From the North Country

ももちゃんのおかげ 2008年07月18日(金)

  今回の定休日は洞爺湖でキャンプを、と計画していたが前日になって秋田犬ももちゃんのお泊りが舞い込んできた。
普通ならショッキンぐ〜なタイミンぐ〜だったが実はこれ、渡りに船でもあったのだ。

天気予報が優れず『大雨になったらアモは勝手に泳がせて、我々はテントで読書三昧。』とか
『待てよ、アモが一人で泳ぐはずはないから結局外で付き合うことになるぞ』などの状況から“キャンプに行かない理由”を模索し始めていた私だったから、まさに大義名分が降って湧いたわけである。

案の定木曜日の夕方から夜半にかけて激しい降雨があり、1泊2日なら敢えて行く必要はなかったと思えた。

で、その木曜日。
定休日を察知したアモの主張を受け入れ、お泊り犬のももちゃんを連れて曇り空のもと私とKは原始林へ出かけた。
これがまた実に心地よく二人とも薄手の長袖を羽織って丁度良い気温だった。
オオウバユリがあちこちでたくさんの花を咲かせ、大沢池のとある場所ではアカゲラがサミットでも開いているのかと思わせるような集団を見せてくれた。
春先には好奇心が強く私の口笛による物真似に即座に反応して近づいて鳴き返したウグイスも、この時期は泰然としてホーホケキョの後に新たに覚えたケッキョ・ケッキョ・ケッキョを身じろぎもせず唱えていた。

入林前にコンビニで2種類買ったKの好物ヴァン・ホーテンのチョコレートのひとつが私のリュックから見当たらなくなった。
「きっとお茶を出した時に落としたんだ」
「いや、僕の長袖を出した時かも」
2時間ほど歩いてから私たちは予定のコースを変更し、別ルートからお茶と長袖を出したコースを経由して駐車場へ戻った。

「残念だったね。あっちのヴァン・ホーテンも美味しかっただろうにね」
まだ未練が残るKの言葉を聞きながら私が車の助手席を探すと、そこにちゃんと“あっちのヴァン・ホーテン”があった。
私が飲み物と一緒にコンビニ袋を渡した時にKが出したのだろう。

「ごめんね。食べてみる?」とK。
「夏の車内に2時間半だよ、解けてるに決まってるじゃん」と私。
「何言ってんの、絶対解けてません。」
「そんなバカな」
「私が何年チョコレートマニアやってると思うの、絶対解けてません」
そのチョコレートは本当に解けてないどころかカリカリしていた。

そんな油断が重なった瞬間、秋田犬のももが車から飛び出してしまった。
飼い主のSさんは過去に脱走されてエライ目に遭ったと聞いていたが、私はいたって冷静だった。
駐車場の周囲を見渡し、人や車両がどの位離れているかを確認して自分に与えられた猶予時間を判断してから捕獲方法を決めた。

結局3番目の言葉で1分もしないうちに『ごめんなさい、ちょっとした出来心で…、ホントごめんね』とももは私の懐に滑り込むように入ってきた。

犬が逃げた時、追いかける人がいるがあれは最悪である。
まあ小型犬の中には我を忘れて駆けて行く犬もいるが、あの瞬間はもう度胸を据えるしかない。
ただひとつできる事があれば、逃げた瞬間ではなく逃げた後に自分が原因で他人に危害を加えたり交通事故に遭わせないようにする事であろう。

幸いにもというか、逃げたももは何かに驚いてパニックになったわけでも、ある国からから脱北したかったわけでもなく『ヒャー、逃げちゃった。どうする?』
というとても一般的な状況だった。

こちらがパニックになって追いかけながら呼んだりして捕まえようとするのが素人。

その状況に戸惑っているのは実は犬の方なのであって、追いかけたり取り乱すような声を出すのは却って犬の高ぶりを助長するだけのことである。
私の場合はそうではないけど、一般の方ならそこで走ってきた車に跳ねられても仕方ないという度胸を据えるべきである。

決して追っかけることなく5メートル以上の距離を置いて
「こら!もも!なにしとる!おいで!!」
と強めに言ってみる。
これで戻る犬は“逃げる”ような犬の中にはまずいないのは折込済み。
次に
「まて!!」と命令して近づく素振りを見せると大抵の場合相手は戸惑いながらも逃げる体制を整え、「その手には乗らないぞ」と距離を保つ。

