取り除く作業をしていることが分かった。

『はーん、強制による訓練ね』と
特に驚きもしなかった私だが、延々と続き再生時間の殆どを占める『よーしよしよし…』の場面を見ながら『はーん、この人は来世において神に言い訳ができるように、強制による訓練に念仏を取り入れているんだな』と同情するようになった。

たまたまカフェの外を見ると、飼い主を引っ張りながら吠え続けているわんこが散歩していた。
『いい気になって馬鹿げた振る舞いをしているあのわんこになら、私もその興奮の程度に応じたリードショックを加えるだろうが、5分間もよーしよしよしと撫ぜまわすことはないな』と自分を振り返り、『アホたん、いい加減にせい!』と一喝して次の行動に移ると思った。

次の行動とは散歩の継続であり、それは犬にとって『よーしよしよし』に匹敵する快であり、“さらに吠える”ような人間にとって不快な振る舞いがあれば、それを不快と明確に犬に伝える行動を起こすだろう。
心にもない『よーしよしよし…』を5分間も続ける気はなく、単に自分の本気度を伝え、変化した犬との時間を楽しみ、どう振る舞えばより楽しい散歩になるのかは犬が考えるはずである。

犬の行動を過度なレベルで強制的に消去した結果におけるお互いの心の傷を癒す時間など本来必要でない対処法もあるということだ。

遠慮深くサークルから出た直後のMダックスに強烈なリードショックを加えていた場面にもショックを受けた。
落ち度もないのに初対面の相手からビンタを喰らった心境だろう。
相手を舐める気にはならないかも知れないが、決して心許さない関係が出来上がった瞬間である。
凶暴で身勝手の極みを露呈している犬ならまだしも、我が家の愛犬として育てる犬に対してはあり得ない対処法である。
犬を自分の装飾品としか考えていない横暴な人間の振る舞いであり、以後彼の発する言葉に私は意味を感じなくなった。

もし彼の訓練が、育て方すら誤った飼い主に対する結果の披瀝であり、犠牲者をさらしたうえでの戒めであるとするなら同調する部分もあるが、それなら最初にあるいは逐一ことわりを明確にすべきだ。
斟酌せずDVDを見た私は、この人はなぜ犬と関わりたいのだろう?と思わずにはいられなかった。

ところでこのDVD誰が何故カフェの棚に置き去りにしていったの?
 

育てた喜びとその途中経過を垣間見ることが力になる 2010年01月24日(日)

  レトリーバー密度の濃かった週末だった。
みんな凄いなと思う。

カフェに入りきれないほどのレトリーバーと飼い主にご来店いただいたのに、それぞれに交代しながら着席して食事をしておられたし、犬をまたぎながらもカフェ内を不自由なく移動することができていた。

たまたまやって来た私の娘と次男夫婦は『凄げぇ!』と驚き、「さすがおとうのカフェだね、犬の間を縫うような状態なのにみんな大人しいし、普通だったらちょっと引いちゃうけど全然だもんね」と2階の自宅に上がった娘は感心していた。

凄いことは他にもたくさんあった。
レトリーバーに埋没するようにMダックスや柴犬・シーズー・チワワ・ビションがいたが、誰も不安を抱くことなくガーデンの風景に溶け込んでいて、さらに犬たちの吠え声など殆どなく、近隣に迷惑をかけることがあるとするなら飼い主達の喜びに満ちた会話のボリュームだったかも知れない。

久しぶりの我が子の訪問に嬉しくなって私が仕事を放棄していたら、ガーデンではレトリーバー15頭を整列させての撮影会が始まっていた。
飼い主と一緒の撮影ならいとも簡単だろうが、犬だけの整列となると結構難しいはずだ。
それを見事にやっておられたことが嬉しかった。
中には椅子の上に上がってプロカメラマン張りの一瞬を狙う方もいた。

