From the North Country

湯あたり 2008年06月11日(水)

  この年齢になると使わない筋肉はすぐに衰えるし伸ばさない筋は固まってしまい、動かしているつもりでもだんだんと小さな動きにしかなっていなかったりする。
そこで必要なのがリハビリであり、リハビリとは何も障害者や病後の機能回復だけでなく健全に老いている人間にも大切なものだと思う。
重要なことはリハビリが苦行ではなくどれだけ快適に継続できるかにある。

そこで我が家に定着したのが“里塚温泉リハ”だ。
温泉にはのんびり浸かっていたいものだが、そこを少しだけ譲歩し一工夫することで、ビールや酒も一層美味くなるし明日から当分(長くて2週間)身体が楽になることを考えれば、これは絶対お勧めで自治体が補助金を出してでも奨励すべき項目だと思っている。

「妊娠してたら8ヶ月だね。それも男の子」
私のポコッと突き出たお腹を見ながらKが嫌味を言い、それでも「メタ坊」と優しくさすってくれた。
そんな屈辱を味わいながらもここ数年不自由なく動き回れるのは温泉リハの成果だと確信している。

齢を重ねたおかげで羞恥心も鈍感になり、人目もはばからず温泉ヨガに30分没頭する私であるが、秋葉原で暴れる人間ではないので社会的にはちょっと奇異ではあろうけど許される範囲で行動しているつもりだ。

今夜はとても久しぶりだったのでいつもより長く入念にヨガってきたけど、周囲には5人ほどしかおらず、それも広い浴場に分散していたので隅っこにいた私に違和感を抱く人はいなかったと信じたい。

そんなことより私たちのカフェには“メタ坊”や“メタ嬢”のわんこ達が一杯なのだが、如何せん基準となる物差しが最初から大きめに作られているので皆さんおおらかなものである。
当然お客様自身にはほんのほんの一握りの方しか該当するような方はおられませんが…

先月から正式にカフェのトリマーとなったSAOちゃん。
なんと休日にはワンちゃんのアロマセラピーの資格を取るべく講習会なんぞに参加しているらしい。

愛犬のための“里塚温泉”がドッグカフェに誕生するかも?
SAOちゃんにはついでにヨガの勉強もして欲しい。
チワワのらむが心地よい香りに包まれた中で、怪しげなポーズをとって気持ちよさそうにしてたら・・・

いけない、いけない。長湯でのぼせてしまったようだ。
 

親父たちの想い 2008年06月10日(火)

  1週間のご無沙汰でした。
いつも通り元気に過ごしております。
多少落ち込んでいるとしたら、Kはカモガヤ(オーチャード)の花粉に鼻をグジュグジュさせ、私は6月の定休日がお泊り犬で潰れてキャンプに行けないのが影響しているのかもしれない。

「キャンプが無理ならバーベキュー!」
というわけで、昨日はとても穏やかで暖かだったからカフェの閉店後ガーデンでBBQをした。
閉店1時間前に私はこっそりカフェを抜け、買出しに出かけた。
閉店と同時にガーデンにテーブルと椅子を設置し、角型2列七輪に炭火を点火してから我が家の愛犬アモといつもの散歩に出かけた。

戻った頃には丁度良い置き火が出来ていたが、その前にわんこたちの食事の準備をして与えた。
ビールを飲みながら素材を運び、あらためて乾杯してBBQ!
お通しは道産生うに。
鵡川産のししゃも、佐呂間のホタテ、アルゼンチンのエビ、道産ピーマン、日本海のイカ、国産さつまいも、オージービーフステーキ(平取牛は高すぎた)、厚揚げ、しいたけ、シャウエッセンのウインナー、Kとまりちゃんが握ったおにぎり。
ビールはサッポロにしたかったが…やはり一番搾り。

隣の敷地では新築工事の職人さんたちが6時を過ぎても働いていたが、無風快適空間で久しぶりに楽しませてもらった。
まりちゃんの人生相談まで飛び出すのはあのような雰囲気あってのことかもしれない。

