From the North Country

これも幸せの一部 2008年02月12日(火)

  雪が降った朝は楽しみが増える。
例えそれが今朝のような湿って重たい雪であっても。

1時間15分のうち20分ほどがウッドデッキや階段など雪かき道具を使っての手作業となり、除雪機ガロアラシ号が雪を飛ばしやすいよう状況を整える。
その後ガーデン、通路、車庫前、ごみステーション、駐車場の雪を一気に吹き飛ばせば除雪が完了し、私はKが準備してくれている入浴剤入りの朝風呂にどっぷりと浸かることができるのである。

朝風呂はたまらん。
それも洗髪など面倒なことは一切無しで、ただどっぷり浸かって冷えた身体をじんわり温めるだけの朝風呂がいい。
湯船に浸かって目を閉じると道路からは三階の高さにもかかわらず換気口から外を歩く人の足音や朝の挨拶が聞こえ、そんな時間に自分がくつろげていることにニンマリできる。

宿直明けでも6時半から夜まで働いている盲導犬協会の元同僚たちが聞いたら羨望のまなざしを向けるに違いない。
「若いうちは身を粉にして人々の為に働け!神や仏はきっと見てくださっている。何気ないことに喜びを感じ、高望みさえしなければいずれ幸せな時が訪れるぞよ」と励ましの言葉をかけておこう。

朝風呂に入っただけで幸せボケする私であったが、カフェが始まると大仕事が待ち受けていた。
ガーデンでボール遊びをしているCちゃんをふと見ると様子がおかしい。
ただの遊びじゃなく夢中というか恍惚の目になりかけていたのだ。
「止めさせた方がいいですよ!」
そう声をかけたが飼い主のNさんは咥えたボールを取り出すどころか、捕獲することもできないでいた。
Cちゃんはまだ呼び戻しができないから雪山を中心に面白半分に逃げ回ってしまうのだった。

挟み撃ちにしようと私も手伝ったが、こういう時に深追いをすると“取られまいとしてボールを飲み込んでしまうことがある”のでどうしようかと考えていたら、別件の来客があって捕獲作戦は一時中断となった。
が、Cちゃんはその間もボールを咬み続け結局は当初の心配どおりごくりと飲み込んでしまった。

飼い主のNさんが冷静というかのほほんとしていたのが私に考える時間と勇気を与えてくれた。
・あの大きさなら恐らく数日後に排泄されるだろう
・でも万が一、今夜辺りから水を飲むとすぐに嘔吐を繰り返し、便も出なくなったとしたら閉塞したことになる。
・今、病院に行って内視鏡で取り出すにしても全身麻酔が必要だし、吐かせるにしてもしばらく病院で留め置きになってしまう。
・だからと言って何もせず、腸で閉塞すれば開腹手術かぁ
・まあ、それでも最終的には助かるだろうけど、ここで嘔吐させるには?
・塩水は確実じゃないし吸収されたら身体に悪そうだよなぁ

『そうだ!あれを試してみよう!』
ボールを飲み込んだ後は満足そうにNさんに捕獲されたCちゃんの口に私はオキシドールを流し込もうとした。

もがきながら拒否するCちゃん。
それをがっちり抑え込んで言い聞かせるNさん。
Cちゃんは初めてお母さんが真剣に力ずくで自分に向かってきたのを体験したのだろう。
『これはただ事ではない』と感じ取ったようだ。
普通の日本犬なら私を咬んだかもしれない。
がCちゃんはNさんの力に信頼を寄せ、旨くはないはずのオキシドールをごくりと飲み込んだ。

数分後、二度の嘔吐ですべてが解決した。

それからが私の反省時間でもあった。
・あれ?市販のオキシドールをそのまま飲ませてよかったんだっけ?
・量は適切だったの?
・重篤な副作用はないの?