『座ってマテ!』と犬たちを制御する飼い主。
『ちょっとさがって!人間が映っちゃう』と注文をつけながら撮影する飼い主。
実は、このような行為の中に“飼い主として必要な愛犬コントロールの極意”があることを知って欲しいと私は思い、それを楽しそうにやってる皆さんの姿に感動を覚えた。

犬たちを見れば、過去にレッスンをし時にはカフェにおいて飼い主の了承のもとに鉄拳を加えた愛犬が勢ぞろいしていた。
やはり犬は育つものではなく育てるものである。
その喜びを知った飼い主も育つのだ、と私は自分を含めて今でもまじめにそう思っている。
 

民度の低すぎる知識人・有名人に呆れるばかり 2010年01月18日(月)

  今夜の『TVタックル』、ペット産業の闇を電波に乗せるということなのでどんな告発をするのかと思って見た。

最初から期待するのが間違っていたようだ。
『どうせたけしの番組だから』と感じてはいたが、出演者のほとんどが馬鹿らしいコメントしかしていないことに呆れるばかりだった。
天才が人間的に優れているわけではない、という当たり前の結論ということか。

番組の冒頭や新聞のテレビ欄に『この放送は茶化し番組です』と明記すべきだと思った。

「介護犬は神経すり減らしてるから寿命は8年くらいしかない。人間のためだから仕方ないのかなぁ」
地位と財を成してあとは名誉の為に金を使いたがる人間ほど、このようなたけしのコメントになる。
何も知らないくせに『一歩先の問題点に自分は関心を持ってるんだよ』とウソと知らずに公言してしまう。

昔(今でもやってるのかな)安藤なんとかという女性のニュースキャスターがいて、その番組の取材陣が北海道盲導犬協会にやってきたことがある。
『老犬ホームが知りたい』という取材依頼だったので、私が担当して説明を始めた。
ディレクターは『そんな話しはどうでもいいから早く現場を見せろ』とばかりに私をせかせ、老犬の映像を撮って1時間ほどでさっさと帰っていった。

後日放送された番組では、とりわけ高齢になり横になった老犬の映像が流れ「盲導犬は神経を使って人間に尽くすから寿命が短いんですね。頑張って欲しいですね。」と安藤キャスターがコメントしていた。(実際の盲導犬の寿命は一般の同じ犬種よりも管理が行き届き、どうみても私には長いと判断できた。)
最初から筋書きが決まっていて、それに信憑性を持たせるために無理やり結びつける部分的な映像が欲しかっただけである。

以後私はマスコミ嫌いになった。
盲導犬事業に対して社会的批判も受けたし、他協会の職員から取材対応についての非難もされた。
“どうぶつ奇想天外!”のKディレクターと出会わなければ今でもその状況は続いていたことだろう。
Kディレクターのおかげで『マスコミの中にもたまにはまともな人間がいる』ことを今の私は知っている。

ところで今夜のその番組で、忌々しいけど共感しもっと話を聞きたいと思ったのは、顔をテレビに出し告発していた業者である。
彼の発言だけが私には日本語に聞こえた。

それにしてもペットショップでの身の毛もよだつ生体販売を不法行為となぜ発想できないのだろう?
『生後何日なら売りに出してもいい』なんてナンセンスなことだ。

無理だと思う。
なにより、日本人の『犬』ではなく『イヌ』としか考えれられない根底意識は私の想像を絶するほど根付いていて、これはどうにもならん。
カフェの仲間たちと地底人みたいに暮らしていくしかないのだろうか。
 

カフェ埋没! 2010年01月17日(日)

  予告なしの大雪でせっかくの日曜日だったのにカフェは沈没いや埋没。

7時半から始めた除雪作業はカフェの開店時間頃にはとりあえず支障なく使えるようにはした。
しかし、スタッフMからは通常出勤は無理との連絡があり、トリマーのさおちゃんもどうなることかと思っていたら、いつもより早くニコニコしながら顔を出した。
「回送中のバスの運転手さんが乗せてくれました」とのこと。

