From the North Country

自分流に育てよう 2009年11月22日(日)

  2泊3日の美術館巡りとシルク・ド・ソレイユの公演を楽しんできたKが昨夜帰札した。
アモを連れて空港まで迎えに行ったが『よぉ!お帰り!』と至って淡白なお出迎えである。
先日、私が6日間留守にした時だって、「アモただいま!」と私が騒いでいるうちは尾を振って応えていたが、その目はすぐに『それで、何処に連れてってくれるのさ』と、感激の乏しいわんこである。

まあ、飼い主に執着してぎゃーぎゃー・びーびーとわめかれるよりはずっと暮らしやすいが、もうちょい感動を素直に表現し継続してもらえたら『嬉しいかな』と思う。

さて、カフェでは新しい仲間がちょこちょこと増えている。
若いわんこが多く、徐々に世代交代が進んでいるのは経営的には嬉しく、心情的には寂しくもある。
なにせ昨日(21日)なんかは10数頭いるわんこの中で、アモを除けばあのやんちゃなさくら(4歳)が年長さんになった時間帯があった位である。

サプライズもあった。
Mダックス/モカ・モナカのNさんがゴールデンのあんこを迎え入れたことは既に紹介したが、黒ラブ/ふたばとMダックス/キムチ・マルコのO夫妻があろうことか6ヶ月のイエローラブを仲間に入れたのである。
その名もペロスケ。
嗚呼!まだお若い夫婦なのに“その道(犬馬鹿道)”に人生の駒を進ませる選択をなさったようだ。

日頃から“多頭飼い”の弊害というか難しさを説いている私に対する挑戦であるのに、『そこを踏まえたうえで教育をよろしく!』と、私までもが引きずり込まれている。

そのペロスケがやけに大人しく暮らしやすそうだ。
「黒ラブ/ふたばを育てた苦労はなんだったのかって思うでしょう」
私の問いかけに昨日Oさんは大きく頷いておられた。
「要は繁殖なのです。暮らしやすい犬とめぐり会えれば苦労せずに暮らせるのです」
私はそう話して盲導犬事業における繁殖が如何に重要視されているかの説明を続け、最後に『それでも我々は“よい犬にめぐり会えたから楽しく暮らせた”なんていうような博打みたいな生活はできない。自らが育てる術を持つことが大切』であることを伝えた。

“氏より育ち”を実践する最低限の知恵と技術を我々は持っておかねばならない、ということだ。

さて今日、そのペロスケのレッスンを行って私はぶったまげた。
カフェでお利口さんに振る舞うわんこが実は・・・
同行したOさんも『やはり、おかしいのか』との不安を共有されたに違いない。

話が長くなってしまうし、もう2時を過ぎてもいる。
まだ1回の歩行だから断定はできないが、曖昧ながら核心を突いたコメントをするなら
『犬社会での社会化が行われたのかもしれない。人間社会での社会化を行わなければ…』というものだ。

ペロスケのことについてはまたいずれ紹介しよう。
ともあれヤバイ状態からのスタートだ。
Oさん、今日の歩行をご覧になった通りです。
でもOさんの家庭に迎え入れたばかりだから、ちゃんと育て直しをし、後は良くなっていくだけと信じて共に頑張りましょう!
 

契約 2009年11月17日(火)

  深夜の外の空気はすっかり冬のそれのように感じられた。
だが、ハーっと白い息を吹くとその帯は4〜50センチで消えてしまう。
本当に冬なら1メートル以上は続くはずだからまだ入り口みたい。

「本格的な雪道になったら…」
生後7ヶ月になるバーニーズ/ラブちゃんの飼い主であるMさんが、今のままでは転ばされたり、結果として周囲の人に迷惑をかけるという心配をされている。
ごもっともな心配事である。

バーニーズの一生につき合った経験は私にはなく、ラブちゃんの成長はとても興味深いものがある。
とにかく肉体的・精神的成長が遅く感じられていたのだが、前犬もバーニーズだったMさんも不安になっていた今月に入ってラブちゃんの成長が一気に動き始めた。
縫いぐるみ状態を経て幼年期が長かったのが、一気に青年期の中間辺りまで達したような変化である。

久しぶりに昨日レッスンをしてみると、あの弱虫だったラブが精神的にも私が繰り出す刺激に耐えうるまでになっていた。
これだとラブが甘く見ているMさんを転ばせるくらいのことはやりかねないというMさんの不安に共感できた。