文献を調べ3%のオキシドールをCちゃんの体重だと2〜30CCほど飲ませるのが良く、ネズミの場合長期連用で十二指腸に潰瘍との結論を後から得た。
「なぁも大丈夫だ!過酸化水素水だからH2O2だべ。水と不安定な酸素だ。」
無責任なことを言いながらオキシドールの裏書を読むと『1mlに30mg含有』と書いてあった。
これって3%のオキシドール?
飲ませた量はいい加減だし殆どがこぼれていたから、適量かひょっとしたらちょっと多めだったかもしれない。
「吐いた後に(カフェで作っている)活性水素水をたくさん飲んだよ」とKが言ってたから、水になってオシッコが増えるかもしれない。
来週の火曜日に来店されるから、その後の様子を伺わなくてはならない。

もし大きな問題がなければ民間応急療法の前進であり、問題が起これば私自身えらいことになる。
ただしそれで料金を頂くような動物に対する医療行為を行ったのではないことを申し添えておこう。

外はマイナス10度で先程まで雪が降っていた。
Kが朝風呂を準備してくれるほどの除雪が明日は必要だろうか?
 

こんな日でもいい日になれた。 2008年02月11日(月)

  昨日までの好天が去り、重苦しい鉛色の空から降る雪は北風に吹き飛ばされ寒々しさの漂う一日だった。
三連休最後のカフェもそんな天候に左右されたのか久々の開店休業状態となった。
おかげで昨年からの溜まりに溜まったお客様カードをパソコンにすべて入力し終えることができたのだからありがたいといえばありがたかった。

他にもいいニュースがあった。
ご存知の方は少ないだろうが道路に面した車庫の横にはカフェの案内板があり、新年の営業日からそこに1枚の貼り紙がしてある。
『探しています。情報を下さい』という見出しに続いて
昨年12月30日から行方不明になっている柴犬の写真と特徴それに連絡先が書かれたもので、私は散歩中の方が覗き込んでいる姿を何回も見かけていた。

1月の下旬には回覧板にもコピーしたものが添付されていたので「まだ見つかってないんだ」と心配し、貼り紙も継続して出しておいた。

それが今日「見つかりました。ありがとうございました。」と飼い主の方がカフェに報告に来られたのである。
飼い主の執念ともいえる思いと行動が、この犬のことを人々の記憶に残し、公園や犬仲間が集まるような場所で話題となり、その情報が徐々に地域を広げて保護していた方の発見へと繋がっていったようだ。

迷い犬を保護する方は多いが、すべての方がそのような場合警察や動物管理センターに連絡する方法を思いつくとは限らないから、諦めず人々に忘れ去られないように探し続けていることを伝えることの大切さを学んだ思いである。

「よかったですね」と助手席に座った柴犬と飼い主を見送り、貼り紙をはがして捨てようとした途端、私の体に電気が走った。

すぐに私は『無事発見しました。ありがとうございました。』とコーティングされた貼り紙の下に赤いマジックで書き、再びカフェの案内板に貼り付けた。
 

連休の過ごし方 2008年02月08日(金)

  昨日は家族で札幌雪祭りを本当に久しぶりに楽しんできた。

外面がいいというか普段の散歩とは全然違うおりこうさんな姿をこういう時のアモは前面に出してくれるから楽チンだった。

町に着いて最初はスタバのモカラテで英気を養い、いざ大通りへ。
様々な雪像を見るうちに身体は冷えてしまったが芦別名物ガタタンで温まり、アモはトヨタカップ予選のスノボーのジャンプを見ながら「僕もやる!」と意気込む。
普通ならジャンプのように空中高く飛び上がる人間の姿を犬は見ることはないけど、アモには指差した方向を見るように教えてあるのですぐにその姿を捉えることができたのだ。
大雪像の前ではいつものように“おっちゃん”してすぐに写真に納まってもくれた。

子豚を丸焼きした肉を売るお店の前では「これ絶対アモちゃんに食べさせる!」と言い張るKの圧力に屈して人目をはばかるように与えたが、
「そうそうこれが祭りだよね。祭りっていいね、父ちゃん。」
アモは大満足だった様子。

その後立ち寄ったドッグカフェでは疲れもあってか足元で横になったままで
「おりこうさんね」とカフェの方に言われても
「え?なにか?」という顔をしていたのが可笑しかった。

