From the North Country

変化と原点(原点を知ってこそ変化あり) 2009年02月06日(金)

  定休日初日の昨日は札幌雪祭りの初日に出かけてみた。
目的は芦別名物のガタタン(含多湯:具沢山の塩味スープ)と子豚の丸焼き。
ガタタンはKと私があったまるためで、子豚は塩胡椒抜きでのアモ用である。

生憎の雨に近い雪にも関わらず、会場はインターナショナルな混みよう。
ガタタンを二人でフーフーやりながら食べ、子豚それに牛肉のサイコロカットをアモにプレゼントしたが総合的に感動はいまひとつ。

あんな雪祭りってないよな。
30年前からを知ってる人間にしてみれば今年の雪像を前に“国際的なイベント”と言われたら顔が赤くなってしまった。
どっかその辺の公園で、雪像作りに秀でた人たちが面白半分に作ったパフォーマンスみたい。

昔は『すげぇー!これなら世界相手にも自慢できるよなぁー』っていう圧倒される雪像があちこちにあったのに、今年のそれは見物している私たちが、誰に対してなのか申し訳なく恥ずかしく思えてしまった。

今年はこれまで制作に関わった自衛隊もほとんど撤退し、スポンサーの資金力も弱体し、かろうじて体裁を整えるのが精一杯だったのだろう。
主催者の苦労と無念さが表面化しないことだけが来年への期待と感じられて切ない。

夜のイルミネーションがロマンティックだけど、あれなら神戸でも横浜でも簡単にできてしまい札幌が輝かない。
国際的になる前の雪祭りはお金がない時代でも市民が楽しみ、中学生が主体になって想像力を形に表現するエネルギーに満ちていたという。

今の時代は娯楽が溢れ滅多なことで人々は感動しなくなっている。
だがそんな情勢に左右されるような基準で雪祭りの衰退を嘆いているのではなく、純粋に『あれじゃいかん』と感じている市民は多いと思う。

200万人の来場による経済効果は大きいだろうけど、それはこれまでの遺産によってもたらされたもので、今年の失敗が来年以降に影を落としてしまわないかと心配している。

言葉が通じなくても、期待通りの天候にならなくても、見るものを圧倒する世界に誘うような感動を与えるのが雪祭りだったと私のDNAは記憶している。

いつも誰しも心に留め置かなくてはならないこと。
それは『原点を忘れない』ことじゃないかな。
 

所変われば 2009年02月03日(火)

  正月のおせち料理から葬式に至るまで地方によって様々な習わしがあって、戸惑うことがあれば『なるほどな』と唸らされることもある。

今日は節分。
札幌では落花生を撒いて鬼退治をし福を招き入れる。
大豆でもピーナッツでもなく落花生というところに道産子の合理主義が伺われる。
撒いた後に拾い集めやすいし、大きさからして見逃すこともない。
何より殻を剥いて食べるから衛生的である。

北海道は道外各地からの移住・入植者を先祖に持つことが多いから様々な風習が今でも地域に残っている。
だが地域は違えど100数十年の間、開拓という苦労を共有してきた先人たちは、苦境の中でも過去の風習に囚われることなく、新たな方法を『やってみればいいっしょ』という観念で切り開いてきた。
ただの落花生なのに何故か私にはその象徴のように思える。
今は都会になった札幌では、他人をおおらかに受け入れる気質がかなり低下してしまった面もあるが、落花生を撒くたびに『風習に囚われない道民気質』を感じるのだ。

風習と言えば、盲導犬事業にとって北海道は恵まれていた。
今ほどではないが30年以上前から犬を室内飼育するという習慣があって、繁殖犬や仔犬を育てるボランティアがたくさんおられたのだ。
本州の協会はその面で苦労が多く、最近でも玄関先や庭で一日の多くを過ごす犬がいるようだ。
『いずれ犬の室内飼育が当たり前になるようになる』とマスコミの取材で当時答えていたのを思い出す。

25年ほど前、秋田県に初めての盲導犬を送り出すことになった。
「この犬があなたの盲導犬で、名前はリュウと言います」
私の説明に使用者のSさんが驚いたように言った。
「へー、犬に名前があるんきゃ!」
今度は私が驚いた。
「へー、Sさんの村では犬をどう呼ぶの?」
「○○んところのイヌとか屋号を付けて言う」

