From the North Country

メリークリスマス 2008年12月25日(木)

  ついにドカ雪がやって来た。

日付けが変わる前、お泊り犬たちをトイレに出すと湿った雪が一面を覆っていた。
力を込めて除雪しながら空を見ると星が輝いているのに驚きを感じた。
ガーデンに残っていた平均台は除雪機の邪魔になるから、越冬の為タイミングを見計らって隣の空き地に移動させる予定でいたが、今夜がその時だと感じたのでひとり汗をかきながらソリのように滑らせ、ブルーシートをかぶせた。

汗を拭いて着替えを済ませ、この欄に向かいながら神経を研ぎ澄ました途端ゴロゴロとカミナリが鳴った。
窓を開けて外を見ると荒れに荒れた冬の嵐がそこにあった。
もう湿った雪などではなく乾燥した吹雪が襲い掛かり、私は瞬時に窓を閉めるしかなかった。

あの星空が分水嶺だったようだ。

テレビでは小田和正が魂を凝縮させたような独特の歌詞とメロディーを奏でている。
人生の分岐点を思い出したのか歌詞に共感しているのか女性たちが涙しながら聞き入っている。

今夜はクリスマス。
そして明日もカフェは定休日。
とんでもない積雪が待っているようだし、除雪のことを考えると笑顔なんて変かもしれない。
でも、なんかいい感じで夜更かしができそうだ。
 

2008年クリスマスイブ 2008年12月24日(水)

  盲導犬の繁殖犬でKの愛犬でもありカフェの初代看板犬だったスーが亡くなってから昨日で4年が経った。
悪性リンパ腫の診断を受け、余命期間を過ぎて闘病生活を覚悟し始めた矢先のあっけない突然の死だった。

あの日、普段と変わりないスーと共に最後のお客様をガーデンに出てお見送りしてカフェに戻り、片付けのため私がテーブルに椅子を上げ、Kが食器を洗い始めた直後にスーが倒れた。
Kはスーを懐に抱きかかえ、スーが感じていたであろう死への不安と恐怖をかき消すようように『一緒だよ。いつも一緒だからね』という想いをこめて抱きしめ、スーはあっという間に逝ってしまった。

あの時を思い出せば悲しいけれど、4年という時間が楽しかったことばかりを蘇らせてくれている。

もうこの話は今夜はよそう。
クリスマスが近づくたびにふたりで語り合えるのだから。

「24日に迎えに行きます」
Hさんのメールどおり我が家の居候犬ジェニーとチビは引き取られていった。

オーストリアから帰国したばかりのHさんは一層スマートになっているように私には思えたが、ジェニーとチビはそんなのお構い無しに身体ごとぶつかって喜びを表していた。
私にできたのは『まず、チビに会わせて、それからジェニー』というようにチワワのチビがレオンベルガーのジェニーに踏み潰されないよう配慮することだけだった。

「落馬した後遺症で下を向くとめまいがするの」
HさんがKに漏らしていたそうだが、
『そんなの知るかい!』というのが私の感想である。
はてさて、どんな旅だったのかはそのうちおいおいと分かることだろう。

スーとジェニーを連れて苫小牧の海辺に出かけた日のことを思い出した。
年の瀬になると浮かぶのは、ああ、思い出ばかり。

来年の思い出に浮かぶように今夜記すことがある。
2008年12月24日クリスマスイブの深夜なのに、札幌の外は雨である。
 

2008年の遅い根雪 2008年12月21日(日)

  夜中になっても地味〜に降り続いている細かい雪。
明日から1週間の予想気温を考えれば今度こそこれが根雪になるのは間違いなさそうだ。
ようやく本格的な白銀の世界がやってきた。

夕方の散歩は雪明りでもう懐中電灯がいらなくなる。
帰ってきても犬たちの足裏が汚れていないから身体洗いの大仕事がなくなる。
ガーデンで大暴れしても地面は荒れないし犬たちにも汚れがつかなくなる。
そのうえ遊び疲れた犬たちは簡単にクールダウンができる。
除雪の気苦労以外はいいことばかりだ。

今年は雪を飛ばす空き地が減ったから、ガーデンの除雪が昨年までのようにはいかなくなる。
それはそれでどんな工夫ができ、どんな冬のガーデンになるのか私自身も楽しみにしていた。
明日は暇な月曜日だから積もった雪を見ながら今年の除雪スタイルを考えてみようと思う。