そして今朝はレクの森へゴー!
Kは娘がベトナムへ旅立つとかで忙しく、初めて私とアモだけでレクの森を走破した。
歩くスキーがあればもっと楽しかったのかもしれないが、私には抜けるような青空が木々の隙間から見える林間をアモと徒歩するだけで充分に満足で、気持ちの良い3時間だった。

振り返ってみれば“犬がいることが前提”の連休になってしまっていた。
この二日間でアモは右膝に、私は左臀部に痛みと疲れの蓄積を感じている。
私の違和感はヨガで取り除けるが、さすがのアモにもヨガのポーズまではまだ教えていないのが残念である。
そんな風に考えながら振り返ってアモを見たら、仰向けになって両手両足を重力に任せてブランブランとさせ見事なヨガのポーズをとっているではないか。

こいつめ来週に備えていやがる。
 

遠くで汽笛が 2008年02月06日(水)

  この2〜3年壊れたまま放置していたオーディオを今夜修理した。
チューナーをいじれば聞こえるFM音。
70年代からのカセットテープ。
フレデリック・フェネル指揮するクリーブランド管楽セクションが奏でるホルストやウィリアムズのCD。
フィラデルフィアを率いたオーマンディが響かせるシベリウスの2番のLPレコード。
どれもこれもが忘れかけていた青春時代の感性と柔らかな懐に抱かれるような音楽の包容力をじわじわと蘇らせてくれた。

テレビ、インターネット、ゲーム、ケイタイを一時忘れて、音楽を聴くのがこんなに心地よいものだったのかを改めて感じることができた。

どこの家にもあるレコードをもう一度聴けるように機器を整備し足りないものを探してオーディオを完成させよう。
軽いお酒かコーヒーを淹れてボリュームを高めにし、ソファーに身体を沈め、目を閉じて聴くのもいいだろう。
立ち上がって指揮をするのもいい。
曲によっては口ずさんだり踊りだすのも楽しいに違いない。
マンションやアパートでもヘッドフォンなら特等席の気分を味わえる。

学生時代、部活のない休日には京都へ出かけ出町柳にあった柳月堂というクラシック喫茶でコーヒーをすすりながら時を過ごすのが好きだった。
周りも殆どが学生で、本を読んだりレポートを書いたりとそれぞれの時間が止まっていた。
そこから京福電鉄に乗って宝ヶ池を散策したり、夕方には銭湯にも入ったなあ。
眠眠の餃子とビールが晩飯で、それから友人の下宿に転げ込んで炬燵に潜り込みながら米朝の落語のレコードを聴いたりクラシックを聴いたりするうちに人生を語り始め、気がついたら明け方になって、それから昼頃まで眠り、京都の町を散策し、また柳月堂に戻って音楽を聴いていた。

ああ、壊れたオーディオの修理とスピーカーから流れる音楽が、懐かしい昔を思い出させてくれた。
あの頃と違い、私のそばには愛犬アモまでがくつろいでくれている。
 

私と犬 2008年02月04日(月)

  私が犬と暮らし始めたのは子供の頃で、親に買って貰ったのではないどころか、親に内緒で近くの空き地にあった小屋で勝手に野良の仔犬を飼ったことに始まる。
その数は14頭ほどにもなったが私が子供だったからか犬に咬まれたことは一度もなかったし『咬まれるかも』という発想すらなかった。

初めて正式に飼う事ができた仔犬は、仕事帰りの母親が拾ってくるように予め私がセッティングしたものだった。
『この可愛さならお母ちゃんは絶対に拾う』と確信させるような犬だったから、あとは母の姿を遠くに見つけて道端を放浪させておけばよかったのである。

親にばれないように気を使っていたそれまでとは違って、奔放に犬と遊べることがうれしくて毎日が夢中だった。
枯れ草の上では童話で見たキツネのように四足揃えてピョンピョン跳ねる姿が今でも忘れられない。