だがそれまでの経緯の中で、『どこかで折り合いをつけなければ』という感情が犬には芽生えている。
そこで両者妥協の
「もも、いいからおいで!楽しかったか?さあ帰るぞ。」という接し方になる。

充分な関係ができていれば強めに言うだけで解決し、ある程度の訓練ができていれば『マテ』で解決し、そこそこできていれば妥協策でも効果はある。

それでも対応できないならあなたと愛犬は見せかけの同居人という関係でしょうな。

ももが逃げた時、Kはさっさと車に入っていった。
「だって私が顔を出したらももに遊び心が出ちゃうでしょ」
いろんな間抜けがあるがやはりKは私にとって最高の理解者である。
 

優柔不断が許される今と即断が問われた過去 2008年07月16日(水)

  カフェの夏休みの日程を決めきれずにいる。

候補となっているのは8月最終週の
Aプラン:月曜(25日)から金曜(29日)までの5日間と
Bプラン:水曜(27日)から日曜(31日)までの同じく5日間である。

Aプランの長短は
長1:すべて平日だし北海道人の夏休みは既に終わっているから、何処へ出かけるにしても空いていること。
長2:多くの方が給料日の25日から月末にかけてカフェは比較的暇な日が多く、そんな中せめて月末の土日は営業しておいた方が得策であるという経営戦略によるもの。
短1:せっかくの休みなのに土日を含んでいないから、気心知れた仲間たちと行動を共にすることができない。
短2:例年、お泊り犬が26日頃まで入っているという現実を考えると、休業して迷惑をかけるのはどうかなという思いが残る。

Bプランの長短は上記の裏返しであり、加えて大きな特徴がある。
つまり最終日が日曜であるから、仲間たちとキャンプや麻雀をしていない限り、私とKは土曜日の午前中でキャンプを切り上げ帰宅するはずだ。
理由は簡単。混雑が嫌いだから。
その結果、最終日の日曜は自宅でのんびりし本来の目的である休養をとることができるはずである。

『ううーん、どうしよう?』

決定までにはあと1週間の猶予がある。

先日、某盲導犬協会のスタッフと夕食を共にし、日本の盲導犬事業の最新事情や職業上の悩み等の諸問題を聞いた際には、私の頭ではすんなりと方向性をまとめることができたのに、組織から離れどっぷりと個人的な生活に入っている今、自らのこんなことに悩んでいるギャップに苦笑いせずにはいられない。

夏休みについては決まり次第トップページその他でお知らせ致しますので、よろしくお願い申し上げまする。
 

やはりネガティブから目を背けてはならないと思う 2008年07月15日(火)

  ポジティブとネガティブってどっちが前向きで正しいかなんて一概には言えない。
どちらかといえば妥協的で人間的な繋がりを重視するならポジティブの方が良いけど、ひたすら個人的なことや逆に社会的なことを考えるならネガティブにも大きな存在価値はある。

例えば日常の家庭生活でお茶碗を割ってしまった場合、「バカ、なんてことすんの!」と発すれば、言った方も言われた方も気まずい気持ちになってしまい前途に暗い影を投げかけるが、“形あるものは壊れる”というスタンスで何事にもおう揚に構えていれば、「大丈夫?怪我しなかった?」という言葉が出て、優しい雰囲気がお互いを包み込み、よい人間関係が継続されたり発展したりする場合がある。

一方、個人的な恋愛感情や経済的な悩みではネガティブになりがちだし、会社経営で成功を収めている社長さんの中には『物事すべてよかったよかった、と考えるべし』と社是を述べておられる方が多いが、実はそれがとことん個人的にネガティブになった結果に得られた結論であるとも思われるから一概にネガティブは悪とは言えない。

増してや国民生活においてポジティブを貫く人間は、時の政府にとってやり放題あるいはやらない放題の便利で使いやすい人民に成り下がってしまう危険性がある。

今日は暑い一日だったが、『北海道の夏もあと1ヶ月』そんな風に考えれば夏を楽しむ方法を考えたくなる。

『何を今更』と思われるかもしれないが、こんなことでも普段からちゃんと意識しておかないと差し迫った危機に自分らしく対応できなくなるんじゃないのだろうかと思うし、人間の究極にはネガティブが厳然として存在すると思うのだ。

今日の全国の漁業関係者のストライキだってそのひとつだ。
立派な普請の自宅でインタビューを受けていた漁師さんもいたが、いよいよ生活が大変になったのが伝わってくる。
漁船が大量の燃料を消費しCO2を排出していたことも分かった。
それでも不漁だろうと弱音を吐かずポジティブに物事を考え自己責任を受け入れていた彼らは、最終的にネガティブであることにふがいなさを感じながら行動に出たのだろう。