でも私が実際歩いてみると、図体は急にでかくなったし精神的にも強くなっているのだが、ラブはラブちゃんであり、仔犬の頃レッスンを行った時のラブちゃんの振る舞いをしていた。

犬は毎日人間を観察している。
人間の子が“おやじの背中”を後になって語るような速度から比べれば、ジェット機と光速の差があるほどにとにかく観察し次の行動に応用している。

それはまさに人の寿命と犬の寿命の違いから派生してくるものなのではなかろうか。
『あなたから見れば私は落ち着きがなく、先を急ぐように引っ張ると感じるでしょう。でも私はあなたみたいに悠長にはやってられないのです。短い犬生を駆け抜けているのですから。』
これが犬たちの言い分だとしたら
『まあまあ落ち着け。本来おまえが犬生の中でエネルギーと時間の90%を消費する食住と医療は保証するから、その分本能とはちょっと違った生き方を一緒に過ごさないか。楽しいぜ。』
というのが、人間が犬と交わした契約ではなかろうかと思う。

そしてそれは団体契約ではなく個人契約であり、人間が犬対して『保証します』という誓いであり、契約条項を破れば犬からのしっぺ返しを受けるし、犬に対しては『人が教育する権利と義務を負う』という条項が含まれる。

カフェに集う人と犬との契約には“特約”というのがあり、よりハイレベルなお互いの暮らしを信じ・求めている方々が加入されている。
その特約条項には
・犬にばかり要求しないで、人が成長すること
・正当な理由なく人をないがしろにしたら、どんな処罰でも受けること
の2項目が燦然と掲げられ、その先には愛犬との待ち望んだ生活が待ち受けているのである。

ラブや最近のカフェの幼犬たちを想い、そんな空想をしているうち夜も更けてしまった。
今なら外で吐く白い息はもう少し長くなっているかも。
 

伝わらなくてもやるべきことが人にはある 2009年11月14日(土)

  口癖のように何かにつけ『由美ちゃん(小姉)』と呼ぶ母。

老人の認知障害には様々なタイプがある。
ヘビースモーカーだったKの父親がライターの使い方が分からなくなるアルツハイマーのようなケースもあれば、別世界で暮らし分けのわからないことを発語する痴呆のケースもある。

私の母は毎日何度も徘徊を繰り返し、他人の家の花を勝手に摘み取ってくるがちゃんと帰宅してくるタイプのボケだ。
会話は通常にできるがすぐにその記憶がなくなり、思い込みや妄想・こだわりが強いように感じる。

これは共通のことかもしれないが、とにかく寝ない。
寝たと思って安心したら外を徘徊しているし、依存する小姉がいなくなると、か弱く『由美ちゃんは?』と尋ねたかと思えば『由美子!バカー!貴様!』と、まるで死んだ親父の口真似をするように叫ぶこともある。

一方で、一枚の煎餅布団で添い寝をするようになった小姉に
『由美ちゃん、あんた布団におると?』と3度も尋ね、その都度『うん。ちゃんと一緒の布団におるよ』と答える小姉に『そうね。お母ちゃん、畳の上よ』と、自分が布団からはみ出していることを暗に伝えるジョークを忘れないでもいられる母である。
テキストの足し算や引き算は簡単にこなすし、漢字の書き取りも私以上にできる。

が、昔のことばかり口にし、死んだ人間や満州の博多屋のことを私達に尋ねる。
そんな母が『帰りたい』と口癖にしている九州へ、車椅子と便座まで積み込んで旅してきた。

「狭い道路だね」という私に
「なんばね。道は狭かないっとよ。車が大き過ぎるったい」
元気な母の妹(叔母)の博多弁が心地良かった。

白砂青松とはまさに私の生まれ故郷のことを指すのだと思った。
台風並みの強風と雨が吹き荒れた玄界灘なのに、北海道の日本海のような黒さ・暗さが全くないのだ。
嵐で汚れたといっても、カフェのゼオライトが雨で濡れたような緑色の美しさだった。

どうせ帰郷したことすら記憶に残らない母の状態だった。

今回の旅は4人兄妹の次女である小姉に対する私の罪滅ぼしの旅であったと思う。
未婚のまま両親の介護をし、うつ病になってまで母を介護し続けてくれている小姉への懺悔の旅である。