毎日毎日何十回も犬たちが排尿便するガーデンなのに綺麗で無臭というのもありがたい。

日々の暮らしの中では誰だって不満もあれば小さな喜びだってあるものだ。
不満ばかりを募らせるのは良くないし、小さな喜びで現実をカムフラージュするのも良いとは思えない。
自分を追い込まず、他人を羨まず、自分を華美することなく、他人をさげすむこともなく、社会問題に無頓着にならず、声を上げることを厭わず、流されている自分を見つめ、流されない自分を信じ、時に馬鹿と言われるほどのめり込むことがあって、それでも人間として自分と相手の存在を認め合い、繋がることの喜びと勇気を知り、生きることの難しさと楽しさが入り混じるから人はそれぞれの様々な生を追求している輝きがあるのだ。

昨日のBBQは一服の清涼剤であり、次へのビタミン剤でもあった。
否、疲れた若い身体にはビタミン剤が効くかもしれないが、消耗した年寄りにはカンフル剤もしくは向精神薬だったかもしれない。

昨日のBBQで元気付いた中年男は思った。
我々がこんな風な悠長な表現をしているうちに、政治は現在の社会問題とりわけ若者の職業と生活に将来の希望を見いだせるビジョンを提示できる政策を示せ。
いつまでも黙っていると思ったら大間違いだぞ。
そんな気概は忘れずにいたいし、そんな想いを持っている仲間がいることを若い人々に知ってもらいたい。
 

時々カミナリ 2008年06月04日(水)

  このぐらいでいいかな。

今週に入ってからは天気も気温も最高。
天候の神様、もうこれ以上の高望みはいたしませんのでこのところの気候を冬まで維持していただくということで…どうかひとつよろしく。
天候の神様が犬だったら「えらいぞ、いい子だ」で、うまくコントロールできるかもしれないのになぁ。

「こらぁ!らむ!ちょっとおいで!」
らむがワンワンと吠え立てたので私が怒鳴るとチワワのらむがうなだれてやって来る。
それを見ていたお客様は
「凄いですね。叱られると分かっていながら、逃げ出さないで叱られに来るなんて」と驚く。

私にとっては“いい気になって吠え続けた”らむが逃げ得するなんて絶対に許せないことだから、これまでにそうしないように教えてきただけのことである。

らむが不安を感じて反射的に吠えるのは生得的な資質であり、完璧な防止の余地などない。
だけど以後も吠え続けるのは自らの意思によってであり、それは飼い主によって止めさせることができる範疇であって私はそれを絶対許さないとらむに教え続けている。

らむはチワワだから私の叱責を仰々しく受け止めてしまう傾向があった。
普通に叱っているのに『殺されるかも』と過剰反応し、窮鼠猫を咬むというような防御本能が発露する可能性はあったが、そこは私がそうならないようにテクニックを使った。
また、恐怖を感じたスカンクのように肛門腺から臭い物質を放出したり、失禁して相手の注意をそらすことだってあり得るが、そこら辺にプロの技を使うことでこのやっかいな過剰反応動物を冷静にさせ、『逃げ得はありえないし、(小さな頭を回転して様々なシミュレーションを描いた結果)すごすごと叱られに行くことこそが最善の策である』という結論をらむに導き出させることができるようになった。

最近の天候のように『このぐらいでいいかな』とらむに対して思うのだが、放置しておくとまたいい気になって吠え続ける血があるので時々カミナリを落とさなければならない。
するとまたらむはすごすごと叱られにやって来る。
その顔は真剣そのもので、『だったらいい加減自制しろ!』とまるで親子みたいな説教が続く。
 

変革のパワーと地道な訴え 2008年06月02日(月)

  カフェはヒマな一日だったが予報どおり暖かくなってきて気分がいい。

今夜のテレビ番組カンブリア宮殿は先週に引き続いて楽しかった。
日本電産の永守社長が登場していたのだが、まるで大学の同窓会の先輩たちに会った時のように関西人の迫力と面白さを存分に味わえた。

