From the North Country

リフレッシュはいつでも何度でもうれしい 2009年01月30日(金)

  3連休を利用して温泉三昧でリフレッシュしてきた。
臨時休業の水曜日にご来店された方、申し訳ありませんでした。

27日(火):カフェの閉店後、アモとの散歩を終えて里塚温泉直行
3時間たっぷりのんびり
28日(水):洞爺湖温泉山水ホテル和風(かふう)
入浴4回どっぷりまったり
29日(木):定山渓温泉ぬくもりの宿ふる川
入浴3回くつろぎほのぼのすっきり
30日(金):昼頃帰宅しKは明日からの準備、私とアモは原始林

と、まあそんな流れだった。

いつものことだが、とにかく何もしない旅。
天候に恵まれたから3人で洞爺湖畔や温泉街をのんびり散歩する。
ただそれだけ。
あとは宿にひきこもりそれぞれが自由に過ごした。

今回初めて泊まったふる川はそんなスタイルを好む私たちにピッタリの宿だった。
広いロビーのあるホテルもいいけど、そのスペースを個性的でやすらぎを感じさせる空間に仕切り、宿泊客に自由に使わせてくれるのは“宿”ならではのおもてなしだと感じた。
どうせ足元で横になるだけのアモの同伴が客室とロビーだけでなくそんな空間でも許されるなら虜になりそうな宿だった。

これもまたいつものことなのだがKの人柄というかコミュニケーション能力の賜物なのか、すぐに誰かと知り合いになりいろんな話を収集して私に教えてくれるし、次に会った時には友達のように会話をして私を紹介する。

洞爺湖のホテルでは88歳のオーナーと温泉で話し込み、部屋に戻ったときにはのぼせてしまっていたが、その情報収集量はこの女性の半生以上に及び、翌朝チェックアウトの時にはさらにまたロビーで話し込むことになった。
いくらオーナーといえど、88歳の女性が立ったままでの話をソファーに腰掛けた私たちが聞くのは忍びなかったが「いいの。このほうが楽だから」との言葉に、つい長話になってしまった。

30分ほどして『ええ加減にせいよ』というアモの寝返りで私たちは話を切り上げホテルを出たが、結核を20年も患いながら7室から始めた宿を今日のような立派なホテルに育て上げた犬好きな88歳のオーナーの人生をたっぷり聞かせていただくことができた。

翌日のふる川では私が温泉に入っている間にKは担当の仲居さんとすっかり仲良くなり、この女性も「アモちゃんは本当におりこうだねぇ」と撫ぜながら夜食のおにぎりをサービスしてくれた。
「3階にも毛の長い小さいわんこが泊まってるんだけど、吠えて吠えてうるさいのよね」って余計な話までしていた。

チェックアウトで部屋を出るときKが「ボールペン」と尋ね、「テーブルの上」と私が言った。
Kはテーブルにある宿のアンケート用紙のお部屋担当係の欄に100点と書いてニコッとした。

のんびりまったりとクリスマス以来の疲れを癒す旅で、私は人との関わりを敬遠しがちだったが、Kがいろんな人と話をして笑顔になる場面に触れながら『そんなくつろぎ方もあるのだな』とふと思い、チェックアウトの時間に出勤してきた昨夜の仲居さんが最後までお見送りしてくださり、気持ちはさらに爽快になった。

同時刻にチェックアウトしたシーズー2匹を連れた中年男女がいた。
会話することもなくそそくさと駐車場に向かっていた。
「なんかあの奥さん疲れたような顔してたね」
Kのそんな一言が昨夜からを物語っているようでちょっと気になった。
 

優しい言葉がこそばゆい 2009年01月27日(火)

  次のカフェの営業は31日土曜日からです。

「明日レッスンをお願いしたいのですが先生の足の状態は大丈夫でしょうか?」
昨日そんな電話予約が入り、お客様の心遣いにとても恐縮してしまった。

2週間前に足を痛めた私は『このままじゃアモの散歩は勿論、お泊り犬の散歩やレッスンを受けることもできなくなる』と考え、旧知のS治療院に電話を入れた。
「明日診てもらえんべか?」
私が電話する時はいつも窮地に陥った状態であることを知っているS先生は「じゃあ9時に来い」と言ってくれる。