日に一度はわめき散らす母に『うん、うん』と道中も小姉は静かに声をかけていた。
旅が終われば私は札幌に帰り、小姉はいつものように母の介護をしながらの生活が待っているだけのことだ。

志賀島から釣り場には最適と思われた岩場が見えた。
「潮が引けばあの岩に歩いて渡れるとよ」
故郷の街並みは50年前とはすっかり変わっていたが、岩場の風景はそのままだったのだろう。
母がその言葉を発した途端、叔母が涙を流しながら「潮が引いた時ね、あの岩場で遊んだとよ。姉ちゃん、ちゃんっとわかっとっとやねー」と言った。

自己満足の何物でもないが、その瞬間『よかったあ』という思いがよぎったのは間違いないことだった。

かくして旅は終わり帰宅後に母に電話を入れた。
「眠たい。眠たいねん。あんた史ね?北海道におるっとよね?」
「西戸崎と志賀島に行ったよね。スミちゃんの家にブーゲンビリアが咲いてて、玄関にフクロウの置物があったよね」
私の言葉に母は記憶を手繰り寄せるような間合いを経て
「もう寝るから」といって電話を切った。
 

とりあえずの帰札報告 2009年11月13日(金)

  ただいま!
本日13日の金曜日に戻ってまいりました。

千歳⇔神戸空港、その後九州西戸崎・志賀島往復のレンタカーの走行距離1400キロ、5泊6日の親孝行の旅だった。はず。

結論から書こう。
両親が人生の一番いい時代を過ごし、私が生まれてから小学2年生の1学期までを過ごした生まれ故郷は驚くばかりに白砂青松の息を呑むような環境だった。
だが、肝心の母は…

無理無理。
長旅の疲れ、帰宅後の愛犬アモとの散歩、留守をしてくれたKの労をねぎらうために里塚温泉、安堵の想いで飲むいつもの焼酎等等が身体を駆け巡ってまともな状態ではない。

明日以降のカフェかこの欄でまた。
 

パッキンの交換じゃ利かない時代なんだな 2009年11月06日(金)

  二階の洗面所から水漏れがあって修理に取り掛かった。

まずは原因となる箇所を発見することから始めた。
メガネをかけ、懐中電灯を照らしてしばらく観察すると故障箇所が発見できた。
『ああ、ここのパッキンが劣化したんだな』
修理はとても簡単なハズだった。

が、部品を分解して修理に取り掛かった時、どうにもならない箇所が現れ、工具も素人の家庭には普通は無い特殊なものが必要になった。

やむを得ず洗面台に張られてあったシールの“故障時の連絡先”に電話を入れた。
事情を説明して有償覚悟の修理の依頼をした。

水が漏れて床が濡れているのに1時間経っても連絡が来ないので再度電話し『ところでこの電話はどこに繋がっているんですか?』と尋ねた。
『東京のコールセンターです。』という返事だった。

水漏れで床は濡れているが、水が噴出して洪水状態になっているわけではないので、さらに私は1時間連絡を待った。
そしてだんだん私は頭にきた。

アモは定休日であることを知っているし、今日はここしばらくなかった好天であり『どこに連れてってくれるの?』と目で催促している。

私はコールセンターとやらに再度電話し「2時間程前に修理を頼んだ長崎と申します。連絡先を自宅ではなく携帯電話に変更してください」と通告して、家族みんなで近所の散歩に出かけた。
休日の午前中の2時間、相手からの電話を待ち続けていた末の決断である。

私はただ『何時間後に来てくれるのか?今日なのか?明日なのか?それとも週明けの月曜以降なのか』の情報が知りたかっただけであり、その意思を伝えてもいた。

6時間後にやってきた中年の作業員は
「一万何がしかの費用がかかりますが、いいですか?」とまず通告してきた。
パッキン交換の手数料数百円と出張費5000円程度を予測していた私は倍の料金に度肝を抜かれた。

「メーカーからの規定がありますもので…」
作業員が申し訳なさそうにいうので仕方がなかった。

そしていろんなことが総合的に分かった。

ボイラーが故障し電子基盤を交換して4万円を支払ったのが2ヶ月程前。
数ヶ月前に買い換えたデジタルテレビは8年ほどの寿命と売り場の担当者が言っていた。
まさか水道の“蛇口の部品”が6年で「寿命です」なんて言われるとは思ってもいなかった。
中年夫婦二人が使っているだけの生活ですぞ。
「パッキンじゃなくこのパーツごと取り替えることになります」
担当者の言葉に唖然とし、「水抜き栓のギボシが外れているので直しておいてください」と私が言うと「それはメーカーの仕事ですので、別に頼みましょうか?」とのつれない返事が返ってきた。