だがその犬が大きくなって犬が他人を咬むという現実と自分の無知を知った。

時を経て盲導犬の世界へ飛び込んだ時も当然犬の訓練技術などは知らなかった。
毎日毎日が訓練とはかけ離れた犬舎での生活で、朝の排泄に始まり掃除・給餌・ベッドメイク・ブラッシング・爪切り・耳掃除・シャンプー・散歩などに明け暮れた。
同時進行で繁殖ボランティアやパピーウォーカーの人々に出会ったり、成長段階の犬たちを見ることができた。

今思えばあの時に私の脳が『犬と暮らすということ』の概念を作り上げたのだと思う。

・犬は人間と同じような感性を持てるし考える動物である
・犬は付き合い方で犬になり、イヌにもなる
・犬の習性の筆頭を挙げるなら観察力であり、彼らとの暮らしの原点がそこにある
・抜け毛以外は人間の生活に支障がないのが当たり前
などなど

あれから30数年、最初の犬から40数年、私は子供時代に犬においての貴重な出会いと最悪の別れを経験し、大人になり職業として犬について学び、考え、実践し経験を積み上げ観念を形成してきた。
だから自分の暮らしに合う犬を選べるし育てることもできる。

食卓に手をかけたり、家族の前で盗み食いしようとしたり、車内で外を見て吠えたりなどが最初にあった時、それを放置することが将来何に繋がるかも知っている。
犬は人がどのような反応を示したかを観察し今後の行動に結びつけている。
たとえ叱られている時でも、いや叱られている時ほど注意深く観察している。

犬をしつけるのは技術や方法もあろうし、今流行の行動学などの知識もあってよいのだが、犬に対する観念というものが最も大切なのではないかと感じている。
『え?あんた犬でしょ。なんでそんなことも解らないの?』が前提で、そのプロセスとして仔犬の頃から育てているのだ。

表現の仕方が下手だからうまくは書けなかった。
この私の『犬に対する観念』というのを今最も理解してくれているのはKだと思う。
私と暮らす中でKはいろんな感想を述べてくれた。
犬のプロでもない彼女だからこそ皆さんに分かりやすい表現をしてくれるかもしれない。
ヒマそうな時にでも尋ねてみてください。

犬との貴重な出会いと最悪の別れを子供時代に経験したが、あの頃の犬たちにすまなさと感謝の気持ちがいつも根底にある。
 

ドグベル 2008年02月03日(日)

  今夜は疑問の箇条書き

1.自転車事故について

@後方から音もなく身体をかすめるように走り去った自転車に驚いて、「気をつけろ!」と怒鳴ったとしたら悪いのはどっち?

A歩行中に肩が凝って腕を回したり、何かを指差したりってたまにあるけど、後方に誰もいないはずだったのが急接近してきた自転車の運転手に当たってしまったら、当てた方が全面的に悪いの?

B自宅から歩道に出ようとした老人が、普通に走ってきた自転車に驚いて転んで怪我をしたら責任はどうなるの?

2.犬に関する事故について

@大人しいわんこと飼い主が、前を歩いてる人を追い越したとき、「わー!ビックリした。気をつけなさいよ!」と怒鳴られたら悪いのはどっち?

A公道ぎりぎりの敷地内に繋がれた犬が突然吠えかかり、驚いた人が転んだり散歩中の犬が道路に飛び出したりして怪我をしたらどうなるの?

B犬嫌いの人が、規則通りにリードで繋がれ大人しく散歩をしている犬と突然出くわしたことにあたふたして転んでしまったらどうなるの?

C同じく規則通りに散歩している時に、犬嫌いの人から聞こえよがしに『嫌ねぇ』って言われたら、多くの愛犬家はどう対応しているのだろう?