所変わればいろいろですなぁ。
 

毅然と叱れる飼い主でいいんですよ 2009年02月01日(日)

  冬の嵐で始まった2月。
氷の上に積もった雪はまるで落とし穴をカムフラージュする枯葉のように私を惑わせ、何度も転びそうになりながらも、改めて犬のしつけのことを考えていた。
改めて考えるのはもう何千回を超えているのだろうに…

そしてやはり残念ながらというべきなのか、現在の私にはしつけの“究極”は今流行の『褒めてしつける』ではなく『絶対的なノー!は絶対に教えておくべき』という結論しか見いだせなかった。

これは勿論『犬とどういう暮らし方をしたいのか』の前提によって変わるのだが、私たちのように世間と同化して『普通に社会参加する家庭犬』を目指すものにおいては、どう考えても『こら!』という言葉の重さを愛犬に知らしめておかなければならないということである。

トイレのしつけや歩行の訓練、スワレ・フセ・マテなどを教える際に『ノー』が必要なのではなく、もっと違った生活場面においての必要性を述べているつもりだ。
でもだからといって遠い世界の話でもなく、身近なところでは1歳にもなった犬がゴミ箱を漁るとか、うんちを食べるとかに端を発している問題のことでもある。

例えば犬の食糞の原因には
・寄生虫がいるとか
・腸内細菌の不具合とか
・ビタミンバランスが悪いとか
いろいろ言われているが、室内生活で普通の食事を与えているならそんな可能性は限りなくゼロに近い。

食べてみたら『何らかの快を得られ、習慣化する』のが実態である。
『冗談じゃない。そんなのは絶対ダメだ!』
そんなところから犬に対する『ノー!』が本来始まるのである。
『出したての尿は綺麗なものでそれで命を繋ぐこともできるんだよ』
そんなサバイバルな話をしているのではない。

犬とはいろんな振る舞いをする動物でありそれは人間も同じだ。
成長する環境に合わせて様々な取捨選択を行いながら命を繋いでいるのだが、『それはダメ』と犬に対して人間は専制君主として君臨できる。
君主の『ダメ』によって犬は行動を自省し以後の行動に生かしていくことができる。
それは多くの場合、犬の命を守ることに繋がっている。
・毒物接種や電気コードから守り
・逃亡や道路への突然の飛び出しを防ぎ
・人を噛むなど反社会的行為による排除命令から守るなど
犬自身が知らない様々な状況から飼い主が愛犬を守る結果へと通じる。

ああ相当な酔いがまわってきた。

あとは飼い主の問題。
ダメよダメよは良いの内。そんな風になってしまうのは人間らしいが、本当にダメなときは血相を変えるか『ダメ』『イケナイ』『ノー』の言葉によって『注意』『警告』『処罰』というような処分のレベル設定という手段もある。

今日のようなスケートリンク状の道路は犬も経験済みで慎重に歩くし、少しでも歩きやすい場所を探してコース取りをしている。
こうすればこうなるという必然を理解しているのだ。
そしてたまにその基本を忘れてはしゃぐとスッテンコロリンと転ばされる。
『ノー』とはそんな妥協のない摂理をわが子に伝える親の責任でもある。
命を護るために。共に暮らすために。
 

リフレッシュはいつでも何度でもうれしい 2009年01月30日(金)

  3連休を利用して温泉三昧でリフレッシュしてきた。
臨時休業の水曜日にご来店された方、申し訳ありませんでした。

27日(火):カフェの閉店後、アモとの散歩を終えて里塚温泉直行
3時間たっぷりのんびり
28日(水):洞爺湖温泉山水ホテル和風(かふう)
入浴4回どっぷりまったり
29日(木):定山渓温泉ぬくもりの宿ふる川
入浴3回くつろぎほのぼのすっきり
30日(金):昼頃帰宅しKは明日からの準備、私とアモは原始林