仕組みを解明し1分でその水抜き栓の修理を私は行った。

『それでも技術者(プロ)か!』
そんな思いしか残らなかった一日だった。

いい物を・便利なものを提供します。ただし、保障期間を過ぎると部品が消耗するように作ってあり、その修理には2回で一台分買い換えることができるほどの費用がかかるようなシステムとなっております。

正直にそう述べてから宣伝してもらいたいものだ。
 

一旦壊す 2009年11月03日(火)

  世の中には犬に対していろんなイメージを持った愛犬家がいるし、それを誘導する専門家がいる。
私はといえば、何の芸ができるわけでもないが“暮らしやすい家庭犬”を標榜する愛犬家のお手伝いをする専門家の部類である。

相談に来られた飼い主に対して私が必ず質問する項目がある。
・ショードッグや繁殖をお考えですか?
・正規の訓練競技やアジリティーなどをお望みですか?

どちらも私には全く関心がなく、従ってこのような相談についてはにべも無くお断りすることになっている。

「初めてなのですが…」
カフェでは初めてご来店の方にはこのように申し出ていただくような掲示を入口にしてある。
「そうですか、いらっしゃいませ。他のわんちゃんは苦手ではないですか?」
そんなやり取りのあと、「まずは外でトイレでも?」とさりげなくお誘いして、ガーデンでの排泄についての決まりごとや『カフェに戻る際にはリードをつけて下さいね』とこうるさい注意が続く。

自分とアモがそんなカフェに行ったなら『どうぞお構いなく』と言いたくなってしまうような息苦しさがある。

野暮なことだと分かっちゃいるけどやめられない。のがカフェの経営でもあるのだ。
「大丈夫です。さっきトイレは済ませてありますから」
「うちの子は大丈夫です」
主に小型犬の若い飼い主ほどそう言い放って自分達の世界に入り込み、結果的に失敗を目の当たりにするのは我々であり『こんなこと家ではしないのに…』という言い訳を何度となく聞かされ『そうでしょう、そうでしょう。』とカバーしつつも、『自分の犬のことも分かってないんだね』と、思ったとおりの結果を見て悔しく思う。
そんな飼い主の“普通の意識”は一旦壊さなければどうにも次が始まらない。

レッスンを依頼されたわんこの中には明らかにプロの訓練を受けたわんこもいる。
訓練ではなく調教されたわんこと歩くと私は涙が出そうになる。
『おまえ。自分を素直に表現してみろ。もっと自由でいいんだよ。』
私はプロが調教した行動を消去し、個々の犬が持つ個性を見いだそうとする。
だが、植えつけられた反応はまるで刺青のように彫られ、その傷を抜くのに時間がかかりその間の葛藤が痛ましい。
『一旦壊す』のは薬物中毒から解放させるような辛さ・苦しさ・忍耐が必要なのである。

かなりの飛躍話をここでしておこう。
ロボット技術が盛んな時代である。
製品化される時には、ばかみたいに人間の指示に従うロボットではなく、相当、人が頑張らなくてはコントロールできないロボットを投入していただきたいと願う。

今夜の話題の意味が分かっていただけたら嬉しく思う。
 

もうひとつの肩の荷を降ろしてきます 2009年11月01日(日)

  今夜の日ハムの勝利は大きかった。

「ダルビッシュ投げるのかな?」
私とKは今朝からそんな話題で盛り上がっていた。
「もし投げたとして、負けでもしたら日本シリーズは終わったも同然になってしまうし、彼の身体は痛み、来シーズンも回復できるかどうか分からなくなってしまうよ。でも、投げたとしたら凄いよね。」
私の見解も揺れ動いていた。

そのダルビッシュが投げた。
後先を考えず勝負に出ることが人生の中で数回あるが、彼は今夜それを選択した。

楽天の野村監督は最後に岩隈を登板させたが、あれは最後の最後に情を見せた采配であり、真に勝負を賭けるのであれば岩隈・マー君のふたりに初回から残りの試合をすべて託すのが正解であったと思う。
それでも来期を見据え、選手のことを考えたなら普通そんなことが出来るはずもない。