このところ書くテーマが思いつかず話題になるような出来事もないのでしばらくは雪と戯れてリフレッシュ。
 

寝顔を見ながら… 2008年12月20日(土)

  愛犬の寝顔に思わず見入ってしまうことがある。

ベストショットと思えるような可愛い表情
口先からちょっと出た舌
顔形が違いよく見ると髭穴だらけの異種動物なのに特別に愛おしく思えてしまう
白目をむいたり赤目を出したり鼻をヒクヒクさせたり…
見ている夢に色があるのか言葉は存在しているのかストーリーはどんなものなのか…

そんな時は黙ってみているのが良い。
『ねえねえ』と相方を呼んだりカメラに収めようとしたら、せっかくの寝顔を覚ましてしまう。
絶好の瞬間は人に知らせたりカメラの記録に収める前にじっくり自らの記憶に留めるのが良い。
『ああ、あの瞬間を記録しておきたかった』と後悔する位がちょうど良い。

究極を想像してみた。
人間の目がカメラやビデオのように後から再生できたらどんなことになるのだろう?

カメラ不要のアルバム・ビデオによる記録生活
スクープ映像なんて日常茶飯
社会全体が監視できるようになって犯罪摘発率が飛躍的に向上
でも視覚的な人生の記録をいつでも再生できるのは喜びそれとも苦痛?
絶対条件は『消去』機能で、それがなけりゃ喜びよりも苦痛なことの方がたとえ数は少なくても印象に残り耐えられなくなってしまうに違いない。

つまりはえらいことになってしまうわけで、シャッターチャンスを逃すことも幸せの一部であり、記憶のように何度も忘却し何かの拍子で思い出すというのは素晴らしいシステムである。
“自分だけが見た”と宝のように思っていたことでも、実はみんな同じような瞬間を共有していることを知るのも楽しいものだ。

愛犬の寝顔を見ながら空想の旅をしてみた。
 

ハビリテーション 2008年12月15日(月)

  1ヶ月ほど前のこの欄で『外に出すな。目を見るな。犬に会わせるな。社会に出すな。』と行動療法をやってる先生から指示を受けたというスピッツのことを書いた。

実は今日このスピッツの3回目のレッスン依頼があった。

1回目のレッスンで病的な要素はないと判断した私は、歩きたがらず猜疑心に満ちた眼差しで私を警戒するスピッツには目もくれないような態度を装い、にこやかに飼い主と話しながら、それでもリードをしっかり持って歩かせさらに細部を観察していた。

「1回目のレッスンの翌日から散歩ができるようになりました。ビックリしました」と飼い主。
「よかったですね」と私は答えたが、それはスタートラインに立っただけのことで、これからの育て直しにかかる時間の長さが気にかかった。

生後2ヶ月ほどで暮らし始め、『免疫ができる半年以上外に出してはならない』とのアドバイスを信じて実践した結果
・外に出れない
・人を怖がる
・犬を怖がる
といった社会不適応の反応を示し、行動療法を行う獣医に相談した挙句に受けたのが冒頭にある指示だった。

経歴を知れば、病気や障害ではなく正当な反応と先ず考えるのが普通だろう。
ましてやスピッツなのだから。

2回目までのレッスンは、飼い主同伴でないとスピッツは歩かないだろうし精神的にも負荷がかかりすぎると判断して一緒に歩き、犬よりも飼い主に対するケアとアドバイスを送り続け、より理解が得られるよう目の前で愛犬の行動が変化していく様を意図的に見せつけた。
もちろん、犬に不安を示すというスピッツはカフェには入らず、駐車場で犬を受け取りそこからレッスンしてそのまま帰るというパターンだった。

3回目の今日、「二人だけで歩きます」と私は言ってレッスンを行った。
このスピッツにとって生まれて初めての他人との歩行だった。
幸いというかテクニックを駆使してパニックを起こさせることはなかったが、こういう稟性を持った犬を大切な社会化期に社会から隔絶して育てた結果生じた問題をクリアすることの難しさを感じた。

リハビリテーションという言葉がある。
『リ』というのは『再び』という意味で、回復つまり『以前のように戻す』ということだ。
だが、このスピッツには『以前』というものは存在しないから『回復』という概念も通用しない。
生まれながらにして目が見えない子供たちに対する支援をリハビリテーションとは言わず『ハビリテーション』という。
ヘレンケラーの家庭教師サリバン嬢がヘレンに対して行った『概念形成』からのスタートである。