判例が出ているのかもしれないが裁判になればそれぞれがケースバイケースなのだろう。
相手や当事者が老人や身体障害者だったらひょっとしたら判断も分かれるかもしれないし、そんなの咄嗟に判断できないと反論もあろう。

ところで皆さんは歩行中の盲導犬に出会ったことがあるだろうか?
多くの盲導犬ユーザーは愛犬の首に鈴や小さなカウベルをつけている。
鈴は自宅での愛犬の動きを知ることができるし、大き目の鈴や小さなカウベルは歩行中に、前方を歩く人に『後ろから接近していますよ』と予め知らせて注意を促したり驚かせることがないようにとの思いが込められている。
喫茶店などに入った時にはカウベルにティッシュを詰めて音が鳴らない配慮もしているのですよ。

中・大型犬の散歩にはオシャレで優しい音の小さなカウベルならぬドグベルっていうのもいいかもしれない。
カフェオリジナルを考えてみよう。
自転車にも使ってもらえればありがたいし…

それでも最後の砦として家族傷害保険への加入をお勧めしたい。
単独での扱いもあるし通常の生命保険などに年額2000円程度特約すれば(不確かなので個人の責任において確認のこと)万が一に備えられる。
私は生命保険を“騙されたと思って”掛けているが、傷害保険だけは愛犬家や子育て中の子供がいる家庭にとっては安心だと感じている。

たしか家族傷害保険は怪我をしたりさせたりした時の保険だが、盲導犬協会でパピーウォーカーに掛けていた傷害保険は年額2000円で物損にも対応していた。
私が対応した事例では
・花屋さんで愛犬の振った尻尾が花瓶に当たって落ちて割れたのを補償
・キャンプで暴走したパピーが隣のテントを破ったのを補償
というのがあった。
金額は間違いないが内容についてはやはり保険会社に確認されたし、ということだ。
 

フードやおやつのローテーション 2008年02月02日(土)

  里塚温泉で飲食する時はまず『若鶏の半身揚げ』の持ち帰りを注文しチェックアウトするまでカウンターで預ってもらっている。
それがいつの頃からか定着した我が家の愛犬アモへのお土産となり、その夜に一切れをKが与え、その後4日間ほどドッグフードのトッピングとなってアモを満足させている。

これまで温泉セットをアモに見せて「里塚温泉行ってくるからね」と言えば『あ、そうですか』とベッドで仕方なさそうな顔をして顎をぺたんと下につけていたが、その表情と仕草は今でも変わらないものの、最近ではきっと内心『しめしめ』と思っているに違いない。
『里塚温泉』といえば舌なめずりすることがあってどうやら半身揚げをイメージしているようだ。

昨年のいつだったか、持ち帰りを忘れたり、売り切れていたりして何度か手ぶらで帰ると
『ウッソー!信じらんない。あんたたち一体何考えてんのぉー』
そんな顔をされて困った経験があった。

どうか勘違いをなされないようご注意願いたい。
メーカー曰く本来、愛犬の食事にトッピングなど不要なのであって、今夜は我が家のたわけた話を書いたまでのことである。

ただ私にもちょっと気がかりなことがある。
アモのおやつにもこのところ鶏のささみが続いており、それが好物になっている。
幸いアモにはアレルギーはないが、アレルギーを未然に防いだり遅らせたりするためにも、食事やおやつにはローテーションが大切であり、繁殖に用いる犬であるならば絶対必要だと思っている。

つまりチキン系の次はビーフとかラムとかダックとかフィッシュとか鹿肉…などのフードに変えたりするほうがアレルギー反応を引き出しにくくなるだろうし、トッピングにそれらや季節の野菜を加えたりすることでも相当の効果があると考えている。
もちろんそれでお腹の調子が変わらない犬の場合のことだが。
アレルギーを含め雑食性の犬にいいのは残飯なのだろうけど、塩分が濃かったり禁忌食材が含まれたりして他の健康問題が持ち上がってしまうのが厄介なところだ。

豚のように犬を肥育して満足するような飼い主に聞かせるつもりはないけど、微妙な栄養バランスというのはフードメーカーに言われるほど今の時代重要ではなく、多少のアンバランスがあったとしても季節に応じた手作りごはんがトータルで見たときには優れているように思う。

手作りの面倒さを受け入れられない我が家では、カフェで販売している安心の食材を用いたドライフードを時々ローテーションし、トッピングやおやつもそのようにしている。

なんせ、我が家の愛犬は健康を考えつつも『美味しく食べさせてあげたい』と思わせるほどいい子なもんで…
 

ミッションステートメント 2008年01月30日(水)