S先生は昭和17年生まれの66歳で心臓に疾患があり、専門分野は鍼治療である。
だが私はS先生の鍼治療が苦手で、年寄りの先生には体力的な負担がかかるあんまマッサージでの治療を依頼している。
揉みの痛さに悲鳴を上げるほうが鍼の怖さよりマシであると思い込んでしまっている私なのだ。

お互いいつも憎まれ口を叩きあいながら付き合ってきているので素直にはなれないのだが、私が治療依頼の電話をする時は心の隅で『まだ揉める健康状態だろうか』と受話器の向こうを気遣ってはいるのだ。

先週の揉みの力ならまだ5年は頼れそうであったし、「変形した膝だけどうまく使えば5年はもつ」と相手も返していたが、熟練した技というのは治療を受ける私にも伝わるものがあり、それは犬の訓練に通じるものを感じている。

私が「ここが痛い」と伝えると、その患部は軽く触るだけで実際に揉み始めるのは離れた場所であったり、時には反対側の足であったりする。
犬の訓練もしかり。
『咬むんです』という飼い主の相談に対して咬ませない訓練を私はしないし、『拾い食い』に対して拾い食いをさせない訓練も行わない。
なぜならそのような犬にはもっと別の根っこがあり、その根っこを治療しない限り真の解決には至らないからである。

私の仕事に犬のレッスンがあり、その仕事を無事行うためにS先生の治療を受けている。
S先生は治療をするのが仕事であり、自分の健康増進と生活の為に盲導犬を使用し、私が過去に訓練した盲導犬も使用されていた。
カフェのお客様は私たちの生活を守ってくださり、自分たちの愛犬の成長に喜びを感じておられる。
そんな繋がりと『お互い様』の関係ではあるのだが昨日のように「足の状態は大丈夫でしょうか?」優しく言われると嬉しくもありこそばゆい感じがする。

今度治療を依頼するときに『身体大丈夫かい?揉みは辛くないかい?無理しなくていいんだぞ』と優しく聞いて見ようか?
あの男なら『バカったれ!』と返してくるに違いない。
憎まれ口を叩いているうちは元気だと思えるのもまあ、ありか。
 

おもんばかる 2009年01月25日(日)

  28日(水)カフェは臨時休業いたしますのでご了承下さい。

金曜日の雨と土曜日からの冷え込みで生活道路はスケートリンクになってしまった。
おまけに今日はその上にうっすらと積もった雪で、何処が滑るのか分からずヒヤヒヤの散歩を余儀なくされた。
犬でさえまともに歩けずに転ぶのだから、転倒された方も多かったはずだ。お見舞い申し上げます。
私はワンタッチ式のスパイクを長靴に装着したおかげで転倒こそ免れたが何度も転びそうになり腰の辺りと首筋が伸びた感じだ。

それにしても子供というのはどうしてあんなに柔らかく転ぶことができるのだろう?
あれなら全然痛くないし怖くもなかろう。
案の定、登下校途中ではランドセルをクッションにして転び遊びを楽しそうに繰り返していた。

この路面を経験して『自分にとっては何でもないどころか楽しいことなのに、人によっては大怪我に繋がる』という、相手をおもんばかる人間に育つきっかけとなって欲しい。

カフェの土日の常連に黒ラブのクロ坊がいる。
遊び好きなのだがとてもセンシティブで相手の気持ちを見抜き、それに併せた接し方ができる才能というか経験による学習能力を身につけたわんこだ。
今日は遊び仲間の黒柴と猛烈な申し合いで体力を発散させていたが、体格に勝る自分を知ったうえで相手を傷つけず怒らせず遊びであることをお互い楽しむ気配りに溢れた取り組みに感銘さえ覚えた。
面倒見の良い高学年の男子がやんちゃな低学年を相手に見事な振る舞いをしているようでもある。

低学年だろうが誰だろうが遊びにおいて容赦しないガキ大将のような我が家の愛犬アモとは、その点において明らかにクロ坊の方が出来たわんこである。

陰湿さがなく純情で、昔の子供社会では日常だった光景を今日のカフェで垣間見ることが出来た。
 

カフェの事件簿から。迷探偵の推理 2009年01月24日(土)

  ありがとうございました。
本日をもってクリスマス頃から入れ替わり立ち代り続いていたお泊り犬が帰宅し、我が家は一旦水入らずの静かな夜を迎えております。

いつもお泊り犬とは楽しい時間を過ごしているのだが、そこはそれ、あくまでもお預かりだから結構気を使うのは当たり前。
でも数日間付き合っているとついつい分かり合えたような気がして魔が差したように油断してしまう。