氏は精密機器のモーターを製造する今では一大企業グループの社長なのだが、4人の社員から始め、その技術力とM&A(企業買収)の繰り返しによって世界企業へと成長させた現代の松下幸之助のような人である。
偉いのは買収した会社の社員を誰一人リストラすることなく短期間で会社を黒字経営に転換させ、社員のやる気を引き出してさらに成長させる信念と実績だ。
中でも「安定雇用こそ最高の社会貢献である」という言葉の意味を私は重く感じた。

能力主義・成果主義という欧米の観念が90年代に顕著になった時、私は個人的な有利さを感じる一方で『長い目で見たときには決して誰の利益にもならない』と思っていた。
氏の言う『一人の百歩より百人の一歩』という言葉の深さに共通する思いがあったからだろう。
だけど企業は成果主義に走り、リストラが経営者の能力を示すバロメーターになり、社員がいなくなって派遣が当たり前の社会になった。
その結果、働く者の生活の安定は失われ、中間搾取する派遣会社が短期間で大企業にのし上がり、コンプライアンスを踏みにじってこれまた短期間で消えていき、若者たちに展望がない社会となってしまっている。

悪い目が出たのではなく必然のことだと思う。

狭い狭い犬の世界の話で恐縮だが、“人と犬の暮らしの指針”というものも私にしてみればとんでもない方向を示しているように思う。

良心的なブリーダーからではなくペットショップで犬を買う社会になっているし、ワクチン接種ばかりを優先して社会性において大事な仔犬の時期を外に出さない考え方がまかり通っているし、しつけにおいては犬をイヌと看做すような馬鹿げた前提の綺麗ごとがまことしやかに通用している。

ペットブームと言われているが、このままだとその凋落は必然であるのに、動物愛護=人間性という浮かれた時代の安っぽい優しさによってしばらくは継続するのだろう。
『どこか変だ』と感じながらも受け流してしまう余裕のようなものがある限り、この国の犬との暮らしは変わらないと思う。

永守社長のように短期に改革するパワーはないけれど、見る目だけは失なわずこれからも地道に主張していきたい。
 

何故犬を教育するか? 2008年06月01日(日)

  『寒かった春も今夜まで』との予報を聞けば元気が出てくる。
くも膜下出血で倒れたYさんは順調に回復に向かっているそうだ。
『車椅子で散歩をしてもよい段階』だと今日娘さんが知らせてくれた。
Yさんのさらなる回復のためにも明日からは予報どおりの暖かな日和が続いて欲しい。

さて、先日のキャンプを振り返ると私たちの犬育てが間違ってないことを改めて感じる。
あんな風に愛犬と暮らすために育て、普段からいろんな約束事を教えているのだが、その内容がすべて意義あるものだということを再認識させられるのだ。

我が家の愛犬アモは元来、自立心が強く(身勝手)、吠える傾向があり(警戒心というより反射的に)、他犬意識(否すべての動物)やボールなどへの興味が相当高く、言ってみれば生まれながらにして扱いやすい犬とは到底かけ離れた稟性の持ち主である。
パピーウォーカーの矢内家でも10数頭育てた仔犬のうち1、2を争うほど手を焼いた犬だったらしい。
ただ、育った環境がよかったので人への絶対的信頼と心の清純さは彼の最大の魅力だ。

そんなアモに教え込んだのは
・車内でのマナーと振る舞い
・絶対的な招呼
・意図的な吠えの抑制
・歩行時のルール
・フリー行動の許可制
・暮らしに必要な日本語
そんな事柄だったし、その他の基本的なことは既に教えられていたと思う。

だからキャンプなどの外出先では周囲に人や犬がいようが
・指示によってさっさと排泄を済ませ
・車のドアを開ければ自分の座席でくつろぎ
・車内でうろうろしたり吠えることなど一切なく
・ドアを開けても飛び出さず
・外へ出ても許可なく離れず
・フリーの許可を出してもこちらを気にかけ
・呼び戻しにはすぐに応じ
・普段はその辺にいるか足元で横になり
・人の会話を聞いて次の行動を予想し
つまりはテント設営中はその辺で遊び、設営後は『何して遊ぶ?』と誘い、散策中は私たちのそばで自らも楽しみ、他の人や動物に出くわすなどした時はこちらを見て指示を仰ぎ、食事中はその辺で寝て、温泉に入る時は車の中で静かに待っている。
もちろんテントの中では寝袋をかけて川の字状態である。

