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春の到来が遅かった北海道も今日の午後遅くになってからようやくそれらしくなってきた。
レトリーバーみたいに活動的なカフェの常連さんは待ち焦がれたキャンプに出かけており、今日のカフェではのんびりとした時間が流れた。
そんな午後、生後半年になったばかりのテンテン(サモエド×オーシー)と飼い主の家族が遊んでいる。 投げてもらったロープを咥えてテンテンは上機嫌なのだが、よく見ると飼い主のそばまで行ってはUターンする動きばかりで、ちっとも身体を擦り付けたりしていない。 つまり『捕まえるつもりだろうがそうはいかないぞ!』とテンテンは経験上のアピールをしている。
遊びの中で“決め事”を教えるチャンスなのに見逃してしまっているのが残念。 『どうせ呼んでも捕まらないし、咥えたものを盗られまいと逃げ回るだけ』 『人が追いかけ犬が逃げ回ること、それこそが犬の遊び』っておかしな転化をしてしまっている飼い主はかなり多い。
『いつでも呼び戻せて咥えたものを取り出せる』という関係なら“他愛もない遊び”であるが、もし『そうじゃない』としたら“ひどくまずい行為”と言わなければならない。 なぜなら『おまえには敵わないよ』と飼い主が宣言し、尚且つその意識を犬に対して強化しているからである。
小さなことだけど“根源を成す標本”みたいな生活習慣であり、愛犬との関係におけるバロメーターとも言える。
じゃぁロープを投げて犬が咥えた途端『来い!出せ!』って躍起になって教え込もうとするのがいいかと言えば、そっちの光景を見ているほうが気の毒になってしまう。 『来い!出せ!って叫びながら犬を追い回す飼い主の姿を見ると、最初から投げるなよな』って思ってしまうからだ。
『ニワトリが先か卵が先か』みたいな発想でいえば『犬は生来咥えたものを盗られまいとする』けど、本来『呼んだら来る』ものである。 だけど、どうでもいい時に呼ばれたり、呼ばれた時に行った意義を感じない結果が積み重なって“行かない”という行動が形成されるのだ。 勿論、訓練を行う人間は『おまえの意見を聞いているのではなく呼ばれたら来い』を教えることはできるが、犬の意識というのはそういう経験において形成されたものだ。
愛犬の様子をちゃんと見たうえで『おいで』って言う。『ええ?なになに?』と注目する愛犬に“呼ばれた意義”がちゃんと伝わる結果を残す。 咥えたものは『それはダメ!』と一喝するか『いいねぇ』と喜びを共有するふりをする。
愛犬が咥えてもよい物を持ってきたら、最初は捕まえることも取り出すこともせず、ニコニコするか身体をタッチする程度に留めておくと、咥えたままの愛犬と遊べるようになるのが普通だ。
自然な振る舞いが身についた犬は『ちょっとちょうだい』って言えば咥えたものを出すし、その後にポンと放り投げてさらに咥えさせたままにしておけば以後の執着と主従ゲーム感も薄れていく。
そんな基本的な育て方をして素直に育てから『お前の事情はともかく呼ばれた時はすぐに来い。』という段階へと発展していけるのである。
難しいことだろうが私にしてみれば当たり前のこと。 要は、犬のことをとやかく言う前に自分のスタンスを見つめ直すことのほうが大切だし簡単なことなのだ。
はてさてキャンプに出かけた犬たちと飼い主はどんなエピソードを持ち帰ってくれることだろうか?
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