と、まあそんな流れだった。

いつものことだが、とにかく何もしない旅。
天候に恵まれたから3人で洞爺湖畔や温泉街をのんびり散歩する。
ただそれだけ。
あとは宿にひきこもりそれぞれが自由に過ごした。

今回初めて泊まったふる川はそんなスタイルを好む私たちにピッタリの宿だった。
広いロビーのあるホテルもいいけど、そのスペースを個性的でやすらぎを感じさせる空間に仕切り、宿泊客に自由に使わせてくれるのは“宿”ならではのおもてなしだと感じた。
どうせ足元で横になるだけのアモの同伴が客室とロビーだけでなくそんな空間でも許されるなら虜になりそうな宿だった。

これもまたいつものことなのだがKの人柄というかコミュニケーション能力の賜物なのか、すぐに誰かと知り合いになりいろんな話を収集して私に教えてくれるし、次に会った時には友達のように会話をして私を紹介する。

洞爺湖のホテルでは88歳のオーナーと温泉で話し込み、部屋に戻ったときにはのぼせてしまっていたが、その情報収集量はこの女性の半生以上に及び、翌朝チェックアウトの時にはさらにまたロビーで話し込むことになった。
いくらオーナーといえど、88歳の女性が立ったままでの話をソファーに腰掛けた私たちが聞くのは忍びなかったが「いいの。このほうが楽だから」との言葉に、つい長話になってしまった。

30分ほどして『ええ加減にせいよ』というアモの寝返りで私たちは話を切り上げホテルを出たが、結核を20年も患いながら7室から始めた宿を今日のような立派なホテルに育て上げた犬好きな88歳のオーナーの人生をたっぷり聞かせていただくことができた。

翌日のふる川では私が温泉に入っている間にKは担当の仲居さんとすっかり仲良くなり、この女性も「アモちゃんは本当におりこうだねぇ」と撫ぜながら夜食のおにぎりをサービスしてくれた。
「3階にも毛の長い小さいわんこが泊まってるんだけど、吠えて吠えてうるさいのよね」って余計な話までしていた。

チェックアウトで部屋を出るときKが「ボールペン」と尋ね、「テーブルの上」と私が言った。
Kはテーブルにある宿のアンケート用紙のお部屋担当係の欄に100点と書いてニコッとした。

のんびりまったりとクリスマス以来の疲れを癒す旅で、私は人との関わりを敬遠しがちだったが、Kがいろんな人と話をして笑顔になる場面に触れながら『そんなくつろぎ方もあるのだな』とふと思い、チェックアウトの時間に出勤してきた昨夜の仲居さんが最後までお見送りしてくださり、気持ちはさらに爽快になった。

同時刻にチェックアウトしたシーズー2匹を連れた中年男女がいた。
会話することもなくそそくさと駐車場に向かっていた。
「なんかあの奥さん疲れたような顔してたね」
Kのそんな一言が昨夜からを物語っているようでちょっと気になった。
 

優しい言葉がこそばゆい 2009年01月27日(火)

  次のカフェの営業は31日土曜日からです。

「明日レッスンをお願いしたいのですが先生の足の状態は大丈夫でしょうか?」
昨日そんな電話予約が入り、お客様の心遣いにとても恐縮してしまった。

2週間前に足を痛めた私は『このままじゃアモの散歩は勿論、お泊り犬の散歩やレッスンを受けることもできなくなる』と考え、旧知のS治療院に電話を入れた。
「明日診てもらえんべか?」
私が電話する時はいつも窮地に陥った状態であることを知っているS先生は「じゃあ9時に来い」と言ってくれる。

S先生は昭和17年生まれの66歳で心臓に疾患があり、専門分野は鍼治療である。
だが私はS先生の鍼治療が苦手で、年寄りの先生には体力的な負担がかかるあんまマッサージでの治療を依頼している。
揉みの痛さに悲鳴を上げるほうが鍼の怖さよりマシであると思い込んでしまっている私なのだ。

お互いいつも憎まれ口を叩きあいながら付き合ってきているので素直にはなれないのだが、私が治療依頼の電話をする時は心の隅で『まだ揉める健康状態だろうか』と受話器の向こうを気遣ってはいるのだ。