今回も定休日に気を許してカフェ内でフリーにしていたわんこがちょっと目を放した隙に商品のきびなごの袋を破り、2袋800グラムを平らげてしまう事件が起きた。

カフェにはアモを含めた4頭のわんこがいたのだが、それぞれの犬がどのような関わりを持ったのかを推理するのはとても面白いことだった。

2階の掃除を終えてカフェに下りたKはその情景にあっけにとられ「わー!」と発した。
その瞬間、一頭のわんこが『ヤバイ!』『ごめん!』という表情で部屋の隅に逃げたらしい。
Kはそのわんこを一瞬主犯と思ったようだ。

しばらくして帰宅した私にKは頭を下げて「ごめん。本当にごめんなさい。油断してました」と、きびなごのあった商品棚を指差した。
状況を聞いた私は犬たちが食べた物が安全なものであることもあり、Kと一緒に冷静に推理を始めた。

最初Kが主犯だと感じる振る舞いをしたわんこはいつもフリーにして何の問題もない信用できるわんこであった。
私が絶対的な疑いを持ったのは初めてお泊りのわんこの方であり、そのお腹を触ると明らかに膨張していた。
『この犬が袋を破り食べ始めた。だけどそれを見ていた他の3頭がどう関わったのかは夜か明日にならなければ分からない。うんちを見て結論をまとめよう』ということになった。

で、翌朝結論は明らかになった。
1.初めてお泊りのわんこが袋を破って食べ始めた。(念のため夕食を抜いたのに、うんちが出るわ出るわ…それに預った当初の振る舞いを見ればその行動は充分想定範囲だったこと)
2.Kが最初に疑ったわんこは、二人で話し合った結果『そんなことを自ら最初にやることはなく、尚且つちゃんと育っているからこそヤバイという行動をとれる素直な感性を持っている信用度の高いわんこである』ということ。
だがそのわんこのうんちは翌朝とても多く、『ご相伴できます?』と言って結果的におこぼれを頂戴したことも間違いないようだった。
3.では、アモともう一頭はどうだったのか?
うんちには何の変化はなく、事件当初からも平然としていたことから『おいおい、あんたたち、そんなことしていいと思ってるの?』と傍観していた様が想像された。

そんな話を今日のカフェでしていたら
「本当にアモたちは何にも食べてないと思う?3本くらい…」と意地悪な質問をされた。
「うぅーむ」

実際のところどんな光景だったのでしょうかねぇ。
 

『変わりなく続ける』ことの幸せ 2009年01月21日(水)

  昨日一日降り続いた雪。
朝から4度も除雪作業に追われたが、ホンダハイブリッド除雪機ガロアラシ号が13馬力の威力を発揮してくれたおかげで重く湿った雪も私の体を痛めつけることなく吹き飛ばすことができた。

でも4度も除雪した事実に変わりはなく、必然的に今夜はいつもの里塚温泉で身体を癒してきた。
すっかり馴染んで心配なくなったお泊り犬は、私たちが帰宅しても眠そうな表情で『どっか行ってたんですか?』と顔を上げてまた眠り始めていた。
『里塚温泉』=『若鶏の半身揚げ』と理解しているアモだけは、Kが分け与える一切れをせしめるまで納得しなかったがそれを得た今は充分に満足気な表情で横たわっている。

早いもので『あけおめ』で始まった1月も下旬に入った。
例年2月のカフェはお泊り犬も少なく荒れた天候に左右されるためか、客足も遠のいてしまう傾向にある。
だからPRを積極的にして経営努力を行う必要性を感じる一方、『しばらく冬眠経営するのも悪くないかな?』などと悪魔のささやきも聞こえてしまう月である。

どうすっかなぁ。
お泊り犬がそこそこいてくれて、雪は夜の間に降り積もって朝に除雪ができ、トリミングの予約がぼちぼち入り、日中はカフェで楽しいおしゃべりができて、夜には10日に1回くらい里塚温泉に行けたら最高なのだが…

毎年そう思いながら2月はヒマなのに何の手も打たないでいる5年が過ぎ、『今年はどうなるかなぁ』などとまた悠長に考えている。
中年二人とわんこの暮らしぐらいなら、それでもこれまでは何とかなっていた。