  私は年に何度もこのホームページにある『ショップコンセプト』を読み返している。

今ではそれぞれの企業がその目的と社会的使命を広く社会に明らかにするため『ミッションステートメント』を掲げているが、掲げた旗印が時代によって微妙に変化し、現在の企業の多くが『株主配当重視』といういずれは腐るであろう木の枝に重きを置いているのが情けないと感じる。

あるアイデアや使命感によって事業というものは産まれ、財政的に苦しみながらそれでも歩み始めた創業者の理念に賛同した人々が“株を購入”することによって『私はあなたの理念を支援する』という意思表示の手段が株式の原点だと私は思っている。

それが今では投資家の金儲けの手段として定着し、国も庶民に投資を促す政策をとるようになった。
挙句、庶民は株価に一喜一憂して生活を翻弄され、経営者は枝葉(確かにこれもなくてはならないものだが)であるはずの株主を、栄養吸収源の根であると勘違いし始めた。

根であり幹であるのは『創業理念』であって株主ではなかったはずなのに。

本末転倒の社会構造がそこに産まれ、『お客様は神様です』という、高度経済成長初期に傲慢になりかけた経営者を戒める言葉がその後に訪れたバブル崩壊(ミッションやコンプライアンスを忘れた事業運営)などの時代を越えて続いた結果、いい気になった“モンスターペアレンツ”や“クレーマー”なる人種が増殖し始めた。

そして企業はすっかり形を変えてしまい、『経営の根幹は株主』で『お客様を重視し、その方々からのクレームは宝だ』という大義名分のもとに本来の宝であるはずのミッションを忘れ従業員をストレスにさらし、その人間性や精神構造を変化させ、それに適応できず自殺に追い込まれる人間を『負け組み』という用語に包含して生き延びようとしている。

私はカフェのコンセプトを見失うことはない。
いつ何度読み返してもその中身に同意するから自分の理念を失うことはない。

お客様には『敷居が高く緊張する』と言われることもあるが、それは理念の誤りではなく私の未熟さに起因してると大いに反省し改善しようと日々努力している。
カフェは株式会社ではなく個人事業だが私にとってお客様は株主なのだろうと思う。
『ショップコンセプト』に賛同していただける方々が私の仲間であり支援者だから、皆さんの思いを力にして新しい仲間を増やすべくこれからも歩んでいきたいと思う。
 

時代を生きる 2008年01月28日(月)

  この欄の上に日付が表示されている。
あのミレニアムの大騒ぎからもう8年も経っていて、ついこないだの『あけおめ、ことよろ』から始まった月も終盤になっている。

そんな振り返り方をすると『自分が生まれたのはまだ戦後の流れの中だったのだなぁ』と時の流れの速さと過去というものをしみじみ思う。
子供の頃、親から聞かされた戦争の話は遠い昔の歴史の断片にしか過ぎなかったのに、実は親にも自分にとっても、ついこないだの出来事だったのだなぁ、と。

今の子供たちもそんな風にミレニアムの話を遠い過去と感じながら現代を生き、いずれ、世紀をまたにかけた時代を疾風のごとく生きた自分を振り返るのだろう。

だからこそ『今を生きよ』というテーマがいつの時代にも存在し、観念上では解っていてもその意味を本当に知るのは年をとってからということが繰り返される。
人間ってうまくできているな。

不老不死じゃ傲慢の塊になっちまう。

なんだか哀愁を帯びた話になってしまったが、『死期近し』を感じて懺悔の気持ちが芽生えたわけではない。

人生の儚さを論じるようになると、孫に優しいばかりの祖父母のように『人生は短いのだからそんなに怒鳴るんでない』と若い親を諭しがちだが、祖父母にとっては孫は消え行く自分の化身のように可愛いし、育てる親のような責任がないのだから自分の得た人生論を好き勝手にぶちまけるものなのだ。