今回は貸切みたいなキャンプだったから一層開放的だったが、仮に周囲に犬連れのキャンパーがいたとしても、犬同士の挨拶など私が許可しない限り絶対勝手に行かせるようなことはなかっただろうし、アモ自身が『どうしましょうか?』と目で伺いをたてたことだろう。

決して理想的ではない稟性の犬でも飼い主によって社会性を持った理想的でかけがいのない愛犬に育てられるのである。
何故社会経験を積ませるか?何故教育するか?
愛犬と共に楽しく暮らすライフスタイルを具体的にイメージすれば自ずと答えが見えてくる。
 

ごめんなさい。明日から値上げです。 2008年05月31日(土)

  申し訳ありません。
カフェで備蓄していた食材が先週辺りから底をつき、昨日仕入れに行ったパスタなんぞは60%も値上がりしておりました。
小麦製品は勿論のこと乳製品やその他の食材も続々値上がりしています。
明日からカフェメニューの値上げに踏み切ることとなりますが、どうかご理解くださいませ。

さて、先日のキャンプでは洞爺湖で満天の星を堪能することができたが、そんな中、私にとっての驚きはKの度胸にあった。
夜中の星の美しさに酔いしれていた時、「トイレに行ってくる」とKは懐中電灯も持たず数十メートル先にある無灯火のボットントイレにひとりで出かけて行ったのだ。
「ついて行こうか?」
そんな私の言葉にKは「やめてよ」と応じた。
「懐中電灯は?」と促すと
「いらない」とK。
そんなの私の世界ではあり得ない!

暗い夜道では亡霊に出くわすものだし、真っ暗なボットントイレでは嬰児の呪いがあって便器から手が伸びてくるものだし、「赤いマントはいらんかえ?」との言葉が聞こえてきた時に返事をしたら背中を悪魔の爪で引掻かれて赤いマント見たいに血まみれになると子供の頃から教えられてきた私である。

あの時ほどKを敬ったことはない。
これまで恐怖を感じていたものの実際には恐怖体験したこともないし、犬たちは平気で夜道を歩き回ってもいるから、怖がる理由はないのが正解だろう。
だけど夜中にひとりで無灯火のボットントイレにKは平気で行って何事もなかったように帰って来た。

私はその怖さについて話をしたいのだが、Kは明日からのカフェの値上げのことの方が関心事のようで「仕方ないよね。これでいいかな」と現実的な面を考えている。
足して2で割ればちょうどいいのかもしれない。
 

3連休。やっぱいいね。 2008年05月30日(金)

  臨時休業の28日にご来店されたかもしれない“あなた”ごめんなさいでした。
カフェを3連休とさせていただいて、行ってきました洞爺湖キャンプ。

雨の予報もあったけど、3日間とも好天に恵まれすこぶる楽しいキャンプを満喫してしてきた。
詳しいことは明日以降のKの“最新情報”コーナーでご覧あれ。

申し訳ないが今夜は心地よい疲労に埋もれながら普通のベッドで横になりたい気分である。
それは我が家の愛犬アモも同感のようで『その話はまたね』と、どこかで爆睡している。

明日は5月最後で今月のパスタも月替わりを迎えることになっている。

いろんな出来事があった連休でとても良い体験をさせてもらった。
アモは人生を削りながらでも楽しく生きることの方を選択しているようだ。

睡魔がピーク。
また明日。
 

犬種占い 2008年05月26日(月)