最近一般的に使われるポジティブさとは最低限生活が保障された環境の中でより良い結果を導き出すための詭弁に近い励ましの鞭であり言葉であって、戦後の焼け野原の中で母親たちが言葉にした執念とは重さが随分違うように思う。

愛犬育てのことで私は辛口の発言をすることが多いけれど、源はそんなところにあるのかもしれない。
 

捨てる鬼と拾う神 2008年07月13日(日)

  5歳のMダックス。
ペットショップ関連のブリーダーのところで繁殖目的で飼われていたのだろうが、偽妊娠が続いたのか・出産頭数が少なすぎたのかあるいは奇形ばかりを産む親だったのか、世話する割には金にならない代物扱いされたのだと思われる。
ブリーダーとショップ関係者はこの犬を処分する金を惜しんだのか、それとも間接的に殺すことが忍びなくせめてもの仏心がよぎったのか、その犬はペットショップの片隅に陳列されていた。

そしてその犬はゴールデン2頭と暮らすSさんの目にとまり、ショップはその犬に似合う服まで添えて無料でSさんに引き取ってもらったという。

Mダックスの経歴についてはSさんがショップから聞いた説明と私の分析によるものだ。

今日の午後、いつもはゴールデン2頭とやってくるSさんが緊張気味にMダックスを抱きながらカフェにやってきた。
仔犬なら「えぇ!Mダックス飼ったんですか?」と声をかけるところだったが、どう見ても違う。

「何かいわく付きのわんこみたいだね」と私は声をかけた。
「わかりますか?」とSさん。
事情を途中まで聞いて私は観察を始めた。

・犬には慣れているから他頭数で暮らしていた。
・人にも慣れているからそれなりに可愛がられていたらしいが抱っこされるような可愛がられ方ではなく、大勢の中の一員として接してこられた様子。
・社会経験は全く無さそうで見るもの聞くものに緊張していた。
・右目に異常が見受けられた。
・5歳とは思えないほど、歯と歯茎が老化し歯石が付着し、食生活と妊娠中の栄養不足が疑われた。
・乳首を見ると妊娠あるいは偽妊娠もしくは出産経験があると分かったが、しっかりした授乳経験があるとは思えなかった。

やはり商売には向かない犬として処遇されたのだろう。

「室内で暮らすためのトイレのしつけすらできていないんです」
Sさんは苦労しているようだが、『Sさんに助けられて良かったね』と思う反面、ペットショップ繋がりのブリーダーに対して『まだ、そんなことやってるのか!』と憤りを感じてしまう私であった。
 

そばに居てくれるだけでいい 2008年07月11日(金)

  今日は朝から雨。
気温は低く肌寒いが先日降った雨は農業関係には物足りなかったから丁度良くしっかりした雨だった。
午後になって曇り空になったので、せっかくの休日を楽しみしていた我が家の愛犬アモの為に原始林へ出かけた。
ところが途中から再び雨が降り出し、大沢口に到着した頃は結構な雨脚になっていた。
長靴と大き目の傘を準備して入っていくとまるで雨季の密林の雰囲気が漂い、今にも日没を迎えそうな薄暗さであった。

アモが一緒だから別になんともなかったが、これが一人で迷い込んだ状況だと想像したら…
まあ仮に遭難したとなればそれなりに必死だろうから不安もあろうけど解決策を冷静に模索するのだろう。
それでもアモがいるのといないのとでは大違いだなと考え、『そういえばキャンプでも一緒だと心強いよなぁ』と彼らの貢献にふと笑みがこぼれた。

小型犬と暮らしている方も同じように感じるのだろうか?
たぶん答えはイエスなのだろう。
だって何かが起こったところでアモは相手を撃退するとか、獲物を仕留めて私の元へ運んでくることなぞしないけど、とにかく傍にいるだけで安心させてくれるし、不審な状況を人よりも先に察知して知らせてくれ、これはどんな犬種でも可能なのだろうから。

まさに『人イヌにあう』(コンラート・ローレンツ著)原始の世界の安心感である。

ただ犬種や個体による温度差は確実に存在する。
私の動きを頻繁に確認しながら行動しているアモとは違い、今夜のお泊り犬シーズーのゴンタなぞは本能におもむくままの行動を30分以上は行い、そのうちふと我に返って『ここはどこ?何があったの?』の世界で生きている。
それでもそこに居てくれるだけで安堵するのはどういうことだろうかねぇ。
 

サミット終了! 2008年07月09日(水)

  1.成功かどうかは別にしてサミット終了バンザーイ!
上空がヘリコプターの札幌⇔洞爺湖ルートだったので、これで静かな日々に戻れる。
2.サミット不況は昨日で終わって今日のカフェはいつも通りに戻り一安心といったところでバンザーイ!
3.明日から定休日だバンザーイ!