先週の揉みの力ならまだ5年は頼れそうであったし、「変形した膝だけどうまく使えば5年はもつ」と相手も返していたが、熟練した技というのは治療を受ける私にも伝わるものがあり、それは犬の訓練に通じるものを感じている。

私が「ここが痛い」と伝えると、その患部は軽く触るだけで実際に揉み始めるのは離れた場所であったり、時には反対側の足であったりする。
犬の訓練もしかり。
『咬むんです』という飼い主の相談に対して咬ませない訓練を私はしないし、『拾い食い』に対して拾い食いをさせない訓練も行わない。
なぜならそのような犬にはもっと別の根っこがあり、その根っこを治療しない限り真の解決には至らないからである。

私の仕事に犬のレッスンがあり、その仕事を無事行うためにS先生の治療を受けている。
S先生は治療をするのが仕事であり、自分の健康増進と生活の為に盲導犬を使用し、私が過去に訓練した盲導犬も使用されていた。
カフェのお客様は私たちの生活を守ってくださり、自分たちの愛犬の成長に喜びを感じておられる。
そんな繋がりと『お互い様』の関係ではあるのだが昨日のように「足の状態は大丈夫でしょうか?」優しく言われると嬉しくもありこそばゆい感じがする。

今度治療を依頼するときに『身体大丈夫かい?揉みは辛くないかい?無理しなくていいんだぞ』と優しく聞いて見ようか?
あの男なら『バカったれ!』と返してくるに違いない。
憎まれ口を叩いているうちは元気だと思えるのもまあ、ありか。
 

おもんばかる 2009年01月25日(日)

  28日(水)カフェは臨時休業いたしますのでご了承下さい。

金曜日の雨と土曜日からの冷え込みで生活道路はスケートリンクになってしまった。
おまけに今日はその上にうっすらと積もった雪で、何処が滑るのか分からずヒヤヒヤの散歩を余儀なくされた。
犬でさえまともに歩けずに転ぶのだから、転倒された方も多かったはずだ。お見舞い申し上げます。
私はワンタッチ式のスパイクを長靴に装着したおかげで転倒こそ免れたが何度も転びそうになり腰の辺りと首筋が伸びた感じだ。

それにしても子供というのはどうしてあんなに柔らかく転ぶことができるのだろう?
あれなら全然痛くないし怖くもなかろう。
案の定、登下校途中ではランドセルをクッションにして転び遊びを楽しそうに繰り返していた。

この路面を経験して『自分にとっては何でもないどころか楽しいことなのに、人によっては大怪我に繋がる』という、相手をおもんばかる人間に育つきっかけとなって欲しい。

カフェの土日の常連に黒ラブのクロ坊がいる。
遊び好きなのだがとてもセンシティブで相手の気持ちを見抜き、それに併せた接し方ができる才能というか経験による学習能力を身につけたわんこだ。
今日は遊び仲間の黒柴と猛烈な申し合いで体力を発散させていたが、体格に勝る自分を知ったうえで相手を傷つけず怒らせず遊びであることをお互い楽しむ気配りに溢れた取り組みに感銘さえ覚えた。
面倒見の良い高学年の男子がやんちゃな低学年を相手に見事な振る舞いをしているようでもある。

低学年だろうが誰だろうが遊びにおいて容赦しないガキ大将のような我が家の愛犬アモとは、その点において明らかにクロ坊の方が出来たわんこである。

陰湿さがなく純情で、昔の子供社会では日常だった光景を今日のカフェで垣間見ることが出来た。
 

カフェの事件簿から。迷探偵の推理 2009年01月24日(土)

  ありがとうございました。
本日をもってクリスマス頃から入れ替わり立ち代り続いていたお泊り犬が帰宅し、我が家は一旦水入らずの静かな夜を迎えております。

いつもお泊り犬とは楽しい時間を過ごしているのだが、そこはそれ、あくまでもお預かりだから結構気を使うのは当たり前。
でも数日間付き合っているとついつい分かり合えたような気がして魔が差したように油断してしまう。