  犬というのはそれぞれの個体によって性格も違うし、日々の経験によっても人への反応が違ってくるものだ。

毎日顔を合わせているのに帰宅するたび吠えかかる犬もいれば、誰でも彼でも大歓迎する犬もいる。
安全な相手だと思えば膝の上に乗ってくるが、ちょっとした動作に過剰反応して逃げ出す犬もいる。
過去のある瞬間のことをいつまでも根に持つ犬もいれば、気持ちを切り替えることができる犬もいるし、最初からそんなことには全く無頓着な犬もいる。

人間はというとそれらが入り混じって社会生活を送っている動物だ。
犬なら犬種特性によって区分されるような事柄が、人間の場合血液型であったり星座などによってまことしやかに分類されている。

人間を犬種に分けて性格判断している世界もあるようだが、もっと深く分析すればとても面白く興味深いと思う。
共感できたり笑える部分だけでなく、人も犬も自らが基本に持っているものが社会経験によって細分化されるものの、結局は意思(理性)より動物としての必然的な行動や感情を表出していることに唖然とさせられることだろう。

例えばチワワの場合、神経質な傾向がある一方でおおらかな犬も結構いて(これはすべての犬種にも共通しているのだが)、防御的な反応というか意志の強さがあり人間に例えるなら小兵ながら身体を張って主張すべきことを少しオーバーに主張するタイプと言えよう。

Mダックスもまた両極があり、のんべんだらりと暮らしている犬もいれば絶えず周囲に気を配ってピリピリしている犬もいる。
どちらかというとチワワよりは人間に依存的で、人に頼っている分勇気を得てしまうことがある。

シーズーなんかは基本的に人に依存しているのに、そのことに感謝の気持ちを表すことなく当然と受け止め独立自尊の精神が強い。ただ普段の行動に迷惑を及ぼすようなこともないから“それはそれなりに受け入れなければならないのかな”と人間に思わせてしまう無言の力を持っている。

ヨーキーは自分の魅力を知り尽くした陽気さと気高さがあり、それをアピールする犬もいれば全く無視して凛とした犬がいたり“飼い主命”の振る舞いをする犬がいる。

トイプードルは自分の役目を心得たしたたかな犬種である。その愛らしさで人間を翻弄しているにも関わらず、さらにアピールを繰り返して能力の高さを示し、結果的に的外れなボロを出しながら頑張って結局は人と犬の違いを明確にしてくれている。

柴とジャックラッセルはどこか似たところがある。
何事にも一生懸命で、物事を見抜こうとする意思が強すぎて時に排他的になりかける傾向もあるが、信じた道は突き進む強さがある。

シェルティはその美貌や特異な主張で常人が考えないような事柄にも視点を向けさせる貴重な存在だ。
少数派の意見を述べる代表ともいえよう。

フレンチブルなんかは的外れなことを言う大御所の評論家であり、機嫌を損ねないよう大事につきあっておけばたまに人生の真髄を述べたりする。

さて、レトリーバーは人間そのものである。
様々な犬種愛好家がおられることは重々承知の上で敢えて書くなら“一生のうちに一回はレトリーバーと暮らしてごらん”と私なら主張する。
どれだけ大変か、どれだけ記憶に残るか、どれだけ人生に影響を与えるか、いろんな犬種の愛好家に混じり決して平坦ではない道のりを笑顔で語ることが今なら出来そうだ。
 

たわごと 2008年05月25日(日)

  結局今年の5月は低温で雨の多かった月と総括されても仕方なさそうだ。
今日も肌寒く雨模様の一日だったが、暖房にはストーブではなく初めてエアコンを使ってみた。
結構いい感じ。
1リットル103円にもなった灯油を燃やすよりずっと経済的な気もするし…
しばらくは原油価格の高騰が続きそうなので、今度の冬は1ヶ月程度エアコン暖房にして価格差の比較をしてみようと思う。

『エアコン暖房は高いに決まってるよ』
どちらもエコに反しているようだが、状況によっては常識を疑うという点において身近なテーマになるかも。

常識だったことや社会通念というのが数十年という時間の中で明らかに変わってきている。
・子供を叱ることさえ気を使わなければならなくなった親や教師
・性の氾濫というか人間の野放し化
・猟奇的犯罪、自殺
・金亡者の汎用化
・正しいことを認め過ぎて、自ら息苦しさを作り出している社会