難しい話になってしまったが、今日のレッスン終了後そのスピッツをカフェに入れた。
私のカフェが素晴らしいと自慢できるのは、そんな時のお客様の対応である。
私が何も言わなくても、相手の様子を見て『あ、そういうことね』と即座に自らの愛犬を制御し、スピッツに余計な不安を与えないよう振舞ってくださるのだ。
そこには『お互い様。そういう時期はこの子にもあったから』という感性と優しさに溢れている。

スピッツ嬢は何事もない時間をカフェで過ごし、冷静でいられた彼女には目や耳から様々な事柄が感じ取られたことであろう。
この積み重ねこそがハビリテーションなのである。

私はこのスピッツを思うがままに誘導するつもりはない。
経験をどう受け入れ自らがどう振舞うかは犬の稟性と飼い主の意思(これも稟性かもしれない)次第だ。
私はただ人間社会で生きるうえでの基本的な概念形成のお手伝いをさせていただいているだけである。
 

私からのノーベル賞 2008年12月13日(土)

  夕方の散歩の時ビックリするほどデカイ月が東の空に出ていた。
「すごいね。地球に最接近したのかなぁ?」なんて言ってたけど、深夜になった今、月はいつもの大きさで天空に輝いていた。
たぶんプー助の父さんに聞けば分かりやすく説明してくれんだろうなぁ…
この世は分からないことだらけ…

そんな風に人に頼らず簡単に諦めず『何故?』を追求することが子供たちには大切で、そこからノーベル受賞者が生まれる土壌が存在するのだろうなとふと思った。

『ピンポーン』
定休日の木曜にインターホンが鳴った。
通話ボタンを押すと相手が何か話しかけていたが、その足元にいるわんこが吠え続けていて何を喋っているのかさっぱり分からない。
「今、行きます」
そう言って玄関に出ると、お泊り依頼を受けていたコーギー×ポメのブルーちゃんだった。

お預かりはしたが、何かと言えばすぐ吠えるブルーを私は一喝した。
以前にも一度お泊り経験のあるブルーは『あ、そうかここでは吠えちゃマズイんだよね』という顔をしていた。
でも、その姿はとても愛らしい。

すっかり気に入ったKは暇を見つけてはブルーとガーデンで遊んでいたが、事あるたびに吠えるブルーを戒めてもいた。

今日の午前中「帰るんだよね、ブルー」とKが私に確認した。
「そうだよ、昼前に」と言うと、Kはガーデンでブルーと遊び始めた。
見ると、ボール投げをしてもブルーは声も出さず、しばらくはKと楽しそうに遊びまわっていた。

「ねえ、聞いて。全く吠えないで遊べてたんだよ。でも最後の最後にワンって声を出したの。そしたら『シマッタ!』って顔して自分で遊ぶのやめちゃったの。反省してるみたいに」とKが報告してくれた。

興奮を伴う遊びの中でもブルーは吠えなくなっていた。
普通ならインターホンで話をするぐらいで吠える犬ではなかったということだ。
さらにその先の接し方次第で、生活に困るような吠えはなくなっていてしかるべきである。
たった2日間でブルーにはできたのだから。

やっぱり犬育ては飼い主の意識次第でそれなりに変えられる…?

うんにゃ!
今夜はそういう結論ではなく、Kの功績に対しての評価が大事なのである。

元々吠える機能を備えている犬に対し、人間社会で暮らす中で『吠えなくていいのだ。否、本能のままに吠えてはいけないのだ』ということをきちんと伝えきれるようになった彼女に私のノーベル賞を与えたいと思った次第である。
 

身近な自然を憂う 2008年12月12日(金)

  定休日の昨日11日、久しぶりにレクの森に出かけると、間伐作業でもやっていたのだろうかその山道はトラックやキャタピラ付きの車両が通行した痕跡でドロドロになっていた。

がっかりしたがすっかりその気になっているアモとジェニーに『帰ろう』とは言えず、僅かに残っている雪の上をしばらく歩き続けた。

途中から森の中に分け入る散策コースがあったので入っていった。
道幅は60センチほどで笹薮を切り開くように続き、落葉の上に薄く積もった雪が心地よい感触だった。

10メートルほど先を歩いていたアモが突然何かを発見して駆け出すと、右手の笹薮が数秒カサカサと揺れた。
キタキツネだったのだろう。
森の中を歩くと小動物の気配を感じアモはワクワクしながら尾を振る。
一方のジェニーは私の後ろについて歩き、私が道を譲ると一旦は駆け出すもののすぐに戻ってまた後ろを歩く。