今回も定休日に気を許してカフェ内でフリーにしていたわんこがちょっと目を放した隙に商品のきびなごの袋を破り、2袋800グラムを平らげてしまう事件が起きた。

カフェにはアモを含めた4頭のわんこがいたのだが、それぞれの犬がどのような関わりを持ったのかを推理するのはとても面白いことだった。

2階の掃除を終えてカフェに下りたKはその情景にあっけにとられ「わー!」と発した。
その瞬間、一頭のわんこが『ヤバイ!』『ごめん!』という表情で部屋の隅に逃げたらしい。
Kはそのわんこを一瞬主犯と思ったようだ。

しばらくして帰宅した私にKは頭を下げて「ごめん。本当にごめんなさい。油断してました」と、きびなごのあった商品棚を指差した。
状況を聞いた私は犬たちが食べた物が安全なものであることもあり、Kと一緒に冷静に推理を始めた。

最初Kが主犯だと感じる振る舞いをしたわんこはいつもフリーにして何の問題もない信用できるわんこであった。
私が絶対的な疑いを持ったのは初めてお泊りのわんこの方であり、そのお腹を触ると明らかに膨張していた。
『この犬が袋を破り食べ始めた。だけどそれを見ていた他の3頭がどう関わったのかは夜か明日にならなければ分からない。うんちを見て結論をまとめよう』ということになった。

で、翌朝結論は明らかになった。
1.初めてお泊りのわんこが袋を破って食べ始めた。(念のため夕食を抜いたのに、うんちが出るわ出るわ…それに預った当初の振る舞いを見ればその行動は充分想定範囲だったこと)
2.Kが最初に疑ったわんこは、二人で話し合った結果『そんなことを自ら最初にやることはなく、尚且つちゃんと育っているからこそヤバイという行動をとれる素直な感性を持っている信用度の高いわんこである』ということ。
だがそのわんこのうんちは翌朝とても多く、『ご相伴できます?』と言って結果的におこぼれを頂戴したことも間違いないようだった。
3.では、アモともう一頭はどうだったのか?
うんちには何の変化はなく、事件当初からも平然としていたことから『おいおい、あんたたち、そんなことしていいと思ってるの?』と傍観していた様が想像された。

そんな話を今日のカフェでしていたら
「本当にアモたちは何にも食べてないと思う?3本くらい…」と意地悪な質問をされた。
「うぅーむ」

実際のところどんな光景だったのでしょうかねぇ。
 

『変わりなく続ける』ことの幸せ 2009年01月21日(水)

  昨日一日降り続いた雪。
朝から4度も除雪作業に追われたが、ホンダハイブリッド除雪機ガロアラシ号が13馬力の威力を発揮してくれたおかげで重く湿った雪も私の体を痛めつけることなく吹き飛ばすことができた。

でも4度も除雪した事実に変わりはなく、必然的に今夜はいつもの里塚温泉で身体を癒してきた。
すっかり馴染んで心配なくなったお泊り犬は、私たちが帰宅しても眠そうな表情で『どっか行ってたんですか?』と顔を上げてまた眠り始めていた。
『里塚温泉』=『若鶏の半身揚げ』と理解しているアモだけは、Kが分け与える一切れをせしめるまで納得しなかったがそれを得た今は充分に満足気な表情で横たわっている。

早いもので『あけおめ』で始まった1月も下旬に入った。
例年2月のカフェはお泊り犬も少なく荒れた天候に左右されるためか、客足も遠のいてしまう傾向にある。
だからPRを積極的にして経営努力を行う必要性を感じる一方、『しばらく冬眠経営するのも悪くないかな?』などと悪魔のささやきも聞こえてしまう月である。

どうすっかなぁ。
お泊り犬がそこそこいてくれて、雪は夜の間に降り積もって朝に除雪ができ、トリミングの予約がぼちぼち入り、日中はカフェで楽しいおしゃべりができて、夜には10日に1回くらい里塚温泉に行けたら最高なのだが…

毎年そう思いながら2月はヒマなのに何の手も打たないでいる5年が過ぎ、『今年はどうなるかなぁ』などとまた悠長に考えている。
中年二人とわんこの暮らしぐらいなら、それでもこれまでは何とかなっていた。