高望みがないではないが、今年も何とかやっていければよしとしよう。
明日はまたS治療院で膝の治療に悲鳴を上げる予定だが、その後カフェは定休日なので『かもめ食堂』に引き続いて楽しみにしていたDVD『めがね』をまったりと鑑賞しようと思っている。
 

『膝や腰の炎症に酒はよくない』、よね。 2009年01月19日(月)

  昨日のこの欄をお読みいただいたのだろう。
ご主人が亡くなった悲嘆から黒ラブだった身体が突如白くなったソニアの飼い主Kさんが湿布薬を届けてくれた。
今日の札幌の最高気温はなんとプラス7度。
カフェ周辺は解けだした雪でひどい事になっているが、痛めている私の膝腰には大助かりで、おまけにKさんからいただいた湿布薬を寝る前に貼れば効果覿面の予感がしている。
いや、夕方からは凄い嵐になっているので明日の除雪を無事終えるための大きな手助けになってくれるものと期待している。

「へぇー。マテっていうのはそこまでやるんですねぇ」
土日にレッスンを行ったラブラドール/マックスの父さんが私の訓練を見て感嘆されていた。

なんてことはない。私が行った訓練は
・マテと指示してそのまま動かない基本を教え
・待ってる状態で私が犬の周りを一周しても待つことを教え
・マテと言いながらしゃがんだり手を叩いても誘惑されず待つことを教え
・歩行中に突然マテと言ってフリーズすることを教え
・マテと指示しされれば、リードを引っ張られてもそこで踏ん張って動かないことを教え
・交差点でマテをかけた後、私が歩き出してもその場を動かないことを教えたに過ぎず、これは訓練の基本中の基本である。

重要なことは、できないことを『ダメ!』と叱るのではなく、できるように誘導しながら『偉いぞ』と褒め称え、それができたらできなくなるような誘惑を徐々に与えつつできるように導き『スゲェー!』と感嘆することであろう。

そして何故そこまでやるか?を理解することである。
私が行うマテの訓練は高等であり、日常生活に必要なマテはそれより低レベルでも充分に役に立つ。
言い換えれば小学校高学年レベルのマテができれば日常で充分おりこうさんのレベルなのだが、マテの約束事はとても重要なので高校生段階のマテができるまでしっかり教えておく。

高校生レベルのしつけを学んだ犬には日常生活に必要な小学生レベルのマテなどお茶の子さいさいにでき、めでたしめでたしという筋書きである。

ちょっとちょっと『マテ!それ以上飲むな!』
そんな訓練をしてくれる人が私には必要なのかもしれない。
 

知識や技術は身を助ける 2009年01月18日(日)

  14日の水曜日、朝ベッドから降りた瞬間に左足の親指の付け根に痛みが走った。
その日レッスンが入ったのだが20メートルも行かないうちに私は痛みでまともに歩けなくなってしまった。

翌木曜日、骨折したような痛みが続き病院に行く覚悟を決めかけていた時、トイレで自分の足を眺め叩いてみると腫れはなく負担さえかけなければ叩いても痛くはなかった。
『これは病院ではなく治療院だ』とひらめき、いつものS治療に駆け込んだ。

力強い治療を受け、悲鳴に近いうめき声を上げること1時間。Sさんの的確な施術で私の足は再生し、さらに翌日の金曜日にはアモと原始林へ出かけることまでできた。

が、左足をかばって歩いた負担が右膝や腰にきて結構危うい状態が続いている今日、初めてのゴールデンのお泊りが入った。

そのわんこはハーフチェーンを付けているのだが、引っ張る力はもの凄く、このままでは私の体が壊れてしまいそうだったので夕方の散歩の際はチョークチェーンを使用させていただいた。
おかげで『助かったぁ』という場面が幾度かあり、散歩の後半にはとってもおりこうな歩きをみせてくれるようになった。

道具や技術というのは我が身を助けてくれるものだから、若いうちにちゃんと勉強していて良かったとつくづく思った次第である。

8歳になって初めてのお泊りを経験することになったゴールデンだけど吹雪き始めたガーデンでちゃんとシッコとウンチをして今眠りにつこうとしている。
 

2頭目にまだ幼い仔犬を選ぶのはどうなのか? 2009年01月17日(土)