ってなことで今夜は頂き物の北海道産芋(厚沢部産のさつまいも)焼酎『喜多里(きたさと)』をあおっている。
南九州の芋焼酎のように芳醇だがこちらはさっぱりしていて爽やか系である。
ロックにするとさらさらと喉を通り過ぎていき、心地よい香りがほのかではなくしっかり漂うのがよい。

唐突だが、商売には近所の同業者との競争があってしかるべきだとは思う。
実はカフェの近くには大型ホームセンターや大型スーパーそれに家電量販店が複数あったが、先月からはそれらの要素すべてを含めたさらに大きなショッピングモールがオープンし、どこが生き残るのかそれとも共存するのか見ているほうがハラハラしてしまう。
競争で安い商品が並ぶのはありがたいけど、万が一どれかが撤退するとなると地元の人たちの雇用が失われてしまうのは辛いものがあるから。
大企業や有名企業だからとて利益を上げれるかどうかなんて今の時代全く分からないのはニュースで見ているし…

ではドッグカフェはどうかというと、私は個人的にはたとえ競合していても増えて欲しいと思っている。
理由は単純。いろいろあったほうが便利だし、利用者としてありがたいから。
カフェを経営している私たちもまた愛犬アモといろんなところへ出かける利用者であり、愛犬と一緒に入れるお店があるというのは実にありがたいと感じている。

商売的にも競合するほどの過当競争がある分野ではないから新規参入も大いにありだろう。
留意すべきことがあるとすれば、『犬好きなオーナーが経営し、犬と入れるお店』だけがウリでは確実に行き詰ってしまうということで、いくつかのプラスαの特徴が必要だということだ。

今回のサミットでファーストレディたちが昼食をとった真狩村のマッカリーナは昨年私たちも訪ねていたが、あの田舎の環境の中でひときわ雰囲気がよく、しかもゴージャスで工夫された美味しい料理を提供してくれた。
そんなに大きな利益が上がっていたとは思えないが、これまでの努力が今回の結果となって表れ、今後の経営が楽しみになっている。

ドッグカフェナガサキも今夜の芋焼酎のようにそれなりの特徴を持ち、人々やわんこたちに酔いの心地よさのような満足を与えられるようこれからもガンバリます。
酔いの心地よさを今夜も存分に体験している人間からのメッセージでした。
 

ええどぉー北海道! 2008年07月07日(月)

  サミット関係者にとってどうなのかは分からないが、我が枝豆横丁も強引に含めた農業関係には恵みとも言える久しぶりのいい雨が今夜降った。
涼しいのにむしむししていた空気も一遍に吹き飛ばしてくれたみたいで、夜半の強風はひんやりと爽やかである。

未だ外出禁止令が続いているのかと思われるような閑散とした中、様々なトラブルが重なって吠える傾向が強くなったMシュナウザーと飼い主さんがカフェを訪ねてくれた。
よく吠えるし少々のコントロールでは反応しないワンちゃんだったが、歩いてみるとこれがまたいい性格の憎めないわんこで、これまでの彼の経験が彼を小さな器に閉じ込めようとしている段階であった。
蓄積された経験によって作られた厄介な一部の行動を変えるにはそれまでの数倍の時間がかかるだろうけど、基本の制御を忘れず、なによりこれまで通りの愛情を注ぎ乗り越えてもらいたい。

釧路で暮らしているマルク(ゴールデン×ラブ)もニセコのペンションで仲間たちと休暇を楽しんだ帰りにカフェを訪ねてくれた。
初めての川下りに挑戦し、飛び込んだ川が自分の足も届かない深さだったことに慌てふためいて溺れるように犬かきを始めたとのこと。
きっと大笑いされたことだろうし、その笑い声がマルクの不安を取り除いてもくれたことだろう。