教訓もあろうし、たわ言もあることを知らねばならないだろう。
そうやって私たちは固有の文化を引き継いできた。

さて、この時代の犬の話だが…
なんてことを書き出したら止まらなくなってしまうから短かめになるよう自制しよう。

五代将軍綱吉が生類憐みの令を出した遠い時代…
今私たちは一時代の流れの中の現代において愛犬と暮らしているに過ぎないから、何が良くて何が悪いかは歴史に委ねるしかない。
だが、やわに感じる綱吉の功績は綱紀粛正にあったともいえる。
私はジジババのような生の儚さを前面に出した無責任な立場で愛犬を育てることを微笑みながら受け入れつつも敢えて異議を唱える場合があると言わざるを得ないと感じている。
何故ならその無責任な結果において人が犬と暮らさなくなるような空白の時代を作りたくないから。

棄て犬が後を絶たない今のペットブームではあの時代の綱吉の意図とは別問題ではあるが、腐敗大名に対して彼が行ったような綱紀粛正が必要だと思っている。
 

またまた愛犬自慢 2008年01月27日(日)

  アモが我が家の愛犬になってから2年と15日が経過した。
“おりこうになれば待遇が良くなる”という原則に従って、今ではアモには最高の待遇が与えられている。

ホワイトハウスだろうがルーブルだろうが、晩餐会だろうが葬儀場だろうが、もう何処でもOK。
もちろんリードの有り無しなど関係ない。
場所や雰囲気などではなくどんなところでも私たちの意図を感じ取って振舞えるようになったから、というのがその理由だ。
強いて言えば何度も大手術をしている動物病院では緊張があるので少しの配慮が必要だが…

そんなアモに強い不満を抱いていた事柄がある。

いいとこ育ちのアモは我が家にやってきた頃は『食』に対して無関心というか美食家というか(そのせいで42キロにもなっていたが)、自分の食事を見ても唾液を垂らすという下品な反応を示さなかったのに、そのうちにパブロフの犬のように『豆電球がつくと唾液が出る』とまではいかないにしても、私が食事の準備を始めると傍でよだれをこぼすようになった。

ラブやビーグルを飼っている人なら日常のことだろうが、迷惑だったし現在の私には『治せるかも?』との期待があった。

そこで「汚い!よだれ出てるぞ!」とアモをたしなめたりしていた。
「仕方ないでしょ。お腹空いてるんだし」
Kはアモをかばい続けていた。
それでもアモは私の不満と指摘されている内容を彼なりに考えて試行錯誤してくれた。

単純に『叱られてる』と思ったのかもしれないし『傍で物欲しそうに見ていることが悪いのか』とも考えたアモはKの後ろに隠れて、私を覗き見しながらよだれをこぼしたり、わざわざ隣の部屋でよだれをこぼしながら食事の準備が整うのを待っていたりした。

アモが問題意識を感じ取ってくれるようになったので私は次の『よだれ拭き作戦』に出た。
食事準備中にアモがよだれをたらすと「よだれ出てるぞ!」と不満をあらわにしてアモの口と床を拭き「ペロペロしなさい」と声をかけ続けた。

賢いアモはなおも考えたようだ。

よだれが床にこぼれないように布製の縫いぐるみを咥える時期もあったりしたが、ある時何も咥えてないのにまるで人間のように舌をペロリとして溢れそうな唾液をごくりと飲み込んだのだ。
その瞬間を見逃さなかった私は「ペロペロできた。ペロペロできた。」と有頂天になった。(犬を褒めるよりも自分が喜ぶことで犬には伝わる)

以後アモはよだれがこぼれそうになるとペロペロして床をほとんど汚さなくなっている。
食事を期待して唾液が出るのは健康な生理的反射。
それを意識して飲み込むのは学習した社会的行動。

ちょっと自慢になるかもしれないが、私がキーホルダーを床に落とした場合「アモ。取って」って言えばちゃんっと拾って手のひらまで届けてくれるんですよ。
土台がしっかりしているといろんなことが現実にできて楽しいし、だから何処でも何でも一緒に過ごしていける。
 


- Web Diary ver 1.26 -