多くは携帯・パソコンなどのインターネットやテレビ・新聞・雑誌・ラジオなどマスコミという情報媒体が良かれ悪しかれ関わっており、利用者の分別を超えて“経済至上主義”という化け物(結局は只の人間集団)が社会を動かしている。
結局は当時から懸念されていた『情報の無制御な氾濫』が現実になっただけのことで、当時その懸念を知らしめていたことが現在の不安の緩衝剤の役割を果たしているのは皮肉なことである。

うつ病になったり老々介護の果ての心中(未遂)に関わる人々の方が私には余程純粋な人間らしく思われてならないのだが、今の社会はそれを当たり前に生み出しておきながらそれを許さないというねじれた屁理屈がまかり通っている。

肉を食べれば『軟らか〜い!』が美味しさを表し、犬を見れば『可愛〜い!』で自分をも可愛く見せようとする軽さが氾濫している。

CHANGE!
Yes, We Can !
そんな言葉を信じたくなるような背景がある時代に私たちが生きているのは間違いのないことだ。

理論、経済、科学万能の社会で恩恵を受けるプロセスにおいて私たちは倫理・常識すら変容されるど真ん中にいる。
せめて“人間らしさ”と“所詮人間”という原点を見失わないでいたい。
知り過ぎたくもないし、もういいのに生かされたくもない。
助けて!と言えば援助が受けられる国であって欲しいし、訴訟や暴動を起こさなければ安全で頑丈な学校が建てられないような国であって欲しくない。

柵がなかったから子供が池に落ちた。
遊具で事故に遭った。
辛く悲しい気持ちは分からないではないが、それを社会問題にして個人や組織の責任が問われ、以後改善がなされたとしても、何故か失われるものがあるような気がしてならない。
恐らく私に欠けているものがあるのだろう。
社会問題化したからこそ自動車の環境意識や安全機能は高まっているに違いないし、情報社会になったからこその様々な恩恵を受けているのだから。

だが、失ったものと引き換えに出来るほどの成果はどう考えても今は見いだすことができないでいる。
 

Yさん奇跡の生還! 2008年05月24日(土)

  Yさんが蘇った!
先日のこの欄で、くも膜下出血で危篤状態にあると書いたチワワのさくたろう・貫太郎の飼い主Yさんに意識が戻ったのだ。
トイプー/ベルのSさんがニコニコしながら知らせにやって来てくれた。
久しぶりに混み合っていたカフェの皆さんにお伝えすると空気が一気に明るくなり安堵の声がそこここから聞こえた。
「ヒャー!バンザーイ、バンザーイ!」
Aさんは両手を上げて喜んでいた。

夕方Yさんのご主人からの電話をKが受けた。
ご主人は奥さんの経過と容態を説明した後に、「ところで、さくとかんのフードがなくなりかけていたので、どこで買ってるんだと家内に聞いたんだよね。ペットショップか?ホーマックかって。」
気道確保の為に気管切開されている奥さんは声を出すことが出来ない。
そこでご主人が文字ボードを用意すると『ナ・ガ・サ…』と示してくれたので「あ、ナガサキか!」と電話をくれたいきさつを話してくれたということだ。

みんな心から奇跡を祈っていたんですよ。
心肺停止という現実の知らせを聞き、驚きと諦めと悲しさと無念さの気持ちが先行する中でも、僅かなその想いが叶ったことに爆発的な喜びが込み上げてくるばかりだった。

さくたろうはフードを食べるけど貫太郎は食が細くなってしまっているらしい。
意識が戻ったといっても脳血管のことだから予後や二次的な問題も懸念される。
いろんな心配があるにはあるけど、意識が回復し意思疎通ができる状況を手放しで喜びたい。
若いがゆえに倒れたと聞いた時のショックが大きかったけれど、若いがゆえの回復の確かさを見せてくれればなによりである。

なんか、またカフェに遊びに来てくれるような気がしてならない。
楽しみに待ってますよ。
 


- Web Diary ver 1.26 -