サミットど真ん中の洞爺湖町から故眞知子の娘で我が家の愛犬アモの育ての親でもある友ちゃん夫妻も訪ねてくれた。
「今日は雨で農作業が休みだから」というのどかな理由だった。
お土産のそら豆を焼いて食べたら、ホクホクとして香ばしく豆の深い味と旨さが最高だった。

サミットがあってもなくても北海道の自然や農畜産物は地元の人間にさえ最高のもてなしを与えてくれている。
そこで暮らせていることそのものが私にはうれしい。

北海道の収穫時期と自然を今年もまたより深く実感したい。
だから8月の末か9月の初めにカフェは5連休程度の休みを取りたくなった。
いや絶対そうしよう。
大きな完熟メロンを真っ二つにし、充分に冷えたオレンジの果肉にスプーンを滑らせながらそう決心した。
 

洞爺湖サミット 2008年07月06日(日)

  日曜だというのに昨日とはうって変わりカフェは静かな一日だったから、洞爺湖サミットで今日の札幌には外出禁止令でも出たのかと思った。

実際テレビの字幕速報ではすぐそばの高速道路が頻繁に通行止めと解除を繰り返していることを報道しており、サミット会場へ向かう要人御一行が通過するたびに規制しているのが想像された。

サミットではどうせ差し迫った地球環境のことを口先だけで案じながら、結局はそれぞれの国益を優先させる駆け引きの場となるのだろう。
ようやく経済発展という光明が見え始めた中国やインドがそれにブレーキをかけるはずもないし、中東やロシアなどオイルマネーでこの世の春を満喫している諸国もしかりである。
彼らより早くに消費文明を謳歌し地球環境を悪化させた先進諸国が反省を踏まえて危機意識を説いたところで、これまでの数十年、先進諸国からの屈辱に耐えていた他国にとっては千載一遇のチャンスが今訪れているのである。

古今東西老若男女甲乙丙丁、一度甘い汁の味を覚えたならたとえそれが禁断の果実だとうすうす感じていても滅多なことでは手放すことはないのが人の性(さが)である。

果たして人類の英知は人の性をどうやって乗り越えるのだろう?

恐ろしい表現だが、人類もまた自然の一部なら先進諸国がもたらした環境破壊によって、弱い地域からの淘汰が待ち受けているだろうし、その前に人の性による戦争を再び繰り返すことにもなろう。

賢いリーダーたちの集会だから、私のようなこんなあさはかな人間が抱く愚問を杞憂と掃き捨てるだけの答えを当然それぞれが持っておられるのだろう。
それともデモ行進を繰り返す人々に正義があるのだろうか?
彼らの主張や行動は様々だが、少なくとも抱く懸念は理解できる。

地元北海道で開かれるG8プラスが何らかの成果を挙げることを願うと共に、地球環境というテーマで世界を変革するなら今後は国益まみれのG8ではなく科学者やNGOを交えた国連機関において実効力そして強制力のある会議を設置して欲しい。

個人の意識を高めてのエコ活動も大切だが、そんな悠長なことを言ってられるのは今のうちだろう。
次世代車が汎用化されるまでの間、例えばロンドンや札幌のような街で自家用車の燃料が月10リッターの配給制になったとしても止むを得まい。

そうなればカフェは閉店するしかないが、国連機関の非常事態宣言が出されれば喜んで従い、駐車場の枝豆横丁をせっせと広げる仕事に励むことにしよう。
 

八つ当たりしそう!? 2008年07月04日(金)

  枝豆横丁の枝豆が先週から発芽し、その成長を楽しみにして毎日何度も観察していたのに、数日前から5羽の親子ガラスが面白半分に横丁荒らしを繰り返し、せっかくの新芽を抜いては引き裂いたりしている。

この親ガラスは数年前からガーデン前に僅かに残されたニセアカシアの木を遊びの基地にしているので言ってみれば我が同胞であった。
そのよしみもあってゴミの日のステーション荒らしは時々懲らしめる程度にしていたのだが、Kと私の横丁を無法者の集団のごとく我が物顔で、ましてや生活のためではなく面白半分で荒らされたのではこれは捨て置けぬ。

かくしてワイアットアープは立ち上がったのであった。
というより、『どんな平和主義者であっても戦友が次々に撃ち殺されたときには、相手に対する憎しみがメラメラと燃え上がって、自制が利かなくなり無謀な振る舞いをする。だから戦争は恐ろしいのだ。』という叔父さんの言葉を思い出しつつ、そうなっていく自分を感じてしまったのだ。

