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結局今年の5月は低温で雨の多かった月と総括されても仕方なさそうだ。 今日も肌寒く雨模様の一日だったが、暖房にはストーブではなく初めてエアコンを使ってみた。 結構いい感じ。 1リットル103円にもなった灯油を燃やすよりずっと経済的な気もするし… しばらくは原油価格の高騰が続きそうなので、今度の冬は1ヶ月程度エアコン暖房にして価格差の比較をしてみようと思う。
『エアコン暖房は高いに決まってるよ』 どちらもエコに反しているようだが、状況によっては常識を疑うという点において身近なテーマになるかも。
常識だったことや社会通念というのが数十年という時間の中で明らかに変わってきている。 ・子供を叱ることさえ気を使わなければならなくなった親や教師 ・性の氾濫というか人間の野放し化 ・猟奇的犯罪、自殺 ・金亡者の汎用化 ・正しいことを認め過ぎて、自ら息苦しさを作り出している社会
多くは携帯・パソコンなどのインターネットやテレビ・新聞・雑誌・ラジオなどマスコミという情報媒体が良かれ悪しかれ関わっており、利用者の分別を超えて“経済至上主義”という化け物(結局は只の人間集団)が社会を動かしている。 結局は当時から懸念されていた『情報の無制御な氾濫』が現実になっただけのことで、当時その懸念を知らしめていたことが現在の不安の緩衝剤の役割を果たしているのは皮肉なことである。
うつ病になったり老々介護の果ての心中(未遂)に関わる人々の方が私には余程純粋な人間らしく思われてならないのだが、今の社会はそれを当たり前に生み出しておきながらそれを許さないというねじれた屁理屈がまかり通っている。
肉を食べれば『軟らか〜い!』が美味しさを表し、犬を見れば『可愛〜い!』で自分をも可愛く見せようとする軽さが氾濫している。
CHANGE! Yes, We Can ! そんな言葉を信じたくなるような背景がある時代に私たちが生きているのは間違いのないことだ。
理論、経済、科学万能の社会で恩恵を受けるプロセスにおいて私たちは倫理・常識すら変容されるど真ん中にいる。 せめて“人間らしさ”と“所詮人間”という原点を見失わないでいたい。 知り過ぎたくもないし、もういいのに生かされたくもない。 助けて!と言えば援助が受けられる国であって欲しいし、訴訟や暴動を起こさなければ安全で頑丈な学校が建てられないような国であって欲しくない。
柵がなかったから子供が池に落ちた。 遊具で事故に遭った。 辛く悲しい気持ちは分からないではないが、それを社会問題にして個人や組織の責任が問われ、以後改善がなされたとしても、何故か失われるものがあるような気がしてならない。 恐らく私に欠けているものがあるのだろう。 社会問題化したからこそ自動車の環境意識や安全機能は高まっているに違いないし、情報社会になったからこその様々な恩恵を受けているのだから。
だが、失ったものと引き換えに出来るほどの成果はどう考えても今は見いだすことができないでいる。
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