しばらくするとアモが再び笹薮に飛び込んだ。
次の瞬間、木を駆け上がるように見えた黒い物体が目に入った。
エゾリスかな?と見上げた私は「おっ」と一瞬息を呑んだ。
それは見事なクマゲラだった。
40センチほどでカラスより一回り小さく全身が黒く額から後頭部にかけてだけが見事に赤いオスのクマゲラだった。

そんなに警戒心は強く無さそうで、下から見上げる私と愛犬2頭の存在を知っているのに10分ほども私たちから離れなかった。
こんなに間近でじっくりと野生のクマゲラを見たのは初めてのことだと思う。
数メートル先のトドマツに飛び移っては『クィーーーン』とラッパ型のホイッスルのような鳴き声を上げて私たちを誘っているようだった。
何故かこの森でいつもついてくるカラスもエスコートしていた。

遠くへ飛び立つ時の声を聞いて「はぁーん。あの声がクマゲラの声だったのか」と過去に何度も遠くで聞いていた鳴き声を思い出した。

定休日二日目の今日は大いなる期待を持って原始林へ出かけた。
昨日から降った雪と落葉した木々が水墨画のような見事な景観を醸しだしていた。
アモもジェニーも泥まみれになることもなかった。
が、見渡すとここの散策路は幅も広く、それなりに整備されていることに気づいた。
シジュウカラやアカゲラはたくさんいるがレクの森のような笹薮を歩く雰囲気とは違う。
キツネを見かけることもあるが、それは突然でもないのでアモも耳を立てて眺める程度だ。

そういえば昨年、レクの森(実際は立ち入り禁止の原始林まで迷い込んだ)で私とKが(結果的に)楽しい遭難気分を味わった際には、無事道路に出た時に自分たちが彷徨った山を見るとエゾシカの群れが駆けていたのを思い出す。

昨日クマゲラに出会い、去年エゾシカの群れを見たあの狭い森にトラックやキャタピラの生々しい跡が残っていたのだ。
今これを書きながら震えるような想いが身体を支配しているのを感じている。
 

場違いな意思表示でごめんなさい 2008年12月09日(火)

  20年程前のある時『どこかおかしいよな』と感じていたことが、現実に社会をおかしくしてしまっている。

まずは欧米感覚の『能力・成果主義』
その頃の私は実力的にも充実していたから恐れはしなかったが、『そりゃないだろう。』と感じていた。
年功序列と給与体系の見直しは確かに必要だったとは思う。
だが、時代が大きな変化をもたらしたとはいえ、先代を築き上げてきた先輩たちをないがしろにして窓際族に追いやるとかの能力評価には大いなる反感を感じていた。

会社における給与体系は、若造が自分だけで獲得したと自惚れている利益の正当配分という短絡的な能力主義でなく、実践・経験を踏まえた中で培われた人間と、その時期に同期する子育てや人生設計における年代に対して手厚く賄われるものであり、さらに言うなら、子育てを終えた世代には就業は保障しつつ給与は下がるのがまともな体系であろうと思っていた。

そういう意味で、年を重ねるたび役職が変わり給与が上がる制度はおかしかったと思うし、能力・成果主義だけで人生を振り回され躍起にならざるを得ない社会もおかしいと思った。

次に変と感じたのが『前年同月比』という尺度というか観念。
何故その数字は伸びなければならないのか?
しかもここ20数年に限って特に。

私は大学で経済学を学んできたが資本主義社会の根幹が『成長し続けること』にあるとはどうしても思えなかった。
だから個人消費とか株式投資とか政府が奨励してきた政策施策には懐疑的な立場をとっている。

不相応な文明を享受するより、身近な文化に目を向けて応分の人生を送りたい、というのが願いだ。

若者が夢を抱き、経済的な問題を抱えて断念する者もいれば突き進み幸運に恵まれる者もいる。
何が良いとか悪いとかの話ではなく、やってみるだけの意気込みを表現でき、その結果としての責任を補える繋がりのある社会であって欲しいと思う。
 

おりこうさん症候群 2008年12月08日(月)

  2頭のポメラニアンをお預かりしている。
どちらも同じ家庭で暮らしているわんこだ。

先輩犬のココは家族の優しさに育まれつつも、様々な失敗や問題事を繰り返した挙句、家庭内でのルールをしっかり教えられてきたと思われる振る舞いをしている。
一方、後輩犬のリリーはココの行動を観察し、物まねをすることで褒められ可愛がられて育ってきたのだろう。