  長崎塾にある『犬を育て犬と育つ』の全文を読まれた栃木県の那須にお住まいのYさんから以下のご質問をいただいた。

『ところで、お尋ねしたいのは、その”犬を育て、犬と育つ”にあった生まれて間もない子犬を育てると、とてもいい犬になるというお話がずっと心に残っているのですが、これは、先住犬がいる場合は、論外でしょうか?
あくまでも、子犬と飼い主の一対一の関係においてのおはなしなのでしょうか?』

メールでいただいたご質問だけど、この欄をご覧になっておられるとのことなので返事に代えて今夜書いてみようと思った。

質問の趣意は、私が盲導犬に関わっていた頃、例えば未熟児で生まれた仔犬を母犬から離し、深く人間が関わって育て上げるとどういうわけかとても優秀な盲導犬になり、且つそのような経験が他の盲導犬協会のスタッフにもあったことに由来する。

2時間おきの人口哺乳、保温、排泄を促すためお湯に浸した綿花で陰部を刺激すること、時には心肺蘇生も必要なことがあった。
そんな仔犬を離乳食が食べれるようになるまで育てると、人間どうしても愛着が湧いてくるものである。
そんな仔犬は本当に立派に育った。

いろんな犬の専門家が『仔犬は社会性ができる3ヶ月以上を親兄弟と過ごすのが鉄則』みたいなことを言ってるし、獣医の多くもそれに同意しているようだが、私は今でもそれに同意しない。(なんだか今夜の酔いはいつもより重そうなので以下支離滅裂だったらごめんなさい)

獣医を含めた専門家が主張する意図は分かる。
確かに仔犬の社会化期に親兄弟と過ごすのは様々ことを吸収する絶好の機会だし欠如すれば後に問題が起きることだろう。
だがそれはイヌ社会での社会化であってペット社会ではちと違う側面があることを忘れてはならない。
イヌ社会での社会化では優劣や上下関係が重視されるがペット社会でそんなことを競うのは野蛮だし、犬が人を信頼し一目置きそのうえで楽しくともに暮らそうというのはとても自然なことなのだ。

つまり、犬社会で上下関係を学んだ犬に対して人間が威厳ある態度を示して従属させるより、物心ついた時から人間が親であると思い込んでいる刷り込み/インプリンティングされた犬のほうが感性は人間に近くなるということだ。

だが実はそう簡単なことでもない。
親兄弟と育つ社会化期というのは本当に大切な時期で実に多くの事柄を経験し後の生き方に影響する。
あなたはそんな時期に親兄弟に代わって様々な経験や人生訓を仔犬に教えられますか?ということでもある。

私が書いた未熟児や血液型不適合児あるいは飼育放棄された仔犬たちには盲導犬のプロが付き添っていたという現実を重く受け止めて欲しい。
そのうえで『そんな子達は素晴らしい盲導犬になった』と言っているのである。

Yさんの質問に戻ろう。
2頭目にそのような犬を飼うのはどうなのだろうかというものだった。

『2頭目の飼育はとても楽に感じられる』と私はこれまでに書き、だけどそこにとてもやっかいな問題が生じることを論じ、だから結果的に2頭目以降の犬は一頭目のつもりでちゃんと育てないと問題児が多くなると警告してきたつもりである。

だがそれはあくまでも経験的にであり、その傾向と問題点を踏まえたうえで育てられるのならとても素晴らしい経験をされるはずだ。

2頭目にそのような犬を飼っていいかどうかは、2頭目への期待とか1頭目のお相手とかではなく、自分がその意思と時間を持っているかどうかで決められるべきものなのだと感じる。
読み返しても自分の文章が成立しているのかどうか分からなくなってしまっているので今夜はこれでおしまい。
 

チェンジって…自分に向ける言葉だと思う 2009年01月14日(水)

  先程まで冬の嵐が吹き荒れていた外を見ると、東の空にくっきりと八分咲きの月が輝いている。
激しい雪、強風、カミナリそして月。このあとも次から次へと天候は変動していきそうな今宵である。

昨年から今年とレッスンを始めた愛犬を見てみると、まるで今夜の天候のような移り変わりがあるといえるだろう。
依頼主の相談内容は吠える引っ張る咬みつく散歩ができないが主で、最近の傾向として将来的に暮らしやすい愛犬に育てたいのでお知恵拝借という予防教育的な側面がある。