だが、今夜ダルビッシュは登板した。
心揺り起こされ私達の応援が熱狂的になった。
最後に鋭いライナーがライトに飛んで肝を冷やしたが、定位置でキャッチできたのはダルビッシュとチームの熱い思いが届いてのことだったと感じる。
是非札幌ドームに戻ってきて欲しい。

さて、雨と寒さのせいなのか今日のカフェは全くおヒマな11月のスタートとなってしまった。
統計を見ると例年のことらしい。
そこで…というわけでもないが、心に残っていた計画を来週8日から実行することにした。

小姉と二人暮らしで、兵庫に住む84歳になった私の母の痴呆が進んで身体も弱っている。
その母が、故郷であり人生の一番いい時期を暮らし続けた福岡に行ってみたいと何度も言うらしい。

11年前に亡くなった親父なのに、今年から「何言うてんの。お父ちゃん生きてるよ」と言い始めている母である。
3年前は私が「史明です」って電話をしても「史って誰やったかいね?」と言っていた母である。
レンタカーで九州を目指しても、途中で何を言い出すか分からないだろう。
それでもいいと思っている。
体調を見ながら母が行きたいという街へ行き、母が見たいという海や山を見せてあげようと思う。
だから宿の予約もしていないし何処に泊まるかは母の気持ち次第である。

何があっても“織り込み済み”のおおらかな旅で、恐らく最後になるであろう親孝行をしてこようと思う。

カフェは通常通り営業しますが、8日(日)午後から定休日まで私は不在となり、レッスン・お散歩チェック等できません。
常連の皆様、Kとカフェをよろしくお願いいたします。
 

なんか肩の荷をひとつ降ろせたような 2009年10月30日(金)

  昨日の定休日、原始林へ出かけてきた。
先週もアモを連れて散策してきたのだが、その前に出かけた時の恐怖体験が頭から離れなかった。

9月の末いつものようにアモが10メートルほど先を先導していた。
その後を歩いた私の足元から最も苦手とする1メートルほどの蛇がにょろにょろと這い出したのだ。
「ぎゅあ”−!」と叫ぶと同時に後ろに飛びのいた私は、以後あたりをキョロキョロしながら凡そ罰ゲームのような散策を終えた。

あれから2度目の原始林。
秋も終わりを迎え、蛇は当然いなかった。
来年の夏までにこの記憶が消えてくれることを切に望む。

さて、以前から気にかかっていたことが思いもかけず解消されることとなった。
「盲導犬の元ユーザーが老人ホームに入所してるんだよね。元気にしてるかな」
原始林に向かう車の中でポツリと私は漏らした。
「急に思い出したの?」とK。
「うん。でも年に何度かは気にかかっていた」と私。
「原始林のあと、一緒に行こう!」
Kの一言で決まった。

岩見沢の天狗まんじゅうをお土産に恵明園という盲老人も受け入れている施設を訪ねた。
3人の元ユーザーが入所してる施設だ。
両手を消毒し、マスクをつけて受付をした。
「みなさん元気でしょうか?」と私が不安げに尋ねると「はーい元気ですよ」との職員の言葉に心底ほっとした。

それぞれの個室を私は訪ねた。
美幌で30年の間に4頭の盲導犬を使用し、町中を知り尽くしていたMさん。
北見方面に出張の時は昼寝をさせてもらったり泊めてもらったりした美幌の母さんだ。
9月にぎっくり腰をしてまだ痛みがとれずベッドに横になっていた。
握った手はしわだらけになっていたがとても暖かだった。
「記憶力が落ちた」なんて言ってたが、最後の盲導犬グースがWさん宅で今も元気にしていることや、昔の話をとめどなく聞かせてくれた。

2階の部屋の前では室蘭のTさんが誰かと話し終えたところだった。
「Tさん、こんにちわ。」声をかけたが反応が無い。
傍によって「Tさん、長崎だよ、な・が・さ・き」
「はあ?ながさき?・・・先生!?」「そうだよ」
耳が遠くなっていたが私だと分かると腰を抜かさんばかりで、昔の癖のままに手のひらをぽんと叩いて喜んでくれた。
「耳が遠くなってね。声もこんな調子で…カラオケもできなくなった」
そう嘆く声は昔のままのしっかりしたいい声だった。
話している間中私の手を握り締めていた。

「Yさんにこれから会ってくるよ」とTさんに別れを告げると
「Yさんはたぶん部屋にはいないよ。彼女ができて入り浸りだから」
「ひゃー!そりゃいい!よかったよかった」と私は大笑いして嬉しくなった。

