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恥ずかしいことなのだろうが、私はもう何年も健康診断を受けてはいない。 私の身体がおかしくなったとしてもそれは膝や腰であり、そんな時は里塚温泉で温泉ヨガをし、それでもだめならこの欄で何度となく紹介してきたS治療院に駆け込めばすべては解決するからだ。
S治療院。 院長は佐々木紀夫。 盲導犬使用者であり、北海道盲導犬協会の会長であり、全国の盲導犬協会が加盟するNPO法人全国盲導犬施設連合会の会長でもある。
が、今の私にとってはそんな肩書きは関係なく、只の大切な先生であり昔ながらの友人である。
私が駆け出しだった頃、白い杖をついて病院勤務をしていた彼は盲導犬に興味を抱いた。 「相談がある」と盲導犬協会に連絡してきた時に、私を育成していたK盲導犬指導員は彼の自宅に私を同行させた。 そう、30年前のあの日から私と佐々木紀夫との付き合いが始まったのだ。
障害者に対する偏見というのをご存知だろうか? いや、今夜はそんなたいそうな話を展開したいのではなく、佐々木紀夫に初めて会った日の私を証言しておきたいのだ。
・彼は普通に私達を迎え入れ、K指導員も普通に入り込んだ。 ・私は西日が半分差し込む部屋で、大人同士の会話を真剣に聞いていたが今その確かな記憶はない。 ・そばに奥さんと子供が座っていたのを覚えている。 「長男に競馬新聞を読んでもらうんだ。一回100円でね。」 盲導犬についての説明が終わり、身近な話題になった時のそんな記憶が鮮明に残っている。
“障害者でありながら工夫しつつ温かな家庭を築いている”という観念。 それこそが障害者への偏見であったこと、あれからが私の意識が変わった瞬間であったように後に思う。
視覚障害者の彼は普通に振舞い、笑いながらも『もっと楽に通勤したい』と正直に嘆き、その家族が傍で見守り、息子は競馬新聞を読んでいた。
佐々木紀夫にはロンという盲導犬が貸与された。
通勤するためにバス会社の理解を得なければならず、調査員同行のテストも行われた。 混みあう通勤時間帯のバスに同乗していた私は、調査員に無言の圧力ともいえる笑顔で職責を果たしていた。 勤務先の病院では倉庫のような場所しかロンには与えられず、ロンを説得しようと試みる私達以前にロンはすべてを受け入れてくれた。
佐々木紀夫は元々普通の人間だったのに、20歳の時に視覚障害になり、以後ある使命を何かに導かれて開花させるような人生を歩んだのだと思う。
その彼が今朝方死んだ。
仕事の合間をみて駆けつけたとき、“おくりびと”によって湯灌がなされ死に装束をまとい始めていた。 奥さんは大丈夫だった。 死を受け入れる時間が少しはあったらしいから…
血液にウィルスが入ってからの連鎖が引き起こした死であったとのこと。
たいしたもんだよ、紀夫さん。 あんたの人生は。 お悔やみを言う私に紀夫さんの愛犬グリーンが甘えて何度も顔を摺り寄せてきた。
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