「若くて綺麗なさおちゃんだから運転手さんが乗せてくれたんだよ」
数少なかったお客さんのMさんが言い、私たちもある程度同意したが、そのあとの言葉に私はちょっと緊張した。
「さおちゃん背が高いからね。○○さんみたいに低かったら雪山に隠れて見えなかったよね」…

ちびっ子のKが傷つかないかと心配したのだが、Kが笑い飛ばしてくれたのは幸いだった。
ちびっ子って書いたからあとで怒られるかも…

除雪中に天気が回復し、青空が広がったので屋根の雪も下ろし結局作業が終わったのは13時半だった。
6時間の除雪作業が明日いや明後日それとも明々後日にどんな影響を私の体に与えるのか想像できない。

ゆっくり風呂に入り、まだ痛くもない身体のあちこちに湿布を貼って予防している。

ともあれこんな日にご来店いただいた7組のお客様に心から感謝申し上げます。
 

信じられないけど… 2010年01月15日(金)

  アウトドアの達人であり、イングリッシュセターの(故)六花と氷河それにゴールデン吹雪の飼い主Yさん夫婦の心の太陽だった吹雪/ゴールデンが昨日14日に亡くなったという報告を今ブログで拝見した。

亡くなる4日前にニセコの雪原で撮ったという心持ち痩せたように見えるものの全く元気そうな吹雪の写真が掲載されていて、その後急激な変化があっての死であったことが伺われる。

『ふぶちゃん、もうすぐ12歳の誕生日だね。元気で頑張ろうね。』
昨年の大手術以来、吹雪にも自分にもそう言い聞かせてこられたのだろう。

私の長男と同じ12月7日の誕生日を元気に過ごし、せめてもの目標を達成した後の死であったことが、意図的に動揺を抑えたYさんの文面になり、その深い悲しみが私にはじわじわと伝わって仕方がない。

Yさんの報告を読んでKと私の愛犬だった初代看板犬スーを思い出した。
『ひとりで死んじゃダメだよ』
Kはいつも病に冒されたスーに言い聞かせていた。
そのスーはカフェの最後のお客様を私共と元気にお見送りして、カフェに戻り横になった直後に私の横で倒れ、Kの胸に抱かれて息を引き取った。

偶然ではあろうが、ある意味での約束を果たし願いを叶え逝ってしまった愛犬の飼い主同士である。
心からのお悔やみを申し上げたい。

吹雪のレッスンでは盲導犬の訓練に用いたエスカレーターの昇降という課題を私は取り入れた。
『社会の一員であれ』という私からのメッセージであり
『こんなとこにも私は加わっていいのですね』と吹雪は戸惑いながらもチャレンジし会得したことが今では思い出となった。

よくやった。えらかったね。
たくさんの思い出、それにYさん夫婦と私達を繋いでくれたことに感謝しているよ。
君は先に逝った六花がいるから大丈夫だよね。
父さん母さんを支えてあげるんだよ。
 

幸あれと願う 2010年01月13日(水)

  札幌市民の皆様、23時頃の外をご覧になっていますよね。
来ましたねえ。
冬の嵐。
街路灯に照らされた雪は横から下から暴れまわり、凄いことになっております。

今夜はカフェスタッフの歓送迎会だった。
名寄に旅立つまりとらむ、新たにスタッフとなった黒柴蜜柑のMさんの人事異動を飲み食いしながら楽しんだ。

21時頃まではたいした状況ではなかったのだが、わんこたちの排泄時間となった23時に外を見ると酷いことになっていた。
明日が定休日でよかったと思うと同時に、名寄まで行かなければならないまりをKは気遣っている。

新たな旅立ちには相応しいと思う私は、外の嵐を見てニコニコしてしまうのを抑えきれないでいた。

若いふたりの新たな人生が明日から始まる。
すんなり名寄まで到着できる状況ではないのだが、ふたりは深く考えずに寝てしまったようだ。

これでも幸あれと心から願う親心であることを申し添えておこう。
 

しっこをたらすようになったごんた 2010年01月12日(火)