ところが如何せん、相手は空中を自由に飛び回り、野性の中で戦術をしっかり鍛錬しているチームであるのに対し、我が方は竹やり程度の装備しかない気持ちだけ高ぶった素人である。
おまけに酒を飲んで寝ると目覚ましが鳴るまでは夢の中で人生の半分を生きている柔な人間なもんだから、目が覚めた時には既に枝豆横丁は荒らされ、ただただ歯がゆい思いをして石をぶつけたくなる悔しさに打ち震えていたのだった。

そこで私が取った方法は横丁のレンガブロックにネジを打ち込み、そこにカラスには見えづらい色といわれる黄色いテグス(釣り糸)を張り巡らせて、不覚に侵入すると足に絡んでカラスがビックリする仕掛けをこしらえた。

寝ていたから今朝の状況は確認できなかったが、枝豆は無事で、恐らく驚いたカラスが悔し紛れに置いていったと思われるサクランボウの赤い粒が残されていた。
「へへ、ざまぁみろ」の気分だ。

だが、頭がよく執念深いカラスのことだ。
こちらの作戦を見抜き、テグスから致命的な被害を受けることが無いと分かったなら倍返しのいたずらを明日にでも我々は被るかもしれない。

そしたら私は次の作戦に頭を巡らせなければならないのだが、そんなことよりきっとカラスにしてやられた悔しさにわなわなと震えている可能性もある。

明日は土曜日。
カフェに来られる方々は自らの愛犬をしっかり制御なさってください。
もし明朝枝豆横丁が荒らされていたなら、空飛ぶカラスへの私の怒りが妙な方向へ行ってしまわないとは限りませんから…

戦闘体勢に入っている人間は目のぎらつきが違うといいます。
サミット前に自らの安全を確保するためにも、異常な人間の目を確認する訓練をしましょう。
もしかしたら明日カフェで見られるかもしれませんぞ。
 

先に逝くものたちのために 2008年07月01日(火)

  早いものでもう7月、いよいよ夏本番を迎える。
お泊り犬に老犬がいるせいか夏を迎えるとその健康状態が心配になる。

老犬は暑さに弱く、とりわけ心疾患や呼吸器系の疾患を持っていると排尿便に出す動きだけで負荷がかかりゼーゼーと呼吸を乱し、場合によっては発作を引き起こしてしまうことがある。
だからといって抱きかかえてばかりの移動だと犬の筋力は衰え、寝たきりを早めてしまうことになる。

この段階で飼い主にはある覚悟が必要となる。
“形あるものは壊れ、命あるものは尽きる”という万物の定めを受け入れることだ。
人によっては薄情だと感じ辛く思えるかもしれないし、死の現場を見たくないと考える人もいるかもしれないが、実はそこからが老犬介護のスタートとなるのだ。

老犬介護とはQOL(Quality of Life:生活の質)と愛犬への惜別の思いとの闘いでもある。
別れを少しでも先延ばしし死を受け入れないで延命したい気持ちは分からないではないが、その過程における自分の行動が後悔の度合いを増減させることもある。

極端な例を挙げるなら、延命のため入院させて流動食のカテーテルと血管確保の留置針を装着し、たとえどんなに優しい先生がいたとしても家族と離れた病院のケージの中で数週間延命するのと、苦しいけれど暮らし慣れた環境の中で発作を繰り返す都度家族に抱かれ・さすられ、励ましの声を聞きながら絶命する死の瞬間を見届けられる違いがそこにはあり、中間としてのペインケアや安楽死がある。

出来るのに愛犬の死を見届けたくない飼い主にはなって欲しくない。
愛犬の死の瞬間には是非とも飼い主が立ち会って欲しい。
今や人間の死に立ち会うことが少ない社会であるが故に愛犬の死くらいは感じるままに受け入れて欲しい。

いかんいかん、老犬を見て死ばかりを考えてしまった。
生を考えるべきであった。

まずはあの連中の聞く耳を持たない振る舞いに寛容さを示すこと。(横暴であると感じたなら跳ね除ける勇気も必要)
次に清潔に保つこと。(これは犬が嫌がっても絶対行うこと)
さらに食生活ではこの世の春を実感させる程旨い物を食わせ、この世に未練を残させることが重要だ。

愛犬の死を見届けて自分の人生を考えることができたとしたらこれほど素晴らしいことはない。

あとは残りの人生に反映させよ。
 


- Web Diary ver 1.26 -