両者には結果として大きな違いが生じていた。

ココは人間を観察する能力に優れているのに対し、リリーはココを観察することに基点を置き人間は二の次になってしまっていたのだ。

例えば今回のように見知らぬ場所に宿泊した時、ココは私が排泄を促しているのを察して排泄するが、リリーは私の言葉に意味があることすら考えようともせず、ココがどんな振る舞いをするのかを観察し、“ココが排泄したからそこに排泄する”行動をとっているだけだった。

リリーは可愛いけど残念ながら犬属のイヌとして育っていた。

飼い主が陥りやすい『多頭飼い』における犬育ての典型的な失敗例だと思う。
つまりこの欄で何度か提起した、2頭目以降の『おりこうさん症候群』の患者となっているのだ。

飼い主は、一頭目であれだけ苦労した排泄のしつけが2頭目ではすんなりとできたかのような錯覚を起こし、散歩も仲良くできているように思い込んでしまう。
『今度の犬はおりこうさんね』と。
実はそれが人間社会の犬ではなく、イヌ社会のイヌの振る舞いであることを知らずに…

そして愛犬が成長すると、自宅や散歩中に排他的な吠え方をするようになり、よくよく観察してみると後輩犬は自発的な思考に基づいた行動ではなく、先輩犬を絶えず気にした振る舞いを行っていることに気づくことになる。

まあ、今回のお泊りではその習性を私は利用させてもらった。
つまり、人間の言葉が分かるココはさっさと排泄を済ませると、ガーデンからカフェに入りたがった。
リリーはまだ排泄してないのにココに続こうと後を追って結局いつまでも排泄ができない。

そこでココをリードで繋ぎ、排泄をした後もその付近から離れないようにした。
すると、それまでどんな言葉をかけても反応しなかったリリーがココの痕跡に排泄をするのだった。

犬をイヌとして扱うことも商売柄必要な時もある。
だけど心は寂しいものだ。
『はい、シッコしなさい。そうそう、ベンベンもね。よーし偉かったね』
そんな言葉すら通じない愛犬との暮らしは私たちにはとても切なく感じてしまう。
 

一旦チャラにする 2008年12月07日(日)

  『もうこのまま根雪かなぁ?』
雪が降り、気温もマイナスの日が続くとそんな風に思ってしまうのだが、数日後には突然プラス10度近くになって雪が解けてしまう。
そんな繰り返しが12月に入ってからも続いている。
昨日今日の僅かな積雪と厳しい寒さも明後日からの暖気でまたチャラになるそうだ。

さて、昨日からお泊りのMダックス/ちょこちゃん。
男の子だが、控え目で犬が苦手で『どうぞお構いなく』の典型的なわんこだ。

お母さんと既に立派に成長された姉妹の3人で時々カフェを訪ねてくださっていたのだが、「娘が結婚することになりまして、内地での式のために2日ほど預っていただけませんか」とのこと。

話を伺うと、ちょこはその娘さんが飼い始めた犬だったのに「結局はこうやって親が面倒をみることになるんですよね」と、こぼしておられたが表情は満更でもなさそうだった。(世の子供たちよ。自分が子供であるうちに犬の一生をみよ。大人の手前あたりから興味本位で犬を飼うなら、人生設計の軸を“with dog”に置けよ)

だが、問題は他にあった。
優しいお母さんと暮らすようになったのはいいが、気の弱いちょこは頼りになる存在(長女)と別れたため散歩に出ると他犬を見ては不安にかられて吠えてばかりになったそうだ。

お泊りの昨日と今日の夕方、ちょこと歩いてみた。
昨日はカフェを出た途端、散歩中のわんこと出会い頭で驚いて一声吠えたが、一度の制御で黙々と歩き始め、今日は他犬を見ても『どうぞ、お構いなく』と無視を決め込んで最後までちゃんと歩いていた。

散歩中に愛犬が吠えて困っている皆さん。
あなたは肝心な時には愛犬から頼りにされていないのかも知れませんね。

「もう、今となってはどうしようもないですよね」
と、お母さんは嘆いておられたが「犬の問題ではなく、飼い主の意識と対応が変われるかにかかっているのだと思います」と私は答えた。

今夜の教訓。
1.『もうこのまま根雪だ』と思っていても意外とそうではないことはあるもの。
2.相手の変化を望むなら、自らを変えるという方法もある。

おやすみなさい。
 


- Web Diary ver 1.26 -