  おなじみシーズーのごんたが高齢となり心臓病も患って、暮らす側にとっては介護負担の問題が持ち上がっている。
具体的な二大問題は
・心臓病による咳を抑制する薬の副作用のせいか、排尿のコントロールが利かなくなり、一緒に寝ている布団を濡らすようになった。
・抱き上げるとうんちがころんとこぼれたりする。

つまり暮らす側にとっては放置できない実質的な課題に直面することになった。
今後、例えば訳もなく(ごんたには訳がある)吠え続けたり、薬の副作用によって理性を失って介護する側に威嚇的になることもあり得るだろう。

飼い主であるW夫妻が今日カフェを訪ね、ごんたの近況と薬が大きく変わったことを報告してくださった。

年末からのお泊りで、私の布団には3箇所にごんたのおねしょの染みができており、そのまま大型のコインランドリーで洗ってきた。
これまでにはなかったことなので、当然ごんたの変化には気づいていた。

介護を前提にした暮らしを自覚せねばならない時がきたようだ。

ここからが大事。
聞きかじりの介護の苦労を鵜呑みにして覚悟を決めるのではなく、される側もする側もより快適な方法を模索しそれを楽しむ余裕が持てたら最高である。

おねしょについては、いわゆるマナーベルトを活用しよう。
『マナーベルトはカフェやペンションで迷惑をかけない必需品]などと馬鹿げた考えをお持ちの飼い主が多いと私は批判してきた。
そんなもんなくてもオス犬ならちゃんと去勢し、初めての場所でもマーキングするなどという原始的な行為をさせないのが普通の飼い主であるのだから。
そのいわゆるマナーベルトが介護の時には役に立つのであり、あれは本来介護の為に作られたものだと私は思っている。

思わぬときにうんちが落ちるのもやむを得ないどころか、『出た!出た!』と喜ぶべきことである。
食事の管理をきちんとして排泄しやすく処理のしやすいウンチが出るよう食事管理をするべきである。

薬の副作用なんかで理性をなくし、時に凶暴になることがある。
そんな薬が必要になるまで介護しなさんな。(ただし救急のことを考え強烈な痛み止め・鎮静の薬はあったほうがいい。)
愛犬が痛み・苦しみの初期症状を訴えたときは、傍に寄り添い、蒸したタオルを身体にあてがいさすってあげなさい。
しばらくはそれで対応できるはず。
それでもダメなら救急の薬を使い、安楽死の手はずを私なら準備する。

いろんな意見があることを知っている。
そのうえで私はそう選択する。

介護が長引くとその犬の記憶は老後に集中し、『大変だった』との思いが飼い主に残り、過去の楽しかった思い出を凌駕する。
その結果『もう、犬は飼うまい』と飼い主に思わせたならば、亡くなった犬はどれほど自分を責めることだろう!
だから犬は老後、死に様を見られぬよう逃亡し徘徊して死に場所を探すのだ、などと勝手な空想を今でも描いている。

ごんたは老犬介護の入り口に立った。
切羽詰った状況ではない。
医療による回復を期待しつつ、知恵を出して新たな介護があることを検証し、最後は『よかったね。ありがとう、そこそこお疲れ』で送ってあげたい。

まだまだ先の最終章であるが、そこを押さえておくだけでこれからの介護がとても幅広いものになる。
それまでにこっちが先に死ぬかもしれないのだから、死生観だけは考えていた方がよろしい。
 

寒中見舞い 2010年01月10日(日)

  外飼いのわんこたち、寒中お見舞い申し上げます。

『なんか寒いな』と感じて夕方外の温度計を見るとマイナス6度だった。
今夜は冷え込みそうだから外で暮らすわんこたちにはくれぐれも無事に朝を迎えてもらいたいと祈る。

散歩中に通りかかるといつも吠えるわんこが静かなものだから、覗いてみると犬小屋で丸くなっている。
そんな時は寒い日だ。
人や他犬の姿を見れば、番犬として吠えなければならないから、小屋の奥の方で寝たりお尻をこっちに向けて見なくてもいいように彼らなりの筋を通している。