高望みがないではないが、今年も何とかやっていければよしとしよう。
明日はまたS治療院で膝の治療に悲鳴を上げる予定だが、その後カフェは定休日なので『かもめ食堂』に引き続いて楽しみにしていたDVD『めがね』をまったりと鑑賞しようと思っている。
 

『膝や腰の炎症に酒はよくない』、よね。 2009年01月19日(月)

  昨日のこの欄をお読みいただいたのだろう。
ご主人が亡くなった悲嘆から黒ラブだった身体が突如白くなったソニアの飼い主Kさんが湿布薬を届けてくれた。
今日の札幌の最高気温はなんとプラス7度。
カフェ周辺は解けだした雪でひどい事になっているが、痛めている私の膝腰には大助かりで、おまけにKさんからいただいた湿布薬を寝る前に貼れば効果覿面の予感がしている。
いや、夕方からは凄い嵐になっているので明日の除雪を無事終えるための大きな手助けになってくれるものと期待している。

「へぇー。マテっていうのはそこまでやるんですねぇ」
土日にレッスンを行ったラブラドール/マックスの父さんが私の訓練を見て感嘆されていた。

なんてことはない。私が行った訓練は
・マテと指示してそのまま動かない基本を教え
・待ってる状態で私が犬の周りを一周しても待つことを教え
・マテと言いながらしゃがんだり手を叩いても誘惑されず待つことを教え
・歩行中に突然マテと言ってフリーズすることを教え
・マテと指示しされれば、リードを引っ張られてもそこで踏ん張って動かないことを教え
・交差点でマテをかけた後、私が歩き出してもその場を動かないことを教えたに過ぎず、これは訓練の基本中の基本である。

重要なことは、できないことを『ダメ!』と叱るのではなく、できるように誘導しながら『偉いぞ』と褒め称え、それができたらできなくなるような誘惑を徐々に与えつつできるように導き『スゲェー!』と感嘆することであろう。

そして何故そこまでやるか?を理解することである。
私が行うマテの訓練は高等であり、日常生活に必要なマテはそれより低レベルでも充分に役に立つ。
言い換えれば小学校高学年レベルのマテができれば日常で充分おりこうさんのレベルなのだが、マテの約束事はとても重要なので高校生段階のマテができるまでしっかり教えておく。

高校生レベルのしつけを学んだ犬には日常生活に必要な小学生レベルのマテなどお茶の子さいさいにでき、めでたしめでたしという筋書きである。

ちょっとちょっと『マテ!それ以上飲むな!』
そんな訓練をしてくれる人が私には必要なのかもしれない。
 

知識や技術は身を助ける 2009年01月18日(日)

  14日の水曜日、朝ベッドから降りた瞬間に左足の親指の付け根に痛みが走った。
その日レッスンが入ったのだが20メートルも行かないうちに私は痛みでまともに歩けなくなってしまった。

翌木曜日、骨折したような痛みが続き病院に行く覚悟を決めかけていた時、トイレで自分の足を眺め叩いてみると腫れはなく負担さえかけなければ叩いても痛くはなかった。
『これは病院ではなく治療院だ』とひらめき、いつものS治療に駆け込んだ。

力強い治療を受け、悲鳴に近いうめき声を上げること1時間。Sさんの的確な施術で私の足は再生し、さらに翌日の金曜日にはアモと原始林へ出かけることまでできた。

が、左足をかばって歩いた負担が右膝や腰にきて結構危うい状態が続いている今日、初めてのゴールデンのお泊りが入った。

そのわんこはハーフチェーンを付けているのだが、引っ張る力はもの凄く、このままでは私の体が壊れてしまいそうだったので夕方の散歩の際はチョークチェーンを使用させていただいた。
おかげで『助かったぁ』という場面が幾度かあり、散歩の後半にはとってもおりこうな歩きをみせてくれるようになった。

道具や技術というのは我が身を助けてくれるものだから、若いうちにちゃんと勉強していて良かったとつくづく思った次第である。

8歳になって初めてのお泊りを経験することになったゴールデンだけど吹雪き始めたガーデンでちゃんとシッコとウンチをして今眠りにつこうとしている。
 


- Web Diary ver 1.26 -