旭川のYさんはとても張りのある声と性格の持ち主であったが、全盲のうえに耳が遠く、盲導犬で歩いていた時から国道を横断するときに、耳で車の流れを聞き、信号を判断することができなかった。
それだけに彼の盲導犬には安全に対する確実な判断が求められていた。
事故も無く、よくぞ旭川の町を歩き続けたものだと感心させられた。

昔から俳句や詩吟の名人として盲界では知られた方だったが、後年にはメニエル氏病も患い、立っていることも儘ならない状況だった。
それでも盲導犬を白杖としてだけでなく、身体を支える杖にしてでも歩きたがった気骨の持ち主でもあった。

そのYさんが晩年の今、青春を謳歌していると伺って私は本当に嬉しかった。
「Yさんに長崎が来たよって、このまんじゅう渡しておいてね」とTさんに頼んだ。
「あとから電話させましょうか?」とTさん。
「冗談じゃない。Yさんと電話で話したら何時間にもなるし、それでいて9割方話が通じないんだよな」と笑いながら応えた。

部屋を覗くとやはりYさんはいなかった。

廊下を歩くと何人もの老視覚障害者を見かけた。
盲導犬を使用した人々ではなかったが、その殆どの方は私の顔見知りだった。
声をかけると帰れなくなってしまうから『元気でね』と心の中でつぶやいた。

これから原始林を歩くたび、蛇の恐怖を忘れこの方々を思い出すことだろう。
 

シベリウスを奏でるオーマンディが好き 2009年10月24日(土)

  私はカラヤンのベルリンフィルよりオーマンディのフィラデルフィアが好きだ。
そう言っただけで音楽好きな方には私の性格が星占いや血液型性格診断みたいに理解されやすいかもしれない。

ファイターズのファンになってパリーグの野球を深く知るようになると、セリーグの野球が物足りなくなった。
昔は“大味”という印象をパリーグに持っていたのだが、今ではセリーグの生真面目さにプロ野球の動脈硬化というか硬直を感じてしまう。

どちらもプロ野球なのだから強靭な肉体と精神それに専門的な技術や理論を構築しているはずである。
だが、同じ野球つまり同じ作曲家の音楽を奏でていても指揮者と彼によって育てられたオーケストラでは全く異質な芸術を作り出すものだ。

そこには“良し悪し”よりも“好み”が生まれ、それは幸か不幸か時代によって左右されることがある。

基本を徹底して追及し、奔放に奏でさせているような満足感を奏者に与え、実はすべてが指揮者の手の内にある、なんて考えただけで身震いがする。

クラシックならば作曲者が譜面に描いた音楽の忠実な再現か否かの確証は得られることは無かろうが、緻密な考証をし、そこに至ろうとする指揮者の想いの結実を感じることが、聴く者に鳥肌を立たせてくれる。

その結果においてのオーマンディが好きだ。

基礎を固め、個性を奏でさせ、圧倒的な迫力と、繊細で見事な全体のハーモニー。
すべては手の内にありながらさらに発展してゆく。

私の愛犬育てと同じ臭いがして勇気付けられるのだ。
 

こんなに嬉しい残念はない 2009年10月21日(水)

  見た?見ましたかぁ?
今夜の我らが北海道日本ハムファイターズの逆転サヨナラゲーム。
本当にこのチームは諦めない気持ちを示し、道民に勇気を与えてくれる。

1−0(よっしゃー!)、1−3(まだまだ)、1−6(アカン。普通はここで諦める)、4−6(おお!ちょっと期待を持ち直す)、ここでテレビ中継が終了しラジオに切り換える。途端に4−8(ふぁ〜。完全に諦める)

ここで私はある決断をする。
ラジオのスイッチを切ったのだ。
負けを覚悟したのが正直な心境だが、実は我らがファイターズ、こんな状況から何度か逆転しているのだ!

このような試合で私が最後まで見ていた時は勝ったことがない。
あとでテレビを見て『ウッソー!すげぇー!逆転勝ちしてんじゃーん!』
そんな展開ばかりだった。

そんなジンクスの僅かな可能性をほんの一瞬感じながらラジオを消したということを信じていただけたら、
『途中でラジオを消したお前は真にファイターズのファンか?』という自責の念から解放される…

ああ、ドームに行ってれば凄い感動が味わえただろうに!
 


- Web Diary ver 1.26 -