『可笑しい』と思いつつ刺激しないよう通り過ぎていたら、数日後犬小屋がなくなってその犬の死を知ることになったりする。
犬にとってはサバイバルな冬の毎日である。

寒冷地でわんこの外飼いをされている方、犬小屋の内側(床も)には断熱材を入れ、寒風が直接吹き込まないよう出入り口にはムシロなどでカバーしてあげてください。
秋口から食事を多目にして皮下脂肪を付けてあげてください。
いつも以上に愛犬に声をかけ様子を見てあげてください。

だけど寒波が来るからといって、ストーブや床暖等を設置しないで下さい。
それで焼け死んだり感電した例はたくさんあるし、一時的にぬくぬくとした状況はかえって体調を崩してしまいます。
犬小屋に毛布を入れておけばわんこが自分で使い勝手を考えます。

外飼いを選択した飼い主だからこその無頓着も過保護もいけないことがある。

いつもはうるさいと感じる犬たちの安否を確かめながらアモと散歩する冬の日々である。
 

プラハ交響楽団 2010年01月06日(水)

  年末からのお泊り犬がいなくなった今夜、私達はようやく新年を迎えた。

「なにか新年らしいことしたいよね」
昨年12月にKがポツリとつぶやいた時、ちょうどテレビでプラハ交響楽団が奏でるモルダウが流れ、札幌でニューイヤーコンサートがあることを知った。
「これにしよう!」と膝を打った私はすぐにネットでチケットを手に入れ、今夜チェコの音を楽しんできた。

モルダウはやはりプラハ交響楽団だなと実感した。
あの旋律は民族の誇りだろうと思うし、プラハ響の決して派手ではなくまとまった魂の力のような演奏が、聞こえなくなった耳でありながら“我が祖国”を作曲したスメタナの心境を見事に演じていたように思う。

同じチェコ出身のドボルザークだが『新世界』はあまりにも有名になり、子供の頃から様々なオーケストラの演奏を聴いていたが為にプラハ響の演奏には物足りなさを感じてしまった。
勝手にイメージを固定させている自分を恥じ、素直に祖国の人々による演奏を受け入れようとしたが、違和感を感じる自分をどうしようもできなかったのが不思議だった。

勿論、「すげぇー!」と感動の連続だったのは言うまでもない。

残念なことを最後に書くのが辛く、指揮者のマーカルさんがとても気の毒だった。
『新世界から』は全楽章にポピュラーとなった旋律があり、それはそれは美しく素晴らしいものである。
だが、このシンフォニーの最高の感動は第4楽章の最後の音がデクレシェンドで消えた後の静寂であるはずだ。
その時間こそが名演であればあるほど聴衆とオーケストラが息を呑み声も出せない至極の境地なのである。

なのに驚くことにマーカルさんの指揮棒がその境地へと誘う前に多くの聴衆が『ブラボー!』と叫び拍手を始めたのである。
私はガッカリし、マーカルさんは指揮棒ですぐに空を切って笑顔を演じていた。
悔しかったことだろう。
プロだし場数を踏んでいるから容赦してくれたのだろう。
ひょっとしたら聴衆をしばらく黙らせる演奏ができなかった自分を恥じたかもしれない。

料理の最後に皆が感動する手はずを整えていたのに、その前に褒め殺されメインを出せなくなった主婦の気分であろう。

ほろ苦い後味のニューイヤーコンサートだった。

「アモ、ただいまー!」
自宅に戻って留守番させていたアモに声をかけたKだったが、アモはぐっすり眠っていたらしくKが期待していたほどの反応がなかったようだ。

人生って難しいものですね。
 


- Web Diary ver 1.26 -