私の説明に対してどちらにも共通しているのが『へー、やっぱり犬ってそんな風に暮らせるんですね』という原点に近い飼い主の共感である。

どういうことかというと、元々犬と暮らし始めた方々は過去のどこかで『愛犬と暮らす』ことに夢だけでなくある種のイメージを持っておられたはずだ。
まるで男女が結婚に胸を膨らませ、マイホームのある生活に夢を描くように。
それが実現し時間が経過すると、『こんなはずじゃなかった』という方向に徐々に向かうケースが多く見られるのだが、少なくとも『愛犬と暮らす』という夢に限れば所期の夢への修正が可能だということである。

結婚生活は相手を変える(代える?)のは容易ではないし、マイホームだってそうそう変える訳にもいかない。
でも愛犬との暮らしは“自分が変化すれば”変えるというか掴むことができる範疇に大いにあるのだ。

普通に愛情を持って育てていれば“夢に描いた愛犬”が育つわけでは決してないことを知っておこう。
犬は犬としての振る舞いをし犬種特性それに親から受け継いだ稟性によって行動する。
それをどう取捨選択しふるいにかけ、伸ばし、受け入れ、排除するかが飼い主には問われているし、相手が人間ではないので胸を張って主張できる権限を有している。

いずれにせよ犬の良いところは少なくとも二つある。
ひとつは人間が普通に育てただけで飼い主を満足させる愛犬に育ち、“夢に描いた愛犬”とはチト違うにしても結果的に幸せな人生を送る確率が高いこと。
もうひとつは、ちょっと頑張って愛犬育てを経験した飼い主に『犬や人を責めるばかりではなく、自分自身を見つめ直し、自らが変化することでも周囲は変わる』という人生哲学を悟らせてくれることである。

年をとると頑固になるというが、確かにそうだと感じる。
犬たちがいるから私はまだ“まとも”な範疇に留まっていられる。
どこが“まとも”かと追求されたら顔を隠さなければならないだろうけど、おかげさまで私は日々犬たちから何かを学んでいるつもりでいられる。
 

アモとの円熟期 2009年01月12日(月)

  今日12日はおめでた3連発。
シーズーのアトムとルパンのアトムが6歳の誕生日。
ラブラドールのももとさくらのさくらが3歳の誕生日。
愛犬アモが我が家にやって来て今日から4年目。
主役の3頭は今日のカフェでなんでもない普通の一日を過ごし、それぞれの飼い主がそれぞれの感慨をそれぞれに抱いていた。

『アモと暮らし始めて丸3年かぁ。』
振り返ってみれば1年目は初期のしつけと前十字靭帯断裂による手術の連続で、2年目がリハビリと本格的なしつけ、そして3年目から全幅の信頼がおけるようになり体調も万全で存分に遊び始めた時期と言えるだろう。

4月が来れば8歳になるアモ。
“思いっきり”の生活ができるのもあと2〜3年だから、私たちの生活の軸足は余程のことがない限りアモにおくことになるだろう。

狂犬病の注射は法律で決められてるから当面は仕方ないにしても、ワクチンについてはそろそろ卒業しても室内家庭犬だから問題はない年齢だ。
まあ看板犬を務めているから防御的にパルボだけはあと1回くらい接種しておいたほうがいいかもしれない。

でもそれで困るのは“ワクチン接種証明書”がないと入れない店舗や施設が存在すること。
何を明確な根拠にしてあんなことやってるんだろう?
『うちの施設はちゃんとしてますよ』というお札というか免罪符にしたいとしか思えない。
そしてそれが常識のように一人歩きしているのが恐ろしい。
年齢別地域別の罹患率や副作用の危険性を天秤にかければ『接種するかどうかは獣医師の意見を聞いたうえで飼い主が判断できる』という原則を無視している。

高齢犬の場合、万が一ワクチンを接種しなかったがために病気になってもすでに免疫があるから軽度で済むだろうし、『中途半端な免疫過信が重大な結果をもたらす』というアドバイスに従って接種した結果、副作用でおかしなことになった方がより大きな後悔を感じると私なら思う。
いずれにせよ飼い主にその判断は委ねられているのだ。

まあ、これからのアモとの生活ではそんなことは軽く流してしまおう。
他にも楽しみたいことがたくさんあるのだから。
ともあれ今日からアモとの生活4年目に入り、それは円熟期であるという喜びでいっぱいである。
 


- Web Diary ver 1.26 -